戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ)
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- 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・50 (林ひろたけ) (編集者, 2008/8/25 8:11)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
三十八度線を越える
市辺里を過ぎるころ、私たちとおなじく逃避行をつづける日本人集団とときどき遭遇した。日本人同志で大人たちは情報を交換しては道筋を決めていた。
洋武は熱が下がった次ぎの日に母の胃痛も少し楽になったようだった。私は熱が下がってからまた、順ちゃんと一緒に動くようになった。順ちゃんは光夫君の世話を姉さんと一緒にしながら一生懸命に歩いていた。山のふもとにそって道の途中で休憩になった。私はルックを背中にぐつたりと休んでしまった。しかし、順ちゃんは畑の向こう側に白い敷布が落ちているのを見つけて「ミッちゃんが下痢でパンツもおしめも足りないので」といって白い敷布を拾いに行った。しかし、側まで言ってすぐ帰ってきた。「おばあちゃんが死んでいた。おばあちゃんの死体にかけてあった」そういって私の側で座っている光ちゃんの横にぐったりと寝転んだ。疲れているのに敷布を拾いにいっていっそう疲れた様子だった。死体を見たのはそれが初めてだった。しかし、それから三十八度線に近づくにつれて老人や子供の遺体が放置されていた。半ば埋められた遺体もあった。激しい雨で、腕や足がのぞいていた。そのたびにみんな目をそむけたが、何もできなかった。
「あと三日で開城」と末永先生に言われてから五日もたっていたがまだ三十八度線にはたどり着けなかった。そして明日は間違いなく「国境をこえる」という連絡があって、集団はその夜、残りの食糧をみな整理したり翌日の準備に当てていた。
大南面とういう部落を出た時、保安隊にとめられた。「また、略奪だ」とみんなが恐れた。保安隊長がみんなをあつめた。「あなたがたは道を間違えている。こちらにいけば開城とは反対に方に出る。ほんとうにたいへんですね」という注意だった。
「私たち朝鮮人もよい国をつくります。あなた方も日本にかえってよい国を作ってください。朝鮮人があなた方にひどいことをしているのも知っています。いま、朝鮮も独立を前に混乱しています。ソ連軍やら保安隊やらそれぞれ動くのでみなさんに迷惑をかけています。地元の百姓は、日本人の避難民がかぼちゃや野菜を荒らして歩くのでみんな怒っているのです。気の毒に思っている朝鮮人もたくさんいますから気をつけてください。」
それは雨宿りをした朝鮮のヤンバンさんの家庭以来の親切だった。「あれは九州弁だな」と誰かが言った。「ウン長崎弁だな」といった。保安隊長の長崎弁にみんなほっとして涙を流す人もいた。洋武は高梁畑でかぼちゃを手に入れたことを思いだし、なんとなくずきんとした。
そして「これからも、おかしな人達が略奪するかもするかもしれないから、気をひきつめて歩いてほしい。このあたりの人は日本人がとおるたびに芋やらかぼちゃやら野あらしにあって日本人を憎んでいる。あとの人のためにあなた方はそんなことしないでいってはしい」と付け加えた。その保安隊長は逃避行の中で、避難民の味方にたったはじめてで最後の保安隊長だった。
しかし、その翌日も三十八度線を越えることはできなかった。道を間違っていたらしい。小南面というところで野営をした。次ぎ日の朝、集団にはざわめきがあった。前日に「もう最後」と食糧を食べきっていたため多くの家族は、その朝食べるものがなかった。集団で朝飯をつくる家族はいなかった。ただ、林家だけは粟粥を作った。それはハナがそれでもと用心して残していたわずかな粟だった。鍋からにおいがたちあがると周囲の人達が激しい羨望の目で見るようになった。林家の回りにきて私たちの粟粥を食べるのをじっとみている子もいた。順ちゃんの家を大事にするハナだったが、その朝は母は知らないふりをして「早く食べなさい」と家族にせかしていた。粟粥は薄く少しドロンとするぐらいの潰さだった。粟粒も少なかった。わずか一握りの粟を六人でわけるのだから当然のことだった。でもどろんとした舌触りは空腹のたしになった。
洋武から卵をとりあげて順ちゃんの家にもっていったハナだったが、この日ばかりは人が変わったようにきびしい表情をしていた。順ちゃん一家は少し離れたところで空腹に耐えていたようだった。
「今日こそは三十八度線をこえられる」 そういう声がある中、歩き出した。山の中に入ってまもなく、集団は道がちょっと広くなったところで止められた。それは保安隊ではなく、チゲ (背負い子)をもった一団だった。彼らはみんなを並ばせた。一人だけ銃をもった若者がいてまず、威嚇の実弾を撃って見せた。
上手な日本語で 「ご苦労さん。日本人を助けてあげようと待っていました。これから山をこえるのはたいへんです。子どもさんやおばあさんや大きな荷物をチゲに載せて南まで送ってあげましょう」 と隊長らしき人がいった。「皆さんはどの集団よりみすぼらしい貧乏な日本人だ。お金がないこともだいたいわかる。しかし、それでも何かあるでしょう。まず鍋や釜は、今日一目でもういりません。明日からはアメリカ軍が食事の面倒見てくれます。みんな置いていってください。私たちはチゲで荷物や老人を背負っていったあげるから、なにかだしなさい」。
「日本語に『気は心』という言葉があるでしょう。皆さんの気を示してください」。そういったかと思うといっせいにルックを勝手に開き出した。言葉つきはていねいだったが、追いはぎだった。もうなにもない集団だった。しかし彼らは日本人が大事なものをどこに隠しているかよく知っていた。手品のように次々に獲物を見つけ出した。順ちゃんの小母さんのリックの手の厚いところを切り開くと指輪が出てきた。「結婚指輪です。主人は死んだのです」といったが通用しなかった。「みんなそう言うんだ」と遮ろうとしたおばさんの手を足で蹴飛ばして指輪を取り上げた。
大村会長は、靴の中に隠してあったお金をとりあげられた。そしてわが家の権利書がとりあげられたとき、「お前の家が悪い」といって洋武をなぐりつけた郵便局長のおじさんのルックからは油紙につつまれた大量な切手が出てきた。彼らは有無を言わずに取り上げていった。彼らの略奪が終わると荷物を持って案内をしはじめたが、森の切れ目でソ連兵の小隊が通りすぎるとそれを理由にさっさと姿を消した。形ばかりの荷物運びだった。「あれが一等国民だから」。誰かが叫んだ。
ソ連兵は鉄兜をかぶり例のマンドリンの自動小銃を腰だめに構え、時々威嚇発射をしながら進軍していた。自動小銃特有のビューンバリバリという音が不気味だった。三十八度線が近づいていることがひしひしとわかった。
それからも、私は「気は心」という言葉を聞くと必ずあの三八度線での追いはぎ集団を思い出した。
道はもう一度山の中にはいって一人がやっと歩けるように狭くなり坂もきつくなった。光夫君は朝から元気はなく、その日はぜんぜん歩けなかった。それは多分朝ご飯を食べなかったからだと思っていた。光夫君を美代子姉さんが背負い、順ちゃんは後ろから元気のなくなった光夫君を「ミッちゃん元気を出して」と励ましながら山道を歩いていた。
時々老人や子供の遺体が放置してあった。土がかけてあっても半分ぐらいで手が出ていたり足が出ていたりして、遺体は惨めだった。「ここまできて、倒れるなってかわいそうにね」という声と「死んだらああなるんだよ」と誰かがいうと集団からため息があった。
「三八度線をこえたらしい」と声がでたのは昼過ぎだった。みんな朝ご飯を食べていなかったから元気はなかったが、それでも喜びでざわついていた。その時、光夫君は順ちゃんが負ぶっていた。元気のない声をあげて、ぐつたりとしていた。ズボンは下痢でぐちゃぐちゃだった。しかもその下痢は今までの黄色い便ではなくて、米のとぎ汁のような白い塊のようなウンチがズボンの横から出ていた。
小さな集落のはずれの子供の遊び場のような広場に出た。そこは間違いなく南側三八度線をこえていた。満州組と順安組の百名をこえる大集団が広場にはいると広場はいっばいになった。
光夫君が広場に下ろされたとき光夫君はすでに息はなかった。順ちゃんのお母さんは激しく泣いた。順ちゃんだけでなく、洋武も泣いた。みんなが泣いた。「ここまできたのにどうして」という思いがみんなにあった。辻村先生が光夫君の死体とウンチを見たとき顔色が変わった感じが子供の私たちにもわかった。
「遺体は焼きましよう。コレラでないかとおもう。コレラです」。そういった。順ちゃんのおばさんが遺体を近くの川で洗おうとしたがそれも伝染病だからととめられた。私はコレラという病気を知らなかった。しかし、コレラがどんなに恐ろしい伝染病かということをそれから直面することになった。
ちょっと休んでいると自転車で若い学生風の日本人が駆けつけてきた。戦闘帽に南洋の兵隊さんがつけているような耳を覆うような日陰よけをつけていた。
学生風の人はその広場にある旗ざおに日の丸を掲げた。私たちにとって日の丸は一年以上見たことはなかった。みんなを座らせてからその人は話を始めた。
「ご苦労様でした。私の家族も北朝鮮にいます。こうして皆さんの世話をしながら家族が逃げてくるのを待っているのです。開城には避難民のキャンプがあり、これからそこに移動します。トラックが一台きますのでこどもと老人はのってください。大人は半里ほどですから歩いてください」。
「北朝鮮には四〇万人の同朋が一年間も閉じ込められみんなたいへんな思いをしていました。ソ連は日ソ平和条約を廃棄した上、一方的に三八度線を封鎖しました。
