疎開児童から21世紀への伝言 29
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「語り部」を通して
-学童疎開と横浜大空襲-
川田敦子 (栗田谷校)
昭和二十年(一九四五)八月十五日、「大事なお知らせがある」とのことで、学童疎開をしていた私達(一班)は隣のお寺(二班)に集まり、ラジオを聴いた。雑音がひどくてよく分からなかったが、あとで先生から「日本が敗けて戦争が終わった」と伝えられた。一瞬驚いたが同時に二これでもう空襲はないのだ。特攻隊の人も、戦地に行っている人も死なずにすむのだ」と思うとホツとした。もう戦争はいやだ。
戦争が終わり、疎開先の子ども達と一日でも早く一緒に生活したいと願う親達は、五月二十九日の横浜大空襲で、焼け野原となった横浜に、にわか作りの小屋のような家を建てたり、離れた場所に何とか住まいを探したり等、苦労をしたことであろう。
振り返ってみると、まず学童疎開は昭和十九年八月に始まった。地方に知り合いのない五年生の私は集団疎開をすることにした。通学していた栗田谷国民学校の疎開先は、神奈川県内の山北と決まり、町内別に七つの宿舎に分散した。
旭ヶ丘に住んでいた私は、旭ヶ丘、栗田谷、二本榎の町内の人達と一緒に第一班で、山北駅に近い「成就院」というお寺での生活が始まった。親と離れての生活は、不安と寂しさがあったが、兄弟姉妹、近所の友達と一緒ということは、学年別に疎開した学校よりは安心できたのではなかろうか。
山北の学校に通えたのは、ほんの二~三か月だけで、あとは軍隊が使うため、疎開児童は使えなくなり、各お寺で自習をした。先生方は、食糧の買い出しに苦労していたため、自分たちで教え合ったり、問題を出し合ったりした。成就院では、たまたま近くの工場に学徒動員で来ていた東京帝国大学薬学部の学生さんと知り合い、夜勤明けの時など何人かずつ交替で訪れてくれて、勉強やドイツ語の歌を教えてくれたり、遊んでくれたりした (ドイツは同盟国なので、ドイツ語は可)。
食糧は乏しく、豆かすの中に米粒がかすかに入っているご飯、おかずはたとえば芋の煮物であれば、芋はほとんどなく、茎や菓ばかりという質素な内容で、量も少なく、常に空腹でたまらなかった。
炊事場は外につくられた小屋で、二人の人(今の給食調理員さんのような仕事)が食事の世話をしてくれた。下の沢から水を汲んできて、炊事場にある嚢にあけたり、竃で燃やす薪を集めてきたりするのは高学年の男子がよくやっていた。炊事場から食卓まで運んだり、並べたりするのは女子と一緒に三・四年生も手伝っていた。
お風呂は少し離れたところにある工場の風呂を借りて、週に一、二回。トイレは、お寺の庭の隅にこしらえた仮小屋みたいなもので、夜は寒くてこわかった。
洗濯は、井戸水を汲んで、洗面器や盥で洗った。シーツなど大きいものは助け合いながらあらつたが、冬は冷たくて大変であった。
悩まされたのは「シラミ」や「のみ」 の発生で、手でつぶしたり、煮沸消毒をしたり等、先生も子ども達もそれは苦労した。
戦争が激しさを増すにつれ、山北でも戦死する人が増えた。お寺での葬儀が多くなり、「この間まで元気だったお兄さんが」と、悲しい出来事に安心して眠れない日が続くようになった。
六年生は、出征兵士のいる農家に農作業を手伝いに行くようになり、一人一個ずつ蜜柑をもらってきた。夜になると、火鉢の周りにみんなを呼んで、たった一個の蜜柑を一房ずつ分け合った。皮も缶に入れて焼いて分けてくれたのであった。
途中からは、切符の販売まで制限されるようになり、親の面会もほとんどなくなり、よりつらくて、みじめな疎開生活となった。救われたのは、寂しさを少しでも紛らわすために、先生方が毎晩のように「お楽しみ会」を計画したり、愛情をもって接してくださったこと、お寺の皆さんの愛情、六年生の優しさ、面倒見のよさ、そして成就院に疎開した私達は、お兄さんのように温かく、面倒をみてくださった東大生の方々に出会えたことである。
昭和十九年五月二十九日の「横浜大空襲」の時は体調をくずし、一時、横浜に戻っていたので、あの空襲に遭遇してしまった。
朝から空襲警報のサイレンが鳴り、B29の編隊で空は夕方のように暗くなった。父は出勤した後で、母は、私に二人の妹を連れて丘のほうに避難するように指示し、自分は庭の防空壕で様子を見ることにした。
妹の一人はまだ赤ちゃんだったので抱きかかえ、もう一人の妹の手を引き、途中の防火用水で防空頭巾を濡らし、火の粉を避けながら近くの丘へ急いだ。家のそばには川が流れているので、私達とは逆に、丘のほうから川のほうへ逃げて行く人もいて交差した。
丘に着いて気がつくと、丘の下はあたり一面火の海で、わが家も隣近所もあっという間に焼失し、くすぶっていた。
私達の近くで、立ち上がって様子を見ていた男の人は、焼夷弾の薬英が当たって即死した。こわくて震えながら妹を抱きしめ、ちぢこまっているところへ母が無事な姿を現したので飛びついた。
母は、何か気になって防空壕から飛び出した途端に防空壕が直撃され、危機一髪で助かったとのこと。
丘の下の崖のそばにある家が一軒だけ焼け残り、近所の人達が、その家で一晩過ごすことにした。
夜になっても家や電車や大勢の人達の焼ける異臭や煙がひどかった。大人の人達の話では、特に東神奈川駅、反町駅、新太田町駅近辺では、死者が折り重なって山のようになり、いたましい状態だったとのことだ。
さらに、丘のほうに逃げた人はなんとか助かった人が多かったが、川に逃げた人は熱風と熱湯で、ほとんどの人が亡くなった。
東京から歩いて帰ってきた父は、夜中になったが無事にたどり着いた。父の話では、川崎、鶴見あたりもひどかったとのこと。
こうして、横浜は焼け野原になってしまい、大勢の尊い生命を失ったのである。このような悲惨な体験は思い出すのもつらく、現役時代には、一切話したことはなかった。しかし、左の原稿に記載したようなことから、現在は「語り部」としての活動を行っている。
次の原稿は「15字×30行」という限られたスペースなので詳しくは言い表せないが、神奈川県退職女性校長会の広報に寄稿したものである。