『肉声史』 戦争を語る
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- 『肉声史』 戦争を語る (42) (編集者, 2007/9/24 7:48)
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(お話を聞いて①)
4人の方々に集まっていただき、戦争体験(主に内地での体験談)について語っていただき、フリートークという形でインタビューをさせていただきました。
みなさん多種多様な経験をお持ちになり、私がメディアを通じて得た戦争の知識は、前線で戦うことが主であったような気がします。私の祖父も前線で銃弾を受けた経験などがあり、生前話してくれていたので記憶に残っております。また、教育の場で学んだ内容も同じようだったと思います。今回伺ったお話は、私が学んできたものとは少し違った内容で身近なというか庶民(若い世代の方)の戦争体験であり、苦労されたお話や恐怖体験を聞くことが出来たように思います。
皆さんがそろって口にされていたことは、戦争で得たものは何もなく失ったものが大きすぎる、二度としてはならないものが戦争であるということです。今日、私達がこうして何不自由なく生活しているのは、戦争で犠牲になり亡くなった方やお国のために我慢をし、頑張ってこられた方々が根底にあるのではと感じます。また、戦後、先人達が衣食住に苦しみながら一生懸命に、戦後復興・厳しい労働条件などにも屈することなく企業を育て、経済大国になったのだと思います。こうした努力・犠牲・苦労(我慢)があるから今の日本があるのではないかと改めて強く感じました。戦争というものは、必ず後世に伝えていかなければならない、忘れてはならないことでしょう。
この経験を生かし、私も子供を持つ親なので、責任を持って伝えて生きたいと思います。
(聞き手 佐藤直美 昭和46《1971》年生)
(お話を聞いて②)
今回は皆さんご一緒にお話しを伺った。皆さんそれぞれいろいろな体験をしておられびっくりした。お話しを聞く中で一番印象に残ったのは、みなさんが当時十代の少年や少女で戦争にいろいろな形で参加していたことだった。そのころの教育は、今の私たちでは想像もできないものだったようだった。皆さんが口々に「お国の為」や「欲しがりません勝つまでは」ということを学校の先生から教わり、絶対に日本は勝つと信じていたのだとおっしゃっていた。空腹を我慢しながらの仕事や、米軍機による空襲を受け怯《おび》えながらもがんばってこれたのもこの教育のもとに国全体が一つになっていたからこそ出来たものだったようだ。
私も人のことを言えないが今の子供達は、戦争をまったく知らない。ゲーム感覚でバーチャル的に考えているのだと思う。戦闘機での爆撃や人を殺したりすることが現実にとらえられずにいる。戦争は遠い国の話だと思っていると思う。そんな子供達に日本が経験をした戦争や、みなさんが体験したことを伝えていかなければならないと思った。
戦争を終え犠牲になった人と、生きていることとは紙一重であるとおっしゃっていた。
十代でゼロ戦《注》に乗りミサイルを2つ搭載、そして米軍の軍艦を3艦沈没させたという話を聞き最初はどういうことかと思った。話を聞くうちに2艦はミサイルで、一艦はゼロ戦ごと自分がミサイルになって沈没させたことを聞きやるせない気持ちになった。
「戦争で犠牲になった多くの人たちの上に、現在の日本がある」そのことを忘れずにいかなければならない。
(聞き手 中島敦 昭和48《1973》年生)
注 ゼロ戦=零式艦上戦闘機の通称、太平洋戦争当時、日本海軍の主力戦闘機
4人の方々に集まっていただき、戦争体験(主に内地での体験談)について語っていただき、フリートークという形でインタビューをさせていただきました。
みなさん多種多様な経験をお持ちになり、私がメディアを通じて得た戦争の知識は、前線で戦うことが主であったような気がします。私の祖父も前線で銃弾を受けた経験などがあり、生前話してくれていたので記憶に残っております。また、教育の場で学んだ内容も同じようだったと思います。今回伺ったお話は、私が学んできたものとは少し違った内容で身近なというか庶民(若い世代の方)の戦争体験であり、苦労されたお話や恐怖体験を聞くことが出来たように思います。
皆さんがそろって口にされていたことは、戦争で得たものは何もなく失ったものが大きすぎる、二度としてはならないものが戦争であるということです。今日、私達がこうして何不自由なく生活しているのは、戦争で犠牲になり亡くなった方やお国のために我慢をし、頑張ってこられた方々が根底にあるのではと感じます。また、戦後、先人達が衣食住に苦しみながら一生懸命に、戦後復興・厳しい労働条件などにも屈することなく企業を育て、経済大国になったのだと思います。こうした努力・犠牲・苦労(我慢)があるから今の日本があるのではないかと改めて強く感じました。戦争というものは、必ず後世に伝えていかなければならない、忘れてはならないことでしょう。
この経験を生かし、私も子供を持つ親なので、責任を持って伝えて生きたいと思います。
(聞き手 佐藤直美 昭和46《1971》年生)
(お話を聞いて②)
今回は皆さんご一緒にお話しを伺った。皆さんそれぞれいろいろな体験をしておられびっくりした。お話しを聞く中で一番印象に残ったのは、みなさんが当時十代の少年や少女で戦争にいろいろな形で参加していたことだった。そのころの教育は、今の私たちでは想像もできないものだったようだった。皆さんが口々に「お国の為」や「欲しがりません勝つまでは」ということを学校の先生から教わり、絶対に日本は勝つと信じていたのだとおっしゃっていた。空腹を我慢しながらの仕事や、米軍機による空襲を受け怯《おび》えながらもがんばってこれたのもこの教育のもとに国全体が一つになっていたからこそ出来たものだったようだ。
私も人のことを言えないが今の子供達は、戦争をまったく知らない。ゲーム感覚でバーチャル的に考えているのだと思う。戦闘機での爆撃や人を殺したりすることが現実にとらえられずにいる。戦争は遠い国の話だと思っていると思う。そんな子供達に日本が経験をした戦争や、みなさんが体験したことを伝えていかなければならないと思った。
戦争を終え犠牲になった人と、生きていることとは紙一重であるとおっしゃっていた。
十代でゼロ戦《注》に乗りミサイルを2つ搭載、そして米軍の軍艦を3艦沈没させたという話を聞き最初はどういうことかと思った。話を聞くうちに2艦はミサイルで、一艦はゼロ戦ごと自分がミサイルになって沈没させたことを聞きやるせない気持ちになった。
「戦争で犠牲になった多くの人たちの上に、現在の日本がある」そのことを忘れずにいかなければならない。
(聞き手 中島敦 昭和48《1973》年生)
注 ゼロ戦=零式艦上戦闘機の通称、太平洋戦争当時、日本海軍の主力戦闘機
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「軍隊の生活が人間形成に」
綾瀬市 守矢 保(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16《1941》年召集で、真珠湾攻撃《注1》の1ケ月後に入隊。騎兵の14連隊の4中隊に入った。戦争は当事国にとってはいつでも聖戦《=神聖な目的のための戦争》。今でも私はあの戦争は聖戦だった思っている。当時は1日も早く戦争に行きたいと思っていた。包頭《パオトウ=ウチモンゴルの自治区》から100km先のアンポクという強烈に寒い所に行った。鼻毛も睫毛《まつげ》も凍った。
