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疎開児童から21世紀への伝言

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/26 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦史と疎開問題研究会の感慨

 元木恒雄(青木校)

 今は昔、小学校の三年生頃だったと思うが、当時日本は支那(中国)と戦っていた。満州国を独立させ、石炭、大豆、麦などを輸入していたように思う。当地では南満州鉄道が輸送手段としての役割を担い、その保守が大変なようだった。

 いずれにしても、仏印(ベトナム)、ジャワ、スマトラにも日本に必要な物資があり、それを求めての進出で武力衝突が各所で起きていた。その日本の行動が先進欧米諸国の利害と対立し、やがて日本に対して経済封鎖をすることになった。

 経済封鎖とは、コメ、麦、大豆、砂糖、石炭、石油、鉄、銅、アルミ、その他の必要物資を日本に輸出しないことである。日本の生活を苦しめ、軍事力を締小させる手段を行った。

 そこで私たちが小学校に在学中の昭和十六年十二月八日(米国七日)に対米英中蘭(ABCD)四か国に対し宣戦布告し、戦闘状態に入った。そしてハワイを奇襲し、マレー半島を攻撃し、開戦時の勢いは優位だったが、経済力、生産力、軍事力ほかさまざまな点で劣っていた日本は次第に勢いを失いつつあった。

 優勢だった軍事力も中国、ビルマ、フィリピン、太平洋の諸島に張り付けられた。軍事補強もできずにいる間、米国は北のアリューシャン列島のアツツ島キスか島を初め、太平洋のサイパン、日本本土に近い硫黄島などを攻略し、直接日本国土を爆撃できるようになってきた。

 そこで昭和十九年には、少国民を戦火にさらさないようにと都会地から地方へ送り防御するため、小学三~六年生を地方の縁故を頼って疎開させた。しかし私自身がそうであるように地方に身寄りのない児童は集団で地方へ送って集団生活させ戦火から守ることにした。その後、日本の各都市は次々に空襲を受け焼失、各地で多大な被害があった。二十年五月二十九日には横浜大空襲で大被害を受け、八月十五日に日本は連合国に無条件降伏した。

 それから五十年。各自各様に生きている人たちが集まって、疎開問題について話し合い、過ぎし日を思い出そうという、ゆりはじめさん、小柴さんたちのお誘いがあった。最初は十名くらいの出席かと思い、横浜駅西口から歩いて五分くらいの拙事務所の応接室なら、ゆったりと話し合えるだろうと気楽にお引き受けした。ところが、当日は二十名を超える方々がご参集くださり、参加者は立ったままの迷惑スタートで申し訳なく思った。その後は、開港記念会館、野毛の図書館ほかで準備会が開かれ、役員も選出され、事業も分科小記念事業、記念展示、記念誌の発行などに分かれ、各分科会の責任者を中心に企画されていった。当初は予算のことも考えずに利己的な事業に走り出しそうになったりもした。責任者が委員を協力者ではなく部下のように扱って、無理が生じるおそれもあった。とにかく、原資がゼロからの出発なので、少ない予算で計画しなければならず、大変なスタートになった。

 横浜市の学童疎開なので、市にお願いして予算を頂戴するのに最高責任者の方々は大変な努力をされたし、各学校からの役員も参加者、協力者の確保に努力していただいた。小生自身、幸いにも学区域内に住んでいるので、同期会や当時の教頭先生、教員、疎開先でお世話になった寮母さんとも文通していたりしたので、当時の思い出を座談会方式で行うことができた。小生の下手な進行係だったが、島津教頭先生から「楽しかった、ご苦労さま。」と言われたことを今も思い出す。平成二十年の今日現在、他界された方は七名で、先生たちの一人一人が目に浮かんでくる。

   参考 Aアメリカ、Bイギリス (ブリテン)、C中国(チャイナ)、Dオランダ
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/28 7:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争への思い
 ー日中戦争で父を亡くしてー

 佐藤輝子(戸部校)

 「疎開問題研究会」主催の学童疎開展が、先の平成十二年三月、県立地球市民かながわプラザで開催されていることを知り、「もしかしたら幼なじみに会えるかもしれない」、そんな気持ちで出かけた。

