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疎開児童から21世紀への伝言 36

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 36

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/9 7:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地での回想と近頃思うこと
    ー疎開地を訪ねて- その・2

 関口昌弘 (西潮田校)


 合宿所での生活のこと

 この地で、銃後を守る軍国少年を意識し、僅か一年間ばかりの生活だったが、色々なことが次々と起り、とても長く感じられるような集団疎開生活だった。合宿所内に風呂もなく、三日に一度、常会長の山崎佐久さん宅へ貰い風呂に行った。着た切り雀、毎日蚤や虱などの吸血鬼に苛まれ、粗悪で少ない食事量、常に飢えを感じる、辛い収容所のような生活だった。

 そんな環境の中で、私たちは、村の子供の中に早くも溶け込み、村の子と親しくなり喧嘩したことなど一度もなかった。この地元で、私より二歳年長のリーダー格の大野和雄さんに、理科の勉強のこと、また山遊びに使う罠や道具作りなども教わった。体の大きい五、六年生には空腹が堪え切れなかった。少しでもお腹の隙間を満たすため、お駄賃のおやつを期待して、農家へ手伝いに行くのが常だったが、農作業の仕事が毎日あるわけではない。そんなとき、村の子に教わって、川に入り魚や蟹を獲ったり、山に入っては百合根、蜂の子や蛇に至るまで、自慢の肥後守を使って毒にならないものなら何でも食べ、僅かでも飢えをしのいだ。

 街で生まれ、街中しか知らなかった都会っ子の私たちも、いつしか野山を飛び回る猿のような山の子になっていた。

 また農作業の手伝いに行った先の農家の人は皆やさしく、疎開児たちの心の支えでもあった。そこのお婆さんから、わら草履の作り方を教わり、稲わらを叩いて見よう見真似で、どうにか自分でもわら草履が作れるようになったが、鼻緒だけはお婆さんに布きれで付けてもらった。また地元の池谷先生(女性)から、六年生になったばかりの哀れな悪戯小僧たちに、魚を突く「ヤス」をプレゼントされ、自慢の肥後守と共に、私にとって貴重な宝モノになった。

 ここで暮らした一年、いろんなことがあったが、私にとって第二の故郷のように思える。

 ●当時の夏を回想しての拙句

 =疎開の子 ほうほうほたる 母の声=
 =ふるさとの 山河を映す 水眼鏡=

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