洛陽《らくよう=中国河南省の都市》の攻撃をして昭和20年12月3日か4日に帰ってきた。所属は騎兵14連隊だったが、私が行った時には馬は無く、自動車や戦車ばかりで装備はよかった。私は軍隊生活が性に合っていて楽しい思い出が多いが、何かにつけてたこ(ビンタ)だった。同年兵は助け合いだと文字通り叩き込まれた。小中隊長の戦死で古年兵が指揮を執ることもあった。日頃から上官の考えを洞察《どうさつ=見抜く》しておかないとすぐ隊をまとめられなくて困ると知った。部下の面倒をよく見る上官の部隊は強くなった。私の人間形成の上で為になった。いまだに兵隊仲間とは交流がある。河南省で終戦を迎えた。絶対負けないと確信していた。そういう教育を受けていたから。
戦争はやるもんじゃない、一般人が一番ひどい目に遭うから。部隊では「焼かず、犯さず、殺さず」と絶えず言われていた。墓の木は絶対切ってはダメ、部落へ行っても家畜殺すな等。連隊長によく興亜植樹の歌を歌わされた。「蒙古の荒涼たる所だから心がすさんで戦争になる。ここが緑になると戦争は終わる」と包頭の町に街路樹を部隊で植えた。トラックで水を汲んできて、皆で世話もした。指揮執る人の影響は大きい。手柄一筋でやったのとは大違いだった。
(お話を聞いて)
守屋様から、入隊当時の様子と陸軍騎兵聯隊第14連隊に入られてからの様々の実践を通し、上官や仲間のものとの係わりをもつ中で、ご自身が体験されたことを基軸とし、そこでつかまれた(培われた)人生観を踏まえて、今日ある日本の姿や今後に向けての願いをしんしんと提起されたように感じた。
以上、戦争体験の話を聞かせて頂いて、特に感じたことは、「軍隊という所は、一口に厳しい所だと言われているが、人間は若いときに身に付けたこと(厳しさ)は、将来に向けての人間形成に役立っていくものである。それを受けてきたことを誇りに思って今を生きているんですよ」といわれた言葉と、「戦争っていうのはあってはならない!と思っているが、当事者(国)にするとどの国も聖戦と思っているし、間違っているのはお前さんの方だよ!と思ってしまうものなんだ!!」と繰り返し強調された言葉が心に強く響きました。
私は、心身投げうって日本を支えてくださった先輩方に頭を下げ、本日聞かせていただいた言葉にしっかりした気持ちを持って日々健康で過ごせることに感謝しながらできることに励んで生きたいと思いました。
(聞き手 見上健一 昭和4《1929》年生)
注1 真珠湾攻撃=12月8日、日本海軍がおこなった航空攻撃により 太平洋戦争勃発
綾瀬市 守矢 保(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16《1941》年召集で、真珠湾攻撃《注1》の1ケ月後に入隊。騎兵の14連隊の4中隊に入った。戦争は当事国にとってはいつでも聖戦《=神聖な目的のための戦争》。今でも私はあの戦争は聖戦だった思っている。当時は1日も早く戦争に行きたいと思っていた。包頭《パオトウ=ウチモンゴルの自治区》から100km先のアンポクという強烈に寒い所に行った。鼻毛も睫毛《まつげ》も凍った。
洛陽《らくよう=中国河南省の都市》の攻撃をして昭和20年12月3日か4日に帰ってきた。所属は騎兵14連隊だったが、私が行った時には馬は無く、自動車や戦車ばかりで装備はよかった。私は軍隊生活が性に合っていて楽しい思い出が多いが、何かにつけてたこ(ビンタ)だった。同年兵は助け合いだと文字通り叩き込まれた。小中隊長の戦死で古年兵が指揮を執ることもあった。日頃から上官の考えを洞察《どうさつ=見抜く》しておかないとすぐ隊をまとめられなくて困ると知った。部下の面倒をよく見る上官の部隊は強くなった。私の人間形成の上で為になった。いまだに兵隊仲間とは交流がある。河南省で終戦を迎えた。絶対負けないと確信していた。そういう教育を受けていたから。
戦争はやるもんじゃない、一般人が一番ひどい目に遭うから。部隊では「焼かず、犯さず、殺さず」と絶えず言われていた。墓の木は絶対切ってはダメ、部落へ行っても家畜殺すな等。連隊長によく興亜植樹の歌を歌わされた。「蒙古の荒涼たる所だから心がすさんで戦争になる。ここが緑になると戦争は終わる」と包頭の町に街路樹を部隊で植えた。トラックで水を汲んできて、皆で世話もした。指揮執る人の影響は大きい。手柄一筋でやったのとは大違いだった。
(お話を聞いて)
守屋様から、入隊当時の様子と陸軍騎兵聯隊第14連隊に入られてからの様々の実践を通し、上官や仲間のものとの係わりをもつ中で、ご自身が体験されたことを基軸とし、そこでつかまれた(培われた)人生観を踏まえて、今日ある日本の姿や今後に向けての願いをしんしんと提起されたように感じた。
以上、戦争体験の話を聞かせて頂いて、特に感じたことは、「軍隊という所は、一口に厳しい所だと言われているが、人間は若いときに身に付けたこと(厳しさ)は、将来に向けての人間形成に役立っていくものである。それを受けてきたことを誇りに思って今を生きているんですよ」といわれた言葉と、「戦争っていうのはあってはならない!と思っているが、当事者(国)にするとどの国も聖戦と思っているし、間違っているのはお前さんの方だよ!と思ってしまうものなんだ!!」と繰り返し強調された言葉が心に強く響きました。
私は、心身投げうって日本を支えてくださった先輩方に頭を下げ、本日聞かせていただいた言葉にしっかりした気持ちを持って日々健康で過ごせることに感謝しながらできることに励んで生きたいと思いました。
(聞き手 見上健一 昭和4《1929》年生)
注1 真珠湾攻撃=12月8日、日本海軍がおこなった航空攻撃により 太平洋戦争勃発
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「軍艦高雄乗船勤務は今も誇り」
綾瀬市 多田 盛勝(大正10《1920》年生)
(あらすじ)
昭和17年1月10日に横須賀第1海兵団に入隊。村挙げて送り出され、相当の覚悟で行った。3カ月の新兵教育で、それまで考えていた「セーラー服着て海の向こうの夕日を船から眺めて」というロマンチックな考えは吹っ飛んだ。制裁等厳しさが身にしみた。
海兵団出て初めて海軍一等水兵の位を貰って、戦争へいった。 軍艦「高雄」に乗ったが、それは今も誇りだし、その誇りを持ってお勤めできたこと胸を張って言える。私は大砲担当だった。 毎日訓練で、上官には絶対服従。団体生活で個はない。「体を張って戦いに出る」教育だったから生易しいものじゃなかった。大砲の訓練は、弾を込めて撃つまでのタイムを計る。大砲の仕組みは非常に複雑で、私は海軍の砲術学校へ行った。教育が世界一厳しいと言われる学校で、すべてに迅速さと正確さ、スマートさが求められた。飛行機撃墜の任務も行いながら毎日訓練した。
砲術学校を出て、「高雄」に乗った。生活や作業の割り当ては、船の左舷右舷に分かれて行われた。
5年の内、1ケ月間も船に乗りっぱなしだったのは1回だけ。南洋では、船上で体に石鹸を塗ってスコール《強烈なにわか雨》で洗い流していた。腎臓結石《じんぞうけっせき》でシンガポールの海軍病院入院中に終戦を知った。退院して戻ったら、船が大破していた。