 私達が小学一年の十二月八日、太平洋戦争が始まり、戦争のことは常に頭の中に残っている。昭和十九年、四年生の時、学童疎開をすることになった。一学期の終了式が終わり、教室に入ると、涙が出てきて泣きながら友達と別れた。昭和二十年五月二十九日の「横浜大空襲」で家が焼けてしまい、戦争が終わっても私は、通学していた戸部小学校には戻れなかった。以来、当時の級友に誰一人会えなかったことを残念に思っている。

 私達が横浜を離れる前に疎開する児童のために、戸部町六丁目のお風呂屋さんで、町内会のお母さん方が母もまじえて壮行会を開いてくれた。その様子がアルバムに残っていたので、思い出になれば、と思い持って行った。

 当時を振り返りながら展示品を眺めていると、会員の方が会場にいらしたので、話を聞くことができた。私も戦争を体験して、平和の重みをつくづくと感じていたので、できる範囲でお手伝いをしたいと思い、気持ちを話した。以後、「疎開問題研究会」の会報やイベントの記事が載っている新聞のコピーなどを、その会員の方から送っていただいている。私が小学校へ入学する前に、日中戦争で父はすでに戦死していた。三歳の時に別れているので、顔はほとんど覚えていない。父の遺品である古い手帖が私の手元にあり、読んでいると、第一線に赴く当時の父の決意が見えて、私まで実に無念な気持ちになる。その中から二、三書き写してみたいと思う。
 昭和十二年七月、日中戦争が起こり、父は九月に出征した。


 父の手記より

 昭和十二年九月二十九日 船中瀬戸内海通過、下関沖合にて七艦集合 上海行の命令下る
 同夜より玄界灘にかかる。月明るい。動揺やや大なれど、大した畏れなし。

 出陣

 天に代りて不義を討つ
 忠勇無双の我が兵は
 歓呼の声に送られて
 今ぞ出でたつ父母の国
 勝たずば生きて還らじと
 誓う心の勇ましさ

 斥候

 或いは草に伏しかくれ
 或いは火に跳び入って
 万死恐れず敵情を
 視察し帰る斥候兵
 肩にかかれる一軍の
 安危や如何に重からん


 昭和十三年八月二十八日 雨

 中隊は昨夜のうちに出発。西方高地を上進、途中の小屋に二洞。大部分は岩蔭に身を隠してまどろむ。朝、第「小隊到着。九合目まで前進。西方高地及び部落より、銃弾しきりにくる。小松原軍曹は、中隊の先頭に立ちて進む。大岩石の下に来るや突然左方の部落より散弾来り。軍曹は膝姿にて敵に向かいて、二、三弾を発射し、敵の倒れるを見て、「手応えがあったぞ」と叫びたり。その時一弾飛び来り、軍曹の下腹部を貫きたり。鳴呼、軍曹殿は一言も発することなく、名誉の戦死を遂げられたり。日本帝国軍人として、又、男子の最期として、これより花花しき最期はなし。


 中支那国江西省東孤嶺に於て戦死す

 遺留品 三十五円二十三銭

 持っていた手帖に、戦友の方が書き残してくれた父の最期の様子である。「遺骨と一緒に遺留品として届いた」と、母から聞いている。どんなにか悲しく無念であったことだろう。

 母は亡くなるまで枕元に置いて、時折広げては、遠い中国の空を思い浮かべているようであった。

 私は四歳、弟八か月、母は三十歳であった。遺骨が帰ってきた時、私は白い着物を着せられ、母に手を引かれて戸部の大通りを、お葬式の列の中に入って歩いたことを、おぼろげに記憶している。
 敵地に突撃し、立派に戦って死んでいくことが軍人の名誉であると教育されていた時代であった。内地にいた大人も子どもも皆、「欲しがりません勝つまでは」の心で我慢を強いられ、戦争一色の中で精一杯生きてきた。

 情報にあふれ、品物も食べ物も豊富に揃っている現代の豊かな生活の中では、想像できないことだと思う。
 「戦地では、飲み水もなかったでしょう」と、毎朝仏壇に水を供えていた母の姿を思い出す。
 弟が生まれる前に出征し、互いに会うこともなく戦死した父。戦争は本当に悲惨である。
 日本は今、平和が続いているが、いまだに世界のどこかでは争いが絶えない。尊い命が失われている事実に胸が痛む。

