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疎開児童から21世紀への伝言 25

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 25

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/18 8:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 心のささえ 2

 井関芙美代(寿校)


 昭和十九年十月二日
 
 寿学校には記念すべき日になりました。寿学校学童五百余名は翁町の校舎を去って横浜学校に集団転校しました。此の日朝から秋雨がシトシトと軒端をうつて肌寒い北風が吹いていました。思うだけにうすらさびしい気分になります。(中略)
 父にもなつかしい母校ですから四十年前の校舎と教室とを頭に浮かべて「寸センチメンタルになりました。二人が横浜に帰って来てもあの校舎には行かれません。思い出の寿校よ、サヨウナラ。


 昭和十九年十月十一日

 今朝の新聞に「疎開の唄」と言うのが出ていました。蒔田校の先生方の合作だそうです。「強くなります日やけ顔」「広くなります開墾地」「強くなります勝つ日まで」(中略)聞くところによると知明はだいぶ張り切って居るそうですネ。親切にして上げて居るそうですネ。父はうれしく思っています。面会の方のお別れに小さなからだから大きな声を出して号令をかけたそうですネ。父は一度そんなところを見たいと思います。けれど会社の製産増強の為めには休んで子供の面会に行く事は遠慮しなければなりません。芙美代が勤労奉仕に父が来て下さればよいともらした言葉も人様から伺いましたがその芙美代の気持ちも父は充分察して居ります。けれど子も強くあれ、そして又父も強くあれと心に誓って居ります。


 昭和十九年十一月十九日

 何のおたよりをしましょうかと思っていましたところなつかしい大すきな芙美代からのたよりで父は何日間のおしごとのつかれが一へんに飛んでいってしまいました。強羅行のおたよりを読んで父は眼がしらがあっくなるほどうれしく思いました。よく一年生の時の日記の事をおぼえて居りましたネ。知明兄さんとあしの湖を遊覧らん船で渡ったことが思い出せましたか。船の甲板にてすりにつかまってチヨット手をはなしてそばのおじさんにおさえてもらったことを知っていましか。集印帖をたばこ屋にわすれて居たのをたばこやのおばさんが船の出るのを待っている父のところまで持って来てくれましたネ。ソシテ、その明くる年一年生の時は仙石原に行って一ばんとまりましたネ。皆思い出すでしょう。

 あの時は夏、今は秋、もうすぐ冬になって雪の箱根山になりますネ。もみぢの箱根山が一番よいでしょう。芙美代のあの紀行文は仲々上手に書けていますネ。もんくの言いまわしがしぜんに新しい書き方になっているので父はかんしんしました。ぜいたくを言えば歩いた道だけを書かずに、目に見えたものやその時感じたことを書き入れるようになればもう作文は秀になると思います。それは父だけが点を入れる時のことですヨ。サア時間があったらドンドン便りを下さい。さいてんして上げますヨ。

 十二月に入ると父の葉書には「空襲警報」の文字が増え、戦局を知らせることが多くなりました。明けて三月には知兄が中学受験で帰浜し、四月二十三日の195番以後は五月二十九日の大空襲まで時々長い手紙が届くようになりました。私が箱根から出したものは空襲で全部焼失してしまいましたが、二百二十五通にも及ぶ父母の便りは疎開先の私の手元に残りました。「たより」だけがたよりだった一年二か月でした。

 ここには、子どもを手離した直後のほんの一部を原文のまま載せました。その父も私が帰浜して三年後、心臓麻痺で他界しました。五十四歳でした。


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