フウヒョウでは一八〇〇名の邦人が死にました。ソ連は北海道を半分占領しようとしました。ソ連はほんとうに野蛮な国です」 など話した。
私たちには難しい言葉も多かった。
「内地は戦争に負けても今復興しています。先日は中等学校野球大会も復活して大阪の浪速商業が優勝しました」。
兄たちは中等野球大会が復活したことに声をあげた。「中等野球大会ってな一に」。私たちは知らなかった。「甲子園という野球場で日本中の中学校があつまって野球の大会を開くんだ。平壌一中も出たことがあるんだ。戦争で中止になっていたんだ」。兄達は興奮しながら交互に説明してくれた。私たちは野球そのものを知らなかった。
フウヒョウというのは 「富坪の悲劇」 として、日本人にとって北朝鮮での代表的で最大の悲劇の一つだった。
終戦の年の八月九日、ソ連軍の開戦は朝鮮東北部にも激しい攻撃をかけてきた。ソ連国境の成鏡北道では攻撃を受けた八万余人の日本人がいっせいに成鏡南道の感興府近辺に避難した。その多くは一ケ月以上歩いておりすでにたいへんな犠牲者がでていた。避難民は成興からさらに南下しょうとしたが、ソ連軍は南下を阻止して成興駅前におしとどめた。そこには満州からの避難民も加わり大混乱となった。その駅前にいた日本人避難民の一部四千名が朝鮮保安隊によって成興の南二〇数キロの「富坪」の荒れた兵舎あとに再収容された。食糧の配給がほとんど保障されず、その上ソ連兵の監視が厳しく外に出ることも許されず、しかもたいへんな寒さの中、飢えと発疹チフスがしょうけつをきわめ、十一月から一月までの三ケ月の間に四〇〇〇人の日本人のうち、一五〇〇名から一八〇〇名の日本人が死んだという悲劇を生んだ。
日本人住民を置き去りにした日本軍、日本人の南上を理由もなく阻止したソ連軍、そして避難民への対応をまだ行政能力の整っていなかった北朝鮮当局の官僚的な対応などが多くの日本人を死に至らしめた。北朝鮮に取り残された日本人の最大の悲劇であるとともに、もっとも集中的で大規模な悲劇であった。「朝鮮終戦の記録」(太田芳夫著 )「わが青春の朝鮮」(磯谷季次著)による。
「ところで今日は何日ですか」力ない笑いが起こつた。そういえば何日かみんな忘れていた。
「九月十四日です。あなたたちは何日に出ましたか。そう三〇日ですか。十六日の苦闘でしたね」
学生さんらしい人は答えた。
「もうソ連兵は追ってきません。同じ敵でもアメリカ兵は紳士的です」その人はそのほかこまごまと世話を焼いた。
トラックが迎えにきてハナも由美も洋武もトラックに乗った。その広場の垣根にはむくげがいっぱい咲いていた。「あっ。むくげが咲いている。順安の家のむくげも咲いているでしょうね」ハナがつぶやいた。順ちゃんたち一家は乗らなかった。光夫君の遺体の後始末が必要だった。晋司や兄たちといっしょに歩くことになった。
市辺里を過ぎるころ、私たちとおなじく逃避行をつづける日本人集団とときどき遭遇した。日本人同志で大人たちは情報を交換しては道筋を決めていた。
洋武は熱が下がった次ぎの日に母の胃痛も少し楽になったようだった。私は熱が下がってからまた、順ちゃんと一緒に動くようになった。順ちゃんは光夫君の世話を姉さんと一緒にしながら一生懸命に歩いていた。山のふもとにそって道の途中で休憩になった。私はルックを背中にぐつたりと休んでしまった。しかし、順ちゃんは畑の向こう側に白い敷布が落ちているのを見つけて「ミッちゃんが下痢でパンツもおしめも足りないので」といって白い敷布を拾いに行った。しかし、側まで言ってすぐ帰ってきた。「おばあちゃんが死んでいた。おばあちゃんの死体にかけてあった」そういって私の側で座っている光ちゃんの横にぐったりと寝転んだ。疲れているのに敷布を拾いにいっていっそう疲れた様子だった。死体を見たのはそれが初めてだった。しかし、それから三十八度線に近づくにつれて老人や子供の遺体が放置されていた。半ば埋められた遺体もあった。激しい雨で、腕や足がのぞいていた。そのたびにみんな目をそむけたが、何もできなかった。
「あと三日で開城」と末永先生に言われてから五日もたっていたがまだ三十八度線にはたどり着けなかった。そして明日は間違いなく「国境をこえる」という連絡があって、集団はその夜、残りの食糧をみな整理したり翌日の準備に当てていた。
大南面とういう部落を出た時、保安隊にとめられた。「また、略奪だ」とみんなが恐れた。保安隊長がみんなをあつめた。「あなたがたは道を間違えている。こちらにいけば開城とは反対に方に出る。ほんとうにたいへんですね」という注意だった。
「私たち朝鮮人もよい国をつくります。あなた方も日本にかえってよい国を作ってください。朝鮮人があなた方にひどいことをしているのも知っています。いま、朝鮮も独立を前に混乱しています。ソ連軍やら保安隊やらそれぞれ動くのでみなさんに迷惑をかけています。地元の百姓は、日本人の避難民がかぼちゃや野菜を荒らして歩くのでみんな怒っているのです。気の毒に思っている朝鮮人もたくさんいますから気をつけてください。」
それは雨宿りをした朝鮮のヤンバンさんの家庭以来の親切だった。「あれは九州弁だな」と誰かが言った。「ウン長崎弁だな」といった。保安隊長の長崎弁にみんなほっとして涙を流す人もいた。洋武は高梁畑でかぼちゃを手に入れたことを思いだし、なんとなくずきんとした。
そして「これからも、おかしな人達が略奪するかもするかもしれないから、気をひきつめて歩いてほしい。このあたりの人は日本人がとおるたびに芋やらかぼちゃやら野あらしにあって日本人を憎んでいる。あとの人のためにあなた方はそんなことしないでいってはしい」と付け加えた。その保安隊長は逃避行の中で、避難民の味方にたったはじめてで最後の保安隊長だった。
しかし、その翌日も三十八度線を越えることはできなかった。道を間違っていたらしい。小南面というところで野営をした。次ぎ日の朝、集団にはざわめきがあった。前日に「もう最後」と食糧を食べきっていたため多くの家族は、その朝食べるものがなかった。集団で朝飯をつくる家族はいなかった。ただ、林家だけは粟粥を作った。それはハナがそれでもと用心して残していたわずかな粟だった。鍋からにおいがたちあがると周囲の人達が激しい羨望の目で見るようになった。林家の回りにきて私たちの粟粥を食べるのをじっとみている子もいた。順ちゃんの家を大事にするハナだったが、その朝は母は知らないふりをして「早く食べなさい」と家族にせかしていた。粟粥は薄く少しドロンとするぐらいの潰さだった。粟粒も少なかった。わずか一握りの粟を六人でわけるのだから当然のことだった。でもどろんとした舌触りは空腹のたしになった。
洋武から卵をとりあげて順ちゃんの家にもっていったハナだったが、この日ばかりは人が変わったようにきびしい表情をしていた。順ちゃん一家は少し離れたところで空腹に耐えていたようだった。
「今日こそは三十八度線をこえられる」 そういう声がある中、歩き出した。山の中に入ってまもなく、集団は道がちょっと広くなったところで止められた。それは保安隊ではなく、チゲ (背負い子)をもった一団だった。彼らはみんなを並ばせた。一人だけ銃をもった若者がいてまず、威嚇の実弾を撃って見せた。
上手な日本語で 「ご苦労さん。日本人を助けてあげようと待っていました。これから山をこえるのはたいへんです。子どもさんやおばあさんや大きな荷物をチゲに載せて南まで送ってあげましょう」 と隊長らしき人がいった。「皆さんはどの集団よりみすぼらしい貧乏な日本人だ。お金がないこともだいたいわかる。しかし、それでも何かあるでしょう。まず鍋や釜は、今日一目でもういりません。明日からはアメリカ軍が食事の面倒見てくれます。みんな置いていってください。私たちはチゲで荷物や老人を背負っていったあげるから、なにかだしなさい」。
「日本語に『気は心』という言葉があるでしょう。皆さんの気を示してください」。そういったかと思うといっせいにルックを勝手に開き出した。言葉つきはていねいだったが、追いはぎだった。もうなにもない集団だった。しかし彼らは日本人が大事なものをどこに隠しているかよく知っていた。手品のように次々に獲物を見つけ出した。順ちゃんの小母さんのリックの手の厚いところを切り開くと指輪が出てきた。「結婚指輪です。主人は死んだのです」といったが通用しなかった。「みんなそう言うんだ」と遮ろうとしたおばさんの手を足で蹴飛ばして指輪を取り上げた。
大村会長は、靴の中に隠してあったお金をとりあげられた。そしてわが家の権利書がとりあげられたとき、「お前の家が悪い」といって洋武をなぐりつけた郵便局長のおじさんのルックからは油紙につつまれた大量な切手が出てきた。彼らは有無を言わずに取り上げていった。彼らの略奪が終わると荷物を持って案内をしはじめたが、森の切れ目でソ連兵の小隊が通りすぎるとそれを理由にさっさと姿を消した。形ばかりの荷物運びだった。「あれが一等国民だから」。誰かが叫んだ。
ソ連兵は鉄兜をかぶり例のマンドリンの自動小銃を腰だめに構え、時々威嚇発射をしながら進軍していた。自動小銃特有のビューンバリバリという音が不気味だった。三十八度線が近づいていることがひしひしとわかった。
それからも、私は「気は心」という言葉を聞くと必ずあの三八度線での追いはぎ集団を思い出した。
道はもう一度山の中にはいって一人がやっと歩けるように狭くなり坂もきつくなった。光夫君は朝から元気はなく、その日はぜんぜん歩けなかった。それは多分朝ご飯を食べなかったからだと思っていた。光夫君を美代子姉さんが背負い、順ちゃんは後ろから元気のなくなった光夫君を「ミッちゃん元気を出して」と励ましながら山道を歩いていた。
