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疎開児童から21世紀への伝言

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/14 8:12
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 疎開・空襲・空腹を乗り越えて
   ー  我が青春に悔いあり  ーその2

 大石俊雄(東校)


 そこで当時の淋しい、悲しい思い出の場所の幾つか散策してみた。そして戦争の恐ろしさを改めて痛感した次第である。

 以下、いつも散策しているコースを案内してみたい。


 1 京急黄金町駅

 空襲当日最大の被害、惨劇を受けたのは、黄金町駅近辺から初音町、霞ヶ丘、久保山方面、多くの焼夷弾により多数の死者が出て、焼死体は黒焦げの状態で、男女の判別も出来ず、やがて親子近親の遺体を捜す姿、その遺体に会ったときの痛ましい姿、さらに黒焦げの状態のため分からず、引き取り手のない遺体があちこちに散乱、やがて兵隊が貨物自動車に積み、駅の構内に置き、そこで焼いた。本当に想像を絶するような出来事、その光景、匂いが未だに頭の片隅に残っている。
 現在、黄金町から日ノ出町までの京急ガード下は、地元住民や大学生による「環境浄化推進協議会」により魅力ある街づくりが進められている。また並行して流れている大岡川の桜並木も春には満開の桜の下、各種のイベントが開催されている。


 2 東小学校

 当時、児童は疎開、建物は市役所の分室として倉庫になっており、鉄筋三階建、校内やグランドに多くの焼夷弾が炸裂、避難してきた住民に多くの死傷者が出て、あたり一帯の道路にも遺体が散乱した。
 一九〇五年創立の歴史ある母校が、現在鉄筋四階建の立派な姿を、小高い丘から横浜港に向かって奪えている。


 3 普門院

 黄金町駅近くの関東学院裏手の角にあり、当初、同駅の横に霊魂をお守りしてお地蔵さんが建てられていたが、駅の工事などで移動し、現在は普門院に祭られ、黄金地蔵尊と呼ばれ、五十㌢にも満たない大小二体のお地蔵さまで、毎年五月二十九日には法要が営まれている。


 4 曙町四丁目の一角

 大通り公園のはずれで阪東橋駅付近、今は大きなマンションが建っているが、よくこんな狭い一角で助かったと思い起こしている。自分では本当に奇跡と思っている。


 5 平和祈念碑

 地下鉄阪東橋駅付近の大通り公園内、平成四年五月二十九日に横浜戦災者遺族会により設置され、毎年五月二十九日には狭い地下を公開し、判明している亡くなった方の名前が並べられている。上部に青銅器の像があり、「像は古代中国殿時代の金分を立体構成したもので、愛をもって世界の平和を祈念する」
 [金分(きんぶん)とは青銅器に刻まれた文字や文章]と記されている。


 6 ララ物資の記念碑

 みなとみらいの赤レンガ倉庫の奥にあ。終戦直後、日本は衣食住すべてが不自由、こうした中、アメリカの宗教団体を始めとする海外篤志団が日本にララ(団体の頭文字)物資として、ミルク、缶詰などの食料品はじめ、衣類、医薬品などを送り、多くの日本人を救った。一九四六年にこの地に船が着岸、以降六年間にわたり送られた。
 一九四九年、昭和天皇と共にこの地に行幸啓の皇后陛下(香淳皇后、平成十二年崩御)が感激してお読みになった歌が刻まれている。私は、この碑を見るたびに少年時代を思い起こし、今日あるのはララ物資のお陰と感謝している。

 「ララの晶つまれたるをみて、とつ国のあつき心に、涙こほしつ」
 「あたかかきとつ国の心つくし、ゆめなわすれそ時は、へぬとも」(原文のまま)

 最後に、疎開、空襲、空腹を体験した私は、「疎開問題研究会」 の一員として、記念誌発刊の手伝いなどを通じて多くの友人を得た。職業や出身校も違っていたが全員同じ世代、そして疎開、空襲、食糧難、いじめなど貧困の時代に成長期をともに過ごし、ともに苦労した間であるだけに親しみを覚え、皆と仲良くなったことは大きな財産を得たと感謝している。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/15 8:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 挽 歌 1

 大類幸恵(横浜校)

   その一 お手玉

 いちれつらんばんはれつして
 日露戦争始まった
 さっさと逃げるはロシアの兵
 死んでも尽くすは日本の兵

 おさらいお一つお一つおろしておさらい
 お手のせお手のせお手のせおろしておさらい
 おつかみおつかみおつかみおろしておさらい

 お手玉。なんとも懐かしい言葉ではないか。今ではすっかりすたれてしまった、戦争中の少女達の数少ない貴重な遊び道具である。
 太平洋戦争が激しさを増していった、一九四四年六月二十日、「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。
 地方に縁者のある者は縁故先へ、縁者のない者は学校ごとに行き先を決めて、国民学校三年生以上六年生までの学童は疎開することになった。神奈川県下大都市の学童は最初、疎開先を静岡県下と指定された。しかし、何事か起こった場合、静岡県下では遠くて連絡もままならない。時の、近藤壌太郎神奈川県知事の英断により、神奈川県下の学童は神奈川県内の旅館・寺院・保養所・公共施設等に集団疎開することに決まった。