4つあった艦尾のスクリューが魚雷でやられて2つになっていたが、何とか動かしてブルネイへ帰ってきた。敵の潜水艦がとどめを刺そうと待ち構え、潜望鏡が見えたので報告したのを覚えている。
(お話を聞いて)
多田盛勝さんの戦時中の海軍への入隊から戦地からの帰国までのお話を聞きました。私にはもう少し若い祖父母がいるが、過去に戦時中のことを聞いた覚えはない。そして今、当時のことを流暢《りゅうちょう》に話せるほど元気ではないので、今回のお話は、貴重な体験になりました。中でも、「軍隊に入隊し、戦地へ赴いたことを今でも誇りに思う。」との多田さんの言葉は印象的であり、おそらく当時の年齢と同じくらいであったろう今の私に、誇りに思うことがない自分を悲しく思い、また、多田さんを羨《うらや》ましく思いました。
しかし、戦地へ赴いたことへの誇り、というものには到底同感できるものではなく、平和な今しか知らない自分には、戦時下にいた人たちの思いでしかない、とすることでその時は精一杯でした。
そのような思いも、多田さんのお話を聞くうちに、様々な意味合いは混在してることがわかり、大変勉強になりました。たとえば、今にない生活環境、厳しさ、危機感であったり、正義の名のもとに強いられた戦争など・‥海軍での生活は勅命で絶対服従下のため、寝てもさめても訓練の日々で、規律正しく、厳しくされたようでした。そんな中でも、連帯責任のもと行われる訓練を通して生まれる仲間とのチームワークのお話などから、辛いことばかりではなかったのかな?ということが感じ取れました。
日本の敗戦を知ったときの気持ちを伺ったところ、「ほっとした、家に帰れるのが一番うれしかった」とまるで当時に戻ったかのような口ぶりでおっしゃっていました。最後に若者へということでお聞きしたところ、「時代の移り変わりなので仕方ないことではあるが、幼い頃から規律を守るという教育が薄れていて自由すぎるし、若者には迫力がない!」との一言、ただただ反省のしきりでした。厳しい時代を生き抜いた多田さんにその時、たくましさと達成感、今を生きていることへの充実感を感じました。
(聞き手 匿名 昭和54《1979》年生)
綾瀬市 多田 盛勝(大正10《1920》年生)
(あらすじ)
昭和17年1月10日に横須賀第1海兵団に入隊。村挙げて送り出され、相当の覚悟で行った。3カ月の新兵教育で、それまで考えていた「セーラー服着て海の向こうの夕日を船から眺めて」というロマンチックな考えは吹っ飛んだ。制裁等厳しさが身にしみた。
海兵団出て初めて海軍一等水兵の位を貰って、戦争へいった。 軍艦「高雄」に乗ったが、それは今も誇りだし、その誇りを持ってお勤めできたこと胸を張って言える。私は大砲担当だった。 毎日訓練で、上官には絶対服従。団体生活で個はない。「体を張って戦いに出る」教育だったから生易しいものじゃなかった。大砲の訓練は、弾を込めて撃つまでのタイムを計る。大砲の仕組みは非常に複雑で、私は海軍の砲術学校へ行った。教育が世界一厳しいと言われる学校で、すべてに迅速さと正確さ、スマートさが求められた。飛行機撃墜の任務も行いながら毎日訓練した。
砲術学校を出て、「高雄」に乗った。生活や作業の割り当ては、船の左舷右舷に分かれて行われた。
5年の内、1ケ月間も船に乗りっぱなしだったのは1回だけ。南洋では、船上で体に石鹸を塗ってスコール《強烈なにわか雨》で洗い流していた。腎臓結石《じんぞうけっせき》でシンガポールの海軍病院入院中に終戦を知った。退院して戻ったら、船が大破していた。
4つあった艦尾のスクリューが魚雷でやられて2つになっていたが、何とか動かしてブルネイへ帰ってきた。敵の潜水艦がとどめを刺そうと待ち構え、潜望鏡が見えたので報告したのを覚えている。
(お話を聞いて)
多田盛勝さんの戦時中の海軍への入隊から戦地からの帰国までのお話を聞きました。私にはもう少し若い祖父母がいるが、過去に戦時中のことを聞いた覚えはない。そして今、当時のことを流暢《りゅうちょう》に話せるほど元気ではないので、今回のお話は、貴重な体験になりました。中でも、「軍隊に入隊し、戦地へ赴いたことを今でも誇りに思う。」との多田さんの言葉は印象的であり、おそらく当時の年齢と同じくらいであったろう今の私に、誇りに思うことがない自分を悲しく思い、また、多田さんを羨《うらや》ましく思いました。
しかし、戦地へ赴いたことへの誇り、というものには到底同感できるものではなく、平和な今しか知らない自分には、戦時下にいた人たちの思いでしかない、とすることでその時は精一杯でした。
そのような思いも、多田さんのお話を聞くうちに、様々な意味合いは混在してることがわかり、大変勉強になりました。たとえば、今にない生活環境、厳しさ、危機感であったり、正義の名のもとに強いられた戦争など・‥海軍での生活は勅命で絶対服従下のため、寝てもさめても訓練の日々で、規律正しく、厳しくされたようでした。そんな中でも、連帯責任のもと行われる訓練を通して生まれる仲間とのチームワークのお話などから、辛いことばかりではなかったのかな?ということが感じ取れました。
日本の敗戦を知ったときの気持ちを伺ったところ、「ほっとした、家に帰れるのが一番うれしかった」とまるで当時に戻ったかのような口ぶりでおっしゃっていました。最後に若者へということでお聞きしたところ、「時代の移り変わりなので仕方ないことではあるが、幼い頃から規律を守るという教育が薄れていて自由すぎるし、若者には迫力がない!」との一言、ただただ反省のしきりでした。厳しい時代を生き抜いた多田さんにその時、たくましさと達成感、今を生きていることへの充実感を感じました。
(聞き手 匿名 昭和54《1979》年生)
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「志願、戦わずして収容生活」
綾瀬市 鈴木 市松(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16年に甲種合格し、翌1月10日東部7部隊に21歳で入営。2ケ月の教育を受けて、3月末に満州へ。4月にハルビン歩兵第177部隊に入隊した。対ソ連部隊で、軽機関銃の射手として演習を重ねた。戦車に飛び込む演習もあった。憲兵志願の募集があり、長男は志願できないが私は弟だったのでやってみようかと応募した。
新彊《しんきょう=中国北西端の地域》で憲兵教習隊に入隊し、卒業後新彊憲兵隊の吉林分隊付きに。そのうち満州にできた特別警備隊第5大隊へ配属され、現地へ行く準備中にソ連が攻めてきた。戦わずして8月18日停戦命令。憲兵は兵隊のおまわりさんで、軍隊にいる朝鮮人の内偵や市内パトロールなどが仕事だった。
内地とは手紙などで自由に連絡できた。
終戦後は新彊から歩いて公主領《=中国北東部の市》に移動。満州飛行機の社宅で一時待機した。そこから1000人の作業隊が編成されて9月20日に出発し、11月28日ウズベク共和国のべクワード駅に着いた。2、30分トラックに乗せられて囚人が使っていた収容所へ入った。労働は発電所の建設工事。幅80mの運河をスコップで掘った。毎日8時間ぶっ通し。労働にはノルマがあって、班員の達成率で食事の量が決められた。100パーセント達成するとノルマも上がり、皆栄養失調になった。夜盲症《=ビタミンAの欠乏による》やチフスにもかかった。昭和23年頃多くは日本へ帰されたが、「よく働いた者は早く帰す」から「ソ連に協力した者を帰す」となり、自分が帰りたいが為に罪のない人を売る者もいた。
