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歌集巣鴨

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/8/13 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 香 港

 霧はれて渚にもやふ蛋舟に静かに朝の煙立つ見ゆ        神代 勝正 

 朝霧はやがてうごきてヴィクトリヤピークの松の梢も見え初めにけり        青山 茂雄

 病み臥る鉄窓(まど)に傾く秋の空澄み透りつつ余光は長し      吉田 朋信

 リラの咲く斜りの街の夕映がうするる時を海昏れにけり      吉川 軍一

 身をひそめ行水せりしささげ柵すでに黄ばみて蟋蟀の啼く      田原 巌

 よもすがら荒れにし野分過ぎにけり窓ゆおし照るありあけの月      小原 直治

 負ひきれぬ運命(さだめ)にわめく狂囚の眠りしのちは潮騒きこゆ      吉川 軍一

 牢獄の生活(たつき)は悲し独房に悩みを語る爪文字の跡      神代 勝正
 
 もと俘虜の視線を背に意識して三十瓩の砂負ひ登る      田原 巌

 日本仔(ヤポンチャイ)とたわむれ来る子を抱き吾子を偲びて頬ずり寄する      吉田 文蔵

 外つ國の児らがうたへる声遠し耳を澄ませば聞えずなりぬ      吉見 胤義

 釈放も眞近になりし友の顔微笑浮びて日々に明るし      吉川 軍一

 房の窓(と)のそとの島々夕霧のたなぶく見れば故里おもほゆ      吉見 胤義

 五月雨るる軒端に憩ふつばくらの睦める見れば君の恋しき        同

 吹上の磯の松原越えゆけば恋島(けしま)が浜に汝(なれ)たち待たむ        同

 故国の母
 奥山の雪解の水の溢れゐむ多摩の川辺に米とがすらむか      吉野 捷三

 我ゐねば誰か拾はむたらちねの母在ます塚に積る落葉を        同

 望郷の心燃えつつ幾歳か石のひとやになじみ来にけり        小原 直治

 負はされし罪なりしかと鉄窓辺(まどべ)よりもれてくる光(かげ)にうらしづめゐる        同

 密かにも房に飼ひゐし小さき虫息絶え果てて今朝床にをり      河部 清重

 戦犯われら還送の報あり夜もすがら眞実なれと祈りあかしぬ      吉野 捷三

 寄りゆきてバナナの幹に彫りつけし帰国の文字に水滴れり      田原 巌

 さほどまで気に留めざりし佛桑華いま忘れがたき花とはなりぬ      徳永 徳

 いざさらば夏草覆ふ獄友の塚見えずなりけり島の遠のく      小畑 千九郎
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/8/14 7:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 馬 来

 星港は程近からむこのわたり水は濁りて海蛇の浮く      城 朝龍
                         (往航船中)

 黄草原見も斑らなる下萌えにわが葉の夏は再たも来にけり      宮脇 文雄
                       (星港オートラム二首)

 ゆるぎなき大地に立ちて何の苦ぞとこの朝風を胸一杯に吸ふ        同

 歌会もつこともありけり朝風の吹き来る獄の庭先にして      藤井 富夫
                            (ビルマ)

 ちかちかと跣足に痛し照らふ日に歩道は焼けて房につづけり      吉井 啓祐
                           (星港オートラム)

 陽を反(か)へす手錠の腕は組みゐつつ向日葵の花の前を通りぬ      若松 斉
                           (星港チヤンギー二首)

 監房の所在なさには寝てゐつつ壁に足などのせかけてゐる        同

 大空は夕茜して暮れゆけば闇の空虚(うつろ)に半迦くむ吾      藤井 富夫
                               (ビルマ)

 新しき繃帯ぎれをかすめきて夜の更けてより縫ひものをする      若松 斉
                      (星港チヤンギー三首)

