『肉声史』 戦争を語る (46)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「兵器は大正15《1926》年製の歩兵砲」
愛川町 小島 茂平(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和20年3月25日千葉佐倉の第57師団に北支要員として入隊,4月20日頃の夜遅く北支に向けて出発。九州まで列車で行ったが昼間は窓を開けることが禁止されていた。家宛のハガキを10枚程列車の窓から落としたら、2、3枚は誰かが投函してくれたらしく家に届いていた。4月末に佐世保から連絡船で釜山へ行き、貨物列車で満州から北支へ入った。満州からは共産軍の攻撃を回避する為夜間のみ走った。5月半ばに山西省の臨汾《りんぷん=中国山西省南部》へ。
そこに北支派遣の第114師団があり、382大隊歩兵砲中隊に配属された。兵器は大正15年製の歩兵砲《=歩兵連隊に配備された砲》が1門と平射砲だけ。歩兵砲の運搬は馬だった。砲を4つに分けて、4頭で運んだ。荷物の積み方が悪く、馬の背の皮が剥《む》けたことがあって上官に大目玉食らったことがあった。それほど馬は大切だった。空襲に遭って、砲を撃とうと操作しているうちに敵軍がいなくなったこともあった。終戦後、共産軍の掃討作戦《=敵をすっかり打ち滅ぼす》に出た。砲をバラして持って行った。私たちは蒋介石《しょうかいせき 注》軍に捕虜となったのでまだ良かった。2、3人の兵が来ただけで、共産軍のようなきつい束縛がなかった。
復員の準備で兵器や馬を返上したら、翌朝1頭の馬が遠い距離を走って帰ってきた。この時は皆で泣いた。復員の為の移動が3月下旬から始まった。臨汾から太原《たいげん=中国山西省の省都》に向けて4、5日歩いた。途中で引き上げ者の様子を見たが、子供を抱えて大変だった。太原の町は日本そのものだった。立派な病院など日本が金をかけて作ったいい町だった。昭和21年5月7日佐世保に上陸。日本が見えた時は何とも言えない気持ちだった。
(お話を聞いて)
軍隊では人よりも馬が大切らしい。一日は、朝おきたら、まず、馬に飼葉を与える作業から始まる。そして馬の世話が済んでから、人間の食事が始まったという。
小島茂平氏は昭和20年3月の入隊。従って、氏の軍隊生活は5ケ月ということになる。入営先は千葉県佐倉の歩兵57連隊。1カ月後、北支行きが決定し、鉄道で移動している。
この移動中、家族に当てて自分の消息を知らせる手紙を車外へ落とした。拾った人が郵送してくれることにかすかな望みを託して。10枚ほど落とした中で、2,3枚が家に着いたという。戦後世代の我々が「軍事機密」について理解することは困難である。しかし、厳しくても人々が支えあって生きていた時代であったのかもしれない。故郷についた手紙の逸話には、ほっとするものを感じる。
北支に到着した小島氏たちは、新兵教育を受けることとなる。小島氏は歩兵砲中隊に配属となった。この砲を運ぶに必要だったのが、冒頭の話の馬だったのである。その世話が大変だったらしい。過重な荷物を載せて、背中の皮が剥けたりすると、罰として、兵隊が殴られたという。小島氏も皮のベルトで殴られ、Uがひどくはれ上がったこともあったと語る。「人権」という言葉にあまり縁のない社会のようだ。
もっとも、過酷な軍隊の中でも救いはあったようである。小島氏たちの教育を担当したのは、三重県出身の上等兵。この方が「実にいい人でした」と小島氏は語る。現代社会でも直属上司の良し悪しで、平社員の労苦は大きく異なる。生死のかかった軍隊なら、なおさらのことであろう。
そのためであろうか。労苦もあったが、「軍隊で礼儀などが身についたので、悪い面ばかりでもなかったよ」と小島氏は明るく話を結んだ。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