時々老人や子供の遺体が放置してあった。土がかけてあっても半分ぐらいで手が出ていたり足が出ていたりして、遺体は惨めだった。「ここまできて、倒れるなってかわいそうにね」という声と「死んだらああなるんだよ」と誰かがいうと集団からため息があった。
「三八度線をこえたらしい」と声がでたのは昼過ぎだった。みんな朝ご飯を食べていなかったから元気はなかったが、それでも喜びでざわついていた。その時、光夫君は順ちゃんが負ぶっていた。元気のない声をあげて、ぐつたりとしていた。ズボンは下痢でぐちゃぐちゃだった。しかもその下痢は今までの黄色い便ではなくて、米のとぎ汁のような白い塊のようなウンチがズボンの横から出ていた。
小さな集落のはずれの子供の遊び場のような広場に出た。そこは間違いなく南側三八度線をこえていた。満州組と順安組の百名をこえる大集団が広場にはいると広場はいっばいになった。
光夫君が広場に下ろされたとき光夫君はすでに息はなかった。順ちゃんのお母さんは激しく泣いた。順ちゃんだけでなく、洋武も泣いた。みんなが泣いた。「ここまできたのにどうして」という思いがみんなにあった。辻村先生が光夫君の死体とウンチを見たとき顔色が変わった感じが子供の私たちにもわかった。
「遺体は焼きましよう。コレラでないかとおもう。コレラです」。そういった。順ちゃんのおばさんが遺体を近くの川で洗おうとしたがそれも伝染病だからととめられた。私はコレラという病気を知らなかった。しかし、コレラがどんなに恐ろしい伝染病かということをそれから直面することになった。
ちょっと休んでいると自転車で若い学生風の日本人が駆けつけてきた。戦闘帽に南洋の兵隊さんがつけているような耳を覆うような日陰よけをつけていた。
学生風の人はその広場にある旗ざおに日の丸を掲げた。私たちにとって日の丸は一年以上見たことはなかった。みんなを座らせてからその人は話を始めた。
「ご苦労様でした。私の家族も北朝鮮にいます。こうして皆さんの世話をしながら家族が逃げてくるのを待っているのです。開城には避難民のキャンプがあり、これからそこに移動します。トラックが一台きますのでこどもと老人はのってください。大人は半里ほどですから歩いてください」。
「北朝鮮には四〇万人の同朋が一年間も閉じ込められみんなたいへんな思いをしていました。ソ連は日ソ平和条約を廃棄した上、一方的に三八度線を封鎖しました。
フウヒョウでは一八〇〇名の邦人が死にました。ソ連は北海道を半分占領しようとしました。ソ連はほんとうに野蛮な国です」 など話した。
私たちには難しい言葉も多かった。
「内地は戦争に負けても今復興しています。先日は中等学校野球大会も復活して大阪の浪速商業が優勝しました」。
兄たちは中等野球大会が復活したことに声をあげた。「中等野球大会ってな一に」。私たちは知らなかった。「甲子園という野球場で日本中の中学校があつまって野球の大会を開くんだ。平壌一中も出たことがあるんだ。戦争で中止になっていたんだ」。兄達は興奮しながら交互に説明してくれた。私たちは野球そのものを知らなかった。
フウヒョウというのは 「富坪の悲劇」 として、日本人にとって北朝鮮での代表的で最大の悲劇の一つだった。
終戦の年の八月九日、ソ連軍の開戦は朝鮮東北部にも激しい攻撃をかけてきた。ソ連国境の成鏡北道では攻撃を受けた八万余人の日本人がいっせいに成鏡南道の感興府近辺に避難した。その多くは一ケ月以上歩いておりすでにたいへんな犠牲者がでていた。避難民は成興からさらに南下しょうとしたが、ソ連軍は南下を阻止して成興駅前におしとどめた。そこには満州からの避難民も加わり大混乱となった。その駅前にいた日本人避難民の一部四千名が朝鮮保安隊によって成興の南二〇数キロの「富坪」の荒れた兵舎あとに再収容された。食糧の配給がほとんど保障されず、その上ソ連兵の監視が厳しく外に出ることも許されず、しかもたいへんな寒さの中、飢えと発疹チフスがしょうけつをきわめ、十一月から一月までの三ケ月の間に四〇〇〇人の日本人のうち、一五〇〇名から一八〇〇名の日本人が死んだという悲劇を生んだ。
日本人住民を置き去りにした日本軍、日本人の南上を理由もなく阻止したソ連軍、そして避難民への対応をまだ行政能力の整っていなかった北朝鮮当局の官僚的な対応などが多くの日本人を死に至らしめた。北朝鮮に取り残された日本人の最大の悲劇であるとともに、もっとも集中的で大規模な悲劇であった。「朝鮮終戦の記録」(太田芳夫著 )「わが青春の朝鮮」(磯谷季次著)による。
「ところで今日は何日ですか」力ない笑いが起こつた。そういえば何日かみんな忘れていた。
「九月十四日です。あなたたちは何日に出ましたか。そう三〇日ですか。十六日の苦闘でしたね」
学生さんらしい人は答えた。
「もうソ連兵は追ってきません。同じ敵でもアメリカ兵は紳士的です」その人はそのほかこまごまと世話を焼いた。
トラックが迎えにきてハナも由美も洋武もトラックに乗った。その広場の垣根にはむくげがいっぱい咲いていた。「あっ。むくげが咲いている。順安の家のむくげも咲いているでしょうね」ハナがつぶやいた。順ちゃんたち一家は乗らなかった。光夫君の遺体の後始末が必要だった。晋司や兄たちといっしょに歩くことになった。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
開城キャンプ
三〇分もかからないうちにキャンプについた。入り口にはアメリカ兵が銃剣を持って歩哨にたっていた。避難民にとってソ連兵であってもアメリカ兵であっても武器を持つ兵隊が恐ろしいことに変わりはなかった。運動場らしきところに鉄条網で囲ってあり、テントがきちんと行儀よく縦横ならべてたっていた。たくさんの人たちが集まっていた。
多くの人の靴はみんなだめになっていた。私たち一家も晋司が作ったぞうりをはいていたが、洋武は三十八度線あたりから裸足になっていた。裸足の人も多かった。歩くのに一生懸命だったのでその痛さを忘れていたが、足は傷だらけで血がいたるところににじんでいた。収容所では歯のない下駄が配給された。まもなく歩いてきた大人たちと合流して、順安組のテントに入った。順ちゃんたち一家もいっしょに歩いてきた。順ちゃんのおばさんは、顔は涙でくしやくしやになり、足取りもおぼつかないほどふらついていた。光夫君の遺体はあの学生さんと朝鮮の人たちによって片づけられたとのことだった。すでに順安の満州組はついていたが、栗本鐵工所組は一番最初に出発したのにまだついていなかった。
ついたとき子供と年寄りにはミルクにトウモロコシを浮かせた食事がでた。「オートミールでないかな」と誰かが言った。「いやトウモロコシだから、コーンミールというんだろう」。トウモロコシは柔らかく煮てあった。私にはこんなおいしいものがあるだろうかと思って飲んだ。しかし順ちゃんは手をつけなかった。
おばさんが「ほらおいしいのよ」といいながら自分で半分飲んでしまった。大人たちも子供にでたミルクを奪うように飲んだので子供達の泣き声があった。順ちゃんは小さな声で 「ミッゃんのうんちみたい」とつぶやいた。そういえば少し似ている感じもあったが、でも私はそれ以上にお腹がすいていた。
夕食にはトウモロコシが柔らかく煮てあるものが配給された。おばさんたちは「トウモロコシの食事でも、食事の調達の心配をしないだけでも助かるわ」と喜んだ。
キャンプは地べたにむしろを敷くだけだったが、テントが張られ、それでも雨宿りの牛小屋をでてずっと野宿がつづいていただけに、夜露にぬれないだけでもみんなはほっとした。
洋武も順ちゃんもほとんどの子ども達は体中傷だらけでしかもそれが膿んでおできになっていた。夜寝返りを打つだけでもおできがとびあがるほど痛かった。
予防注射をうけて、DDTという蚤や虱を退治する白い薬をあたまから下着の中まで真っ白になるまでかけられた。
典雄はキャンプの中の連絡員になった。体は小さかったが、人一倍機敏で気の利くほうで、連絡員として便利にされたらしく、あち こち飛び歩き情報を持ってきた。
「いまキャンプには八千人もいるらしい」 とか 「鉄道がストライキで止まっているので、汽車が動かないらしい」 など伝えていた。「ストライキってな一に」 という質問にハナは答えられなかった。「さあ、なんでしょう」。そのとき順ちゃんのおばさんが 「鉄道員が給与が少ないって仕事をしないこと」 と説明してくれた。鉄道のストライキで汽車が動かず、私たちも港に向けて動くことが出来なかった。九月二十四日から南朝鮮ではゼネストが行われたが、「十月人民抗争」 と呼ばれる解放後初めてのアメリカ占領軍への抗争が始まっていた。その前哨として小さな鉄道ストが行われていた。
栗本鐵工所組は、私たちより三日も遅れて開城のキャンプに入ってきた。栗本組のなかにいるはずの寺山君の姿はなかった。「川を渡る時おぼれて行方がわからない」 との話を聞いた。寺山君のお父さんにもお母さんにも会えなかった。洋武は自分がおぼれかかったあの川ではなかったかなと思った。順安の収容所でも一番元気のよかった寺山君がいなくなって 「私のようにマラリヤにかかったのだろうか」 と想像した。そして三十八度線をこえるとき見た老人や子供の遺体を思い浮かべた。
隣のテントでものすごい大人たちのけんかがあった。典雄兄さんが飛んでいったが 「一人死人がでた。逃避行の途中でなにか問題があったらしい」。みんないらいらしていた。もう我慢の出来ないところまで頂点に達していた。リンチが行われたのはそうめづらしいことでないようだった。「こんな苦労してここまできたのにどうして殺し合いになるほど喧嘩になるのでしょう」とハナと順ちゃんのおばさんが話していた。私は郵便局長のおじさんが「お前の父さんが悪い」といきなり殴りつけてきたことを思いだし、おじさんに仕返しをしたかった。大人たちにもきっとあんなことがあったに違いない。恐ろしいことだった。