その後、憲兵や悪いことをした人はアングレンで発電所建設や水道工事の労働を強いられた。
それからカラカンダ《=中央アジアにある》へ行き、炭坑掘りをした。
(お話を聞いて)
父親、兄が兵役の経験者だったこともあり、当然乍ら、お国の為に働くものと考えておられた様です。国を愛する心が強かっただけに戦地で終戦を迎えられた事は、悔しさ、空しさなど想像を絶するものがあったかと思われます。
ソ連の拘留生活も、帰国者が去り行く中やっと5年後に帰国を知らされた時は、苦しかった拘留生活も吹き飛びさぞかし喜びにわきたったことと思われます。戦争経験者の多くが集い雑談を交えながら語り合うことができたならもっとさまざまな体験談を聞く事が出来たのではないかと反省しています。
(聞き手 清水一男 昭和8《1933》年生)
綾瀬市 鈴木 市松(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16年に甲種合格し、翌1月10日東部7部隊に21歳で入営。2ケ月の教育を受けて、3月末に満州へ。4月にハルビン歩兵第177部隊に入隊した。対ソ連部隊で、軽機関銃の射手として演習を重ねた。戦車に飛び込む演習もあった。憲兵志願の募集があり、長男は志願できないが私は弟だったのでやってみようかと応募した。
新彊《しんきょう=中国北西端の地域》で憲兵教習隊に入隊し、卒業後新彊憲兵隊の吉林分隊付きに。そのうち満州にできた特別警備隊第5大隊へ配属され、現地へ行く準備中にソ連が攻めてきた。戦わずして8月18日停戦命令。憲兵は兵隊のおまわりさんで、軍隊にいる朝鮮人の内偵や市内パトロールなどが仕事だった。
内地とは手紙などで自由に連絡できた。
終戦後は新彊から歩いて公主領《=中国北東部の市》に移動。満州飛行機の社宅で一時待機した。そこから1000人の作業隊が編成されて9月20日に出発し、11月28日ウズベク共和国のべクワード駅に着いた。2、30分トラックに乗せられて囚人が使っていた収容所へ入った。労働は発電所の建設工事。幅80mの運河をスコップで掘った。毎日8時間ぶっ通し。労働にはノルマがあって、班員の達成率で食事の量が決められた。100パーセント達成するとノルマも上がり、皆栄養失調になった。夜盲症《=ビタミンAの欠乏による》やチフスにもかかった。昭和23年頃多くは日本へ帰されたが、「よく働いた者は早く帰す」から「ソ連に協力した者を帰す」となり、自分が帰りたいが為に罪のない人を売る者もいた。
その後、憲兵や悪いことをした人はアングレンで発電所建設や水道工事の労働を強いられた。
それからカラカンダ《=中央アジアにある》へ行き、炭坑掘りをした。
(お話を聞いて)
父親、兄が兵役の経験者だったこともあり、当然乍ら、お国の為に働くものと考えておられた様です。国を愛する心が強かっただけに戦地で終戦を迎えられた事は、悔しさ、空しさなど想像を絶するものがあったかと思われます。
ソ連の拘留生活も、帰国者が去り行く中やっと5年後に帰国を知らされた時は、苦しかった拘留生活も吹き飛びさぞかし喜びにわきたったことと思われます。戦争経験者の多くが集い雑談を交えながら語り合うことができたならもっとさまざまな体験談を聞く事が出来たのではないかと反省しています。
(聞き手 清水一男 昭和8《1933》年生)
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編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「零下40度 トイレは外の掘立小屋」
綾瀬市 及川 勝郎(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
志願兵として18歳で兵隊に行った。昭和18年4月に静岡県浜松飛行隊に入隊し、8月には朝鮮から満州を経て中国へ。ここで軍隊生活を終えソ連に抑留された。
一度もソ連とは戦争せず、捕虜になったのが残念だった。ソ連には兵器から衣類まであらゆる物が略奪され、捕虜も貨物列車で身動きできない程詰め込まれた。各駅停車で移動し、用を足すのも貨車の下だった。隙間《すきま》から外を見て北へ行くことを知り、暗い気持ちで皆無口になった。
抑留生活で辛かったのはマイナス40度の気温と食事。籾殻《もみがら》が入って胃に刺さりそうな硬い黒パン一切れとじゃが芋のスープで、初めの数日間はとても食べられなかった。寒さと栄養失調で毎朝人が死んでいた。死体も裏山に埋めるだけ。墓標もなく、狼が死体を食べていく。情けない思いだった。寝泊りはロシア人の囚人の収容所だった所で電気も窓もなく、ペチカが一つあるだけ。
トイレは外の掘っ立て小屋で、用を足すのは前の人の凍ったのを鉄棒で壊してからだった。軍隊の教育はでたらめでひどかった。私達は12人の班での団体生活で、仲間が一人でも失敗すると向かい合って頬《ほお》を叩けと連帯責任だった。常識外れた教育もあった。柱の上でホーホケキョと鳴く「鴬《うぐいす》の綱渡り」という罰もあった。ソ連での強制労働は、バイカル湖北の森林地帯で松の伐採。拠点まで2時間かかって、腰までの雪の中を黙々と歩いた。日本人は真面目だから仕事が速く、どんどん量が増やされた。
頑張ったから帰国だと騙《だま》されて転々と労働場所を変えられた。3年目にナホトカ港で日本の船を見た時に初めて安心した。一度も戦わず、何の罪もない抑留者が6万人も死んだという事実を知ってほしい。
(お話を聞いて)
戦争について、私の目・耳には、テレビで放送されるドラマや歌詞だけでしか入ってきません。戦争と一口にいっても、私には遠い過去のものでしかなく、すでに亡くなっている父も戦争を体験しているのに、直接、父から話を聞いたことがありませんでした。ですので、今回実体験された方から戦争について生の声を聞くのは初めてです。
及川さんの話を伺い、17歳から23歳の現代では、一番よき時代の青年時代に志願されたとはいえ、マイナス40℃の極寒の地バイカル湖での拘留生活、パン1切れ、ジャガイモ1個の食事が朝夕二食だけ、窓も電気もなく、暖はペチカ1個だけ、食事が済んだら寝るだけの生活、トイレも近くにはなく雪に覆《おお》われた平野の一角で、前のは《ほ》うのが氷の柱になってしまい、持って言った鉄の棒で砕く生活、6万人の仲間が寒さと栄養失調で次々に亡くなって逝った状況、亡くなった仲間達を埋葬したくても、雪と氷で土が掘れず、40センチ程度の穴を作り、埋葬し雪で覆うことしか出来なかったとのことなど事細かに語られ、そのときの思いを話していただきましたが、到底言葉にしていえるものではないと思います。 何事も連帯責任を問われ、今の私たちにはとても考えられない毎日だったと思うと返す言葉もありません。
戦争はしてはならないと理屈ではわかっていても、他人事のように感じてしまっている自分がいます。身近に戦争体験を聞くことにより自分に置き換えたら、また現代の若者に同じ経験をさせたら、どうなるか目に見えるようです。
収録を終えてから、及川さんが "寒い地で、何の罪もないたくさんの人たちが、今でも松の木の下に眠っている”といわれた言葉に何も答えられませんでした。
(聞き手 匿名 昭和30《1955》年生)
綾瀬市 及川 勝郎(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
