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疎開児童から21世紀への伝言 35

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 35

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/6 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・1

 関口昌弘 (西潮田校)


 学童疎開当時に地元「大蔵野」でお世話になった山崎俊雄、大野和雄の両氏とは、疎開が終わって以後、長い空白はあったが、今でも旧交を温め、お付合い願っている。ある日、大野さんが退院した旨の報を受けて、この春、私は数年ぶりにこの地を訪れ、すっかり元気を取り戻した大野氏と、山崎氏とお互い再会を喜び合った。

 ここ大蔵野部落は、後背地の大野山に通ずる切り立った急斜面の中腹に立地し、村役場前の清水橋を渡った辺りから標高差一〇〇米余りの急峻な坂道を、徒歩でジグザクに登った所に集落がある。この急勾配の道は、かつて学童達の通学路でもあり、また合宿所用に配給された米麦を、学童鞄に詰めて合宿児が、自ら運んだ道でもある。大荷物の運搬には、馬の両腹に南京袋を括りつけ、鞭打って登っていく姿を見ることがあった。今は岩肌の所々に苔が生え、通る人はあまりないようだ。

 大蔵野という所 部落の立地は西向きの斜面でまた地形的にも水利に難があって、農業を営むにはかなり不利条件を抱えていた。三十四戸の農家は、養蚕と林業、お茶の栽培が中心で、当時の田圃は猫の額ほど、僅かな収量の米も陸稲が多く、自家用米さえ確保するのが、やっとという状態であった。

 清水村当局は、西潮田国民学校の疎開児二三〇名の受け入れを、「各戸分宿」を基本原則とするも、大蔵野の諸々の事情を考慮して、例外的に三十名を合宿所生活による「集団疎開」とする決定をした。このように村には、他に例を見ない二つの受入形態で、疎開児を預かるという経緯があった。大蔵野は、疎開児のために養蚕所を改造して、「合宿所」として提供した。私と二歳年下の姪(三年生)は、この合宿所に三~六年生までの仲間と共に収容され、疎開児たちの 「合宿生活」が始まった。

 昔、合宿所のあった場所は、近代的な設備を誇る製茶工場に生まれ変わっていた。前方には、こんもりした峰山の部落が、昔と少しも変らない姿で間近に見える。その後背地の富士山は、天にまで広がるような雄大なパノラマ写真を見るようだ。冠雪した頂上から、雪のスロープを下る七合目付近に宝永山を抱え、南方向に青く長い裾を広げている。早朝、金色に輝く富士山を毎日遥拝していた六十数年前、ここで過ごしたことが、昨日までの出来事のごとく、走馬灯のように次々と建ってくる。

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