疎開児童から21世紀への伝言 21
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疎開児童から21世紀への伝言 (編集者, 2010/4/20 9:43)
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- 疎開児童から21世紀への伝言 61 (編集者, 2010/9/10 7:07)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
疎開・空襲・空腹を乗り越えて
ー 我が青春に悔いあり ーその2
大石俊雄(東校)
そこで当時の淋しい、悲しい思い出の場所の幾つか散策してみた。そして戦争の恐ろしさを改めて痛感した次第である。
以下、いつも散策しているコースを案内してみたい。
1 京急黄金町駅
空襲当日最大の被害、惨劇を受けたのは、黄金町駅近辺から初音町、霞ヶ丘、久保山方面、多くの焼夷弾により多数の死者が出て、焼死体は黒焦げの状態で、男女の判別も出来ず、やがて親子近親の遺体を捜す姿、その遺体に会ったときの痛ましい姿、さらに黒焦げの状態のため分からず、引き取り手のない遺体があちこちに散乱、やがて兵隊が貨物自動車に積み、駅の構内に置き、そこで焼いた。本当に想像を絶するような出来事、その光景、匂いが未だに頭の片隅に残っている。
現在、黄金町から日ノ出町までの京急ガード下は、地元住民や大学生による「環境浄化推進協議会」により魅力ある街づくりが進められている。また並行して流れている大岡川の桜並木も春には満開の桜の下、各種のイベントが開催されている。
2 東小学校
当時、児童は疎開、建物は市役所の分室として倉庫になっており、鉄筋三階建、校内やグランドに多くの焼夷弾が炸裂、避難してきた住民に多くの死傷者が出て、あたり一帯の道路にも遺体が散乱した。
一九〇五年創立の歴史ある母校が、現在鉄筋四階建の立派な姿を、小高い丘から横浜港に向かって奪えている。
3 普門院
黄金町駅近くの関東学院裏手の角にあり、当初、同駅の横に霊魂をお守りしてお地蔵さんが建てられていたが、駅の工事などで移動し、現在は普門院に祭られ、黄金地蔵尊と呼ばれ、五十㌢にも満たない大小二体のお地蔵さまで、毎年五月二十九日には法要が営まれている。
4 曙町四丁目の一角
大通り公園のはずれで阪東橋駅付近、今は大きなマンションが建っているが、よくこんな狭い一角で助かったと思い起こしている。自分では本当に奇跡と思っている。
5 平和祈念碑
地下鉄阪東橋駅付近の大通り公園内、平成四年五月二十九日に横浜戦災者遺族会により設置され、毎年五月二十九日には狭い地下を公開し、判明している亡くなった方の名前が並べられている。上部に青銅器の像があり、「像は古代中国殿時代の金分を立体構成したもので、愛をもって世界の平和を祈念する」
[金分(きんぶん)とは青銅器に刻まれた文字や文章]と記されている。
6 ララ物資の記念碑
みなとみらいの赤レンガ倉庫の奥にあ。終戦直後、日本は衣食住すべてが不自由、こうした中、アメリカの宗教団体を始めとする海外篤志団が日本にララ(団体の頭文字)物資として、ミルク、缶詰などの食料品はじめ、衣類、医薬品などを送り、多くの日本人を救った。一九四六年にこの地に船が着岸、以降六年間にわたり送られた。
一九四九年、昭和天皇と共にこの地に行幸啓の皇后陛下(香淳皇后、平成十二年崩御)が感激してお読みになった歌が刻まれている。私は、この碑を見るたびに少年時代を思い起こし、今日あるのはララ物資のお陰と感謝している。
「ララの晶つまれたるをみて、とつ国のあつき心に、涙こほしつ」
「あたかかきとつ国の心つくし、ゆめなわすれそ時は、へぬとも」(原文のまま)
