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疎開児童から21世紀への伝言 40

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 40

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/17 9:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開残留組の全体像
 宮原昭夫(青木校)

 群盲象を撫でるという喩えがありますが、群盲の一人である私が、自分の体験の中で作り上げていた「残留組」 のイメージと実際の全体像との間にはかなりのギャップがあるようだと気がついたのは、『横浜市の学童疎開』に目を通してからでした。
 私個人は、一九四四年九月から一九四五年三月まで、横浜市立青木国民学校の六年生として残留組生活を送りました。

 私の記憶の中では、我々のクラスは、全学年合わせて十人余りの合併授業で、一階の端の、確か職員室の隣の教室の、廊下からは反対側の窓際に二人用の机を一列並べただけで全員着席できました。余った机や椅子は運び出されて倉庫へ仕舞い込まれ、窓際の一列の机以外は教室の中には広い床が広がっているだけでした。他の教室は一階も二階も全部閉鎖されたままで、校庭から見上げると、コの字形に取り巻く校舎のぴったりと閉ざされたままの窓ガラスの、そのガラスの一枚一枚に細い白紙が何枚も縦横に貼り渡されていました。校庭も、十人余りの子ども達には余りにも広すぎ、どこで遊んだらいいのか戸惑う思いでした。
 横浜の疎開残留組はどこの学校でも我々の場合と同じようなものだと、私は永年思い込んでいたのです。

 ところが、前記の『横浜市の学童疎開』に載っている大岡国民学校の宮崎幸子さんの文によると「……残留組として各学年に一組ずつ残りました」とあり、また太田校の安斉歌子さんによると残留組は「五、六年男女で一クラス、… 三、四年男女で一クラス、……疎開予備軍の一、二年生……」とあります。一本松校の余語恵美子さんは「授業は五、六年の男女合わせて二十名位が一クラスとなり……」と記しておられます。
 また、根岸校の堤賢一即さんの文には「……一クラスしかない母校の残留組……男児二四人、女児二九人の男女組だった」とあります。
 どうも、私の学校の残留組は、むしろ例外的なほど人数が少なかったのではないか、私は遅まきながら気づいたのです。

 改めて前記の本を参照しましたら、その第一部の「学童疎開関係資料」の中に、こんな数字がありました。
 朝日新聞によると、昭和十九年夏の疎開該当学童数は六万七六六四人で、そのうち、
 縁故疎開……三万四八九六人(約五十二%)
 集団疎開……二万五三五三人(約三七%)
 疎開残留…………七四一五人(約十一%)

 残留組が十一%といえば、全学童の十人に一人以上は残留組だっ たということになります。そんなに残留組が多かったとは思いもかけないことでした。私の在学した青木校はひと口に全校児童が千人といわれていましたので、この比率なら、残留組が百人いても不思議ではなかったはずです。それが実際には十人余りにとどまったというのは、かなり特殊な例だったのではないでしょうか。

 付記すれば、この本の巻頭の写真資料の中に「極めて珍しい残留組の記念写真」というキャプション付きの写真(五十名近い男女学童が並び、その中には私も写っています)は、青木校の残留組にはこんなに大勢はいませんでした。疎開した友人に確かめたところ、写真には集団疎開したはずの級友の顔が何人も認められるとのことです。これは、青木校の昭和二十年卒業生の記念写真のはずです。当時卒業時には縁故疎開の学童達は戻らなかったので、卒業写真は集団疎開から帰ってきたメンバーと残留組だけでした。

 他にも、初めて知った事実がいくつかあります。
 私達は昭和二十年三月に卒業してしまったので、その後の残留組のことは知らなかったのですが、間門校の天野洋一さんの文に「……昭和二十年二月。……残留組に入った。しかし戦争が激しくなり、空襲にたびたび見舞われるようになったので授業どころではなく、三月の学期末を以って学校は閉鎖されてしまった。/私は登校しないまま四年生になった」と記されてあったので、我々の卒業後、残留組そのものがなくなってしまったらしいと初めて知りました。それとも、間門校以外ではその後も残留組は続いていたのでしょうか? しかし、中学生になった私達さえ、毎日の空襲警報で授業どころではなかったあの日々を思い起こすと、残留組が続いたとはとうてい思えません。

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