 「戦争で犠牲になった人が一番可哀想ね」と母はよく話していた。
 横浜大空襲で家が焼けてから、横浜線長津田駅から大山街道沿いに徒歩で約一時間かかる祖父の田舎に「再疎開」した。現在は田園都市線が開通していて、昔の面影など全くないが、当時は針葉樹の森や、雑木林が続く寂しい田舎道であった。私は縁故疎開先だった鎌倉の叔父の家から連れ戻されたが、農村の生活が初めてだったので、環境の違いにしばらく戸惑った。畠を借りて、家族で慣れない野菜作りをしたり、農繁期には小学校も休みになったので、農家の稲刈りや脱穀の手伝いをして、作物を収穫する喜びを感じることができた。大人と一緒に、子ども達もよく働いた。疎開先の二年上だったお姉さんと一緒に篭を背負っては、山の落葉や枯枝を集めてきて竃で燃やして燃料に使った。貧しい生活であったが、皆助け合って暮らした。

 母は農協に勤めて、戦後の混乱期を乗り切り、私と弟を育ててくれた。

 もし父が生きていてくれたらと、私は何度思ったことだろうか。母も心休まる日々を過ごせたであろう。
 幼い頃、友達と駆け回って遊んだ戸部の中通りから掃部山公園、原っぱでの虫捕り。皆、懐かしく思い出される光景である。

 戦争のない人類の平和が、永久に続きますようにと祈るのみである。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/31 8:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 友との絆

 福原弘子 (西前校)

 平成二十年八月十一日、今年も西前小学校赤組の八人が、戸部の藍屋に集まりました。今年は猛暑なのでご連絡だけと思いましたが、皆さんお元気でぜひ集まりたいとのことでした。

 いつの頃からか、疎開問題研究会の展示発表会が伊勢佐木町の有隣堂で行われるようになってから、毎年八月十五日前後の一日、旧交を温めるのが慣習となりました。千葉県の野田からいさんでいらっしゃる方、転居先の三崎の「エデンの園」からはるばる出席の方、それに地元横浜の友人、会えば昨日の続きのように話が弾み、本当に兄弟姉妹のように分かり合えるうれしい仲間です。亡くなった方、健康上の理由で欠席の方、だんだん淋しくはなりましたけれど、とにかく昔の小学生は今も強い絆でつながり、それぞれにしっかりしたものを持っている気がします。

 藍屋での昼食が終わってから有隣堂の催しに参加、きちんと企画された展示と活動にいつも思いを新たにいたします。

 今年は松坂屋(旧・野沢屋)が閉店になるということで、三階の喫茶室で別れを惜しみ、おのおの記念品を求めてから散会しました。今この平和な時代に生きていて、命の大切さ、物があふれている豊かさなど、いろいろ感じる日々ではありますけれど、最近ではエコ、リサイクル、地球間題などが叫ばれてくると、本当に振り返ることの大切さをつくづく思います。

 中学・高校の頃は物がなくて、裏の白い紙を集めては綴じ、黒鉛筆でスペルの練習をした上にまた赤鉛筆で書き尽くすことなど当たり前で、わびしいとも思わずに乗り越えてきました。
 
 今は夜はゆっくりと布団の中で「ラジオ深夜便」を聞きながら眠ることができ、ありがたい限りです。これからも一日一日を感謝の気持ちで生きて、さらなる友情を深めていきたいと思います。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/3 8:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ジオラマ始末記

 山添孝子(保土ヶ谷校)