 綱窓に押し照る月の光(かげ)掬めば暫くは掌をひろげてをりぬ        同

 ここに住む同胞ありて差入れくれし情の品をじっと見つむる      藤井 富夫

 筑紫なる大野の山にたつ雲を見つつも母の吾を待ちまさむ      鬼倉 典正
                          (星港オートラム)

 常(いつ)よりも早く目覺めし房の中歯の金冠はもろく落ちたり      若松 斉
                        (星港チヤンギー三首)
 
 恥多き己れ悔いつつ夕まけて埃つもれる経をとり出(いだ)す        同

 生きの日の貧しさつぐる吾が妻に最后の医書を賣れと書きたり        同

 淋しきは小雨降り込む夜の房に狂ひし友の我が名呼ぶとき      横田 昌隆
                       (星港オートラム二首)

 今の苦をのがれ得むかに欲る移管巣鴨もただに獄と思へや      吉井 啓祐

 その昔御朱印船の通ひたる呂宋の島を目交にして      城 朝龍
                     (帰還船中二首)

 やがて会ふ友思ひをり船艙の小暗さのなかに汗にあへつつ      鬼倉 典正

 悪びれずタラップを下り夏の陽の祖國の土に歩を運びたり        同
                            (横浜埠頭)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/8/15 10:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 支 那 (1)
    
 季節の流れ

 捕はれて八重の潮路を来(こ)しかども我の命はなほここにあり      桂 定治郎
                               (上海四首)

 手中(たなうち)に数かぎりなきみ佛をわれは畫きをり春の獄(ひとや)に        同

 古の遠流(をんる)の臣を数へつつ春の獄(ひとや)に心足らひぬ        同

 捨て切りて今は我なき気軽さやこの安けさや今日も日の暮るる        同

 漲るは春の水かもほのぼのと鄱陽(はやう)の湖(うみ)に朝あけわたる      伴 健雄
                                  (上海への船中)

 門に立つ若き歩哨の影長く搖ぐともせず春の日落つる        同
                          (上海四首)

 丘の上の櫻木立のしづもりに花塵(くわじん)ひとしきりおさまりにける      桂 定治郎

 夜くだちに十六羅漢さ乱れて寝言歯ぎしり春閑けにけり      永田 勝之輔

 須磨の櫻見むと思ひし今年さへ蚊帳つる夏と早やなりにけり      安野 秀岳

 夏の朝涼しきものは椰子の葉ゆかつがつ落つる露の白玉      増山 喜平
                               (ハノイ)

 人影の絶えし眞晝の獄庭を黒き蝶一つ大きく舞へり      長谷川 稔
                         (上海八首)

 鴨跖草(つゆくさ)に鳴ける蛙をききとめて一夏(いちげ)の月夜(つくよ)さやかなるかな      桂 定治郎

 秋雨の五日あまりを聴き寂びて花櫚(かりん)の木(ぼく)に妻が名彫りぬ        同

 冬を越すたきぎの料と刈り貯めし莠が中の秋萩の花      今野 逸郎 

 冬江(ふゆがわ)の水門に泊てしまがね船朝くだるらし霧笛鳴りつつ      大西 正重

 朝霜のひろ野のはてに見はるかす上海のかたはたゆたふ黒煙      梨岡 寿男

 冬木々に集(つど)ふ小鳥は身を寄せて日のめも寒し片照りにけり      桂 定治郎

 枯れてゆく寂しさならず冬ざれの竹の笹葉を見守りしかも        同
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/8/16 9:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  支 那 (2)

       生活の日々

 若茄子を朝に炊くと取り出でて水にひたせば透る紫      丸山 茂
                      (上海二十四首)

 水道の蛇口に奔る水音を清(すが)しと聞きて朝に米とぐ        同

 片割れの月かげ残る溜池に豆腐作りの水を汲みたり         同

 うちけぶる草に雨降るひねもすを隣に絶えぬ米搗の音      伴 健雄
                          (自営精米)

