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『肉声史』 戦争を語る (45)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (45)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/9/27 12:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 「零下40度 トイレは外の掘立小屋」

 綾瀬市 及川 勝郎(昭和2《1927》年生)

 (あらすじ)

 志願兵として18歳で兵隊に行った。昭和18年4月に静岡県浜松飛行隊に入隊し、8月には朝鮮から満州を経て中国へ。ここで軍隊生活を終えソ連に抑留された。
 一度もソ連とは戦争せず、捕虜になったのが残念だった。ソ連には兵器から衣類まであらゆる物が略奪され、捕虜も貨物列車で身動きできない程詰め込まれた。各駅停車で移動し、用を足すのも貨車の下だった。隙間《すきま》から外を見て北へ行くことを知り、暗い気持ちで皆無口になった。
 抑留生活で辛かったのはマイナス40度の気温と食事。籾殻《もみがら》が入って胃に刺さりそうな硬い黒パン一切れとじゃが芋のスープで、初めの数日間はとても食べられなかった。寒さと栄養失調で毎朝人が死んでいた。死体も裏山に埋めるだけ。墓標もなく、狼が死体を食べていく。情けない思いだった。寝泊りはロシア人の囚人の収容所だった所で電気も窓もなく、ペチカが一つあるだけ。
 トイレは外の掘っ立て小屋で、用を足すのは前の人の凍ったのを鉄棒で壊してからだった。軍隊の教育はでたらめでひどかった。私達は12人の班での団体生活で、仲間が一人でも失敗すると向かい合って頬《ほお》を叩けと連帯責任だった。常識外れた教育もあった。柱の上でホーホケキョと鳴く「鴬《うぐいす》の綱渡り」という罰もあった。ソ連での強制労働は、バイカル湖北の森林地帯で松の伐採。拠点まで2時間かかって、腰までの雪の中を黙々と歩いた。日本人は真面目だから仕事が速く、どんどん量が増やされた。
 頑張ったから帰国だと騙《だま》されて転々と労働場所を変えられた。3年目にナホトカ港で日本の船を見た時に初めて安心した。一度も戦わず、何の罪もない抑留者が6万人も死んだという事実を知ってほしい。

 (お話を聞いて)

 戦争について、私の目・耳には、テレビで放送されるドラマや歌詞だけでしか入ってきません。戦争と一口にいっても、私には遠い過去のものでしかなく、すでに亡くなっている父も戦争を体験しているのに、直接、父から話を聞いたことがありませんでした。ですので、今回実体験された方から戦争について生の声を聞くのは初めてです。
 及川さんの話を伺い、17歳から23歳の現代では、一番よき時代の青年時代に志願されたとはいえ、マイナス40℃の極寒の地バイカル湖での拘留生活、パン1切れ、ジャガイモ1個の食事が朝夕二食だけ、窓も電気もなく、暖はペチカ1個だけ、食事が済んだら寝るだけの生活、トイレも近くにはなく雪に覆《おお》われた平野の一角で、前のは《ほ》うのが氷の柱になってしまい、持って言った鉄の棒で砕く生活、6万人の仲間が寒さと栄養失調で次々に亡くなって逝った状況、亡くなった仲間達を埋葬したくても、雪と氷で土が掘れず、40センチ程度の穴を作り、埋葬し雪で覆うことしか出来なかったとのことなど事細かに語られ、そのときの思いを話していただきましたが、到底言葉にしていえるものではないと思います。 何事も連帯責任を問われ、今の私たちにはとても考えられない毎日だったと思うと返す言葉もありません。
 戦争はしてはならないと理屈ではわかっていても、他人事のように感じてしまっている自分がいます。身近に戦争体験を聞くことにより自分に置き換えたら、また現代の若者に同じ経験をさせたら、どうなるか目に見えるようです。
 収録を終えてから、及川さんが "寒い地で、何の罪もないたくさんの人たちが、今でも松の木の下に眠っている”といわれた言葉に何も答えられませんでした。

 (聞き手 匿名 昭和30《1955》年生)


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編集者 (代理投稿)

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