「キャンプでもコレラ患者がでている。コレラになったらすぐ死ぬしかない」と典雄が伝えてきた。
すぐにでも釜山にむかう様子だったが、ストライキで数日間動けなかった。食事は一日二食でしかも毎食トウモロコシだった。初めはおいしかったが毎食トウモロコシではみんなから不満が出た。しかし、難民たちはそれ以外食べるものはなかった。もっとも、鉄条網の外には朝鮮人の女の人が籠にお餅やおにぎりや果物などすぐ食べられるものをもって売りにきていた。鉄条網を通して買っている日本人も多くいた。まだお金を持っている人達だった。ただ順安組はもう金がなかったので買う人はいなかった。収容所の人はいろいろだった。順安組のようにお金がない組とお金がたくさんあって収容所の支給されるトウモロコシを捨てて、鉄条網の外から食糧を買う人たちがいた。「余るんだったら、みんなに分けたらよいのに。捨てることはないのに」 という激しい声が広がった。
みっちゃんが死んで、順ちゃんはしばらく洋武に口も聞いてくれなかった。お姉さんたちといっしよにじっとしていた。ハナは「洋武、順ちゃんといっしょにキャンプの中見ていらっしやい」と気を遣った。二人でキャンプ内をあちこち見て歩いた。
まだ暑い時期だった。テントの下にじっと寝ている人が多かった。子どもも私たちのようにうろつくことはなかった。私たちのテントの反対側にもう一つ鉄条網の囲みがあった。それは北から逃げてきた朝鮮人の人たちを収容していた。キャンプは日本人用より小さかったが、日本人と同じように家族連れ子ども連れだった。日本人のキャンプが毎日ふえるように朝鮮人のキャンプも次々に人があふれるように入ってきていた。
順ちゃんが突如「あれ、新井君じゃないかな」と指をさした。朝鮮人が収容されているキャンプのなかで新井君そっくりの後姿をみとめた。二人は「おーい新井君」と二度ほど呼んだが振り向かなかった。私たちの思い違いだったかも知れなかった。「ぼくたちは内地に帰るんだけど、あの人達はどこに帰るんだろうね」と順ちゃんがつぶやいた。
やっと汽車が出ることになった。栗本鐵工所班は遅く着いたので私たちとはべつべつになった。いっしょに苦労した栗本鐵工所の人達とここでわかれて、それ以来音信はなかった。開城の駅まで歩くことになった。夕方の街のなかをぞろぞろと列をなして歩いた。
駅には貨物列車がまっていた。プラットホームのないところから次々と乗り込んだ。乗り込む高さが高いので家族ごとに大騒ぎになっていた。ルックサックを天井や壁に掛けても座るのがやっとだった。横になることは出来なかった。「屋根があるからまだましよ」 と誰かが話していたが、扉がガチャンとしめられて、外から鍵をかけられた。なにしろ、汽車が釜山に行くのか、仁川に行くのかわからないまま乗りこんだ。「京城に行くのは確か」 と頼りのない話しだった。それでも夜になって汽車が動きだした時は内地がそれだけ近づいた思いだった。
「おしっこがしたいよ」 と子供がいいだした。女の人も言い出した。しかし貨車のなかには便所もないし、外から鍵を閉められているので開けるわけには行かなかった。どこをどう走っているかわらなかった。連絡員の典雄がみんなから責められていた。
「この子は連絡員だから何も知らないんです」 とハナがむきになって応えていた。列車の中で誰かがついにおしっこをしたらしい。匂いがせまい貨車の中にたちこめた。
夜になってどこかの駅に泊まって扉があけられた。みんなは外に出て用を足そうとしたがそこには便所も何もなかった。高い貨車から飛び降りて、列車の側で延々とした用を足す人たちがつながった。
「外から扉の鍵を閉めないでくれ」 「夜、扉をあけて落ちた人がいる」 など大人たちの騒ぎがあった。列車は京城をすぎて釜山に向かっていることを典雄連絡員がみんなに伝えていた。みんなはすわったまま、眠っていた。
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第四章 コレラ船に乗せられて
∨〇一八号・1
翌朝、釜山についたときみんなくたくただった。列車がついたところを降りるとそこは大きな倉庫の中のようなところだった。「税関倉庫だな」何回も内地と往復して釜山のことをよく知っている人もいた。大人もこどももみんな、倉庫に敷かれたむしろの上に寝転んで疲れをいやした。貨物列車のなかがあまりにもぎゆうぎゆうに詰め込まれたので手や足をゆっくりのばせることができてほっとした。
大人たちは、どこから避難してきたのかとか、家族は何人なのかとか名簿を作ったり忙しそうだったが、子ども達は倉庫のむしろの上でエビのように寝転がって休んでいた。倉庫は大きかった。レールが倉庫の中に引き込まれていて、私たちが休んでいるときにもぞろぞろと避難民が送り込まれてきた。昼の弁当には乾パンと三人に一つの缶詰のスープだった。「これは乾パンじやない。ビスケットだ。」ざわめきが広がった。かってないごちそうだった。大きなビスケットが一人二枚づつ配られてどこでもうれしそうな声が聞こえていた。
「十五才から四五才までの婦人は集まるように」という指示が出された。倉庫の片隅に集められ、白いお医者さんのような白衣を着た男の人や女の人が一人ずつ面接していた。
話が終わって群からはなれる女の人たちは一様に不快そうな顔をしてでてきていた。わが家は、ハナも由美も年齢としては該当しなかったが順ちゃんの家はおばさんも恵子姉さんも呼ばれていった。まもなく、それが 「ソ連兵や朝鮮人に暴行されなかったかどうか」 という質問だということを子どもも知ることになった。
「妊娠した人は上陸地で堕胎するんだそうよ」 「露助の子どもを生むわけにはいかないものね」とひそひそ話があちこちで広がっていた。
ソ連兵の暴行は方々で広がっていた。同時に、朝鮮人のなかにも日本人を襲うものもでていた。北朝鮮からの避難の途中もくりかえし行われていた。「マダムダバイ」 (女を出せ)以来子ども達にも、それがどんな意味なのかぐらいの性の知識は持つことになっていた。
午後になるといよいよ乗船が始まった。
開城では水鉄砲のように手でおして粉をかけていたが、釜山では機械で勢いよく、DDTを頭からそして袖口から体中に乗船前にかけられた。「今度は効率がいいね」 みんな真っ白の消毒にとまどいながら、それでもしらみや蚤から解放されること喜んでいた。DDTは殺虫剤として威力を発揮したが、猛毒のダイオキシンも含まれておりその後使われることはなかった。しかし、外地から引き揚げてきた人たちにとってDDTによる消毒は強烈な記憶であった。
倉庫の前には大きな貨物船がついていた。船は岸壁に横付けになっていた長いタラップ階段がついていた。
「やっと船よ。やっとかえれるのよ」 とハナがいった。「満州に嫁にきてから二四年目に内地にかえれる」。そんな思いをのせて船に乗り込んだ。
終戦になってから私たちには写真というものとは全く無縁だった。ただ、この釜山では日本人のカメラマンがいたらしい。「邦人引き揚げの記録」 (毎日新聞社刊) には引揚げ船にのりこむ写真がある。
そして 「戦後引揚の記録」 (若槻泰雄著) の表紙にもなっている。昭和二十一年九月とあるから私たちの一行が引揚船にのりこむ写真ではないかとしばしば思っている。大人は大きなルックサックをかつぎ女の人は大きな鞄を前にたらし背中には赤ちゃんを負ぶっている。子供はルックとともに延をくるくるまいて背中に背負っている。物乞いのような難民の集団だった。私たちもこの写真とまったく同じ姿で船に乗りこんだ。
また、この写真集の別のページには、船腹に 「VO一八号」 煙突に 「SARA BACHE」とかかれた引揚船が釜山港を出航する写真も掲載されている。それはまぎれもなく私たちがのりこんだ引揚船だった。
「船は戦時標準船リバティ型VO一八号別名サラバック号といいます。約八千トン。アメリカから日本政府が借りて海外邦人の引揚げのためにつかっています。この船には二千名の引揚者が乗り組みます。この船は博多港につきます」。そんな説明が係の人からあった。「引揚者」という言葉をはじめて聞いた。私たちが引揚者と呼ばれていることをはじめて知った。
船は船橋で前と後が仕切られており私たちは後の船尾のほうに乗り込んだ。船の船倉はかなり高い二階に仕切られていた。その間を木の板で作った階段がついていたが手摺りはロープしかなかった。 順安からの引揚者たちは二度階段をおりて船底のほうの船倉をあたえられた。船底はさらにスクリューの覆いででタテに二つに分かれていた。それぞれの家庭が順安での収容所のように家族ごとにルックサックで他の家族と境をして縄張りをつくった。貨物船に貨物のようにつみこまれたが、それでもあの野宿の逃避行よりはるかによかった。こうりやゃんと豆かすと海藻が浮いた薄い汁物の食事が家族ごとに配給になった。みんなその船倉で黙々とたべていた。それに毛布が一人一枚づつ貸し与えられた。
夕食をおえるとみんな出航を待ってつぎつぎに甲板に出た。順ちゃんと私は甲板にでて船端から下をみていた。
「あれはタグボートというんだよ。船が出るとき大きな船を押してして岸壁を離れさせるんだ」「よく知っているね」「うん、内地に帰ったときお父さんが教えてくれた」
ひらべったい形をしたそのタグボートはさかんに船を押したり引いたりしていた。タグボートの船長さんらしき人がマイクを通して大きな声をだしてなにか叫んでいた。貨物船のスクリューにロープが巻き付いていて船はうごくことができなかった。
「出航はあすになるらしい」 そんな声があった。「わたしたちはどこまで運が悪いんでしょう。ロープがスクリューに巻きつくなど考えられないわ」。順ちゃんの小母さんが憤慨していた。