 まがね吹く鞴の焔青く燃え鍛冶場の晝をわくら葉の散る      大西 正重
                              (煉工)

 申辯書ひとり書く夜は更けゆきて枯野をわたる秋雨の音      門屋 博

 病篤き囚友をみとりて今宵またひとりしみじみ秋雨を聴く      長谷川 稔

 幽囚の哲理を説きて寝し友の夢路羨しき小夜嵐かな      長谷川 寿夫  

 寝返りの鎖の音に夢さめて房の小窓に星光冴ゆる      下地 恵修

 風寒き囚舎の宵を黄にともる蝋の涙の凍りけるかも      梨岡 寿男

 戦勝を説く支那兵の軍服に呉軍需部と書かれてありぬ      菅谷 瑞人

 古びたるペンを拾へるこの我に異國の看守新しきを呉れぬ      今藤 好雄

 素人芝居の年増女の友の顔おもはゆ気なり吾を見て笑める      寺田 清蔵

 くさぐさの文は焚きたり夜を一夜明けては立たむ大空の下に      大西 正重

 出でて行く友を送りて獄房のつめたき土間に一人佇つわれは      長谷川 稔

 ブロマンの見ゆるわたりは虹口(ホンキュー)か吾が住み馴れし懐かしき街      安野 秀岳

 囚われの身にしあれども吾が心ゆたかにあれと土耕しぬ      門屋 博

 捨てられし軍馬はかなし野に出でて日ねもす麦の穂を喰みてをり        同

 昨日(きぞ)降りし烈しき雨にクリークの岸の枯草水に隠れぬ      本田 同

 麦畑に残るトーチカ幾とせの雨にくづれて芝萌えにけり      安野 秀岳

 今朝ふれる雨の静けさよよるべなき軍馬青草を喰みつつ濡れをり      酒井 正司

 吾が戦友と野山駈けりし弾薬車銹つきてあり江湾の駅に      今藤 好雄

 襤褸をもて荷紐を今日は作りけり祖國に還る日の近づきて      田中 勘五郎

 戦犯てふ活字いち早く目に入りぬ菓子を包める支那新聞紙      富高 増木
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/8/17 18:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 支 那 (3)

  思郷・感懐

 創世の時より碧き大空に琥珀(こはく)のごとき鳥一羽とぶ      桂 定治郎
                           (上海十九首)

 彩雲(くも)の中の迦陵嚬伽(かりょうびんが)のおとし児を一人救はば業(ごう)亡びんか        同

 二年(ふたとせ)の捕はれの身をみかへればいたくも心瘠せにけるか        同

 念ひ来し母の喜の字も祝はずて秋早や立ちぬ離り居のままに        伴 健雄

 うらぶれし妻の姿を夢に見て八咫(やさか)の歎きわれはするかも        桂 定治郎

 ここにして今年も見たり雁(かりがね)は東(ひむがし)さして鳴きつれ行くも      本田 同

 此の光や大和島根に昇る陽か霜冴ゆる野に照りたらひたる        山田 英雄

 玻璃窓に息の凍ると何時の間に汝が名は書きし指(おゆび)冷く      永田 勝之輔

 このあした若水汲むと老母が釣瓶繰らすらむ男手なしに      今野 逸郎

 山峡の家の厨に立つ母の影なつかしみ味噌汁(しる)啜りけり      山田 英雄

 健かに笑みます故郷の母上と久に会ひたり暁のゆめに      古谷 多津夫

 運命のまま犠牲と散り果てし友さへあるを堪へませわが母      長谷川 寿夫

 ちちのみの父は逝きましぬ還らざる吾れを待ちつつ父逝きましぬ      宮崎 修司

 妻のみのほそぼそ耐ふるなりはひに吾子が節句は淋しからまし       富高 増木

 穿き古りし破れ靴下の孔かがり妻なき春は侘しきものを      永田 勝之輔

 いささかの病に臥せば妻恋しさだめはかなし秋の風吹く      富高 増木

 勝たむ為めと涙も見せず別れしも何の甲斐ぞと妻のこの文      菅谷 瑞人

 捕はれし二年前の今日の日も雲はみ空を蔽ひゐたりし      本田 同

 嵐去りて獄(ひとや)の窓の間よりのぞける月も得こそ忘れね      古谷 多津夫

 月漏るる被爆の倉庫(くら)に住み馴れて枕辺近く虫の音を聞く      小野 糺
                                  (廣東)

