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疎開児童から21世紀への伝言 31

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 31

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/7/26 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦史と疎開問題研究会の感慨

 元木恒雄(青木校)

 今は昔、小学校の三年生頃だったと思うが、当時日本は支那(中国)と戦っていた。満州国を独立させ、石炭、大豆、麦などを輸入していたように思う。当地では南満州鉄道が輸送手段としての役割を担い、その保守が大変なようだった。

 いずれにしても、仏印(ベトナム)、ジャワ、スマトラにも日本に必要な物資があり、それを求めての進出で武力衝突が各所で起きていた。その日本の行動が先進欧米諸国の利害と対立し、やがて日本に対して経済封鎖をすることになった。

 経済封鎖とは、コメ、麦、大豆、砂糖、石炭、石油、鉄、銅、アルミ、その他の必要物資を日本に輸出しないことである。日本の生活を苦しめ、軍事力を締小させる手段を行った。

 そこで私たちが小学校に在学中の昭和十六年十二月八日(米国七日)に対米英中蘭(ABCD)四か国に対し宣戦布告し、戦闘状態に入った。そしてハワイを奇襲し、マレー半島を攻撃し、開戦時の勢いは優位だったが、経済力、生産力、軍事力ほかさまざまな点で劣っていた日本は次第に勢いを失いつつあった。

 優勢だった軍事力も中国、ビルマ、フィリピン、太平洋の諸島に張り付けられた。軍事補強もできずにいる間、米国は北のアリューシャン列島のアツツ島キスか島を初め、太平洋のサイパン、日本本土に近い硫黄島などを攻略し、直接日本国土を爆撃できるようになってきた。

 そこで昭和十九年には、少国民を戦火にさらさないようにと都会地から地方へ送り防御するため、小学三~六年生を地方の縁故を頼って疎開させた。しかし私自身がそうであるように地方に身寄りのない児童は集団で地方へ送って集団生活させ戦火から守ることにした。その後、日本の各都市は次々に空襲を受け焼失、各地で多大な被害があった。二十年五月二十九日には横浜大空襲で大被害を受け、八月十五日に日本は連合国に無条件降伏した。

 それから五十年。各自各様に生きている人たちが集まって、疎開問題について話し合い、過ぎし日を思い出そうという、ゆりはじめさん、小柴さんたちのお誘いがあった。最初は十名くらいの出席かと思い、横浜駅西口から歩いて五分くらいの拙事務所の応接室なら、ゆったりと話し合えるだろうと気楽にお引き受けした。ところが、当日は二十名を超える方々がご参集くださり、参加者は立ったままの迷惑スタートで申し訳なく思った。その後は、開港記念会館、野毛の図書館ほかで準備会が開かれ、役員も選出され、事業も分科小記念事業、記念展示、記念誌の発行などに分かれ、各分科会の責任者を中心に企画されていった。当初は予算のことも考えずに利己的な事業に走り出しそうになったりもした。責任者が委員を協力者ではなく部下のように扱って、無理が生じるおそれもあった。とにかく、原資がゼロからの出発なので、少ない予算で計画しなければならず、大変なスタートになった。

 横浜市の学童疎開なので、市にお願いして予算を頂戴するのに最高責任者の方々は大変な努力をされたし、各学校からの役員も参加者、協力者の確保に努力していただいた。小生自身、幸いにも学区域内に住んでいるので、同期会や当時の教頭先生、教員、疎開先でお世話になった寮母さんとも文通していたりしたので、当時の思い出を座談会方式で行うことができた。小生の下手な進行係だったが、島津教頭先生から「楽しかった、ご苦労さま。」と言われたことを今も思い出す。平成二十年の今日現在、他界された方は七名で、先生たちの一人一人が目に浮かんでくる。

   参考 Aアメリカ、Bイギリス (ブリテン)、C中国(チャイナ)、Dオランダ

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