 戦争の悲惨さはそれぞれに伝えられているが集団疎開という特異な経験は昭和十九年当時小学三、四、五、六年生のみのことである。

 私共 横浜の疎開経験者の集まり 疎開問題研究会では この貴重な体験を後世に伝へたいと 集団疎開五十周年を期に 色々な運動を行ってきた。

 始めの何年かは 皆でアイデアを考えては何とか続けてきたが 十年を過ぎると 何となく同じ事の繰り返しになってしまう。

 平成十六年の展示会では 江戸東京博物館で 江戸時代の日本橋の様子を目にした磯貝さんのアイデアで 学童疎開をジオラマで再現したらどうだろうという事になった。先の事はあまり考えなかった私共にとって これは結構大変な事ではないかと気が付いたのは 出発から敗戦 帰宅迄の場面が 幾つかになり この大きなものを作る場所を先ず探さなければならない事だった。これは幸い 岡本さんの尽力で三ッ沢の今井さんが好意的に作業場を貸して下さった。ただし条件は八月末迄との事。

 それからの約半年我々の三ッ沢通いが始まった。先ず設計は岡本さん それにそって材料の調達が始まった。と言っても買うものは最低限 ほとんどのものが持ち寄りばかり 先ず人形は紙粘土 洋服 植木薬草等は懐紙を絵の具で染める。これは女性たちに未使用の懐紙、勿論古くなったのでもなんでも持ってきてもらった。松 杉等の葉は染めた紙を十五センチに切って針金を張り言リの切り込みを入れる。これがとても根気のいる仕事。安田さん大類さん大石さん藤原さん井関さん小堀さん磯貝さん他 それでも間に合わなくて木村氏渡辺氏他にも応援を頼んだと思う。欅 銀杏等は葉の形を一枚ずつ切った。洋服は上着 ズボン スカート それに帽子 日傘 めがね それぞれ場面に合わせて様子がわかってくると多勢集まればなんとやら で思いがけないもので色々なものが出来た。はじめは人形がなかなか上手に出来ない。しかし失敗したからと壊してしまうのは可哀想という事で 出発風景の電車の中にみな乗せてあげた。縁故疎開の場面では勉強部屋がたりないと設計図には無い部屋がいつのまにか増築され 設計者の岡本氏が目をパチクリ 神棚も出来たし 玄関には出征兵士の家という張り紙が張られていた。ドイツ兵のパーティでは小堀さんの作ったアコーデオンやギターが光っていた。ドイツ兵やローストビーフは磯貝さん 素敵な椅子は青木氏 外は雪 箱根はそんなに雪は降らない いやあの時は大雪だった で雪の量が増えたり減ったり。柿の木には烏が止まり お寺の墓には卒塔婆がちゃんとある これもなんと青木氏の労作。疎開先の勉強 入浴 面会 家出等の各風景 次から次へと当時を思い浮かべてアイデアも積み重なっていく。焼け跡のトタンは木村氏 これは誰もが本物そっくりと感心した。山や庭の土はコーヒーかす 我々だけでは足りなくて 作業場近くの喫茶店に頼んで集めた。使用済みの発泡スチロールやダンボール ストロー 割り箸一回分のコーヒーミルクの入れ物等 欲しがりません勝つまでは の時代に育った我々は何かを何とか利用することは得意なのかもしれない。

 仕事場はまるでゴミ置き場になった。小柴 武石 野本各氏の差し入れは疲れ果てた作業場の雰囲気を何とも和ませてくれた。

 展示会は好評で無事終了。ところが次の難題が控えていた。八月中に作業場を空けなければならない。一メートル×二メートルくらいの十場面のジオラマの保管先を探すことだ。出来れば横浜か せめて神奈川県内という事で探し回った。一箇所預かってくれるところがあったが倉庫に保管するだけとの事だった。致し方なく我々でお別れ会をして後全部壊してしまおうと そんな相談まで始めたときだった。偶々東京九段から展示会を見に来て下さった昭和館学芸員の渡辺さんのお骨折りで全場面引き取って下さる事になった。この交渉をしたのは青木さんと私 昭和館へお願いに行き OKの返事を貰い まして全場面を一度には無理だが常設展示したいとの言葉にすっかり嬉しくなり帰りに二人だけでコーヒーで乾杯をしたのを思い出す。

 それからが又一仕事有った。場面の大小を均等にして昭和館で展示しやすいように直すのは 岡本 木村 田中他各氏 それに磯貝さん 私他都合のつく何人かでほとんど連日九段通いが続いた。