 閣議決定から二か月後の八月二十一日私達横浜国民学校疎開分団は、長谷川和一疎開分団長を先頭に、横浜駅発午前九時四十分の列車で箱根湯本の旅館「萬翠楼福住」 へと旅立った。
 疎開当時の遊び道具といえば、お手玉のほかにトランプ、家族合わせ、動物合わせ、双六、毛糸編み、リリアン編みなどで、外へ出ると縄跳びもよくした。夕食後の自由時間には読書もしたが、なにしろアメリカ文学、イギリス文学はご法度の時代である。紙不足でもあり、よい本はあまりなかった。

 私はこれらの遊びの中でもお手玉に熱中した。時間があると部屋の畳の上にまず八個くらいのお手玉を置く。かき集めて「お!さ!らい」と両手で握りしめ、それをバツと畳の上に投げ出す。「お一つ!お一つ!」と交代に空中に投げ上げる。終わったところでまたかき集めて、「お!さ!らい」とパッと畳の上に投げ出す。「お手のせ!お手のせ!」と歌っていくのだが、一つを空中に高く投げ上げている間に、右手で左手の手の甲に他のお手玉を一つずつ乗せていくスリル満点な遊びである。私は手先が器用だったので、五個も六個も手の甲から手首のほうまで乗せることができ、得意になっていた。

 当時のお手玉は、和服全盛だった母親達の絹地着物の残り布で作った手作り作品で、日本情緒たっぷりの、色彩豊かな四枚接ぎだった。縮緬、錦紗、お召、銘仙、紬などの織り布が美しく組み合わされ、お手玉の中には小豆やじゅず玉の実が入れられていた。小豆やじゆず玉の実がすり合わされて出る音が耳に心地良く、私にとっては遊び道具というより宝物に近い存在だった。

 集団生活というものは、毎日温泉に入って清潔に洗っていると思っていても、さまざまな病気が発生するものである。クラスの友人達の間で「疹癖」という病気が流行し始めた。手指の間にできる皮膚病である。ヒゼンダニというダニにおかされるらしい。

 手元にある広辞苑で、疹癖をひいてみる。「疹癖虫の寄生によって生じる伝染性皮膚病。指間、腕及び肘関節の内側、腋の下、下腹部、内股などを侵し、ひどくかゆい」と出ている。

 一九四四年十二月に疹癖がひどくなり、横浜に帰って治療した友人に聞いた話がある。この病気はカルシゥム不足が原因であると医師に言われ、太いカルシウムの注射を二本打ってもらったら、すぐにかゆみが止まり、治ったということである。横浜に帰りたいばかりに、疹癖にかかった友人と手と手をこすり合わせたという話も聞いた。その友人は発病しなかったという。私も発病しなかった。誰にでもうつる病気でもなかったようだ。

 私達の担任だった年若い女教師は、受持ちの学童が次々と疹癖にかかるので、その原因は手指を使って遊ぶお手玉にあると判断したのだろう。ある日、四年生女子クラスの全員を集めてすべてのお手玉を提出させた。私達の大切なお手玉は、先生の前に山のように積まれた。そのお手玉を福住の前を流れる早川の中州にある、私達が「軍艦岩」と呼んでいた畳二枚くらいの大きな石の上に運んだ。「太陽消毒をしたら皆さんに返しますから……」と言われた先生の言葉を信じて、私達はその平らな大石の上に丁寧にお手玉を並べていった。

 大切な遊び道具を奪われた私は悲しくて哀しくて、毎日毎日、福住の二階の部屋から、また庭から早川の大石の上にあるお手玉を眺めていた。ねずみ色の大石の上にある母親達が丹精込めて作ってくれた色彩豊かなお手玉達は静かに横たわっていた。お手玉は再び私の手元に戻ってくることはなかった。

 余談だが、八年ほど前、伊豆の蓮台寺温泉へ行ったことがある。宿のすぐ近くに幕末の志士吉田松陰が一八五四年の米艦渡来の際に下田から密航を企てて捕えられた時、八日間を過ごした家があり、そこを見学した。医師の村山庄兵衛の屋敷で、吉田松陰は疹癖を治療するために滞在したと説明されていた。あの偉人の松陰が疹癖だったとは、と意外に思ったことを覚えている。

 私が六十年前学童疎開をしてお世話になった旅館・萬翠楼福住の現存する、明治十年から十一年にかけて建築された建物が、二〇〇四年に国の重要文化財に指定された。四月二十二日、横浜国民学校同窓会としてお祝いにうかがった。女将・福住淑子さんの話によって、学童疎開当時私達が「軍艦岩」と呼んでいて大石だと思っていたものは、明治時代、そこには福住橋が掛けられていて、その橋桁をのせたコンクリートの塊だったということがわかった。私達の 「軍艦岩」 は今も早川の中州にどっしりと存在している。

 一瞬たりとも止まることなく、箱根の山中から湯本の福住の前を流れる早川。少し下流で箱根旧街道に沿って流れてきた須雲川と合流して、登山鉄道の湯本駅前で広くなり、小田原の海へ注ぐ。川は私の幼い頃と同じように流れている。私にとっては懐かしさと同時に、あの私の宝物だった大切なお手玉を無残にも飲み込んでしまった川でもある。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/16 8:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 挽 歌 2

 大類幸恵(横浜校)

   その二 疎開問題研究会の亡き友人達


一 森 洋子さん

 私立紅蘭女学校付属初等科の小学生として、三年生で港北区妙蓮寺の親戚の家へ縁故疎開し、戦争が激しくなった一九四五年四月からは、足柄上郡山田村の了義寺へ集団疎開をされましたね。亡くなる直前、人形劇の舞台活動もやっておいででした。早過ぎましたね。