志願兵として18歳で兵隊に行った。昭和18年4月に静岡県浜松飛行隊に入隊し、8月には朝鮮から満州を経て中国へ。ここで軍隊生活を終えソ連に抑留された。
一度もソ連とは戦争せず、捕虜になったのが残念だった。ソ連には兵器から衣類まであらゆる物が略奪され、捕虜も貨物列車で身動きできない程詰め込まれた。各駅停車で移動し、用を足すのも貨車の下だった。隙間《すきま》から外を見て北へ行くことを知り、暗い気持ちで皆無口になった。
抑留生活で辛かったのはマイナス40度の気温と食事。籾殻《もみがら》が入って胃に刺さりそうな硬い黒パン一切れとじゃが芋のスープで、初めの数日間はとても食べられなかった。寒さと栄養失調で毎朝人が死んでいた。死体も裏山に埋めるだけ。墓標もなく、狼が死体を食べていく。情けない思いだった。寝泊りはロシア人の囚人の収容所だった所で電気も窓もなく、ペチカが一つあるだけ。
トイレは外の掘っ立て小屋で、用を足すのは前の人の凍ったのを鉄棒で壊してからだった。軍隊の教育はでたらめでひどかった。私達は12人の班での団体生活で、仲間が一人でも失敗すると向かい合って頬《ほお》を叩けと連帯責任だった。常識外れた教育もあった。柱の上でホーホケキョと鳴く「鴬《うぐいす》の綱渡り」という罰もあった。ソ連での強制労働は、バイカル湖北の森林地帯で松の伐採。拠点まで2時間かかって、腰までの雪の中を黙々と歩いた。日本人は真面目だから仕事が速く、どんどん量が増やされた。
頑張ったから帰国だと騙《だま》されて転々と労働場所を変えられた。3年目にナホトカ港で日本の船を見た時に初めて安心した。一度も戦わず、何の罪もない抑留者が6万人も死んだという事実を知ってほしい。
(お話を聞いて)
戦争について、私の目・耳には、テレビで放送されるドラマや歌詞だけでしか入ってきません。戦争と一口にいっても、私には遠い過去のものでしかなく、すでに亡くなっている父も戦争を体験しているのに、直接、父から話を聞いたことがありませんでした。ですので、今回実体験された方から戦争について生の声を聞くのは初めてです。
及川さんの話を伺い、17歳から23歳の現代では、一番よき時代の青年時代に志願されたとはいえ、マイナス40℃の極寒の地バイカル湖での拘留生活、パン1切れ、ジャガイモ1個の食事が朝夕二食だけ、窓も電気もなく、暖はペチカ1個だけ、食事が済んだら寝るだけの生活、トイレも近くにはなく雪に覆《おお》われた平野の一角で、前のは《ほ》うのが氷の柱になってしまい、持って言った鉄の棒で砕く生活、6万人の仲間が寒さと栄養失調で次々に亡くなって逝った状況、亡くなった仲間達を埋葬したくても、雪と氷で土が掘れず、40センチ程度の穴を作り、埋葬し雪で覆うことしか出来なかったとのことなど事細かに語られ、そのときの思いを話していただきましたが、到底言葉にしていえるものではないと思います。 何事も連帯責任を問われ、今の私たちにはとても考えられない毎日だったと思うと返す言葉もありません。
戦争はしてはならないと理屈ではわかっていても、他人事のように感じてしまっている自分がいます。身近に戦争体験を聞くことにより自分に置き換えたら、また現代の若者に同じ経験をさせたら、どうなるか目に見えるようです。
収録を終えてから、及川さんが "寒い地で、何の罪もないたくさんの人たちが、今でも松の木の下に眠っている”といわれた言葉に何も答えられませんでした。
(聞き手 匿名 昭和30《1955》年生)
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「兵器は大正15《1926》年製の歩兵砲」
愛川町 小島 茂平(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和20年3月25日千葉佐倉の第57師団に北支要員として入隊,4月20日頃の夜遅く北支に向けて出発。九州まで列車で行ったが昼間は窓を開けることが禁止されていた。家宛のハガキを10枚程列車の窓から落としたら、2、3枚は誰かが投函してくれたらしく家に届いていた。4月末に佐世保から連絡船で釜山へ行き、貨物列車で満州から北支へ入った。満州からは共産軍の攻撃を回避する為夜間のみ走った。5月半ばに山西省の臨汾《りんぷん=中国山西省南部》へ。
そこに北支派遣の第114師団があり、382大隊歩兵砲中隊に配属された。兵器は大正15年製の歩兵砲《=歩兵連隊に配備された砲》が1門と平射砲だけ。歩兵砲の運搬は馬だった。砲を4つに分けて、4頭で運んだ。荷物の積み方が悪く、馬の背の皮が剥《む》けたことがあって上官に大目玉食らったことがあった。それほど馬は大切だった。空襲に遭って、砲を撃とうと操作しているうちに敵軍がいなくなったこともあった。終戦後、共産軍の掃討作戦《=敵をすっかり打ち滅ぼす》に出た。砲をバラして持って行った。私たちは蒋介石《しょうかいせき 注》軍に捕虜となったのでまだ良かった。2、3人の兵が来ただけで、共産軍のようなきつい束縛がなかった。
復員の準備で兵器や馬を返上したら、翌朝1頭の馬が遠い距離を走って帰ってきた。この時は皆で泣いた。復員の為の移動が3月下旬から始まった。臨汾から太原《たいげん=中国山西省の省都》に向けて4、5日歩いた。途中で引き上げ者の様子を見たが、子供を抱えて大変だった。太原の町は日本そのものだった。立派な病院など日本が金をかけて作ったいい町だった。昭和21年5月7日佐世保に上陸。日本が見えた時は何とも言えない気持ちだった。
(お話を聞いて)
軍隊では人よりも馬が大切らしい。一日は、朝おきたら、まず、馬に飼葉を与える作業から始まる。そして馬の世話が済んでから、人間の食事が始まったという。
小島茂平氏は昭和20年3月の入隊。従って、氏の軍隊生活は5ケ月ということになる。入営先は千葉県佐倉の歩兵57連隊。1カ月後、北支行きが決定し、鉄道で移動している。
この移動中、家族に当てて自分の消息を知らせる手紙を車外へ落とした。拾った人が郵送してくれることにかすかな望みを託して。10枚ほど落とした中で、2,3枚が家に着いたという。戦後世代の我々が「軍事機密」について理解することは困難である。しかし、厳しくても人々が支えあって生きていた時代であったのかもしれない。故郷についた手紙の逸話には、ほっとするものを感じる。
北支に到着した小島氏たちは、新兵教育を受けることとなる。小島氏は歩兵砲中隊に配属となった。この砲を運ぶに必要だったのが、冒頭の話の馬だったのである。その世話が大変だったらしい。過重な荷物を載せて、背中の皮が剥けたりすると、罰として、兵隊が殴られたという。小島氏も皮のベルトで殴られ、Uがひどくはれ上がったこともあったと語る。「人権」という言葉にあまり縁のない社会のようだ。
もっとも、過酷な軍隊の中でも救いはあったようである。小島氏たちの教育を担当したのは、三重県出身の上等兵。この方が「実にいい人でした」と小島氏は語る。現代社会でも直属上司の良し悪しで、平社員の労苦は大きく異なる。生死のかかった軍隊なら、なおさらのことであろう。
そのためであろうか。労苦もあったが、「軍隊で礼儀などが身についたので、悪い面ばかりでもなかったよ」と小島氏は明るく話を結んだ。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
注 蒋介石=中華民国の政治家、軍人、中華民国初代総統