翌日、朝から潜水服をきた人が船縁に潜って作業が続けられ、昼すぎにはロープはとりはづされていた。その一日みんなは 「本当に船が出航できるのだろうか」 といらいらしていた。が釜山の岸壁をはなれたのは九月二二日の夕方だった。
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∨〇一八号・2
「内地よ。日本が見えるよ」。翌朝まだ明るくなっていないとき、ハナがわが家の子ども達をおこしにきた。みんなで甲板にあがるとそこにはいっばいの人たちがいた。
まだうすぐらかった。遠くにみえた陸地はしづかに近付いてくるようだった。
「あれが玄界島、こちらが志賀島じゃないかしら」 と順ちゃんのおばさんが指した。やっと島の輪郭が見えると、だれともなしに 「ばんざい。ばんざい」 といいだした。順ちゃんも洋武も大きな声で 「ばんざい」 をさけんだ。
「順ちゃんね、内地には地震があるんだろう、こわいね」 「うん、でもいつもあるわけじゃないんだよ。ぼくが内地に帰っていたとき、一度これが地震とおばあちゃんに教えてもらったがそのときは電球がぐらぐらゆれただけだったよ」 「そう、でも雨ばっかりふるときがあるのじゃない」
「うーん。梅雨(つゆ) っていうんだよ。雨がよくふるが晴れるときもあるんだよ」 「そうよかった。ぼくは雨がずーと降って遊びにもでられないかとおもっていたんだよ」。朝鮮には地震はなかった。北朝鮮には梅雨もなかった。
ハナと菊村のおばさんはこんなぼくたちの会話を聞いていた。
「順ちゃんの方がお兄ちゃんね。うちの洋武は内地に一度も帰したことはないし、洋武は、川の中で順ちゃんに声をかけてももらわなかったら多分溺れ死んでしまったかもしれないね。生きては帰られなかったね。命の恩人ね」。
そういって順ちゃんの頭をなでていた。順ちゃんはてれていたが、私は順ちゃんだけほめられるのは不満だった。
ハナたちは一生懸命に話し合っていた。私たちも母たちの話に聞き耳を立てていた。
「うちの人ったら。この非常時に天皇陛下のためにならないといって満州に嫁に行ってから二四年間も一度も内地にも帰してくれなかったのよ」。林家の兄弟が内地に一度も帰ったことがないことをおばさんに説明した。
ハナは「私ね。どうしてこんなひどい目にあうのだろうと何回も考えたのよ。なんにも悪いことをしたわけでもないのに。天皇陛下のいうとおりにしたのよ。ルック一つで帰ってもきっとみんなから馬鹿にされるかもしれない。でも天皇陛下のために従ってきたのだから」。ハナはそんなことをはなしていた。
「仇を討つの。こんなにたくさんの人を犬死させてよいはずないのじゃないの」と誰かを怒っているように叫んでいた。
ハナは順安の収容所にいる頃から「たくさん兵隊さんたちが玉砕したり、天皇陛下万歳といって戦死したりして、あの人たちは犬死にだったのでしょうか」とつぶやいていた。「犬死する」というのは戦国時代の戦争で負けた方の武士たちが死ぬと無駄死にだ。今度の戦争でも日本が負けたらたくさんの英霊たちが犬死にになると校長先生から教えられていた。仇討ちの話も、楠正成の仇を討つ息子の正行との「桜井の別れ」などなんども教科書に出ていた。「少年倶楽部」にものっていた。しかし、天皇陛下の仇を討つとはどんなことなのだろうと不思議に思った。
そのとき菊村のおばさんは突然泣きだしていた。
「うちの人もね。どうせ朝鮮であんな惨めな死に方をするんだったら、監獄で死んでおけばよかったのよ。うちの人はアカだったのよ。天皇陛下に逆らったといって警察につかまって殴られて顔をこんなに腫らして、ひどい目に遭って」。
「結核になって刑務所をだされて、朝鮮ににげてきたの。だからね。怒らないないでね。林さんのところはいい人だけど気をつけようねとうちの人と話していたのよ」。
それは私にとっても順ちゃんにとっても衝撃的なことだった。晋司が保安隊に連れて行かれ顔を腫らして帰ってきたことを思い出した。あのおとなしい優しい小父さんがソ連兵と同じアカだなどなんてどう考えてもわからなかった。
しかし、ハナは驚かなかった。一呼吸おいて「頭のいいひとはみんな赤くなったのね。私の従姉妹(いとこ)が共産党の大物のところに嫁に行ったの。その人が警察につかまったといって新聞に大きく出てね。うちの人は親類の面汚しだといって私を毎晩殴るのよ。でもね私はどうすることもできないし、あの時はほんとうに困ったわ。」
ハナはおばさんとさらに話していた。菊村のおばさんは長崎市の人だった。そして菊村の小父さんは愛媛県の出身だった。小父さんの家では二人の結婚に家中が反対だった。
「私の家は応援してくれたのだけど、愛媛の方は勘当になったの」。私も順ちゃんも「かんどう」という意味がわからなかった。 「家から追い出されたの」小母さんは私のほうを見ながら説明した。
「こんなとき愛媛にも長崎にも帰れない」
「でも戦争でこんなひどい目にあったのだから、きっとどちらか受け入れてくれますよ。あなたのお母さんは長崎でしょう」
「でもね長崎には原子爆弾が落ちたのでしょう。うちは街のなかにあったの。きっと駄目でないかとずっーと思ってきたのよ」
順ちゃんの小母さんの実家はカソリック教徒の家だった。おばさんの純子という名前もカソリックにちなんだ名前だった。そして、大きな教会が側にあるからアメリカも空襲はしてこないだろうと疎開もしなかった。疎開するところもなかった。しかも長崎の原子爆弾はその教会の上に落ちたのでないだろうか。小母さんはそればかり心配していた。小父さんが朝鮮にきたのも教会の牧師さんの教会のつてを頼って水利組合に就職したからとのことだった。順安にはキリスト教会があり病院もあった。長崎に原爆が落ちた時、小母さんがわざわざわが家にきて、晋司に「長崎はどうなっているのでしょう」としつっこく尋ねていたことを思い出した。
そして、小父さんの家は士族の出で学校の先生だった。小父さんが、学生時代、戦争に反対して警察につかまると子供が赤くなったことを「天皇陛下に申し訳ない」といって学校の先生も辞めて引退してしまっていた。そして、小父さん一家を絶対に寄せ付けなかったという。ハナは、「昔の人はみんなそうだったのよ。私の従姉が嫁に行った先も、母ひとり子一人で、子どもがアカになって天皇陛下に申し訳ないといって、母親が短刀で自害されたのよ」。「短刀で自害されたって」 おばさんが衝撃を受けたように聞き返していた。
「私ねそれを聞いて、そこまでしても意思を貫く従姉の主人ってどんなひとだろうかと思ったのよ」。
「戦争ってひどいね。いままでの戦争は兵隊さんが死んだけど、こんどはね国民がみんな死んでしまったのだから」。そんな会話をわたしたちはびっくりして二人の顔をみながら聞いていた。
「ここが元寇の役のとき神風が吹いたところよ」
神風が吹いた話は何回もきいていた。「少国民」という雑誌にも 「日本には神風が吹く」とくりかえし教えられてきた。小島校長先生も神風特攻隊が出撃されるようになるといっそう繰り返し「神風が吹くまでがんばろう」とくりかえし朝礼でお話をした。しかし、神風は吹かず、日本は負けてしまった。
「内地よ。日本が見えるよ」。翌朝まだ明るくなっていないとき、ハナがわが家の子ども達をおこしにきた。みんなで甲板にあがるとそこにはいっばいの人たちがいた。
まだうすぐらかった。遠くにみえた陸地はしづかに近付いてくるようだった。
「あれが玄界島、こちらが志賀島じゃないかしら」 と順ちゃんのおばさんが指した。やっと島の輪郭が見えると、だれともなしに 「ばんざい。ばんざい」 といいだした。順ちゃんも洋武も大きな声で 「ばんざい」 をさけんだ。
「順ちゃんね、内地には地震があるんだろう、こわいね」 「うん、でもいつもあるわけじゃないんだよ。ぼくが内地に帰っていたとき、一度これが地震とおばあちゃんに教えてもらったがそのときは電球がぐらぐらゆれただけだったよ」 「そう、でも雨ばっかりふるときがあるのじゃない」
「うーん。梅雨(つゆ) っていうんだよ。雨がよくふるが晴れるときもあるんだよ」 「そうよかった。ぼくは雨がずーと降って遊びにもでられないかとおもっていたんだよ」。朝鮮には地震はなかった。北朝鮮には梅雨もなかった。
ハナと菊村のおばさんはこんなぼくたちの会話を聞いていた。
「順ちゃんの方がお兄ちゃんね。うちの洋武は内地に一度も帰したことはないし、洋武は、川の中で順ちゃんに声をかけてももらわなかったら多分溺れ死んでしまったかもしれないね。生きては帰られなかったね。命の恩人ね」。
そういって順ちゃんの頭をなでていた。順ちゃんはてれていたが、私は順ちゃんだけほめられるのは不満だった。
ハナたちは一生懸命に話し合っていた。私たちも母たちの話に聞き耳を立てていた。
「うちの人ったら。この非常時に天皇陛下のためにならないといって満州に嫁に行ってから二四年間も一度も内地にも帰してくれなかったのよ」。林家の兄弟が内地に一度も帰ったことがないことをおばさんに説明した。
ハナは「私ね。どうしてこんなひどい目にあうのだろうと何回も考えたのよ。なんにも悪いことをしたわけでもないのに。天皇陛下のいうとおりにしたのよ。ルック一つで帰ってもきっとみんなから馬鹿にされるかもしれない。でも天皇陛下のために従ってきたのだから」。ハナはそんなことをはなしていた。
「仇を討つの。こんなにたくさんの人を犬死させてよいはずないのじゃないの」と誰かを怒っているように叫んでいた。
ハナは順安の収容所にいる頃から「たくさん兵隊さんたちが玉砕したり、天皇陛下万歳といって戦死したりして、あの人たちは犬死にだったのでしょうか」とつぶやいていた。「犬死する」というのは戦国時代の戦争で負けた方の武士たちが死ぬと無駄死にだ。今度の戦争でも日本が負けたらたくさんの英霊たちが犬死にになると校長先生から教えられていた。仇討ちの話も、楠正成の仇を討つ息子の正行との「桜井の別れ」などなんども教科書に出ていた。「少年倶楽部」にものっていた。しかし、天皇陛下の仇を討つとはどんなことなのだろうと不思議に思った。