 夢はまだ見果てぬものをいつの間に吾娘が嫁ぐと身は古りにける      永田 勝之輔
                                    (上海)

 鉄窓に握り交はせし機関長の血の温みをば偲びたりけり      宮崎 修司
                              (廣東)

 囚はれのさだめはかなし宵寒を異國の兵の國歌(うた)を聞きつつ      菅谷 瑞人
                                 (上海四首)

 いきどほりいづべにやらむ東(ひむがし)の涯(はたて)を見守るわれは      酒井 正司

 一杯の恩賜の酒に涙せし兵のこころも罵られけり      寺田 清蔵

 悲しみの身を忘れむと口誦む正気の歌の調みだれぬ      酒井 正司

 人心(ひとごころ)乱れてはあれ水戸の梅は古(いにしへ)のごと咲きにたりとぞ      田中 勘五郎

 さかしらに人集まりて定めたるみ國にあらずすめらみくには      加藤 三之輔

 たまきはる命保てど戦犯の心の怒解く日あらむや      丸山 茂

 船出づるあてのなき日を佗びつつも日向に立てば雲雀鳴くなり      安野 秀岳

 うらうらに雲雀の声も聞きとめて心足らひの此の日頃かも      大西 正重

 芭蕉葉に風のさやらふ音のして我に清隠(せいいん)の心きざしぬ      桂 定治郎

 西空に久遠の生をのぞみつつ魔羅(まら)を握ればあたたかきかも        同
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 帰 国 

  支 那 (4)

 今は同じ國民ならぬ韓國の友ら涙し見送りにけり      田中 勘五郎

 過ぎし友の骨を残してたつ旅は海の面罩めて霧たち迷ふ      梨岡 寿男

 ぬばたまの黒髪ながく相逢はぬ妹を念ひつつ船路たぬしも      宮迫 忠久

 船は早やみ國に入りぬ島も海もあやにくすしく輝きわたる      井部 重郎

 隼人の薩摩ヶ嶽は今日見むと如月朔日の朝明にたつ      梨岡 寿男

 おほみおやの天降りましけむこの見ゆる日向の嶽に敗れてま対ふ      今野 逸郎

 懐しの祖國は近し海原に吾を迎へむと群れ飛ぶ鴎      下地 恵修

 富士いづこ伊豆の山々雲たれておろがむ男子声もなきはや      井部 重郎

 夜明くれば「井桁に永」の舟印舷窓にありて日本の声す      小畑 千九郎

 傷みたる心に踏めどふるさとの土は温(ぬく)とし帰り来りぬ      伴 健雄

 如何なれば斯く涙もろくなりたるか街の姿のことごとに泣く      小畑 千九郎
                             
 焼跡に頭を垂れて迎へくれぬその手にぎりてひたに泣きたし      渡辺 勝二

 囚はれて帰り来れば護送車に鳴呼同胞(はらから)が高く手を振る      加藤 三之輔

 掌を合せ並みたちて迎ふ媼も見ゆ何とは知らね涙ながるる      梨岡 寿男

 戦犯と知りて手を振る人もありかかはりもなく過ぐる人もあり      宮崎 修司

 横浜の市中に見たり日本人立入禁止の白き立札      菅谷 瑞人

 還り来て護送車の上に今拜す人影もなき明治神宮      今野 逸郎

 更めて塵を拂ひて渡しけり戦闘帽は最后としたり      寺田 清蔵
                  (軍装品没収二首)