二 神里 公さん 元街国民学校六年

 あなたは、足柄下郡温泉村底倉梅屋旅館、仙石屋に集団疎開をされました。一九八九年四月、東京の「疎関の会」の例会が横浜中華街で開催された日のことです。神里さんの元街小学校時代の友人の妹さんが、私と共立で同期だということが分かり、話が弾みましたね。横浜で会が結成されることになり、「学童疎開五十周年を記念する会」に私をお誘いくださった恩人でもあります。ありがとうございました。


三 山崎 幸造さん 桜岡国民学校六年

 あなたは、宮城野村宝樹院(山水寮旅館は女子だけ)へ集団疎開されましたね。二〇〇一年と二年、県立地球市民かながわプラザで開催された私達の会のイベントの時、女性会員が調理室で手作りした「すいとん」「おじや」を調理室から会場の参加者の皆さんのもとへ、本当に一生懸命運んでくださいましたね。助かりました。七月の例会でお会いした後すぐに計報が届きました。後日、私が奥様におうかがいしましたのは、死期を悟り、病室を抜け出して会の皆さんに会いに行ったのですとのお言葉でした。


四 竹内 稔さん 斉藤分国民学校五年

 小机町の本法寺、三舎寺へ集団疎開されましたね。「疎開の会」の活動と並んで「エイズ撲滅運動」のボランティアもなさっておられました。私にイタリア旅行の話を楽しそうにしてくださいましたね。ジーンズの上下がお似合いの浜っ子でした。


五 植木 悦夫さん 北方国民学校六年

 あなたは、高座郡相模原町大島地区へ縁故疎開をされましたね。姿勢の正しさは抜群でした。国民学校時代から剣道を習っていたということでした。穏やかな人柄で、会の裏方に徹してくださいました。病を克服し、やっと字が書けるようになりましたと年賀状を頂戴したのに残念です。


六 渡辺 豪也さん 太田国民学校三年

 秦野町へ縁故疎開をされましたね。二〇〇四年のジオラマ製作時、学童疎開当時の市電の色を確かめに滝頭にある市電博物館に何回も足を運ばれたと聞いています。
 根岸の海を飛ぶ水上飛行機も大好きだったと熱っぽく語ってくれました。有隣堂での展覧会の際には先輩方のお話の録音を録るために一日中動き回る陰の人でした。
 私の記憶に最も残っているのは、疎開の会で、山北の「トンガリロッジ」 へ一泊旅行した折、参加者八名分のコメ、鮮魚などすべての材料を横浜から持参して、豪華なちらし井を作ってくださったことです。縁故疎開先の秦野で、おばあさんに仕込まれたのだと笑っておられました。


七 大類 行雄 私の夫です

 第一回疎開展の準備のため、中央図書館で毎週土曜日ごとに開催された委員会の議事録をワープロで打ってくれました(当時はワープロはまだ珍しいものでした)。あなたが応援してくれた疎開問題研究会も立派に成長して、十回のイベントを開催、横浜市内の小学校へ出前授業を依頼されるようになりましたよ。
 これからもいつまでも平和が続くように祈ります。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/17 8:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 心のささえ 1

 井関芙美代(寿校)


 昭和十九年八月二十二日

 第一信。無事につきましたか。気特や身体が変になりはしませんでしたか。お友達も皆元気で着きましたか。久し振りの汽車の旅でつかれたでしょう。大船のかんのんさんはどうでした。(中略)毎日葉書を送ります。ためておきなさい。
 八月二十二日、寿国民学校六年生の兄・知明と四年生の私は、箱根の湯本に疎開しました。これから始まる家族と離れた淋しい日々を思ってメソメソしていた私のもとに、早速父からの葉書が届きました。そこには 「毎日葉書を送ります」と書いてあります。

 えっ! 毎日……なんと嬉しいことか。


 昭和十九年九月十日

 夕方家へ帰りますと知明から手紙が来て居るとの宙明の注進で嬉しくなって一日の疲れも何処かへ飛んで消えてしまいました。食後ゆっくり読んで居る中に元気な顔が眼の前にチラチラして「まぶたの母」ではなくて「まぶたの倅」でした。よその子供は父母につまらぬ手紙を書いて送っているとの話を聞きますが、知明も芙美代も決して親を心配させるような事はないと安心して居ます。力強く生きなければなりません。この試練に打ち勝たねば立派な日本人になれません。いつかは会えるその日を楽しみにして居ります。ごほうびに本を送ります。国民学校聖戦読本四冊です。「星の話」 は見当たりませんから「海と空」と言ふのを買いました。二人で仲良く大切に読みなさい。子供の読む本が見つかったら送ってあげます。父のはがきが十四本たまったそうですが、番号をそろえて足りない番号は先生に伺って順にして置きなさい。


 昭和十九年九月十日 母からの便り

 芙美代ちゃん、朝夕大分涼しくなりました。よく着る物に気を付けて風を引かぬように注意して下さい。知ちゃんお月見会の時にした劇をくわしく知らせてきました。ずい分面白かったでしょう。
 本やさんで色々本をさがして見ましたが今ではもうよい本など売っていませんから家にある「ジャンヌダーク物語」を送ります。エプロンを一つ作りましたから冬物を着るようになったらおかけなさい。
 白いきれはつぎきれですが。これからは何何にするのだから何を送れと云って下さい。荷物は明日送ります。