そのとき菊村のおばさんは突然泣きだしていた。
「うちの人もね。どうせ朝鮮であんな惨めな死に方をするんだったら、監獄で死んでおけばよかったのよ。うちの人はアカだったのよ。天皇陛下に逆らったといって警察につかまって殴られて顔をこんなに腫らして、ひどい目に遭って」。
「結核になって刑務所をだされて、朝鮮ににげてきたの。だからね。怒らないないでね。林さんのところはいい人だけど気をつけようねとうちの人と話していたのよ」。
それは私にとっても順ちゃんにとっても衝撃的なことだった。晋司が保安隊に連れて行かれ顔を腫らして帰ってきたことを思い出した。あのおとなしい優しい小父さんがソ連兵と同じアカだなどなんてどう考えてもわからなかった。
しかし、ハナは驚かなかった。一呼吸おいて「頭のいいひとはみんな赤くなったのね。私の従姉妹(いとこ)が共産党の大物のところに嫁に行ったの。その人が警察につかまったといって新聞に大きく出てね。うちの人は親類の面汚しだといって私を毎晩殴るのよ。でもね私はどうすることもできないし、あの時はほんとうに困ったわ。」
ハナはおばさんとさらに話していた。菊村のおばさんは長崎市の人だった。そして菊村の小父さんは愛媛県の出身だった。小父さんの家では二人の結婚に家中が反対だった。
「私の家は応援してくれたのだけど、愛媛の方は勘当になったの」。私も順ちゃんも「かんどう」という意味がわからなかった。 「家から追い出されたの」小母さんは私のほうを見ながら説明した。
「こんなとき愛媛にも長崎にも帰れない」
「でも戦争でこんなひどい目にあったのだから、きっとどちらか受け入れてくれますよ。あなたのお母さんは長崎でしょう」
「でもね長崎には原子爆弾が落ちたのでしょう。うちは街のなかにあったの。きっと駄目でないかとずっーと思ってきたのよ」
順ちゃんの小母さんの実家はカソリック教徒の家だった。おばさんの純子という名前もカソリックにちなんだ名前だった。そして、大きな教会が側にあるからアメリカも空襲はしてこないだろうと疎開もしなかった。疎開するところもなかった。しかも長崎の原子爆弾はその教会の上に落ちたのでないだろうか。小母さんはそればかり心配していた。小父さんが朝鮮にきたのも教会の牧師さんの教会のつてを頼って水利組合に就職したからとのことだった。順安にはキリスト教会があり病院もあった。長崎に原爆が落ちた時、小母さんがわざわざわが家にきて、晋司に「長崎はどうなっているのでしょう」としつっこく尋ねていたことを思い出した。
そして、小父さんの家は士族の出で学校の先生だった。小父さんが、学生時代、戦争に反対して警察につかまると子供が赤くなったことを「天皇陛下に申し訳ない」といって学校の先生も辞めて引退してしまっていた。そして、小父さん一家を絶対に寄せ付けなかったという。ハナは、「昔の人はみんなそうだったのよ。私の従姉が嫁に行った先も、母ひとり子一人で、子どもがアカになって天皇陛下に申し訳ないといって、母親が短刀で自害されたのよ」。「短刀で自害されたって」 おばさんが衝撃を受けたように聞き返していた。
「私ねそれを聞いて、そこまでしても意思を貫く従姉の主人ってどんなひとだろうかと思ったのよ」。
「戦争ってひどいね。いままでの戦争は兵隊さんが死んだけど、こんどはね国民がみんな死んでしまったのだから」。そんな会話をわたしたちはびっくりして二人の顔をみながら聞いていた。
「ここが元寇の役のとき神風が吹いたところよ」
神風が吹いた話は何回もきいていた。「少国民」という雑誌にも 「日本には神風が吹く」とくりかえし教えられてきた。小島校長先生も神風特攻隊が出撃されるようになるといっそう繰り返し「神風が吹くまでがんばろう」とくりかえし朝礼でお話をした。しかし、神風は吹かず、日本は負けてしまった。
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∨〇一八号・3
船が玄界島の側にちかづく、陸地が急に迫ってきて島の家が見えてきた。松がきれいだった。それに形のよい太い松が珍しかった。そのたびに船の甲板にでている人達から歓声が沸いた。船の中はうきうきしていた。
船が湾内に入るとそこにはわたしたちと同じ船がいっぱいならんでいた。能古島の沖合に船が碇をおろしたとき、もうすっかり朝もあけていた。
「四十隻近くはいるよ。みんな外地からからの引き揚げ船ね。でもどうしてこんなにいるのでしょう。」菊村のおばさんがつぶやいた。
朝食のときこの船からすぐ上陸できないことが伝えられた。「検疫が行なわれる」ということだった。お昼すぎに小さな船・ランチが二隻白波をたてて、私たちの船にむかって走ってきた。そして前半と後半の船腹に分かれてつくと船からガラガラとロープがおろされてその小さな船ごとクレーンで引き揚げて船の甲板の高さまでひきあげてきた。白い服をきた看護婦さんやお医者さんたちが大きな荷物をかかえてつぎつぎにおりてきた。
検疫がはじまった。小さなテントが甲板の上にはられ、そこに船倉ごとに列ができた。テントは小さかったから中で何が行なわれるのかよくわかった。こどもも大人も女の人もつぎつぎにお尻をめくって、係の人がガラスの棒をお尻の穴に入れて便を取り出すのである。棒は一人づつ試験管の中で洗われていた。恵子姉さんが「いやよ。こんなこと」と嫌がった。おとなしい恵子さんの声が聞こえたが、おじさんの声がして「これをしなければみんなが上陸できません」と繰り返し大声でこたえた。
検便がおわって一週間たったが上陸の話はなかった。引揚者のなかからコレラの保菌者がでたのだ。保菌者がいなくなるまで全員上陸できないことが伝えられた。
博多湾に入って一週間ぐらいたって嵐がやってきた。船は激しくゆれた。いちばんたいへんだったのは階段の上がり下りだった。嵐が吹いているとき船に酔う人が続出した。便所が甲板にあるのでこの階段を昇っていかねばならなかったが、船がゆれると階段はオーバーヘツデングして手摺りのロープを握っていないとそのまま下まで叩きつけられるようにおちてきた。一番深刻だったのは食事をもっておりてくるときだった。両手に鍋をかかえたまま、ゴロゴロと下まで落ちてきた人があった。一つの鍋は何家族もの食事だった。そのグループは食事ができなかった。当然怪我人もでた。嵐は二日も三日もつづいた。
「とんでもない神風だ。吹いてほしいときに吹かずに弱いものいじめの神風だ」。船酔いになっている人のうめきのような声が聞こえ、洋武もまったく同感だった。
一週間目にパイナップルの缶詰が配給になった。米軍用のものらしかった。兵隊色で英語で印刷した缶詰のなかにパイナップルがドーナッツ型に切られてはいっていた。「一人一切れですよ」。くりかし注意があって二家族に一缶あるかないかだったが、甘いものを一年以上たべてない引揚者はむさぼるように食べていた。
船には長い滞留に全体としていらいらが広がっていた。食事は二回出るようにはなっていたがこうりやんやとうもろこしなど雑穀の食事と味のうすい海藻のはいった汁だった。
郵便局長のおばさんは体が小さかった。学芸会の時、朝鮮語でアリランやトラジを歌ったりったりしたおばさんだった。それに比しておじさんは比較的体は大きかった。
「おまえは、おれより体が小さい。食事の量もおれと同じでは不公平だ。もう少しおれの方によこせ」 「あなたの方におおくあげているじゃありませんか」。郵便局長夫婦には子どもは居なかった。おばさんは優しかったが、おじさんは逃避行の途中、晋司が土地の権利書を取り上げられたとき「おまえの親父が悪い」といっていきなり洋武を殴りつけてきたおじさんだった。食事をめぐるそんな喧嘩は方々で繰り返されていた。
十月に入ったばかりの頃、お汁の味がほとんどなくなってきた。 「これじゃ、お湯に海藻を浮かべただけじゃないか。いくらなんだったひどすぎる」そんな声が広がっていた。
塩あじがなくなっていた。ちょうどその頃「船長さんが警察に逮捕されたらしい」という噂があった。大人たちは「なんでもコレラ船から勝手に上陸したので捕まったらしい。女のところにでも出かけたのだろう」という人もいた。
洋武が、味気のないお汁の原因と船長が逮捕された原因を知るのはそれからはるかに時間がたっていた。当時の新聞には「塩不足で死亡続出、SOS船長捕る」の記事がある。「VO十八号は、栄養失調と塩分不足とで乗組員の半数が脚が腫れ上がり死者七名をだすという有様。同船船長日野氏は手旗信号で『塩送れ』と再三依頼したが埒があかないので去る三十日上陸し、運営会社福岡出張所食糧班と交渉し塩八十キロ、味噌、醤油各二樽を積み込もうとした。ところが『コレラ船脱出の名義』で博多署に逮捕された」「日野船長は、博多港に入港して以来、食糧が皆無となり、やむを得ず船員の私品を供出させ供したが焼け石に水、日に十名づつ続発する塩分不足患者など見かねて自身交渉にあった」「結局滞留船四十隻に対する港設備が不備だった」「船長は数時間後始末書をだして釈放」(朝日西部版十一月四日)
船内では順安の収容所より退屈だった。子どもだけでなく大人も退屈だった。狭い甲板の上にはクレーンもあった。太いワイヤーをまく滑車もあったその狭い甲板の上をうろうろ歩きまわるだけだった。それから二・三日たったころ、甲板で順ちゃんとぶらぶらしているとき、炊事場のまわりに人だかりがしていた。その日の夕食は乗船以来初めて白いご飯が出るという連絡があった。白いご飯は順安の収容所の生活に入って以来多くの人たちは食べていなかった。