愛川町 小島 茂平(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和20年3月25日千葉佐倉の第57師団に北支要員として入隊,4月20日頃の夜遅く北支に向けて出発。九州まで列車で行ったが昼間は窓を開けることが禁止されていた。家宛のハガキを10枚程列車の窓から落としたら、2、3枚は誰かが投函してくれたらしく家に届いていた。4月末に佐世保から連絡船で釜山へ行き、貨物列車で満州から北支へ入った。満州からは共産軍の攻撃を回避する為夜間のみ走った。5月半ばに山西省の臨汾《りんぷん=中国山西省南部》へ。
そこに北支派遣の第114師団があり、382大隊歩兵砲中隊に配属された。兵器は大正15年製の歩兵砲《=歩兵連隊に配備された砲》が1門と平射砲だけ。歩兵砲の運搬は馬だった。砲を4つに分けて、4頭で運んだ。荷物の積み方が悪く、馬の背の皮が剥《む》けたことがあって上官に大目玉食らったことがあった。それほど馬は大切だった。空襲に遭って、砲を撃とうと操作しているうちに敵軍がいなくなったこともあった。終戦後、共産軍の掃討作戦《=敵をすっかり打ち滅ぼす》に出た。砲をバラして持って行った。私たちは蒋介石《しょうかいせき 注》軍に捕虜となったのでまだ良かった。2、3人の兵が来ただけで、共産軍のようなきつい束縛がなかった。
復員の準備で兵器や馬を返上したら、翌朝1頭の馬が遠い距離を走って帰ってきた。この時は皆で泣いた。復員の為の移動が3月下旬から始まった。臨汾から太原《たいげん=中国山西省の省都》に向けて4、5日歩いた。途中で引き上げ者の様子を見たが、子供を抱えて大変だった。太原の町は日本そのものだった。立派な病院など日本が金をかけて作ったいい町だった。昭和21年5月7日佐世保に上陸。日本が見えた時は何とも言えない気持ちだった。
(お話を聞いて)
軍隊では人よりも馬が大切らしい。一日は、朝おきたら、まず、馬に飼葉を与える作業から始まる。そして馬の世話が済んでから、人間の食事が始まったという。
小島茂平氏は昭和20年3月の入隊。従って、氏の軍隊生活は5ケ月ということになる。入営先は千葉県佐倉の歩兵57連隊。1カ月後、北支行きが決定し、鉄道で移動している。
この移動中、家族に当てて自分の消息を知らせる手紙を車外へ落とした。拾った人が郵送してくれることにかすかな望みを託して。10枚ほど落とした中で、2,3枚が家に着いたという。戦後世代の我々が「軍事機密」について理解することは困難である。しかし、厳しくても人々が支えあって生きていた時代であったのかもしれない。故郷についた手紙の逸話には、ほっとするものを感じる。
北支に到着した小島氏たちは、新兵教育を受けることとなる。小島氏は歩兵砲中隊に配属となった。この砲を運ぶに必要だったのが、冒頭の話の馬だったのである。その世話が大変だったらしい。過重な荷物を載せて、背中の皮が剥けたりすると、罰として、兵隊が殴られたという。小島氏も皮のベルトで殴られ、Uがひどくはれ上がったこともあったと語る。「人権」という言葉にあまり縁のない社会のようだ。
もっとも、過酷な軍隊の中でも救いはあったようである。小島氏たちの教育を担当したのは、三重県出身の上等兵。この方が「実にいい人でした」と小島氏は語る。現代社会でも直属上司の良し悪しで、平社員の労苦は大きく異なる。生死のかかった軍隊なら、なおさらのことであろう。
そのためであろうか。労苦もあったが、「軍隊で礼儀などが身についたので、悪い面ばかりでもなかったよ」と小島氏は明るく話を結んだ。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
注 蒋介石=中華民国の政治家、軍人、中華民国初代総統
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「夜露を舐《な》め野草を食べての3日間」
愛川町 鈴木 圃治(大正6《1917》年生)
(あらすじ)
19歳で徴兵検査、翌昭和12年現役兵として東京赤羽の近衛工兵1連隊へ入隊。1カ月後満州の孫呉《そんご》へ。その後ノモンハンへ《=中国東北部、モンゴルとの国境に近い》の出動命令が出て現地で戦っていたが、途中部隊に置き去りにされて一人になった。疲れて倒れていると蒙古の兵隊が寄ってきた。記録係として重要書類をたくさん預かっていたので、捕まったらすぐ焼こうと考えているところへソ連軍も入ってきた。必死で死んだふりをして助かった。
それから3日間、夜露をなめ草を食べながら蒙古の草原をさまよった。最後には突然雪が降り出した。向こうは真夏からいきなり冬になる。日本の春や秋を思いながら死を覚悟した。零下45度の気温の中やっと本隊にたどり着いた。軍隊では厳しさに耐え切れず自殺者や行方不明者が多く出た。ノモンハンには1年位いて部隊本部の書記をやっていた。天幕生活だったが、夜中は冷えて眠れなかった。
満州に2年半いて赤羽に戻った。昭和18年除隊後、熊谷陸軍飛行学校に軍属《=軍に所属する文官》として勤務。翌年2回目の召集があり、再び満州へ。
昭和20《1945》年8月に赤羽に帰ってきて、中津飛行場勤務中に終戦。事務所にしていた地下壕で玉音放送聞いて、「自殺しよう」という人も多かった。
終戦間際、飛行場からは特攻隊も見送った。15、6歳の少年が夕方になると「明日行きます」と。練習機の「赤とんぼ《=赤くぬった練習機の俗称》」で出ていき、任務遂行の前にみんな落とされたと聞いた。戦争は絶対してはいけない。あの苦しみは2度と味わいたくない。
(お話を聞いて)
「兵営内で銃声が響く。また自殺者だ」鈴木園治氏の口からそんな言葉が聞かれた。話者は大正6年生まれ。現役兵として近衛工兵第一連隊に所属し、満州に渡る。
冒頭の言葉は、渡満後の初年兵時代の話である。古兵からのイジメはすさまじく、320人いた中隊の中から、12,3人の初年兵が自殺や行方不明になったという。自殺者は小銃の銃口を口でくわえ、足の指で引き金を引いて死んでいった。自殺者は非国民ということで、残された家族が周囲から冷たい目で見られる。従って、全て戦死扱いにしたという。それにしても戦争による死亡は戦闘によるものだけではないということを痛感させられた。自国の上級者からのイジメによって、多くの犠牲者が出たという事実は凄惨《せいさん=むごたらしい》である。
また、鈴木氏が九死に一生を得たノモンハン事変の体験談も強く印象に残る話であった。
ある戦闘中、鈴木氏は一人で戦場に取り残されてしまった。ソ連兵がやってきたが死んだふりをしてやり過ごす。そして、彼らがいなくなってから、部隊と合流するため、一人で歩き出した。 飲まず食わずで三日間歩きつづけたという。季節は真夏。しかし、その真夏にも関わらず、最後の日は雪が降ったとのこと。 「えっ」という驚きを感じるのは私だけではなかろう。鈴木氏は笑っていう。「モンゴルの草原ではこうした天候の急変は日常茶飯事です」。
数奇な体験をされた鈴木氏は、昭和14年帰国され、一度は除隊となる。その後、故郷で陸軍飛行場の軍属として勤務するが昭和18年再召集される。やがて、昭和20年の終戦直前に除隊となり、再度帰国。もう一度、軍飛行場に勤め、終戦もそこで迎える。
2度目の戦場から鈴木氏が無事に帰り、次世代への語り部となった運命に感謝したい。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
愛川町 鈴木 圃治(大正6《1917》年生)
(あらすじ)