 同じ日で父と母からの手紙が届きました。時々しか来なかった母の便りは待ち遠しいものでした。九月二十日は待ちに待った面会日、母と妹の紀美代が来てくれました。父は朝七時四十五分の列車をホームで見送ってから出社したと書いてきました。この日のはがきは二枚続きでした。


 昭和十九年九月二十日 (二枚目)

 帰って来た母は疲れきって夕食を囲みながらボツボツ話し出しました。午食のことも其の他の事も興味なさそうで安心と不安が半分位です。父は一度は行ってみたいと思っています。皆様が持って行かれた慰問品は気に入りましたか。皆様が引き上げてからの夜の時
間は先生方と共にどんな話が出ましたか。
 父母兄姉に逢えた児と逢えなかった児とではどんな会話が交わされましたか。逢えない児と言っても近い内に順番に逢えるようになるのですから気を落とさないようにはげまして上げなさい。(中略)紀美代は列車の中で寝たままで、今もスヤスヤと寝ています。知兄さんや芙美代お姉さんのお友達に会えてどんなにハシャイだ事でしょう。二人とも一月振りで紀美代を見てどう思いましたか。母から知明の元気でいる事を聞いてうれしく思いましたが、芙美代よ、お前は泣きべそだからもっと気を大きく持って強くなりなさい。自分が正しければ神様はチャンと見ていらっしゃいます。いじの悪い子はしかたがありません。先生にも母からくれぐれもお願いしてありますから強く正しくガンバりなさい。


 昭和十九年九月二十九日

 誰でもが自分の家から来るたよりを待ちこがれているでしよう。けれど二人は待ちこがれるなんぞと言う心持ちは起こらないでしょう。毎日一枚づつこちらからポストに入れておりますから。それですから今日は父が何を葉書に書いたろうと興味がわいて読んでいる事と遠くの方で父は思っています。それだけに父は今は何を書いて送ろうかと会社の帰りの電車の中で考えています。先ず家へ着いたら二人から何かたよりはありはしないかとたのしみにしています。(中略)
 二十六日の強歩会の紀行文も読むのをたのしみに待っていますからぜひとも書いて送って下さい。今夜もそれがたのしみで帰宅したがありませんでした所へ四島の小母さんが芙美代のたよりを持って来て下さいました。書取りの字は大変上手に書けてその上満点でうれしく思いました。クレオン画も久しぶりで見て上達したのに驚きました。よくを言えば近くの木をもっと強く書くのです。クレオンの使い方はあれでよろしいですから、遠景、中景、近景のくぎりをモツトハッキリなさい。知明のも送って下さい。待っていますヨ。
疎開するまでは兄達と一緒に父を囲んで勉強したものです。
 学科の予習復習はもとより、すべて父から手ほどきを受けました。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 心のささえ 2

 井関芙美代(寿校)


 昭和十九年十月二日
 
 寿学校には記念すべき日になりました。寿学校学童五百余名は翁町の校舎を去って横浜学校に集団転校しました。此の日朝から秋雨がシトシトと軒端をうつて肌寒い北風が吹いていました。思うだけにうすらさびしい気分になります。(中略)
 父にもなつかしい母校ですから四十年前の校舎と教室とを頭に浮かべて「寸センチメンタルになりました。二人が横浜に帰って来てもあの校舎には行かれません。思い出の寿校よ、サヨウナラ。


 昭和十九年十月十一日

 今朝の新聞に「疎開の唄」と言うのが出ていました。蒔田校の先生方の合作だそうです。「強くなります日やけ顔」「広くなります開墾地」「強くなります勝つ日まで」(中略)聞くところによると知明はだいぶ張り切って居るそうですネ。親切にして上げて居るそうですネ。父はうれしく思っています。面会の方のお別れに小さなからだから大きな声を出して号令をかけたそうですネ。父は一度そんなところを見たいと思います。けれど会社の製産増強の為めには休んで子供の面会に行く事は遠慮しなければなりません。芙美代が勤労奉仕に父が来て下さればよいともらした言葉も人様から伺いましたがその芙美代の気持ちも父は充分察して居ります。けれど子も強くあれ、そして又父も強くあれと心に誓って居ります。


 昭和十九年十一月十九日

 何のおたよりをしましょうかと思っていましたところなつかしい大すきな芙美代からのたよりで父は何日間のおしごとのつかれが一へんに飛んでいってしまいました。強羅行のおたよりを読んで父は眼がしらがあっくなるほどうれしく思いました。よく一年生の時の日記の事をおぼえて居りましたネ。知明兄さんとあしの湖を遊覧らん船で渡ったことが思い出せましたか。船の甲板にてすりにつかまってチヨット手をはなしてそばのおじさんにおさえてもらったことを知っていましか。集印帖をたばこ屋にわすれて居たのをたばこやのおばさんが船の出るのを待っている父のところまで持って来てくれましたネ。ソシテ、その明くる年一年生の時は仙石原に行って一ばんとまりましたネ。皆思い出すでしょう。

 あの時は夏、今は秋、もうすぐ冬になって雪の箱根山になりますネ。もみぢの箱根山が一番よいでしょう。芙美代のあの紀行文は仲々上手に書けていますネ。もんくの言いまわしがしぜんに新しい書き方になっているので父はかんしんしました。ぜいたくを言えば歩いた道だけを書かずに、目に見えたものやその時感じたことを書き入れるようになればもう作文は秀になると思います。それは父だけが点を入れる時のことですヨ。サア時間があったらドンドン便りを下さい。さいてんして上げますヨ。