炊事場は甲板の上に木造のバラックを建て大きな釜がいくつも並べてあった。蒸気がもうもうと上がり、炊事場の動きは忙しそうだった。たきあがった大きな釜の底についているおごげをみんなが大人もこどもも 「ちょうだい、ちょうだい」と手をだしていた。白いご飯のおこげをまかない船員が適当に配っていた。私もみんなといっしょになって 「ちょうだい」と手をだした。 そのとき目の前に柄の長いそして草履のような大きさのしゃもじが差し出され子供の頭ぐらいあるお焦げが目の前に突き出されていた。夢中でそのお焦げを両手でつかんだ。「わけてちょうだい」。こんどは私に大人もこどもも迫ってきた。
「順ちゃん船にもどろう」。私のかかえたお焦げを順ちゃんが守るように一目散に船倉にもどった。その間も何人かの大人からお焦げが奪われそうになったが、船倉にもどるとハナが鍋をだし受け取った。それでも人だかりがしていた。ハナは林家と菊村家にわけてくれた。騒ぎがおさまったころ順ちゃんのところからお姉ちゃんたちが「なによ。順ちゃんだけ多すぎる」と怒った声がした。傍でみていた私にもお焦げは順ちゃんの分は大盛りだった。小母さんは困った顔して「うちは男はみんな死んでしまったの。順ちゃんだけはどうしても内地につれていかないと、お父さんに申し立てができないの」。
そんなことをいってお姉ちゃんを宥めていた。「ぼくいいよ。どうせ武ちゃんからもらったんだから」そういっていた。男だからというおばさんの声にはなにかせっばつまった思いがこめられていた。「菊村さんのところは男ばかり死んでしまう」という非難めいた話を耳にしていた。
内地の都市の空襲の被害地図と写真が船の船倉に展示された。そこは人だかりをしていた。都市の空襲とは無縁だったわが家の兄たちは地図をみては「どこの都市がひどい。広島・長崎はおもったより全滅だ」と比較的気楽に語っていた。順ちゃんのおばさんは長い時間、長崎市の地図をみていたがハナのところに「奥さんうちは全滅。とても助からないわ」くびをふりながらもどってきた。「疎開しない。って頑張っていたからきっとだめよ」 小母さんは泣いていた。
小母さんの家はカソリック教徒だった。そして、長崎の教会の側でくらしていた。「おばあちゃんは田舎に疎開しても『スパイ』だなど陰口をいわれるし、長崎の天主様がきっと守ってくれるから疎開はしない、といってたの。その教会の周りが全滅しているのよ。母も父も助からなかったわ」
小母さんと母は船の上では仲良く話していた。
小父さんが長崎高等商業学校の学生のとき二人は知り合って、しかも小父さんが警察に追われたり刑務所に入れられたりしているなか、支援したために小母さんまで警察に連れて行かれた。警察からくり返し殴られ顔が大きくはれあがってしまってそんな小父さんに同情して結婚した話しなどいままでに聞いたことのない詰までしていた。
母の従兄弟にアカがいると聞いて少し安心したのだろうか、甲板の一角で長いこと話していた。
私はソ連軍が憎くて仕方なかった。そして仇を討つとしたらソ連のことだと思っていた。ソ連は赤い国ではないか。パーロ (中国共産党軍)とどうちがうのかな、私にはことが混乱してよく分からなかった。
船が玄界島の側にちかづく、陸地が急に迫ってきて島の家が見えてきた。松がきれいだった。それに形のよい太い松が珍しかった。そのたびに船の甲板にでている人達から歓声が沸いた。船の中はうきうきしていた。
船が湾内に入るとそこにはわたしたちと同じ船がいっぱいならんでいた。能古島の沖合に船が碇をおろしたとき、もうすっかり朝もあけていた。
「四十隻近くはいるよ。みんな外地からからの引き揚げ船ね。でもどうしてこんなにいるのでしょう。」菊村のおばさんがつぶやいた。
朝食のときこの船からすぐ上陸できないことが伝えられた。「検疫が行なわれる」ということだった。お昼すぎに小さな船・ランチが二隻白波をたてて、私たちの船にむかって走ってきた。そして前半と後半の船腹に分かれてつくと船からガラガラとロープがおろされてその小さな船ごとクレーンで引き揚げて船の甲板の高さまでひきあげてきた。白い服をきた看護婦さんやお医者さんたちが大きな荷物をかかえてつぎつぎにおりてきた。
検疫がはじまった。小さなテントが甲板の上にはられ、そこに船倉ごとに列ができた。テントは小さかったから中で何が行なわれるのかよくわかった。こどもも大人も女の人もつぎつぎにお尻をめくって、係の人がガラスの棒をお尻の穴に入れて便を取り出すのである。棒は一人づつ試験管の中で洗われていた。恵子姉さんが「いやよ。こんなこと」と嫌がった。おとなしい恵子さんの声が聞こえたが、おじさんの声がして「これをしなければみんなが上陸できません」と繰り返し大声でこたえた。
検便がおわって一週間たったが上陸の話はなかった。引揚者のなかからコレラの保菌者がでたのだ。保菌者がいなくなるまで全員上陸できないことが伝えられた。
博多湾に入って一週間ぐらいたって嵐がやってきた。船は激しくゆれた。いちばんたいへんだったのは階段の上がり下りだった。嵐が吹いているとき船に酔う人が続出した。便所が甲板にあるのでこの階段を昇っていかねばならなかったが、船がゆれると階段はオーバーヘツデングして手摺りのロープを握っていないとそのまま下まで叩きつけられるようにおちてきた。一番深刻だったのは食事をもっておりてくるときだった。両手に鍋をかかえたまま、ゴロゴロと下まで落ちてきた人があった。一つの鍋は何家族もの食事だった。そのグループは食事ができなかった。当然怪我人もでた。嵐は二日も三日もつづいた。
「とんでもない神風だ。吹いてほしいときに吹かずに弱いものいじめの神風だ」。船酔いになっている人のうめきのような声が聞こえ、洋武もまったく同感だった。
一週間目にパイナップルの缶詰が配給になった。米軍用のものらしかった。兵隊色で英語で印刷した缶詰のなかにパイナップルがドーナッツ型に切られてはいっていた。「一人一切れですよ」。くりかし注意があって二家族に一缶あるかないかだったが、甘いものを一年以上たべてない引揚者はむさぼるように食べていた。
船には長い滞留に全体としていらいらが広がっていた。食事は二回出るようにはなっていたがこうりやんやとうもろこしなど雑穀の食事と味のうすい海藻のはいった汁だった。
郵便局長のおばさんは体が小さかった。学芸会の時、朝鮮語でアリランやトラジを歌ったりったりしたおばさんだった。それに比しておじさんは比較的体は大きかった。
「おまえは、おれより体が小さい。食事の量もおれと同じでは不公平だ。もう少しおれの方によこせ」 「あなたの方におおくあげているじゃありませんか」。郵便局長夫婦には子どもは居なかった。おばさんは優しかったが、おじさんは逃避行の途中、晋司が土地の権利書を取り上げられたとき「おまえの親父が悪い」といっていきなり洋武を殴りつけてきたおじさんだった。食事をめぐるそんな喧嘩は方々で繰り返されていた。
十月に入ったばかりの頃、お汁の味がほとんどなくなってきた。 「これじゃ、お湯に海藻を浮かべただけじゃないか。いくらなんだったひどすぎる」そんな声が広がっていた。
塩あじがなくなっていた。ちょうどその頃「船長さんが警察に逮捕されたらしい」という噂があった。大人たちは「なんでもコレラ船から勝手に上陸したので捕まったらしい。女のところにでも出かけたのだろう」という人もいた。
洋武が、味気のないお汁の原因と船長が逮捕された原因を知るのはそれからはるかに時間がたっていた。当時の新聞には「塩不足で死亡続出、SOS船長捕る」の記事がある。「VO十八号は、栄養失調と塩分不足とで乗組員の半数が脚が腫れ上がり死者七名をだすという有様。同船船長日野氏は手旗信号で『塩送れ』と再三依頼したが埒があかないので去る三十日上陸し、運営会社福岡出張所食糧班と交渉し塩八十キロ、味噌、醤油各二樽を積み込もうとした。ところが『コレラ船脱出の名義』で博多署に逮捕された」「日野船長は、博多港に入港して以来、食糧が皆無となり、やむを得ず船員の私品を供出させ供したが焼け石に水、日に十名づつ続発する塩分不足患者など見かねて自身交渉にあった」「結局滞留船四十隻に対する港設備が不備だった」「船長は数時間後始末書をだして釈放」(朝日西部版十一月四日)
船内では順安の収容所より退屈だった。子どもだけでなく大人も退屈だった。狭い甲板の上にはクレーンもあった。太いワイヤーをまく滑車もあったその狭い甲板の上をうろうろ歩きまわるだけだった。それから二・三日たったころ、甲板で順ちゃんとぶらぶらしているとき、炊事場のまわりに人だかりがしていた。その日の夕食は乗船以来初めて白いご飯が出るという連絡があった。白いご飯は順安の収容所の生活に入って以来多くの人たちは食べていなかった。
炊事場は甲板の上に木造のバラックを建て大きな釜がいくつも並べてあった。蒸気がもうもうと上がり、炊事場の動きは忙しそうだった。たきあがった大きな釜の底についているおごげをみんなが大人もこどもも 「ちょうだい、ちょうだい」と手をだしていた。白いご飯のおこげをまかない船員が適当に配っていた。私もみんなといっしょになって 「ちょうだい」と手をだした。 そのとき目の前に柄の長いそして草履のような大きさのしゃもじが差し出され子供の頭ぐらいあるお焦げが目の前に突き出されていた。夢中でそのお焦げを両手でつかんだ。「わけてちょうだい」。こんどは私に大人もこどもも迫ってきた。
「順ちゃん船にもどろう」。私のかかえたお焦げを順ちゃんが守るように一目散に船倉にもどった。その間も何人かの大人からお焦げが奪われそうになったが、船倉にもどるとハナが鍋をだし受け取った。それでも人だかりがしていた。ハナは林家と菊村家にわけてくれた。騒ぎがおさまったころ順ちゃんのところからお姉ちゃんたちが「なによ。順ちゃんだけ多すぎる」と怒った声がした。傍でみていた私にもお焦げは順ちゃんの分は大盛りだった。小母さんは困った顔して「うちは男はみんな死んでしまったの。順ちゃんだけはどうしても内地につれていかないと、お父さんに申し立てができないの」。
