疎開児童から21世紀への伝言 22
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編集者
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挽 歌 1
大類幸恵(横浜校)
その一 お手玉
いちれつらんばんはれつして
日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシアの兵
死んでも尽くすは日本の兵
おさらいお一つお一つおろしておさらい
お手のせお手のせお手のせおろしておさらい
おつかみおつかみおつかみおろしておさらい
お手玉。なんとも懐かしい言葉ではないか。今ではすっかりすたれてしまった、戦争中の少女達の数少ない貴重な遊び道具である。
太平洋戦争が激しさを増していった、一九四四年六月二十日、「学童疎開促進要綱」が閣議決定された。
地方に縁者のある者は縁故先へ、縁者のない者は学校ごとに行き先を決めて、国民学校三年生以上六年生までの学童は疎開することになった。神奈川県下大都市の学童は最初、疎開先を静岡県下と指定された。しかし、何事か起こった場合、静岡県下では遠くて連絡もままならない。時の、近藤壌太郎神奈川県知事の英断により、神奈川県下の学童は神奈川県内の旅館・寺院・保養所・公共施設等に集団疎開することに決まった。
閣議決定から二か月後の八月二十一日私達横浜国民学校疎開分団は、長谷川和一疎開分団長を先頭に、横浜駅発午前九時四十分の列車で箱根湯本の旅館「萬翠楼福住」 へと旅立った。
疎開当時の遊び道具といえば、お手玉のほかにトランプ、家族合わせ、動物合わせ、双六、毛糸編み、リリアン編みなどで、外へ出ると縄跳びもよくした。夕食後の自由時間には読書もしたが、なにしろアメリカ文学、イギリス文学はご法度の時代である。紙不足でもあり、よい本はあまりなかった。
私はこれらの遊びの中でもお手玉に熱中した。時間があると部屋の畳の上にまず八個くらいのお手玉を置く。かき集めて「お!さ!らい」と両手で握りしめ、それをバツと畳の上に投げ出す。「お一つ!お一つ!」と交代に空中に投げ上げる。終わったところでまたかき集めて、「お!さ!らい」とパッと畳の上に投げ出す。「お手のせ!お手のせ!」と歌っていくのだが、一つを空中に高く投げ上げている間に、右手で左手の手の甲に他のお手玉を一つずつ乗せていくスリル満点な遊びである。私は手先が器用だったので、五個も六個も手の甲から手首のほうまで乗せることができ、得意になっていた。
当時のお手玉は、和服全盛だった母親達の絹地着物の残り布で作った手作り作品で、日本情緒たっぷりの、色彩豊かな四枚接ぎだった。縮緬、錦紗、お召、銘仙、紬などの織り布が美しく組み合わされ、お手玉の中には小豆やじゅず玉の実が入れられていた。小豆やじゆず玉の実がすり合わされて出る音が耳に心地良く、私にとっては遊び道具というより宝物に近い存在だった。
集団生活というものは、毎日温泉に入って清潔に洗っていると思っていても、さまざまな病気が発生するものである。クラスの友人達の間で「疹癖」という病気が流行し始めた。手指の間にできる皮膚病である。ヒゼンダニというダニにおかされるらしい。
手元にある広辞苑で、疹癖をひいてみる。「疹癖虫の寄生によって生じる伝染性皮膚病。指間、腕及び肘関節の内側、腋の下、下腹部、内股などを侵し、ひどくかゆい」と出ている。
一九四四年十二月に疹癖がひどくなり、横浜に帰って治療した友人に聞いた話がある。この病気はカルシゥム不足が原因であると医師に言われ、太いカルシウムの注射を二本打ってもらったら、すぐにかゆみが止まり、治ったということである。横浜に帰りたいばかりに、疹癖にかかった友人と手と手をこすり合わせたという話も聞いた。その友人は発病しなかったという。私も発病しなかった。誰にでもうつる病気でもなかったようだ。
私達の担任だった年若い女教師は、受持ちの学童が次々と疹癖にかかるので、その原因は手指を使って遊ぶお手玉にあると判断したのだろう。ある日、四年生女子クラスの全員を集めてすべてのお手玉を提出させた。私達の大切なお手玉は、先生の前に山のように積まれた。そのお手玉を福住の前を流れる早川の中州にある、私達が「軍艦岩」と呼んでいた畳二枚くらいの大きな石の上に運んだ。「太陽消毒をしたら皆さんに返しますから……」と言われた先生の言葉を信じて、私達はその平らな大石の上に丁寧にお手玉を並べていった。
大切な遊び道具を奪われた私は悲しくて哀しくて、毎日毎日、福住の二階の部屋から、また庭から早川の大石の上にあるお手玉を眺めていた。ねずみ色の大石の上にある母親達が丹精込めて作ってくれた色彩豊かなお手玉達は静かに横たわっていた。お手玉は再び私の手元に戻ってくることはなかった。
余談だが、八年ほど前、伊豆の蓮台寺温泉へ行ったことがある。宿のすぐ近くに幕末の志士吉田松陰が一八五四年の米艦渡来の際に下田から密航を企てて捕えられた時、八日間を過ごした家があり、そこを見学した。医師の村山庄兵衛の屋敷で、吉田松陰は疹癖を治療するために滞在したと説明されていた。あの偉人の松陰が疹癖だったとは、と意外に思ったことを覚えている。
私が六十年前学童疎開をしてお世話になった旅館・萬翠楼福住の現存する、明治十年から十一年にかけて建築された建物が、二〇〇四年に国の重要文化財に指定された。四月二十二日、横浜国民学校同窓会としてお祝いにうかがった。女将・福住淑子さんの話によって、学童疎開当時私達が「軍艦岩」と呼んでいて大石だと思っていたものは、明治時代、そこには福住橋が掛けられていて、その橋桁をのせたコンクリートの塊だったということがわかった。私達の 「軍艦岩」 は今も早川の中州にどっしりと存在している。
一瞬たりとも止まることなく、箱根の山中から湯本の福住の前を流れる早川。少し下流で箱根旧街道に沿って流れてきた須雲川と合流して、登山鉄道の湯本駅前で広くなり、小田原の海へ注ぐ。川は私の幼い頃と同じように流れている。私にとっては懐かしさと同時に、あの私の宝物だった大切なお手玉を無残にも飲み込んでしまった川でもある。