 今でも時折 あのジオラマが横浜にあったらとの声をきくことがあるが あの切羽詰ったときを思うと 四年たった今でも 立派な専用ケースを作り一場面ずつ順番に 入り口のところに常設展示をして 大事に保管してくださっている昭和館に心から感謝し幸せをかみしめている。
 
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・1

 関口昌弘 (西潮田校)


 学童疎開当時に地元「大蔵野」でお世話になった山崎俊雄、大野和雄の両氏とは、疎開が終わって以後、長い空白はあったが、今でも旧交を温め、お付合い願っている。ある日、大野さんが退院した旨の報を受けて、この春、私は数年ぶりにこの地を訪れ、すっかり元気を取り戻した大野氏と、山崎氏とお互い再会を喜び合った。

 ここ大蔵野部落は、後背地の大野山に通ずる切り立った急斜面の中腹に立地し、村役場前の清水橋を渡った辺りから標高差一〇〇米余りの急峻な坂道を、徒歩でジグザクに登った所に集落がある。この急勾配の道は、かつて学童達の通学路でもあり、また合宿所用に配給された米麦を、学童鞄に詰めて合宿児が、自ら運んだ道でもある。大荷物の運搬には、馬の両腹に南京袋を括りつけ、鞭打って登っていく姿を見ることがあった。今は岩肌の所々に苔が生え、通る人はあまりないようだ。

 大蔵野という所 部落の立地は西向きの斜面でまた地形的にも水利に難があって、農業を営むにはかなり不利条件を抱えていた。三十四戸の農家は、養蚕と林業、お茶の栽培が中心で、当時の田圃は猫の額ほど、僅かな収量の米も陸稲が多く、自家用米さえ確保するのが、やっとという状態であった。

 清水村当局は、西潮田国民学校の疎開児二三〇名の受け入れを、「各戸分宿」を基本原則とするも、大蔵野の諸々の事情を考慮して、例外的に三十名を合宿所生活による「集団疎開」とする決定をした。このように村には、他に例を見ない二つの受入形態で、疎開児を預かるという経緯があった。大蔵野は、疎開児のために養蚕所を改造して、「合宿所」として提供した。私と二歳年下の姪(三年生)は、この合宿所に三~六年生までの仲間と共に収容され、疎開児たちの 「合宿生活」が始まった。

 昔、合宿所のあった場所は、近代的な設備を誇る製茶工場に生まれ変わっていた。前方には、こんもりした峰山の部落が、昔と少しも変らない姿で間近に見える。その後背地の富士山は、天にまで広がるような雄大なパノラマ写真を見るようだ。冠雪した頂上から、雪のスロープを下る七合目付近に宝永山を抱え、南方向に青く長い裾を広げている。早朝、金色に輝く富士山を毎日遥拝していた六十数年前、ここで過ごしたことが、昨日までの出来事のごとく、走馬灯のように次々と建ってくる。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/9 7:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・2

 関口昌弘 (西潮田校)


 合宿所での生活のこと

 この地で、銃後を守る軍国少年を意識し、僅か一年間ばかりの生活だったが、色々なことが次々と起り、とても長く感じられるような集団疎開生活だった。合宿所内に風呂もなく、三日に一度、常会長の山崎佐久さん宅へ貰い風呂に行った。着た切り雀、毎日蚤や虱などの吸血鬼に苛まれ、粗悪で少ない食事量、常に飢えを感じる、辛い収容所のような生活だった。

 そんな環境の中で、私たちは、村の子供の中に早くも溶け込み、村の子と親しくなり喧嘩したことなど一度もなかった。この地元で、私より二歳年長のリーダー格の大野和雄さんに、理科の勉強のこと、また山遊びに使う罠や道具作りなども教わった。体の大きい五、六年生には空腹が堪え切れなかった。少しでもお腹の隙間を満たすため、お駄賃のおやつを期待して、農家へ手伝いに行くのが常だったが、農作業の仕事が毎日あるわけではない。そんなとき、村の子に教わって、川に入り魚や蟹を獲ったり、山に入っては百合根、蜂の子や蛇に至るまで、自慢の肥後守を使って毒にならないものなら何でも食べ、僅かでも飢えをしのいだ。