注 蒋介石=中華民国の政治家、軍人、中華民国初代総統
愛川町 小島 茂平(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
昭和20年3月25日千葉佐倉の第57師団に北支要員として入隊,4月20日頃の夜遅く北支に向けて出発。九州まで列車で行ったが昼間は窓を開けることが禁止されていた。家宛のハガキを10枚程列車の窓から落としたら、2、3枚は誰かが投函してくれたらしく家に届いていた。4月末に佐世保から連絡船で釜山へ行き、貨物列車で満州から北支へ入った。満州からは共産軍の攻撃を回避する為夜間のみ走った。5月半ばに山西省の臨汾《りんぷん=中国山西省南部》へ。
そこに北支派遣の第114師団があり、382大隊歩兵砲中隊に配属された。兵器は大正15年製の歩兵砲《=歩兵連隊に配備された砲》が1門と平射砲だけ。歩兵砲の運搬は馬だった。砲を4つに分けて、4頭で運んだ。荷物の積み方が悪く、馬の背の皮が剥《む》けたことがあって上官に大目玉食らったことがあった。それほど馬は大切だった。空襲に遭って、砲を撃とうと操作しているうちに敵軍がいなくなったこともあった。終戦後、共産軍の掃討作戦《=敵をすっかり打ち滅ぼす》に出た。砲をバラして持って行った。私たちは蒋介石《しょうかいせき 注》軍に捕虜となったのでまだ良かった。2、3人の兵が来ただけで、共産軍のようなきつい束縛がなかった。
復員の準備で兵器や馬を返上したら、翌朝1頭の馬が遠い距離を走って帰ってきた。この時は皆で泣いた。復員の為の移動が3月下旬から始まった。臨汾から太原《たいげん=中国山西省の省都》に向けて4、5日歩いた。途中で引き上げ者の様子を見たが、子供を抱えて大変だった。太原の町は日本そのものだった。立派な病院など日本が金をかけて作ったいい町だった。昭和21年5月7日佐世保に上陸。日本が見えた時は何とも言えない気持ちだった。
(お話を聞いて)
軍隊では人よりも馬が大切らしい。一日は、朝おきたら、まず、馬に飼葉を与える作業から始まる。そして馬の世話が済んでから、人間の食事が始まったという。
小島茂平氏は昭和20年3月の入隊。従って、氏の軍隊生活は5ケ月ということになる。入営先は千葉県佐倉の歩兵57連隊。1カ月後、北支行きが決定し、鉄道で移動している。
この移動中、家族に当てて自分の消息を知らせる手紙を車外へ落とした。拾った人が郵送してくれることにかすかな望みを託して。10枚ほど落とした中で、2,3枚が家に着いたという。戦後世代の我々が「軍事機密」について理解することは困難である。しかし、厳しくても人々が支えあって生きていた時代であったのかもしれない。故郷についた手紙の逸話には、ほっとするものを感じる。
北支に到着した小島氏たちは、新兵教育を受けることとなる。小島氏は歩兵砲中隊に配属となった。この砲を運ぶに必要だったのが、冒頭の話の馬だったのである。その世話が大変だったらしい。過重な荷物を載せて、背中の皮が剥けたりすると、罰として、兵隊が殴られたという。小島氏も皮のベルトで殴られ、Uがひどくはれ上がったこともあったと語る。「人権」という言葉にあまり縁のない社会のようだ。
もっとも、過酷な軍隊の中でも救いはあったようである。小島氏たちの教育を担当したのは、三重県出身の上等兵。この方が「実にいい人でした」と小島氏は語る。現代社会でも直属上司の良し悪しで、平社員の労苦は大きく異なる。生死のかかった軍隊なら、なおさらのことであろう。
そのためであろうか。労苦もあったが、「軍隊で礼儀などが身についたので、悪い面ばかりでもなかったよ」と小島氏は明るく話を結んだ。
(聞き手 山口研一 昭和34《1959》年生)
注 蒋介石=中華民国の政治家、軍人、中華民国初代総統
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編集者 (代理投稿)