 十二月に入ると父の葉書には「空襲警報」の文字が増え、戦局を知らせることが多くなりました。明けて三月には知兄が中学受験で帰浜し、四月二十三日の195番以後は五月二十九日の大空襲まで時々長い手紙が届くようになりました。私が箱根から出したものは空襲で全部焼失してしまいましたが、二百二十五通にも及ぶ父母の便りは疎開先の私の手元に残りました。「たより」だけがたよりだった一年二か月でした。

 ここには、子どもを手離した直後のほんの一部を原文のまま載せました。その父も私が帰浜して三年後、心臓麻痺で他界しました。五十四歳でした。


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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開問題あれこれ
 滝口康雄(岸谷校)


 学童集団疎開で岸谷国民学校は、足柄上郡吉田島村と南足柄の福沢村に、それぞれ疎開した。女子は吉田島村の大長寺に、男子は地域別に吉田島農林学校の柔道場と福沢村の大松寺に振り分けられた。私は吉田島農林学校の柔道場で生活することになった。朝・昼・夕の食事は、一班から四班までが交替で当番となり、六年生と五年生が受け持った。

 大長寺までリヤカーで往復した。大きな樽にご飯と味噌汁そしてお菜を運んだ。雨の日も風の日も一日三往復が班交替で行われた。

 六時起床で給食班はすぐに身支度をして、大長寺へと向かった。待ち時間に芋洗いやその他のお手伝いをし、ときにはおこげご飯をいただいたこともあった。運搬は急ぐと味噌汁がこぼれるので、ゆっくりそして早く、毎回やっていると要領が分かって、早足で運ぶことができた。
 昼も夕も当番の班が実行した。この間には学校での授業や行事が行われていた。当番の日は、特別に忙しかった。だからお天気次第で楽な日と反対の日とでは心構えが違った。

 農繁期には出征軍人の家へお手伝いに行き、働いた。十時と三時には、ふかしたサツマイモやお餅を出してくれたりするのが楽しみであった。蜜柑の収穫期には蜜柑山で働いたり、沢庵工場へ行って働いたりもした。皆、六年生と五年生だった。

 ノコギリ鎌で稲を刈り、束にして掛ける。脱穀機でモミ殻を集め、風を利用してモミかすを飛ばす。農家によっては旧式の脱穀機であったり新型のものだったり、得難い経験をした。
 四十八畳の柔道場に四十七人の児童が寝るのであるから、足の踏み場もない状態であった。布団の紋様がさまざまで美しかった。オネショをする子も月に一人くらいいた。
 薪運び、草刈り、蛙取りなど、弁当持参で実行した。私達は学校行事に参加することで毎日を送った。食事は三度々々ご飯で、村長さんにオジヤの時もあるようにお願いしたほどである。食に関しては充分だった。

 風呂は週に一回、近所の西川工場へ貰い湯をしに行った。お湯は少なく、身体を湯船に入るのがやっと、というくらいであった。
 酒匂川に泳ぎに行った。昼間も良いけれど、夜の水泳は何とも云えないくらい、スリルに満ちていた。戦争中などと少しも感じられない光景であった。

 ある日、耳が痛むので先生付き添いで小田原の耳鼻科へ行った。耳が治るまで三回程通った。駅前の食堂で冷やしコーヒーをご馳走になった。まだ危機感などない疎開地であった。

 横浜市の学童疎開五十周年を記念する会が一九九三年十月に発足して十五年になる。この間、各校の方々が本の編集や展覧会でお互いの情報を交換し、今日に至っている。

 ハイキング・旅行・博物館見学などで、より一層親しさを増してきている。残念ながら、会員の中で数名の方が亡くなられている。元気で活動できるうちは「語り部」として若い世代に平和の尊さを伝えていかねばならないと思う。

 岸谷国民学校の疎開地での活動を報告した『疎開地だより』は、地球プラザに保管されている。こよりで綴じられた小冊子だが、紙が手に入りづらかった時代に全校生徒に配布したことは疎開地での先生方のご努力がにじみでている。原本は風化している。内容が充実していることから、コピーして皆さんの参考にしてほしいと思っている。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 横浜大空襲 1

 鈴木知明(寿校)

 五月晴れとは言えないが、快い緑の風は、今日のこの日に地獄のような悲劇が訪れるとは凡そ考えられない静けさで町並みにそよ吹いていた。

 それは、昭和二十年(一九四五年)五月二十九日のことであった。わたしが十二歳。三中に入学したばかりの私は、いつものように先輩に敬礼をしながら足早に、学校への坂を登りつめ、新緑の滴る大木に覆われた校門を通って教室に入った。その時けたたましいサイレンが鳴り響いた。「警戒警報」 であった。学校側は、すぐ全生徒に退校を命じ、「解除になったら再登校するように」と指令を出した。

 その朝、我が家には、足の悪い祖母、出勤前の父、母、国民学校に通う八歳の弟、五歳の下の妹がおり、疎開中の妹はまだ箱根に、兄は動員で日産工場に行って不在であった。

 「東部軍管区情報、敵B二十九数目標は、駿河湾より本土に侵入、富士山に向け、北上中なり。関東地区警戒警報発令。」 父はその時、町内の警防団員の一人として、近くに集合していたので、家には居なかったが、母は妹を相手に、空襲の時は決まって用意する非常持ち出しの下げカバンと防空頭巾を手元に、ラジオからの情報を聞いていた。「東部軍管区情報、駿河湾より侵入せる敵B二十九数目標は、富士山にて進路を東に変じ、関東地区に侵入しつつあり、繰り返します。関東地区空襲警報発令。」私はゲートルをはずす手を止めた時、異常な騒音を耳にした。あの重く、鈍いエンジンの音は、知らず知らず私の耳に残っていたのであるが、今、耳にしたあの騒音は、正にその音であった。空襲警報が発令され、サイレンが鳴るか鳴らないうちに、耳にしたのは、B二十九の編隊の爆音であった。うす曇りの空に、ちょうどピラミッド型に、先頭を三角形の頂点として、西の空に、広がっている豆粒のような銀色の点の数数を見た。正に大編隊であった。