 街で生まれ、街中しか知らなかった都会っ子の私たちも、いつしか野山を飛び回る猿のような山の子になっていた。

 また農作業の手伝いに行った先の農家の人は皆やさしく、疎開児たちの心の支えでもあった。そこのお婆さんから、わら草履の作り方を教わり、稲わらを叩いて見よう見真似で、どうにか自分でもわら草履が作れるようになったが、鼻緒だけはお婆さんに布きれで付けてもらった。また地元の池谷先生(女性)から、六年生になったばかりの哀れな悪戯小僧たちに、魚を突く「ヤス」をプレゼントされ、自慢の肥後守と共に、私にとって貴重な宝モノになった。

 ここで暮らした一年、いろんなことがあったが、私にとって第二の故郷のように思える。

 ●当時の夏を回想しての拙句

 =疎開の子 ほうほうほたる 母の声=
 =ふるさとの 山河を映す 水眼鏡=
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/11 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・3

 関口昌弘 (西潮田校)


 知られざる存在

 疎開児受け人前の清水村の人口は、二〇〇〇人に満たなかったが、翌二十年度には二五四四人に急増した。

 西潮田校の職員と疎開児の人員増を、大きく超える増加であり、その増加数は三二〇人以上の転籍があったことになる。一体どんな人が増えたのか。戦局が混迷を深めるなか、飛行機に使う燃料の不足をきたし、特攻機も飛べなくなるほどだったという。それを補完するための窮余の一策として、松根油生産の大号令がかかり、「陸軍松根油部隊」が編成され、各地に部隊が配属された。清水村にも軍人・軍属が駐屯し、学徒動員の学生らが加わって、「松根油乾留」作業のため、多くの人が集団で移住してきたのだと思われる。

 松根油乾留の作業は、多くの人力を要し一連の作業は、大変な重労働だったと言われ、その作業のためには大量の米が必要だが、絶対量が足りない。その不足を補うために、軍の関与による合宿児に配給用の米を、転用したふしが見られた。ラフな米の減量と引き換えに、軍馬に給餌する馬糧用の高梁、粒々の硬い小麦等と大豆粕、軍用の硬干し沢庵等にすり替え、僅かな米の増量材として合宿児に供給された。子供にとって粗悪な材料の混ぜご飯ばかりでは消化し切れず、合宿児たちは、しばしば下痢に悩まされていた。

 そこは静岡県との県境にも近い神奈川県のどん詰り、その先は獣が跋扈する秘境であり、大人のエゴで何をやっても、中央には分からない。合宿児たちは、この秘境の狭間に押し込められたような弱い、無力な存在であった。粗悪な食事、不潔な住環境、逃げ場のない内部のイジメ等々、運命を分けた合宿児と各戸分宿児とは、どれをとってもその処遇には、天と地ほどの違いを感じ、大人たちへの不信感を日ごとに深めていった。疎開後の調査は、当時の各戸分宿児の生活は概ね良好との評で総括したが、それと裏腹に合宿児は他のどこの集団疎開よりも、酷いものがあったことも追記しなければならない。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・4

 関口昌弘 (西潮田校)


 忘れがたい思い出

 私にとって、忘れがたい出来事があった。仲間と共に学校帰りに近道を通ろうとして、小さな滝を登りかけたが失敗し、五~六米位下の岩場に転落し、左足を骨折してしまった。自力では動くこともできず、駆けつけた先生に背負われて、合宿所で介護を受け、足はボンボンに腫れ上がり熱を出し、日夜伸吟した。翌日、地元の大野先生(大野和雄氏の姉上)に背負われて、長い道のりを歩き、バスに乗り電車を乗り継いで、小田原の外科病院まで連れて行って頂いた。ギプスを付けられて一日がかりで帰り着いた。その後も松葉杖を突きながら、先生の付き添いで小田原まで通院した。元の足に回復するまで一ケ月余りかかり、悪戯が過ぎての痛い代償であった。格別のご負担をおかけした大野先生には、今でも感謝の気持は少しも変わらない。


