『肉声史』 戦争を語る (47)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「夜露を舐《な》め野草を食べての3日間」
愛川町 鈴木 圃治(大正6《1917》年生)
(あらすじ)
19歳で徴兵検査、翌昭和12年現役兵として東京赤羽の近衛工兵1連隊へ入隊。1カ月後満州の孫呉《そんご》へ。その後ノモンハンへ《=中国東北部、モンゴルとの国境に近い》の出動命令が出て現地で戦っていたが、途中部隊に置き去りにされて一人になった。疲れて倒れていると蒙古の兵隊が寄ってきた。記録係として重要書類をたくさん預かっていたので、捕まったらすぐ焼こうと考えているところへソ連軍も入ってきた。必死で死んだふりをして助かった。
それから3日間、夜露をなめ草を食べながら蒙古の草原をさまよった。最後には突然雪が降り出した。向こうは真夏からいきなり冬になる。日本の春や秋を思いながら死を覚悟した。零下45度の気温の中やっと本隊にたどり着いた。軍隊では厳しさに耐え切れず自殺者や行方不明者が多く出た。ノモンハンには1年位いて部隊本部の書記をやっていた。天幕生活だったが、夜中は冷えて眠れなかった。
満州に2年半いて赤羽に戻った。昭和18年除隊後、熊谷陸軍飛行学校に軍属《=軍に所属する文官》として勤務。翌年2回目の召集があり、再び満州へ。
昭和20《1945》年8月に赤羽に帰ってきて、中津飛行場勤務中に終戦。事務所にしていた地下壕で玉音放送聞いて、「自殺しよう」という人も多かった。
終戦間際、飛行場からは特攻隊も見送った。15、6歳の少年が夕方になると「明日行きます」と。練習機の「赤とんぼ《=赤くぬった練習機の俗称》」で出ていき、任務遂行の前にみんな落とされたと聞いた。戦争は絶対してはいけない。あの苦しみは2度と味わいたくない。
(お話を聞いて)
「兵営内で銃声が響く。また自殺者だ」鈴木園治氏の口からそんな言葉が聞かれた。話者は大正6年生まれ。現役兵として近衛工兵第一連隊に所属し、満州に渡る。
冒頭の言葉は、渡満後の初年兵時代の話である。古兵からのイジメはすさまじく、320人いた中隊の中から、12,3人の初年兵が自殺や行方不明になったという。自殺者は小銃の銃口を口でくわえ、足の指で引き金を引いて死んでいった。自殺者は非国民ということで、残された家族が周囲から冷たい目で見られる。従って、全て戦死扱いにしたという。それにしても戦争による死亡は戦闘によるものだけではないということを痛感させられた。自国の上級者からのイジメによって、多くの犠牲者が出たという事実は凄惨《せいさん=むごたらしい》である。
また、鈴木氏が九死に一生を得たノモンハン事変の体験談も強く印象に残る話であった。
ある戦闘中、鈴木氏は一人で戦場に取り残されてしまった。ソ連兵がやってきたが死んだふりをしてやり過ごす。そして、彼らがいなくなってから、部隊と合流するため、一人で歩き出した。 飲まず食わずで三日間歩きつづけたという。季節は真夏。しかし、その真夏にも関わらず、最後の日は雪が降ったとのこと。 「えっ」という驚きを感じるのは私だけではなかろう。鈴木氏は笑っていう。「モンゴルの草原ではこうした天候の急変は日常茶飯事です」。
数奇な体験をされた鈴木氏は、昭和14年帰国され、一度は除隊となる。その後、故郷で陸軍飛行場の軍属として勤務するが昭和18年再召集される。やがて、昭和20年の終戦直前に除隊となり、再度帰国。もう一度、軍飛行場に勤め、終戦もそこで迎える。
2度目の戦場から鈴木氏が無事に帰り、次世代への語り部となった運命に感謝したい。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
愛川町 鈴木 圃治(大正6《1917》年生)
(あらすじ)
19歳で徴兵検査、翌昭和12年現役兵として東京赤羽の近衛工兵1連隊へ入隊。1カ月後満州の孫呉《そんご》へ。その後ノモンハンへ《=中国東北部、モンゴルとの国境に近い》の出動命令が出て現地で戦っていたが、途中部隊に置き去りにされて一人になった。疲れて倒れていると蒙古の兵隊が寄ってきた。記録係として重要書類をたくさん預かっていたので、捕まったらすぐ焼こうと考えているところへソ連軍も入ってきた。必死で死んだふりをして助かった。
それから3日間、夜露をなめ草を食べながら蒙古の草原をさまよった。最後には突然雪が降り出した。向こうは真夏からいきなり冬になる。日本の春や秋を思いながら死を覚悟した。零下45度の気温の中やっと本隊にたどり着いた。軍隊では厳しさに耐え切れず自殺者や行方不明者が多く出た。ノモンハンには1年位いて部隊本部の書記をやっていた。天幕生活だったが、夜中は冷えて眠れなかった。
満州に2年半いて赤羽に戻った。昭和18年除隊後、熊谷陸軍飛行学校に軍属《=軍に所属する文官》として勤務。翌年2回目の召集があり、再び満州へ。
昭和20《1945》年8月に赤羽に帰ってきて、中津飛行場勤務中に終戦。事務所にしていた地下壕で玉音放送聞いて、「自殺しよう」という人も多かった。
終戦間際、飛行場からは特攻隊も見送った。15、6歳の少年が夕方になると「明日行きます」と。練習機の「赤とんぼ《=赤くぬった練習機の俗称》」で出ていき、任務遂行の前にみんな落とされたと聞いた。戦争は絶対してはいけない。あの苦しみは2度と味わいたくない。
(お話を聞いて)
「兵営内で銃声が響く。また自殺者だ」鈴木園治氏の口からそんな言葉が聞かれた。話者は大正6年生まれ。現役兵として近衛工兵第一連隊に所属し、満州に渡る。
冒頭の言葉は、渡満後の初年兵時代の話である。古兵からのイジメはすさまじく、320人いた中隊の中から、12,3人の初年兵が自殺や行方不明になったという。自殺者は小銃の銃口を口でくわえ、足の指で引き金を引いて死んでいった。自殺者は非国民ということで、残された家族が周囲から冷たい目で見られる。従って、全て戦死扱いにしたという。それにしても戦争による死亡は戦闘によるものだけではないということを痛感させられた。自国の上級者からのイジメによって、多くの犠牲者が出たという事実は凄惨《せいさん=むごたらしい》である。
また、鈴木氏が九死に一生を得たノモンハン事変の体験談も強く印象に残る話であった。
ある戦闘中、鈴木氏は一人で戦場に取り残されてしまった。ソ連兵がやってきたが死んだふりをしてやり過ごす。そして、彼らがいなくなってから、部隊と合流するため、一人で歩き出した。 飲まず食わずで三日間歩きつづけたという。季節は真夏。しかし、その真夏にも関わらず、最後の日は雪が降ったとのこと。 「えっ」という驚きを感じるのは私だけではなかろう。鈴木氏は笑っていう。「モンゴルの草原ではこうした天候の急変は日常茶飯事です」。
数奇な体験をされた鈴木氏は、昭和14年帰国され、一度は除隊となる。その後、故郷で陸軍飛行場の軍属として勤務するが昭和18年再召集される。やがて、昭和20年の終戦直前に除隊となり、再度帰国。もう一度、軍飛行場に勤め、終戦もそこで迎える。
2度目の戦場から鈴木氏が無事に帰り、次世代への語り部となった運命に感謝したい。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
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