19歳で徴兵検査、翌昭和12年現役兵として東京赤羽の近衛工兵1連隊へ入隊。1カ月後満州の孫呉《そんご》へ。その後ノモンハンへ《=中国東北部、モンゴルとの国境に近い》の出動命令が出て現地で戦っていたが、途中部隊に置き去りにされて一人になった。疲れて倒れていると蒙古の兵隊が寄ってきた。記録係として重要書類をたくさん預かっていたので、捕まったらすぐ焼こうと考えているところへソ連軍も入ってきた。必死で死んだふりをして助かった。
それから3日間、夜露をなめ草を食べながら蒙古の草原をさまよった。最後には突然雪が降り出した。向こうは真夏からいきなり冬になる。日本の春や秋を思いながら死を覚悟した。零下45度の気温の中やっと本隊にたどり着いた。軍隊では厳しさに耐え切れず自殺者や行方不明者が多く出た。ノモンハンには1年位いて部隊本部の書記をやっていた。天幕生活だったが、夜中は冷えて眠れなかった。
満州に2年半いて赤羽に戻った。昭和18年除隊後、熊谷陸軍飛行学校に軍属《=軍に所属する文官》として勤務。翌年2回目の召集があり、再び満州へ。
昭和20《1945》年8月に赤羽に帰ってきて、中津飛行場勤務中に終戦。事務所にしていた地下壕で玉音放送聞いて、「自殺しよう」という人も多かった。
終戦間際、飛行場からは特攻隊も見送った。15、6歳の少年が夕方になると「明日行きます」と。練習機の「赤とんぼ《=赤くぬった練習機の俗称》」で出ていき、任務遂行の前にみんな落とされたと聞いた。戦争は絶対してはいけない。あの苦しみは2度と味わいたくない。
(お話を聞いて)
「兵営内で銃声が響く。また自殺者だ」鈴木園治氏の口からそんな言葉が聞かれた。話者は大正6年生まれ。現役兵として近衛工兵第一連隊に所属し、満州に渡る。
冒頭の言葉は、渡満後の初年兵時代の話である。古兵からのイジメはすさまじく、320人いた中隊の中から、12,3人の初年兵が自殺や行方不明になったという。自殺者は小銃の銃口を口でくわえ、足の指で引き金を引いて死んでいった。自殺者は非国民ということで、残された家族が周囲から冷たい目で見られる。従って、全て戦死扱いにしたという。それにしても戦争による死亡は戦闘によるものだけではないということを痛感させられた。自国の上級者からのイジメによって、多くの犠牲者が出たという事実は凄惨《せいさん=むごたらしい》である。
また、鈴木氏が九死に一生を得たノモンハン事変の体験談も強く印象に残る話であった。
ある戦闘中、鈴木氏は一人で戦場に取り残されてしまった。ソ連兵がやってきたが死んだふりをしてやり過ごす。そして、彼らがいなくなってから、部隊と合流するため、一人で歩き出した。 飲まず食わずで三日間歩きつづけたという。季節は真夏。しかし、その真夏にも関わらず、最後の日は雪が降ったとのこと。 「えっ」という驚きを感じるのは私だけではなかろう。鈴木氏は笑っていう。「モンゴルの草原ではこうした天候の急変は日常茶飯事です」。
数奇な体験をされた鈴木氏は、昭和14年帰国され、一度は除隊となる。その後、故郷で陸軍飛行場の軍属として勤務するが昭和18年再召集される。やがて、昭和20年の終戦直前に除隊となり、再度帰国。もう一度、軍飛行場に勤め、終戦もそこで迎える。
2度目の戦場から鈴木氏が無事に帰り、次世代への語り部となった運命に感謝したい。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
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「山本五十六《やまもといそろく 注》出撃を見送る」
愛川町 井上 包雄(大正9《1920》年生)
昭和16《1941》年6月30日海兵団入団。乗っていた船「赤城」「武蔵」「さんとす丸」はいずれも沈んだ。海兵団は厳しかった。悪くなくてもビンタだった。「赤城」では艦首に直径20センチの主砲が6個あり、弾を込める任務についていた。約60キロ強の弾は下の倉庫から機械で上げてくる。参謀などにお茶を入れる雑用もやっていたので、南雲忠一中将とも話した。寝る時はハンモック。10月15日の横須賀海兵団卒業後、九州で訓練し赤城に乗り込んで、11月18日出港。
12月8日ハワイ作戦っそこで初めて日米戦争知った。ミッドウェー海戦ではもう敗戦だと感じていた。アメリカ艦隊はハワイにいると聞いていたが違った。
やられに行ったようなものだった。「赤城」が燃えたので味方の魚雷で沈めて、「陸奥」に移った。そこでも雑用をやっていたので、誰の責任だと内部でもめていたのを聞いた。負けたことがばれない様に、千葉の海軍航空隊に1カ月半監禁され、外出も許可されなかった。千葉から「武蔵」へ移った。戦艦だったので厳しさは覚悟していた。特攻隊が出て行くのも見た。昭和19年10月24日フィリピンで沈んだ時は、海へ放り出された。左へ傾いで沈んだ。そこへ弾が当たったんだと思う。集中攻撃だった。私は主砲に関係する任務だった。「武蔵」の弾は1トン半あった。
山本五十六長官が最期に飛行機で出て行くのをたまたま休憩で甲板から見送った。山本長官が亡くなってもしばらく正式な発表は無かった。「武蔵」が沈んでからは、マニラのコレヒドール島のアメリカ基地に監禁されていた。1カ月後、「さんとす丸」に乗り帰国途中台湾沖で沈んだ。助けてもらい、台湾の高雄で終戦を知った。翌年帰国。
(お話を聞いて)
話者の人柄であろうか。それとも大正世代の我慢強さなのだろうか。悲惨な戦争体験をされたにも関わらず、軍隊生活についての恨み辛みや愚痴はほとんど聞かれなかった。海軍伝統のしごきや私的制裁も受けたようだが、井上氏はそれを淡々と流す。
しかし、乗り組んだ艦船が次々と沈没。それを3度も体験したという話は驚きである。
戦後世代の我々にとっては、乗船が沈むなど、一生涯、体験することはないであろう。こうしたことをさらりと語られるだけに、戦争の恐怖がより一層際立っ。
太平洋戦争は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で始まったが、井上氏は、この場にも居合わせている。乗り組んでいた空母「赤城」はこのときの旗艦である。日米の形成が逆転する契機となったミッドウェーの敗戦も経験されている。その帰国途中の船の中で、将校たちが責任のなすりあいをやっていたとの話は衝撃的であった。「人は逆境の時こそ、その人の本当の姿が見える」というが、まさに、それを象徴するかのような逸話である。
「赤城」沈没後の井上氏は、世界最大の戦艦「武蔵」に乗り込み、主砲塔内に配置されていた。同艦がシブヤン海《=フィリッピン中央部にある小さな海域》に沈んだ時も、この現場にいたのである。その後、内地帰還のために乗り組んだ輸送艦「サントス丸」で三度目の沈没を経験している。
話者の体験は、日本海軍が開戦から終戦までたどった軌跡と一致しているかのようである。まさに歴史の生き証人といえよう。
ところで空母「赤城」の戦友会は、乗組員の高齢化により、既に解散したとのこと。戦後60年という時代の流れをここに感じる。
「乗っていた船が3度も沈んだ」。この言葉は、戦後世代が「戦争」について考える際、何よりの警鐘《けいしょう=危険の予告》となりそうである。
(聞き手 山口 研一 昭和34《1959》年生)
注 山本五十六=26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。