 ねもごろに袖折りたたみ渡しけり武勲を秘めし亡友の外套      宮崎 修司
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 絶 叫 (死刑囚のうた)

  永 別

 死(しに)の場(ば)に連れ去られゆく人々を喉(のみど)乾(から)びて見送るわれは      平尾 健一 

 死に就くと友ら去りゆく下駄の音冴え返る夜の牢にこだます        同
                            (巣鴨十一首)

 死に一人(ひとり)連れ去られゆきし夜の更けて息づまる如くDDTが臭ふ         同

 ただ默(もだ)に死に就きにける廣田さんを思ひ出づれば夜は更けがたし        同

 とほり魔にひかるる如く今宵また奥の部屋より一人死につく      楢崎 正彦

 今生の別れ告げゆく君が手に最后(つひ)の煙草の火はあかかりき        同

 巷には労働争議あひつげる今夜(こよひ)を君は獄に死に就く      故幕田 稔
                            (佐藤勇氏二首)

 友一人連れ去られたる夜は過ぎて紅(くれなゐ)かなし鳳仙花のはな        同

 昨夜(よべ)ここに共に坐りて唱ひしが今朝の日射に君はゐまさず        同 
                                 (大隅馨氏)

 死につくと気狂ひの友あどけなく夜更けの廊を連れゆかれたり        同

 默(もだ)しつつ去りしが故にひとしほに心に沁みて汝を思へり      鍵山 鉄樹
                              (青木勇次氏)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 季節の流れ

   春

 栲縄の生命(いのち)たもちて新年をふたたびここに言祝がむとは      故田口 泰正
                                (巣鴨八首)
 勅題「若草」
 春来しと田辺城跡の大石の間(はざま)にぞ見よ新萌小草      故井上 勝太郎

 雨止みて靄たちこむる中庭にいちはつの花散れる静けさ      北田 満能

 朝の陽のさしそふ小庭めぐりつつ糸杉わたる鶸(ひわ)の声追ふ      故榎本 宗應

 たまさかの戸外散歩よりもどり来て房の暗さをまざまざと見し      故田口 泰正

 長男の入試発表のこの夕(ゆうべ)一つ星見ゆ獄の狭窓に      故井上 乙彦

 み佛の法聞きをればおん厨子の白きえぞ菊一片落ちぬ      故井上 勝太郎

 淡黄(とき)色の金魚草の花かぎをればドロップスに似し匂ひ愛しも      故幕田 稔

 卵黄色のダーリヤは今朝おほらかに量感をもちてわが眼にせまる        同

 窓のべのあるとしもなき夕風に矢車草の紫ゆるる      佐藤 吉直

 鉄窓(まど)下に咲く紫の名も知らぬ小さき花の生命は思へ      上新原 種義

 窓のべに遺書かきをればこの夕べ庭蝉鳴きぬみぢかき声に      故成迫 忠邦

 小止(をや)みなく雨降りながら糸杉の幹の根もとに乾きたる土      故井上 勝太郎

 蠅一つしみの如くに壁を逼ふ梅雨の灯暗きわが監房に      故幕田 稔

 高塀を遠く離れて東京の午ちかき空鳶の舞ふ見ゆ      故幕田 稔

 もろ鳥のこゑの彼方に紅ゐに幾棚雲(いくたなぐも)の下べかかやふ      平尾 健一
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  夏

 木曜日
 湧き立ちし誦経の声や夕まけて窓に揺れへぐ白孔雀草の花       森 良雄
                              (巣鴨七首)