 母が用意した非常持ち出しのカバンを肩にかけ、今一度、表に出た。今度は今まで聞いたことの無い金属音が、ザーザーと雨音の如く耳に入った。無数の細い線が、篠突く雨の如く、降って来た。焼夷弾が天から降って来る音だったのである。落ちた焼夷弾は、その細長い六角形の筒の口から、青い炎をあげ、次の瞬間その炎は火の玉となって外に飛び散った。ドロリとした粘液は、所構わず付し、その場で大きな炎と変わって行った。消火にあたっていた父が、土間に駆け込んできた。道路のアスファルトは、赤い炎の洗礼を受け始めていた。

 母は五歳の妹を背負っていたので弟を手にし、防空頭巾に身をかためて、土間に降りた。「知ちゃんは、お母さんと一緒に四人で逃げるんだ。お父さんは、お婆ちゃんを助けるから‥・」。父は身体が華著であったし、祖母は歩行が不能であったので、父が助けると言う事は、一緒に走って逃げるのではなく、お婆ちゃんを背負って逃げる事を意味した。今、私が男で一番上だ。母弟妹を早く安全な場所に連れ出さなければ、一家は全滅だ。我々は、黒い煙で昼間というのに夜のように暗くなった表通りに出た。狭くても楽しい我が家であった。今、その我が家が紅蓮の炎の中にある。全ての幼児期の思い出は、真っ赤な炎の中に、メラメラと音を立てて燃え始めていた。

 我々は、本能的に海の方に向かって、炎に覆われた道を走り始めた。真っ赤な炎に包まれた左右の家々が、灯りとなって、夜のように暗くなった道を照らした。一面、火の海のような道を、道端の防火用水の水に、全身を浸しながら、火の粉を吹き散らす突風に巻き込まれながら、お互いに手に手を取って走った。正に天に任すとはこのこと、只ひたすら海の方に向かって走った。港橋を渡る頃には、真夜中のように真っ暗になり、時折渦巻く突風は、火の粉と共に我々を襲い、衣服に付いて燃え始めた。水を被る。港橋を渡って、花園橋方面に向かうと、左手に横浜公園野球場があり、その一階にある元武道練習場だった厩舎の中で、炎に包まれた数頭の馬が、仁王立ちになって燃えている。炎の風の音、燃える音、周囲には人影もなく、我々だけが逃げているような不気味さを感じた。花園橋の交差点を渡ると、左手に「ウインクレール商会」 のビルがあり、既に火の入ったビルの大きな窓からは、夜目にも鮮やかに、炎が天に向かって音を立てて昇っていた。丁度その時、更に空から焼夷弾が雨の如く降って来た。我々は、一瞬すぐ脇の倉庫の深い軒先に身を隠した。幸にも、直撃弾は受けなかったが、飛び散った油脂は、遠慮なく我々の身体をかすめて倉庫の壁に火をつけた。倉庫の軒先を出てからも、乾いた身体に水を掛け合い、お互いに励まし合いながら、無意識のうちに足は南京町(中華街)の方に向いていた。突如、前方から我々の方向に、布団を頭から被って逃げて来る人達がいた。「南京町から山下公園まで行けますか?」と大声で尋ねてみた。「とんでもない。南京町は火の海。山下公園なんて行けたもんじゃない。南京町から逃げて来たんだヨ。」 「万事休す。」

 炎の風はますます激しく、進退きわまり、どちらに向かったものか迷ったのである。「もうこれ以上逃げられないヨ。だけどこんな所で焼け死んだら、誰が誰だか分からないよ。どうせ死ぬなら、皆の死体が分るところに行こうヨ。」どこか良い場所はないだろうか?いっそ死んだつもりで…。足は熱風に追われるように、角を曲がって左に走っていた。すぐそこに横浜公園がある。あそこなら、死んでも身元がわかるだろう。

 公園の樹木は、外側から襲われる火の粉と熱風で、バリバリ音を立てて、煉っていた。公園に入ると、その広さと多くの樹木は、この大火災の中でホツとする空間を作っていた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/21 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 横浜大空襲 2
 鈴木知明(寿校)

 我々は「九死に一生」を得た。中央の水の噴出していない噴水に辿り着いたが、濁って汚れた水の中に、既に子供たちが避難していた。促されて、我々四人も噴水の中に入り、濁水に腰まで漬かり、頭から火の粉を防ぐため、水に浸した布団を被った。我々は水の中にじっと身体を漬けながら、煙の為に暗くなった空を仰いでいた。真っ黒だった空が、ねずみ色に変わり、音を立てていた公園の樹木も、やっと静かになり、火熱も冷えてきた。我々は濡れ鼠のように濡れた身体を、重々しく噴水から出した。