 再疎開のため帰宅

 疎開して二年目を迎えようとする七月、父のつてで新潟に再疎開するために、母と姉が私たちを引き取りに来た。家は四月に空襲ですでに焼け落ち、祖母と従妹達が死んだこと知り情然とした。鶴見に着いて焼け残った東寺尾の仮屋にいったん落ち着いたが、その周辺も爆弾投下による、すり鉢状の大穴と瓦礫の山だった。その夜、遠くでサイレンの鳴り響くのが聞こえ、爆音の急接近とともに、遠くで焼夷弾が落下、東の空が茜色に染まっていた。探照灯が上空を走り回っており、敵か味方か飛行機の尾翼が火を噴き、遠くに落ちていくのが見えた。私が見た戦火は、この空襲時の一シーンだけだった。

 翌日、姉の家族と共に上野から新潟行きの列車に乗り込んだが、その前日に、同系統の列車が新潟に向って走る途中、グラマン戦闘機による機銃掃射を浴び、多数の死傷者が出たとの報道があったので、この日もいつ襲われるか分からず、目的地に着くまで、不安でならなかった。幸いにして、その日は列車に向けての攻撃はなく、無事に新潟に着いて、農家の納屋を改造した一隅に、落ち着いてほっとした。しかし、ここに落ち着いてつかの間、半月余りしか経たずして、八月十五日の玉音放送を聴き、日本が無条件降伏したこと知ったが、日本が負けたんだという実感が湧いてこなかった。新潟での生活は、ほんの僅かな期間でしかなかったので、ここでは、銀シャリを初めて口にした位しか、思い出に残るものはなかった。

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 最近思うこと

 去る十一月一日、田母神航空幕僚長(空幕長)が更迭されたと新聞各紙が報じ、翌二日に前空幕長の論文が公表され、その論旨を読んで驚いた。制服組トップだった前空幕長が公然と政府に異を唱え、文民統制の危機を浮き彫りにした。戦後の昭和二十三年生まれ、戦争の悲惨さを知らない前空幕長が、旧日本軍の侵略を正当化し、旧軍を美化して戦争を語るのは、倣慢の誇りを免れない。戦後日本が過去の無謀な戦争を否定し、民主国家をめざして長年の努力で、積み重ねてきた信頼を大きく損なうものである。因みに私の義兄は、昭和十三年生れで、私より若いが防衛大学五期生で海将だった。その頃まで自衛隊幹部の殆どが、過去の戦争責任の反省の上に、旧軍の独善的精神主義を排するという気風が強かったと聞く。

 その限りで、私たち市民レベルと同じ考えに立っていた。前空幕長は防衛大十五期生であるが、発足当初の基本精神を忘れ、言論の自由を履き違いしている。このような輩を選んだ、任命者の責任が問われる。ましてや前空幕長の論文は、疎開派の運動にも、いきなり頭に冷水を浴びせ掛けるようなショッキングな内容だが、所詮は自分の主張を正当化するため、自分に都合のよい記述だけ、文献をつまみ食いしたお粗末な作文に過ぎない。しかし更迭に至っても、内部で彼の権力行使に服した多くの部下の存在も無視できない。前空幕長は、自らの置かれた立場をどのように認識していたのだろうか。また今後も、海外派遣と係わりを増すことを視野に、制度の根幹と、組織のあり方を問われるべきだと思う。


  疎開問題研究会に参加して

 私は疎開中に、横浜と東京で祖母たち肉親を亡くしたが、幸いにも、諸先輩のような、敵機の攻撃に怯え、沢山の犠牲者を真の当りにするなど、戦火を潜り抜けてきたというような恐ろしい赤裸々な体験がない。足柄上郡では、敵機が七回も襲来したと聞いていたが、最奥の清水村には一度も飛来しなかったのに、実際の空襲の恐ろしさを実感したのは、前記の新潟へ再疎開のため、横浜に一時引揚げた時の夜だけだった。悲惨な戦争を体験した人や学童疎開体験をした諸先輩と仲間が、年々少なくなっている現在、学童疎開という言葉も、今に死語になるのではと憂慮される。私たち疎開派は、戦時の体制に身を置き、少年時代を過ごしてきた事実と仲間の多くが経験した貴重な体験を語り続け、過去の不幸を二度と繰り返さないよう、私も微力ながらも、色々な機会を得て、次の世代に伝えていかなければならないと思っている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/17 9:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開残留組の全体像
 宮原昭夫(青木校)