 水をかへ霧吹きやりし紫の矢車草は見つつ飽かなく      故田口 泰正

 書につかれ見上ぐる窓の風にそよぐうすくれなゐの蝦夷菊一輪        同

 活けかへし紅ゐうすき蝦夷菊の窓にゆれつつ晝たけにけり      故鈴木 賞博

 淡き灯の晝もひともるわが房に薄紅愛(うすべにかな)し蝦夷菊の花      故成迫 忠邦

 夕立の気配の風が吹きたちてつぎつぎ獄窓(まど)を閉ぢゆく音す        同

 死(しに)を思(も)ふはかなしかれども梅雨はれて朝は清(すが)しく飯食(いひを)しにけり      友森 清晴

 長かりし雨やうやくに晴れむとし正法眼蔵を窓に持ち倚る      白倉 刀禰男

 関聨なく浮ぶ追憶の一つにて比島の獄に植ゑしパパイヤ      渡辺 斂 

 懶げに佛桑華の花揺れて居り夕べの光ただよへるなか      故中田 新一
                           (ビルマ二首)

 うつらうつら物思ひゐるわが肩に糞を落しぬひとやのやもり        同  

 窓の空はうつろひ十字星の右のはづれに蝎座(さそり)出で来ぬ      酒井 光
                                 (チピナン)

 蜩の声聞え来る夕にして吾は日誌に夏去ると書く      田代 敏雄
                       (巣鴨二首)

 岡田資氏を悼む
 雷鳴の轟きわたる夜の牢に師はひたぶるに生死(しゃうじ)説かしき      冬至 堅太郎
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

   秋

 秋づけばいのちかなしも夕ぐれのひとやに吾は古きふみよむ      故青木 勇次
                              (巣鴨四首)

 颱風に吹き折られたる火の見櫓の鉄骨しるく夕映に立つ      故田口 泰正

 一枚の硝子窓(ど)の視野を十三夜の月清くして雲行疾し      故幕田 稔

 寝つつ見ゆる玻璃窓に月の明けれど喇叭がやめば眼閉ぢにき        同

 さ夜更けてかなし我身を悶ゆれば月は静かに冴えわたりけり      故黒沢 次男
                                 (上海)

 婚約も解消すべきときめし夜の月冴えざえと獄窓(まど)べに白し      久保 久吉
                               (巣鴨十五首)

 雨晴れし秋のみそらを仰ぎつつ蘚の香に立つ庭をめぐらふ      故榎本 宗應

 秋晴の澄みわたりたる大空は今日この頃の心なるかも      故土肥原 賢二

 赤蜻蛉(とんぼ)なべてつがへるこの朝天空ふかく澄みまさりつつ      故田口 泰正

 その生命(いのち)短きがゆゑに澄みわたる秋晴の空につるむ蜻蛉(あきつ)よ      鍵山 鉄樹

 主のおめし迫り来るらしわが房に静坐しをれば菊の香きこゆ      故井上 乙彦

 菊生けし窓のコップにおちし蚊の鈍きふるまひに感傷しをり      故成迫 忠邦

 福原大尉に捧ぐ
 心あらばしげくも啼くか夜半の虫人のゆくてふ今宵ばかりと      故平手 嘉一

 旗雲をあかねに染めて大き日は街(ちまた)の果にいま落ちむとす      故田口 泰正

 余光蒼き狭間の空を楽しむのもああつつましきわたくしの時間      故井上 勝太郎

 網の目ゆ朝光(かげ)させば窓に置く鶏頭の種子(たね)ときをりこぼる      故幕田 稔

 秋の灯にあごひげ白き獄友が「カンカン娘」のタクト振りをり      白倉 刀穪男

 ふるさとの方(かた)に流るる雲一つ窓ゆ見をれば胸迫りくも      瀬山 忠幸

 さらさらと光り流るる砂のごと我を過ぎゆくこの秋の日々      冬至 堅太郎

 午後三時の庭はかげりて晩秋の日はたちまちに逝かむとすらむ      故井上勝太郎

 友逝きて死は我が身にも近づきぬ日脚短き晩秋のころ      星野 多喜雄
                              (上海)
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