 公園内には、各方面から逃げてきた被災者が、家族や知人を探して右往左往していた。父はどうしたのであろうか?生きているのかどうか?そしてお婆ちゃんは‥・。

 我々は何とか一命を取りとめたが、不安が残った。今朝渡って来た港橋から日の出橋方面を望むと、全てが灰になり、遠く清水ヶ丘が手に取るように見渡せるほど、何も無い焼け野原と化していた。橋と橋柱だけが、一際目についた。不老町の被災者は、開港記念会館に集合してくれとの連絡が入った。父に逢うとの期待に胸を弾ませ、空腹と疲れた身体で会館に向かった。父は一人だけだった。祖母の姿は無かった。父は涙を堪えて、話し始めた。

 「お婆ちゃんを背負って逃げようとした頃は、家中火の海で、「お前と一緒に逃げ遅れて焼け死んだら、残った子供たちが可哀相だ。お前はこれから子供たちを育てなければならない。私のことはもう良い。この家の中で死ねるのなら幸せだ。早く逃げるんだ。」お婆ちゃんは、部屋の真中で、覚悟を決めたのか、正座して両手を前に合わせ、「南無妙法蓮華経」と声を出して唱え始めた。両手を合わせて、最後の別れを告げ、生みの親を背負って逃げられない不甲斐なさを恥じながら、我が家を後にした。人影もなく、焼け落ちた家屋の間を踏み分けるように、これで死んだら、お婆ちゃんに申し訳ない。「死ねない」と口ずさみながら、一目散に公園に向けて逃げたんだヨ。」 父は息も切らずに口早に話してくれた。自分の母を炎の中に置き去りにして逃げなくてはならなかった父の心境を思った時、我々の生き残れた喜びとは裏腹に、この戦争のもたらした、むごたらしさを感じた。

 父との再会を喜ぶのも束の間、我々は未だ熱気のさめやらぬ焼け跡の瓦礫に戻った。港橋を渡る。さつきまであったあの町並みは何処へ行ったのか。子供の時に登った街路樹は根を残して焼け、家屋は全て灰燼に帰した。焼けただれたコンクリートの建物は桜林産婦人科医院、安田銀行、寿国民学校くらいであった。角の谷知さんの蔵が、ポッンと焼け残っていたので、すぐ裏にある我が家の焼け跡は容易にわかった。何も無い。灰だけ。そして、その灰の中に焼死した祖母の遺体を見た。両手を前に合わせて拝むように、正座をした姿であった。我々は不思議に涙はなかった。あの火熱でも遺体は完全には焼けていなかった。焼け残った木片を集めて、近くで火葬にした。祖母が使っていた梅干を入れる小さな壷に、遺骨を納め、暮れなずむ焼け跡をあとにした。

 家を失い、家族を失い、何もかも失った淋しさはあった。これからどうして生きて行くか‥・。見渡す限りの焼け野原の茜色の空に沈んで行く夕日を眺めていると、空しさだけがこみあげてきた。堪えていた大粒の涙が頬から落ちた。(挿絵も筆者)















前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/22 9:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 「語り部」を通して
  -学童疎開と横浜大空襲-

 川田敦子 (栗田谷校)

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、「大事なお知らせがある」とのことで、学童疎開をしていた私達(一班)は隣のお寺(二班)に集まり、ラジオを聴いた。雑音がひどくてよく分からなかったが、あとで先生から「日本が敗けて戦争が終わった」と伝えられた。一瞬驚いたが同時に二これでもう空襲はないのだ。特攻隊の人も、戦地に行っている人も死なずにすむのだ」と思うとホツとした。もう戦争はいやだ。

 戦争が終わり、疎開先の子ども達と一日でも早く一緒に生活したいと願う親達は、五月二十九日の横浜大空襲で、焼け野原となった横浜に、にわか作りの小屋のような家を建てたり、離れた場所に何とか住まいを探したり等、苦労をしたことであろう。
 振り返ってみると、まず学童疎開は昭和十九年八月に始まった。地方に知り合いのない五年生の私は集団疎開をすることにした。通学していた栗田谷国民学校の疎開先は、神奈川県内の山北と決まり、町内別に七つの宿舎に分散した。

 旭ヶ丘に住んでいた私は、旭ヶ丘、栗田谷、二本榎の町内の人達と一緒に第一班で、山北駅に近い「成就院」というお寺での生活が始まった。親と離れての生活は、不安と寂しさがあったが、兄弟姉妹、近所の友達と一緒ということは、学年別に疎開した学校よりは安心できたのではなかろうか。

 山北の学校に通えたのは、ほんの二~三か月だけで、あとは軍隊が使うため、疎開児童は使えなくなり、各お寺で自習をした。先生方は、食糧の買い出しに苦労していたため、自分たちで教え合ったり、問題を出し合ったりした。成就院では、たまたま近くの工場に学徒動員で来ていた東京帝国大学薬学部の学生さんと知り合い、夜勤明けの時など何人かずつ交替で訪れてくれて、勉強やドイツ語の歌を教えてくれたり、遊んでくれたりした (ドイツは同盟国なので、ドイツ語は可)。

 食糧は乏しく、豆かすの中に米粒がかすかに入っているご飯、おかずはたとえば芋の煮物であれば、芋はほとんどなく、茎や菓ばかりという質素な内容で、量も少なく、常に空腹でたまらなかった。
 炊事場は外につくられた小屋で、二人の人(今の給食調理員さんのような仕事)が食事の世話をしてくれた。下の沢から水を汲んできて、炊事場にある嚢にあけたり、竃で燃やす薪を集めてきたりするのは高学年の男子がよくやっていた。炊事場から食卓まで運んだり、並べたりするのは女子と一緒に三・四年生も手伝っていた。