 群盲象を撫でるという喩えがありますが、群盲の一人である私が、自分の体験の中で作り上げていた「残留組」 のイメージと実際の全体像との間にはかなりのギャップがあるようだと気がついたのは、『横浜市の学童疎開』に目を通してからでした。
 私個人は、一九四四年九月から一九四五年三月まで、横浜市立青木国民学校の六年生として残留組生活を送りました。

 私の記憶の中では、我々のクラスは、全学年合わせて十人余りの合併授業で、一階の端の、確か職員室の隣の教室の、廊下からは反対側の窓際に二人用の机を一列並べただけで全員着席できました。余った机や椅子は運び出されて倉庫へ仕舞い込まれ、窓際の一列の机以外は教室の中には広い床が広がっているだけでした。他の教室は一階も二階も全部閉鎖されたままで、校庭から見上げると、コの字形に取り巻く校舎のぴったりと閉ざされたままの窓ガラスの、そのガラスの一枚一枚に細い白紙が何枚も縦横に貼り渡されていました。校庭も、十人余りの子ども達には余りにも広すぎ、どこで遊んだらいいのか戸惑う思いでした。
 横浜の疎開残留組はどこの学校でも我々の場合と同じようなものだと、私は永年思い込んでいたのです。

 ところが、前記の『横浜市の学童疎開』に載っている大岡国民学校の宮崎幸子さんの文によると「……残留組として各学年に一組ずつ残りました」とあり、また太田校の安斉歌子さんによると残留組は「五、六年男女で一クラス、… 三、四年男女で一クラス、……疎開予備軍の一、二年生……」とあります。一本松校の余語恵美子さんは「授業は五、六年の男女合わせて二十名位が一クラスとなり……」と記しておられます。
 また、根岸校の堤賢一即さんの文には「……一クラスしかない母校の残留組……男児二四人、女児二九人の男女組だった」とあります。
 どうも、私の学校の残留組は、むしろ例外的なほど人数が少なかったのではないか、私は遅まきながら気づいたのです。

 改めて前記の本を参照しましたら、その第一部の「学童疎開関係資料」の中に、こんな数字がありました。
 朝日新聞によると、昭和十九年夏の疎開該当学童数は六万七六六四人で、そのうち、
 縁故疎開……三万四八九六人(約五十二%)
 集団疎開……二万五三五三人(約三七%)
 疎開残留…………七四一五人(約十一%)

 残留組が十一%といえば、全学童の十人に一人以上は残留組だっ たということになります。そんなに残留組が多かったとは思いもかけないことでした。私の在学した青木校はひと口に全校児童が千人といわれていましたので、この比率なら、残留組が百人いても不思議ではなかったはずです。それが実際には十人余りにとどまったというのは、かなり特殊な例だったのではないでしょうか。

 付記すれば、この本の巻頭の写真資料の中に「極めて珍しい残留組の記念写真」というキャプション付きの写真(五十名近い男女学童が並び、その中には私も写っています)は、青木校の残留組にはこんなに大勢はいませんでした。疎開した友人に確かめたところ、写真には集団疎開したはずの級友の顔が何人も認められるとのことです。これは、青木校の昭和二十年卒業生の記念写真のはずです。当時卒業時には縁故疎開の学童達は戻らなかったので、卒業写真は集団疎開から帰ってきたメンバーと残留組だけでした。

 他にも、初めて知った事実がいくつかあります。
 私達は昭和二十年三月に卒業してしまったので、その後の残留組のことは知らなかったのですが、間門校の天野洋一さんの文に「……昭和二十年二月。……残留組に入った。しかし戦争が激しくなり、空襲にたびたび見舞われるようになったので授業どころではなく、三月の学期末を以って学校は閉鎖されてしまった。/私は登校しないまま四年生になった」と記されてあったので、我々の卒業後、残留組そのものがなくなってしまったらしいと初めて知りました。それとも、間門校以外ではその後も残留組は続いていたのでしょうか? しかし、中学生になった私達さえ、毎日の空襲警報で授業どころではなかったあの日々を思い起こすと、残留組が続いたとはとうてい思えません。
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