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『肉声史』 戦争を語る (49)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (49)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/1 7:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「軍隊は消灯ラッパでほっとする」
 
 愛川町 野口 秋雄(大正7《1918》年生)

 (あらすじ)

 昭和14年1月10日現役で山梨甲府歩兵49連隊に入隊。初年兵は人権も何も無かった。
 毎日気が休まらず消灯ラッパでホッとした。新兵教育は歩兵砲の操作訓練と学科。3ケ月終わると富士の裾野まで歩いて行き、実弾射撃訓練する。それが修了して一人前だった。
 それから皆外地へ行かされるのに、私は中隊の留守隊要員として残ることに。12月には上等兵になり、補充で入ってくる兵の教育助手をした。翌年秋、憲兵合格。12月に中野学校と言われる陸軍憲兵学校に入学する。昭和16年6月の卒業と同時に樺太《からふと》の憲兵隊に一人だけ配属された。そこで終戦まで勤務することになる。昭和20年8月9日のソ連参戦まで戦闘なく、平穏だった。
 ソ連が国境を越えて来た時は必死で抗戦し、23日頃まで戦闘した。樺太にいた約30万人の日本人を一人でも多く北海道へ帰そうと、ソ連の進攻を食い止めた。とうとう引き上げ船が無くなったと聞いて降伏した。
 9月2日か3日に捕虜になった。昭和24年12月の帰国まで強制労働させられた。辛かったのは寒さとひもじさ。握りこぶし大の黒パンと茶碗《ちゃわん》1杯の小麦やコーリャンが1食分。昭和21年1月にシベリアで伐採作業をさせられたが、収容所が天幕だった。ストーブを焚《た》いても室内が凍った。青物が無かったので松の葉をぬるま湯に入れて青汁を出して飲んだ。まずかったけど、体の為だった。昭和23年頃になると共産教育、民主運動という名のものとに、憲兵は反動勢力だと同じ日本人につるし上げられた。ヨードチンキで書いた家への手紙も、初めは無事を知らせていたのが共産主義に傾いた内容になっていった。
 
 

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編集者 (代理投稿)

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