@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

疎開児童から21世紀への伝言 26

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 疎開児童から21世紀への伝言 26

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/19 8:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開問題あれこれ
 滝口康雄(岸谷校)


 学童集団疎開で岸谷国民学校は、足柄上郡吉田島村と南足柄の福沢村に、それぞれ疎開した。女子は吉田島村の大長寺に、男子は地域別に吉田島農林学校の柔道場と福沢村の大松寺に振り分けられた。私は吉田島農林学校の柔道場で生活することになった。朝・昼・夕の食事は、一班から四班までが交替で当番となり、六年生と五年生が受け持った。

 大長寺までリヤカーで往復した。大きな樽にご飯と味噌汁そしてお菜を運んだ。雨の日も風の日も一日三往復が班交替で行われた。

 六時起床で給食班はすぐに身支度をして、大長寺へと向かった。待ち時間に芋洗いやその他のお手伝いをし、ときにはおこげご飯をいただいたこともあった。運搬は急ぐと味噌汁がこぼれるので、ゆっくりそして早く、毎回やっていると要領が分かって、早足で運ぶことができた。
 昼も夕も当番の班が実行した。この間には学校での授業や行事が行われていた。当番の日は、特別に忙しかった。だからお天気次第で楽な日と反対の日とでは心構えが違った。

 農繁期には出征軍人の家へお手伝いに行き、働いた。十時と三時には、ふかしたサツマイモやお餅を出してくれたりするのが楽しみであった。蜜柑の収穫期には蜜柑山で働いたり、沢庵工場へ行って働いたりもした。皆、六年生と五年生だった。

 ノコギリ鎌で稲を刈り、束にして掛ける。脱穀機でモミ殻を集め、風を利用してモミかすを飛ばす。農家によっては旧式の脱穀機であったり新型のものだったり、得難い経験をした。
 四十八畳の柔道場に四十七人の児童が寝るのであるから、足の踏み場もない状態であった。布団の紋様がさまざまで美しかった。オネショをする子も月に一人くらいいた。
 薪運び、草刈り、蛙取りなど、弁当持参で実行した。私達は学校行事に参加することで毎日を送った。食事は三度々々ご飯で、村長さんにオジヤの時もあるようにお願いしたほどである。食に関しては充分だった。

 風呂は週に一回、近所の西川工場へ貰い湯をしに行った。お湯は少なく、身体を湯船に入るのがやっと、というくらいであった。
 酒匂川に泳ぎに行った。昼間も良いけれど、夜の水泳は何とも云えないくらい、スリルに満ちていた。戦争中などと少しも感じられない光景であった。

 ある日、耳が痛むので先生付き添いで小田原の耳鼻科へ行った。耳が治るまで三回程通った。駅前の食堂で冷やしコーヒーをご馳走になった。まだ危機感などない疎開地であった。

 横浜市の学童疎開五十周年を記念する会が一九九三年十月に発足して十五年になる。この間、各校の方々が本の編集や展覧会でお互いの情報を交換し、今日に至っている。

 ハイキング・旅行・博物館見学などで、より一層親しさを増してきている。残念ながら、会員の中で数名の方が亡くなられている。元気で活動できるうちは「語り部」として若い世代に平和の尊さを伝えていかねばならないと思う。

 岸谷国民学校の疎開地での活動を報告した『疎開地だより』は、地球プラザに保管されている。こよりで綴じられた小冊子だが、紙が手に入りづらかった時代に全校生徒に配布したことは疎開地での先生方のご努力がにじみでている。原本は風化している。内容が充実していることから、コピーして皆さんの参考にしてほしいと思っている。

  条件検索へ