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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・6

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/8 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 東京大空襲五月二十五日
           佐藤 二郎



 私は中学三年生、十四歳でしたが、学校へは行かず勤労動員で、汐留の国鉄自動車部で働いていました。父はすでに亡くなっており、高樹町の家には母と私と二人で住んでいましたが、この日は、たまたま叔父が来ておりました。三月に下町が焼け、四月には本郷・小石川あたりが焼け、いずれ山の手にも空襲があるだろうとみんな思っていました

 あの日、五月二十五日夜九時か十時頃警戒警報が出ましたが、毎晩のことなので避難もせず家の中で寝ていました。当時は洋服を着たままゲートルまで巻いて寝るのが普通でしたから、身支度はできていました。ラジオの情報によると、いつになくB29の大編隊が来るようでだんだん不安が広がってきます。実際に空襲が始まったのは夜中を過ぎて二十六日になってからでした。空襲警報が出て防空壕に入りましたが、爆弾ではなく、焼夷弾だというのは音で分かりますから、防空壕を出て焼夷弾を消す用意をしました。当時の焼夷弾は直径十センチくらいの六角形で長さ六十センチくらいだったと思います。これが地面に突き刺さって、初めは線香花火のような小さな炎を上げます。このあと本格的に炎を上げて燃え出すのですが、初期であれば水につけるとか、ぬれむしろを掛けることで簡単に消すことができるのです。私の家はあまり大きなものではありませんでしたが、それでも三発の焼夷弾が落ちてきました。一発ならば消すこともできたでしょうが、三発では手の施しようがありません。ご近所の家々でも同様だったでしょう。そのうち北西の方から火災が迫ってきました。叔父がもう危ないからお母さんを連れて逃げろと言ってくれたので、毛布を水に浸して青山墓地を目ざして行きました。叔父はそのまま近所の人と自宅に残りましたが、強制疎開の防火帯に隣接していたためそちらに逃げて何とか生き延びることができました。

 私たちは電車通りまで行きましたが、墓地の方角は火勢が強くとても進めそうにありませんでした。そこで赤十字通りを広尾の方に向かいました。赤十字病院は軍事病院になっていて、大勢の傷病兵の人たちが治療を受けていました。焼夷弾がたくさん落ちましたが、兵隊さんたちが消したようでした。さらに進んで突き当たりの祥雲寺の墓地に逃げ込みました。今はコンクリートの塀ですが、当時は生け垣か、トタン塀のようなもので簡単に入ることができました。あのあたりは聖心女子大のあたりまで焼け残ったくらいで、大きなお屋敷が多かったせいで延焼しなかったようです。

 翌朝、帰ってみると、一面真っ平らな焼け野原で、赤茶色に焼けた瓦が元の間取りのままに並んでいました。エビスビールの換気塔や、国会議事堂の屋根も見えました。全部焼けてしまったのに水道だけは止まらずに出ていたので助かりました。地面に埋めておいた米や梅干し、漬け物などを掘り出してご飯を食べました。その後は、昼間は防空壕に住み、夜は隣の鉄筋コンクリート邸宅の焼け残りのなかで夜露をしのぎました。一週間くらい後、近所の様子を見に歩き回っていて表参道まで来ました。左側の大石灯籠の下に焼けトタンをかぶせた黒こげの死体が積み上げてあり、線香が上げてありました。見ているだけで背筋が寒くなるような気持ちでした。

 最近の地震被害地などでは、すぐに援助物資が来たり、避難所ができたりするようですが、当時は全くそのような援助はなくすべて自分でしなければなりませんでした。地震や台風は自然災害で人間の力ではどうすることも出来ませんが、戦争は違います。およそ戦争とはどんな理由があろうとも、人類の愚行であり許すことは出来ません。ひとたび戦争になれば、戦闘力のない一般市民を殺す無差別爆撃も正当化されてしまいます。これは明らかな戦争犯罪です。戦争によって得られるものは何もなく、失うものが非常に多いことを私は身にしみて体験しました。この地球の上から戦争がなくなる日が来ることを心から願っています。

 最近、戦争を知らない世代の政治家たちが、憲法を改めて、再軍備をすべきであると言い出しました。元気が良く、勇気のある発言のようにも聞こえますが、とんでもありません。国会の審議でも、本格的な討論もしないで、単独採決でどんどん危険な法律を作っています。この状況は、第二次世界大戦の前の日本の政情とよく似ています。この程度は仕方がないと思っているうちに、言論統制が厳しくなり、何も発言できなくなり、戦争に突入してしまったのでした。『この道はいつか来た道』という感じがします。軍隊は国を守るのが仕事ですが、国とは国土であり要するに地面なのです。地面を守るために軍隊は一般の市民を平気で犠牲にするでしょう。このことは、沖縄の歴史がはっきりと物語っています。そうなれば、多くの若い兵士が死に、それ以上に多くの市民が死ぬでしょう。

 私たちは、憲法九条の精神をしっかり守り、平和な国を作るように努力したいと思います。
   
 (赤坂区青山高樹町)

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