疎開児童から21世紀への伝言 32
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戦争への思い
ー日中戦争で父を亡くしてー
佐藤輝子(戸部校)
「疎開問題研究会」主催の学童疎開展が、先の平成十二年三月、県立地球市民かながわプラザで開催されていることを知り、「もしかしたら幼なじみに会えるかもしれない」、そんな気持ちで出かけた。
私達が小学一年の十二月八日、太平洋戦争が始まり、戦争のことは常に頭の中に残っている。昭和十九年、四年生の時、学童疎開をすることになった。一学期の終了式が終わり、教室に入ると、涙が出てきて泣きながら友達と別れた。昭和二十年五月二十九日の「横浜大空襲」で家が焼けてしまい、戦争が終わっても私は、通学していた戸部小学校には戻れなかった。以来、当時の級友に誰一人会えなかったことを残念に思っている。
私達が横浜を離れる前に疎開する児童のために、戸部町六丁目のお風呂屋さんで、町内会のお母さん方が母もまじえて壮行会を開いてくれた。その様子がアルバムに残っていたので、思い出になれば、と思い持って行った。
当時を振り返りながら展示品を眺めていると、会員の方が会場にいらしたので、話を聞くことができた。私も戦争を体験して、平和の重みをつくづくと感じていたので、できる範囲でお手伝いをしたいと思い、気持ちを話した。以後、「疎開問題研究会」の会報やイベントの記事が載っている新聞のコピーなどを、その会員の方から送っていただいている。私が小学校へ入学する前に、日中戦争で父はすでに戦死していた。三歳の時に別れているので、顔はほとんど覚えていない。父の遺品である古い手帖が私の手元にあり、読んでいると、第一線に赴く当時の父の決意が見えて、私まで実に無念な気持ちになる。その中から二、三書き写してみたいと思う。
昭和十二年七月、日中戦争が起こり、父は九月に出征した。
父の手記より
昭和十二年九月二十九日 船中瀬戸内海通過、下関沖合にて七艦集合 上海行の命令下る
同夜より玄界灘にかかる。月明るい。動揺やや大なれど、大した畏れなし。
出陣
天に代りて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出でたつ父母の国
勝たずば生きて還らじと
誓う心の勇ましさ
斥候
或いは草に伏しかくれ
或いは火に跳び入って
万死恐れず敵情を
視察し帰る斥候兵
肩にかかれる一軍の
安危や如何に重からん
昭和十三年八月二十八日 雨
中隊は昨夜のうちに出発。西方高地を上進、途中の小屋に二洞。大部分は岩蔭に身を隠してまどろむ。朝、第「小隊到着。九合目まで前進。西方高地及び部落より、銃弾しきりにくる。小松原軍曹は、中隊の先頭に立ちて進む。大岩石の下に来るや突然左方の部落より散弾来り。軍曹は膝姿にて敵に向かいて、二、三弾を発射し、敵の倒れるを見て、「手応えがあったぞ」と叫びたり。その時一弾飛び来り、軍曹の下腹部を貫きたり。鳴呼、軍曹殿は一言も発することなく、名誉の戦死を遂げられたり。日本帝国軍人として、又、男子の最期として、これより花花しき最期はなし。
中支那国江西省東孤嶺に於て戦死す
遺留品 三十五円二十三銭
持っていた手帖に、戦友の方が書き残してくれた父の最期の様子である。「遺骨と一緒に遺留品として届いた」と、母から聞いている。どんなにか悲しく無念であったことだろう。
母は亡くなるまで枕元に置いて、時折広げては、遠い中国の空を思い浮かべているようであった。
私は四歳、弟八か月、母は三十歳であった。遺骨が帰ってきた時、私は白い着物を着せられ、母に手を引かれて戸部の大通りを、お葬式の列の中に入って歩いたことを、おぼろげに記憶している。
敵地に突撃し、立派に戦って死んでいくことが軍人の名誉であると教育されていた時代であった。内地にいた大人も子どもも皆、「欲しがりません勝つまでは」の心で我慢を強いられ、戦争一色の中で精一杯生きてきた。
情報にあふれ、品物も食べ物も豊富に揃っている現代の豊かな生活の中では、想像できないことだと思う。
「戦地では、飲み水もなかったでしょう」と、毎朝仏壇に水を供えていた母の姿を思い出す。
弟が生まれる前に出征し、互いに会うこともなく戦死した父。戦争は本当に悲惨である。
日本は今、平和が続いているが、いまだに世界のどこかでは争いが絶えない。尊い命が失われている事実に胸が痛む。
「戦争で犠牲になった人が一番可哀想ね」と母はよく話していた。
横浜大空襲で家が焼けてから、横浜線長津田駅から大山街道沿いに徒歩で約一時間かかる祖父の田舎に「再疎開」した。現在は田園都市線が開通していて、昔の面影など全くないが、当時は針葉樹の森や、雑木林が続く寂しい田舎道であった。私は縁故疎開先だった鎌倉の叔父の家から連れ戻されたが、農村の生活が初めてだったので、環境の違いにしばらく戸惑った。畠を借りて、家族で慣れない野菜作りをしたり、農繁期には小学校も休みになったので、農家の稲刈りや脱穀の手伝いをして、作物を収穫する喜びを感じることができた。大人と一緒に、子ども達もよく働いた。疎開先の二年上だったお姉さんと一緒に篭を背負っては、山の落葉や枯枝を集めてきて竃で燃やして燃料に使った。貧しい生活であったが、皆助け合って暮らした。
母は農協に勤めて、戦後の混乱期を乗り切り、私と弟を育ててくれた。
もし父が生きていてくれたらと、私は何度思ったことだろうか。母も心休まる日々を過ごせたであろう。
幼い頃、友達と駆け回って遊んだ戸部の中通りから掃部山公園、原っぱでの虫捕り。皆、懐かしく思い出される光景である。
戦争のない人類の平和が、永久に続きますようにと祈るのみである。