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「軍隊は消灯ラッパでほっとする」
愛川町 野口 秋雄(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和14年1月10日現役で山梨甲府歩兵49連隊に入隊。初年兵は人権も何も無かった。
毎日気が休まらず消灯ラッパでホッとした。新兵教育は歩兵砲の操作訓練と学科。3ケ月終わると富士の裾野まで歩いて行き、実弾射撃訓練する。それが修了して一人前だった。
それから皆外地へ行かされるのに、私は中隊の留守隊要員として残ることに。12月には上等兵になり、補充で入ってくる兵の教育助手をした。翌年秋、憲兵合格。12月に中野学校と言われる陸軍憲兵学校に入学する。昭和16年6月の卒業と同時に樺太《からふと》の憲兵隊に一人だけ配属された。そこで終戦まで勤務することになる。昭和20年8月9日のソ連参戦まで戦闘なく、平穏だった。
ソ連が国境を越えて来た時は必死で抗戦し、23日頃まで戦闘した。樺太にいた約30万人の日本人を一人でも多く北海道へ帰そうと、ソ連の進攻を食い止めた。とうとう引き上げ船が無くなったと聞いて降伏した。
9月2日か3日に捕虜になった。昭和24年12月の帰国まで強制労働させられた。辛かったのは寒さとひもじさ。握りこぶし大の黒パンと茶碗《ちゃわん》1杯の小麦やコーリャンが1食分。昭和21年1月にシベリアで伐採作業をさせられたが、収容所が天幕だった。ストーブを焚《た》いても室内が凍った。青物が無かったので松の葉をぬるま湯に入れて青汁を出して飲んだ。まずかったけど、体の為だった。昭和23年頃になると共産教育、民主運動という名のものとに、憲兵は反動勢力だと同じ日本人につるし上げられた。ヨードチンキで書いた家への手紙も、初めは無事を知らせていたのが共産主義に傾いた内容になっていった。
愛川町 野口 秋雄(大正7《1918》年生)
(あらすじ)
昭和14年1月10日現役で山梨甲府歩兵49連隊に入隊。初年兵は人権も何も無かった。
毎日気が休まらず消灯ラッパでホッとした。新兵教育は歩兵砲の操作訓練と学科。3ケ月終わると富士の裾野まで歩いて行き、実弾射撃訓練する。それが修了して一人前だった。
それから皆外地へ行かされるのに、私は中隊の留守隊要員として残ることに。12月には上等兵になり、補充で入ってくる兵の教育助手をした。翌年秋、憲兵合格。12月に中野学校と言われる陸軍憲兵学校に入学する。昭和16年6月の卒業と同時に樺太《からふと》の憲兵隊に一人だけ配属された。そこで終戦まで勤務することになる。昭和20年8月9日のソ連参戦まで戦闘なく、平穏だった。
ソ連が国境を越えて来た時は必死で抗戦し、23日頃まで戦闘した。樺太にいた約30万人の日本人を一人でも多く北海道へ帰そうと、ソ連の進攻を食い止めた。とうとう引き上げ船が無くなったと聞いて降伏した。
9月2日か3日に捕虜になった。昭和24年12月の帰国まで強制労働させられた。辛かったのは寒さとひもじさ。握りこぶし大の黒パンと茶碗《ちゃわん》1杯の小麦やコーリャンが1食分。昭和21年1月にシベリアで伐採作業をさせられたが、収容所が天幕だった。ストーブを焚《た》いても室内が凍った。青物が無かったので松の葉をぬるま湯に入れて青汁を出して飲んだ。まずかったけど、体の為だった。昭和23年頃になると共産教育、民主運動という名のものとに、憲兵は反動勢力だと同じ日本人につるし上げられた。ヨードチンキで書いた家への手紙も、初めは無事を知らせていたのが共産主義に傾いた内容になっていった。
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(お話を聞いて)
自分の伯父が戦争中樺太にいて、数年間シベリアに拘留されて帰還しただけは知っていましたが、実際に本人から話を聞くのは初めてで、つらい体験を聞くのかと、少々気が重く感じていました。
しかし、初年兵時にはしごきやいじめは?との質問には、「まあ、いやな思いもだいぶしたな、人権も何もなかったな」とだけしか語られませんでした。
準備しておいてくださった写真や資料を見ながら語る口調は思い出の青春の1ページという雰囲気で、学校時代や教官時代が戦争中でありながら充実していたことが伺えました。
戦後60年を経て、自分自身の中ではすっかり消化されていたのか、それとも本人の性格か、とても軽い口調だったので、かえって、いまさら人にはいえない辛い体験がたくさんあっただろうと想像できました。
さて、私は幼少時、両親が共働きだったため日中は自営業の伯父宅に預けられていました。ある時、食べきれない量のお代わりをねだったにもかかわらず残してしまい、伯父にひどくしかられたことがあります。それ以来、出された食事は残さず食べること、自分で食べられそうな量を考えることが身につきましたが、当時は、しかられた理由がよく理解できませんでした。
今回、拘留中の最もつらかったことは、寒さと、食べるものが充分になく毎日ひもじかったことだ、という話を聞き、日ごろは穏やかな伯父が烈火《=激しく燃える火》のごとく怒り、迎えにきた私の母に対しても厳しく注意していた様子が思い出され、怒った理由が拘留中の体験にあったのだと初めて気がつきました。
これまでは、食事を残さない理由は単に「いけないことだ」という認識しかありませんでしたが、今後は私の中にも伯父の戦争体験があることを忘れずにいたいと思いました。
(聞き手 井上 充恵 昭和39《1964》年生)
自分の伯父が戦争中樺太にいて、数年間シベリアに拘留されて帰還しただけは知っていましたが、実際に本人から話を聞くのは初めてで、つらい体験を聞くのかと、少々気が重く感じていました。
しかし、初年兵時にはしごきやいじめは?との質問には、「まあ、いやな思いもだいぶしたな、人権も何もなかったな」とだけしか語られませんでした。
準備しておいてくださった写真や資料を見ながら語る口調は思い出の青春の1ページという雰囲気で、学校時代や教官時代が戦争中でありながら充実していたことが伺えました。
戦後60年を経て、自分自身の中ではすっかり消化されていたのか、それとも本人の性格か、とても軽い口調だったので、かえって、いまさら人にはいえない辛い体験がたくさんあっただろうと想像できました。
さて、私は幼少時、両親が共働きだったため日中は自営業の伯父宅に預けられていました。ある時、食べきれない量のお代わりをねだったにもかかわらず残してしまい、伯父にひどくしかられたことがあります。それ以来、出された食事は残さず食べること、自分で食べられそうな量を考えることが身につきましたが、当時は、しかられた理由がよく理解できませんでした。
今回、拘留中の最もつらかったことは、寒さと、食べるものが充分になく毎日ひもじかったことだ、という話を聞き、日ごろは穏やかな伯父が烈火《=激しく燃える火》のごとく怒り、迎えにきた私の母に対しても厳しく注意していた様子が思い出され、怒った理由が拘留中の体験にあったのだと初めて気がつきました。
これまでは、食事を残さない理由は単に「いけないことだ」という認識しかありませんでしたが、今後は私の中にも伯父の戦争体験があることを忘れずにいたいと思いました。
(聞き手 井上 充恵 昭和39《1964》年生)
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