 お風呂は少し離れたところにある工場の風呂を借りて、週に一、二回。トイレは、お寺の庭の隅にこしらえた仮小屋みたいなもので、夜は寒くてこわかった。
 洗濯は、井戸水を汲んで、洗面器や盥で洗った。シーツなど大きいものは助け合いながらあらつたが、冬は冷たくて大変であった。

 悩まされたのは「シラミ」や「のみ」 の発生で、手でつぶしたり、煮沸消毒をしたり等、先生も子ども達もそれは苦労した。

 戦争が激しさを増すにつれ、山北でも戦死する人が増えた。お寺での葬儀が多くなり、「この間まで元気だったお兄さんが」と、悲しい出来事に安心して眠れない日が続くようになった。

 六年生は、出征兵士のいる農家に農作業を手伝いに行くようになり、一人一個ずつ蜜柑をもらってきた。夜になると、火鉢の周りにみんなを呼んで、たった一個の蜜柑を一房ずつ分け合った。皮も缶に入れて焼いて分けてくれたのであった。

 途中からは、切符の販売まで制限されるようになり、親の面会もほとんどなくなり、よりつらくて、みじめな疎開生活となった。救われたのは、寂しさを少しでも紛らわすために、先生方が毎晩のように「お楽しみ会」を計画したり、愛情をもって接してくださったこと、お寺の皆さんの愛情、六年生の優しさ、面倒見のよさ、そして成就院に疎開した私達は、お兄さんのように温かく、面倒をみてくださった東大生の方々に出会えたことである。

 昭和十九年五月二十九日の「横浜大空襲」の時は体調をくずし、一時、横浜に戻っていたので、あの空襲に遭遇してしまった。
 朝から空襲警報のサイレンが鳴り、B29の編隊で空は夕方のように暗くなった。父は出勤した後で、母は、私に二人の妹を連れて丘のほうに避難するように指示し、自分は庭の防空壕で様子を見ることにした。

 妹の一人はまだ赤ちゃんだったので抱きかかえ、もう一人の妹の手を引き、途中の防火用水で防空頭巾を濡らし、火の粉を避けながら近くの丘へ急いだ。家のそばには川が流れているので、私達とは逆に、丘のほうから川のほうへ逃げて行く人もいて交差した。
 丘に着いて気がつくと、丘の下はあたり一面火の海で、わが家も隣近所もあっという間に焼失し、くすぶっていた。

 私達の近くで、立ち上がって様子を見ていた男の人は、焼夷弾の薬英が当たって即死した。こわくて震えながら妹を抱きしめ、ちぢこまっているところへ母が無事な姿を現したので飛びついた。
 母は、何か気になって防空壕から飛び出した途端に防空壕が直撃され、危機一髪で助かったとのこと。
 丘の下の崖のそばにある家が一軒だけ焼け残り、近所の人達が、その家で一晩過ごすことにした。
 夜になっても家や電車や大勢の人達の焼ける異臭や煙がひどかった。大人の人達の話では、特に東神奈川駅、反町駅、新太田町駅近辺では、死者が折り重なって山のようになり、いたましい状態だったとのことだ。

 さらに、丘のほうに逃げた人はなんとか助かった人が多かったが、川に逃げた人は熱風と熱湯で、ほとんどの人が亡くなった。

 東京から歩いて帰ってきた父は、夜中になったが無事にたどり着いた。父の話では、川崎、鶴見あたりもひどかったとのこと。

 こうして、横浜は焼け野原になってしまい、大勢の尊い生命を失ったのである。このような悲惨な体験は思い出すのもつらく、現役時代には、一切話したことはなかった。しかし、左の原稿に記載したようなことから、現在は「語り部」としての活動を行っている。

 次の原稿は「15字×30行」という限られたスペースなので詳しくは言い表せないが、神奈川県退職女性校長会の広報に寄稿したものである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/24 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
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 「語り部」を通して
 
    素晴らしい子ども達との出会い

  横浜  川田 敦子

 現在、種々のボランティアをしていますが、その中の一つに「学童疎開と横浜空襲」の体験を語り継ぐ「語り部」があります。

 思い出すのもつらい悲惨なこの体験は、現役時代には、一切話したことはありませんでした。
 しかし、戦後五十年を迎えた時、市教委から「学童疎開の記録をまとめておきたい」との話があり、体験者有志が手伝いました。当時の市立小学校体験者(三~六年) の原稿が集まり、「横浜市の学童疎開」580頁の本が一年後に完成し、市内の学校に配布されました。

 それからは、依頼のあった学校で話をしています。真剣に話を聞いてくれた子ども達からは「これからは、喧嘩しても『死ね』『お前なんかいらない』等、絶対に言わない。自分の生命も人の生命も大事にする。給食や食物を粗末にしない」等の感想が、訪問する学校で寄せられ、素晴らしい子ども達との出会いに感激しています。

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 このほかに、「私達も今からでも話にあったような六年生になりたい。平和を大切にしたい。」等の感想も寄せられた。

 「平和を大切にし、世界中の人達と仲よくしていきたい」と、努力する子ども達が育っていってくれることを願って、これからも「語り部」 の活動を続けていきたい。
 なお、同じような体験をした同世代の素晴らしい人達(疎開問題研究会)と知り合い、智恵を出し合って、よりよい方向、方法で活動していかれることに感謝している。


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