最後に、疎開、空襲、空腹を体験した私は、「疎開問題研究会」 の一員として、記念誌発刊の手伝いなどを通じて多くの友人を得た。職業や出身校も違っていたが全員同じ世代、そして疎開、空襲、食糧難、いじめなど貧困の時代に成長期をともに過ごし、ともに苦労した間であるだけに親しみを覚え、皆と仲良くなったことは大きな財産を得たと感謝している。
ー 我が青春に悔いあり ーその2
大石俊雄(東校)
そこで当時の淋しい、悲しい思い出の場所の幾つか散策してみた。そして戦争の恐ろしさを改めて痛感した次第である。
以下、いつも散策しているコースを案内してみたい。
1 京急黄金町駅
空襲当日最大の被害、惨劇を受けたのは、黄金町駅近辺から初音町、霞ヶ丘、久保山方面、多くの焼夷弾により多数の死者が出て、焼死体は黒焦げの状態で、男女の判別も出来ず、やがて親子近親の遺体を捜す姿、その遺体に会ったときの痛ましい姿、さらに黒焦げの状態のため分からず、引き取り手のない遺体があちこちに散乱、やがて兵隊が貨物自動車に積み、駅の構内に置き、そこで焼いた。本当に想像を絶するような出来事、その光景、匂いが未だに頭の片隅に残っている。
現在、黄金町から日ノ出町までの京急ガード下は、地元住民や大学生による「環境浄化推進協議会」により魅力ある街づくりが進められている。また並行して流れている大岡川の桜並木も春には満開の桜の下、各種のイベントが開催されている。
2 東小学校
当時、児童は疎開、建物は市役所の分室として倉庫になっており、鉄筋三階建、校内やグランドに多くの焼夷弾が炸裂、避難してきた住民に多くの死傷者が出て、あたり一帯の道路にも遺体が散乱した。
一九〇五年創立の歴史ある母校が、現在鉄筋四階建の立派な姿を、小高い丘から横浜港に向かって奪えている。
3 普門院
黄金町駅近くの関東学院裏手の角にあり、当初、同駅の横に霊魂をお守りしてお地蔵さんが建てられていたが、駅の工事などで移動し、現在は普門院に祭られ、黄金地蔵尊と呼ばれ、五十㌢にも満たない大小二体のお地蔵さまで、毎年五月二十九日には法要が営まれている。
4 曙町四丁目の一角
大通り公園のはずれで阪東橋駅付近、今は大きなマンションが建っているが、よくこんな狭い一角で助かったと思い起こしている。自分では本当に奇跡と思っている。
5 平和祈念碑
地下鉄阪東橋駅付近の大通り公園内、平成四年五月二十九日に横浜戦災者遺族会により設置され、毎年五月二十九日には狭い地下を公開し、判明している亡くなった方の名前が並べられている。上部に青銅器の像があり、「像は古代中国殿時代の金分を立体構成したもので、愛をもって世界の平和を祈念する」
[金分(きんぶん)とは青銅器に刻まれた文字や文章]と記されている。
6 ララ物資の記念碑
みなとみらいの赤レンガ倉庫の奥にあ。終戦直後、日本は衣食住すべてが不自由、こうした中、アメリカの宗教団体を始めとする海外篤志団が日本にララ(団体の頭文字)物資として、ミルク、缶詰などの食料品はじめ、衣類、医薬品などを送り、多くの日本人を救った。一九四六年にこの地に船が着岸、以降六年間にわたり送られた。
一九四九年、昭和天皇と共にこの地に行幸啓の皇后陛下(香淳皇后、平成十二年崩御)が感激してお読みになった歌が刻まれている。私は、この碑を見るたびに少年時代を思い起こし、今日あるのはララ物資のお陰と感謝している。
「ララの晶つまれたるをみて、とつ国のあつき心に、涙こほしつ」
「あたかかきとつ国の心つくし、ゆめなわすれそ時は、へぬとも」(原文のまま)
最後に、疎開、空襲、空腹を体験した私は、「疎開問題研究会」 の一員として、記念誌発刊の手伝いなどを通じて多くの友人を得た。職業や出身校も違っていたが全員同じ世代、そして疎開、空襲、食糧難、いじめなど貧困の時代に成長期をともに過ごし、ともに苦労した間であるだけに親しみを覚え、皆と仲良くなったことは大きな財産を得たと感謝している。