そんなことをいってお姉ちゃんを宥めていた。「ぼくいいよ。どうせ武ちゃんからもらったんだから」そういっていた。男だからというおばさんの声にはなにかせっばつまった思いがこめられていた。「菊村さんのところは男ばかり死んでしまう」という非難めいた話を耳にしていた。
内地の都市の空襲の被害地図と写真が船の船倉に展示された。そこは人だかりをしていた。都市の空襲とは無縁だったわが家の兄たちは地図をみては「どこの都市がひどい。広島・長崎はおもったより全滅だ」と比較的気楽に語っていた。順ちゃんのおばさんは長い時間、長崎市の地図をみていたがハナのところに「奥さんうちは全滅。とても助からないわ」くびをふりながらもどってきた。「疎開しない。って頑張っていたからきっとだめよ」 小母さんは泣いていた。
小母さんの家はカソリック教徒だった。そして、長崎の教会の側でくらしていた。「おばあちゃんは田舎に疎開しても『スパイ』だなど陰口をいわれるし、長崎の天主様がきっと守ってくれるから疎開はしない、といってたの。その教会の周りが全滅しているのよ。母も父も助からなかったわ」
小母さんと母は船の上では仲良く話していた。
小父さんが長崎高等商業学校の学生のとき二人は知り合って、しかも小父さんが警察に追われたり刑務所に入れられたりしているなか、支援したために小母さんまで警察に連れて行かれた。警察からくり返し殴られ顔が大きくはれあがってしまってそんな小父さんに同情して結婚した話しなどいままでに聞いたことのない詰までしていた。
母の従兄弟にアカがいると聞いて少し安心したのだろうか、甲板の一角で長いこと話していた。
私はソ連軍が憎くて仕方なかった。そして仇を討つとしたらソ連のことだと思っていた。ソ連は赤い国ではないか。パーロ (中国共産党軍)とどうちがうのかな、私にはことが混乱してよく分からなかった。
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∨〇一八号・4
戦争が終わって一年間、日本のニュースはほとんど知らされていなかった。船の中で聞く日本のニュースは驚くことが多かった。なかで東条英機元首相がピストルで自殺に失敗して戦犯に捕らわれているニュースはみんなを驚かしていた。
「お父さんね。文官の近衛さんが服毒自殺したのにどうして東条さんはピストルで自殺をし損なって戦犯に捕らわれたのでしょう。だって東条さんは『生きて虜囚の恥辱を受けず。死して罪過を残す事勿れ』といった戦陣訓を作った人でしょう」。近衛文麿は戦犯に捕らわれたとき服毒自殺をした元首相だった。晋司は「そんなこと俺知るか」とやりきれないように答えていた。杉山元帥は夫婦で自害されたというのに東条英機はなぜ戦犯に捕らわれるような惨めなことになったか。
ハナだけでなくおばさんたちはみな憤慨していた。
やがて船から手紙をだせることになった。書けばそこから破れてしまうような質の悪い紙に晋司とハナはていねいに時間をかけて手紙を書いた。わが家は長野県の伯父さんのところと、京都の俊雄兄さんところにだした。俊雄兄さんのところには下宿の住所だけでなく、晋司の提案で大学の工学部電気工学科にもだすことにした。順ちゃんの小母さんも愛媛のお父さんの里とおばあさんの両方に書いた。
最初に返事のあったのは、熊本の里にだした粟野さんのところだった。五高にすすみ、予科練にいっていた典雄兄さんと同級だったお兄ちゃんが 「特攻隊にいっていて、たぶん生きていないだろう」 といっていたのに無事、生きて里に帰っていることがわかって家中して喜びの歓声をあげていた。わが家にも長野の伯父さんと京都の俊雄兄さんからそれぞれ返事があった。手紙は中が開けられて検閲がされていた。GHQ (アメリカ占領軍) というローマ字の印がされていた。
セロハンのようなセロテープで封がされていたが、その時セロテープというのをはじめて手にした。俊雄兄さんは住所が変わっていて、やはり大学に出した手紙がとどき 「帰る列車は必ず連絡して」 と書いてあった。
生きているだけでもうれしかった。しかも大学で勉強していることにほっとした気持ちが疲れた気分のなか内地にかえってよかったという思いがしていた。しかし、順ちゃんの小母さんのところにはどちらからも返事はなかった。長崎の方は小母さんのだした手紙がそのまま帰ってきていた。「町全体がやけて居所不明」と付箋がしてあった。その手紙にも、セロテープで止めてありGHQの検閲済の判までおしてあった。
「天主様が守ってくれなかったのよ。どちらもだめでした。どうすればよいのでしょう」。おばさんはハナのところに手紙をもって相談にきていた。私は大きくなって「教会の近所にいる人達は、キリスト教の信者のおおい教会の周りはアメリカは爆撃しないだろう」という淡い期待があり疎開をしなかった人達が多かったことを知った。その人達に神の恵みは届かなかった。
「ともかくやってみるのよ。愛媛でも長崎でもあきらめずに生きていきましょうよ」 「それにしてもむごいことね。戦争はほんとうに無残ね」。ハナは「一億総出撃」などいって国防婦人会のたすきを掛けていた頃に比べてすっかり変わってしまっていた。
検便は三回も行なわれ、船が博多湾にはいって三週間も経っていた。それでも上陸は許されなかった
戦争が終わって一年間、日本のニュースはほとんど知らされていなかった。船の中で聞く日本のニュースは驚くことが多かった。なかで東条英機元首相がピストルで自殺に失敗して戦犯に捕らわれているニュースはみんなを驚かしていた。
「お父さんね。文官の近衛さんが服毒自殺したのにどうして東条さんはピストルで自殺をし損なって戦犯に捕らわれたのでしょう。だって東条さんは『生きて虜囚の恥辱を受けず。死して罪過を残す事勿れ』といった戦陣訓を作った人でしょう」。近衛文麿は戦犯に捕らわれたとき服毒自殺をした元首相だった。晋司は「そんなこと俺知るか」とやりきれないように答えていた。杉山元帥は夫婦で自害されたというのに東条英機はなぜ戦犯に捕らわれるような惨めなことになったか。
ハナだけでなくおばさんたちはみな憤慨していた。
やがて船から手紙をだせることになった。書けばそこから破れてしまうような質の悪い紙に晋司とハナはていねいに時間をかけて手紙を書いた。わが家は長野県の伯父さんのところと、京都の俊雄兄さんところにだした。俊雄兄さんのところには下宿の住所だけでなく、晋司の提案で大学の工学部電気工学科にもだすことにした。順ちゃんの小母さんも愛媛のお父さんの里とおばあさんの両方に書いた。
最初に返事のあったのは、熊本の里にだした粟野さんのところだった。五高にすすみ、予科練にいっていた典雄兄さんと同級だったお兄ちゃんが 「特攻隊にいっていて、たぶん生きていないだろう」 といっていたのに無事、生きて里に帰っていることがわかって家中して喜びの歓声をあげていた。わが家にも長野の伯父さんと京都の俊雄兄さんからそれぞれ返事があった。手紙は中が開けられて検閲がされていた。GHQ (アメリカ占領軍) というローマ字の印がされていた。
セロハンのようなセロテープで封がされていたが、その時セロテープというのをはじめて手にした。俊雄兄さんは住所が変わっていて、やはり大学に出した手紙がとどき 「帰る列車は必ず連絡して」 と書いてあった。
生きているだけでもうれしかった。しかも大学で勉強していることにほっとした気持ちが疲れた気分のなか内地にかえってよかったという思いがしていた。しかし、順ちゃんの小母さんのところにはどちらからも返事はなかった。長崎の方は小母さんのだした手紙がそのまま帰ってきていた。「町全体がやけて居所不明」と付箋がしてあった。その手紙にも、セロテープで止めてありGHQの検閲済の判までおしてあった。
「天主様が守ってくれなかったのよ。どちらもだめでした。どうすればよいのでしょう」。おばさんはハナのところに手紙をもって相談にきていた。私は大きくなって「教会の近所にいる人達は、キリスト教の信者のおおい教会の周りはアメリカは爆撃しないだろう」という淡い期待があり疎開をしなかった人達が多かったことを知った。その人達に神の恵みは届かなかった。
「ともかくやってみるのよ。愛媛でも長崎でもあきらめずに生きていきましょうよ」 「それにしてもむごいことね。戦争はほんとうに無残ね」。ハナは「一億総出撃」などいって国防婦人会のたすきを掛けていた頃に比べてすっかり変わってしまっていた。
検便は三回も行なわれ、船が博多湾にはいって三週間も経っていた。それでも上陸は許されなかった
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順ちゃんの死・1
ある夜、甲板の上で慰安会が行なわれていた。慰安会は引揚げ者たちのあいだからつぎつぎと演じる人がでて、「私は平壌から帰ってきました」。とか「新義州から命からがら逃げてきました」などあいさつして歌を歌ったりした。浪花節もあった。漢詩の詩吟もあった。「さらばラバウルよ」という軍歌もあった。ただ、戦争中にきいた時は勇ましかった「さらばラバウルよ」という歌はずいぶんやさしい歌になった感じだった。落語もあった。「内地に帰るとみんな酒のみになってしまう。神戸に行くと『三升のめや三升のめや』という声がする。いや三の宮ことですがね」などいうのもあった。誰も笑わなかった。
「二千人もいるといろいろ芸達者がいるものね」とハナたちはそうした演芸に紛れていた。
もう夜も更けた頃、上から下まで真っ白いマドラス服を着た船員さんが楽器をぶらさげてでてきた。
「あれはマンドリンというのかな」 「ちがうよギターだよ。マンドリンは自動小銃のようにまるが一つだが、ギターはひょうたんがたになっているんだ」。順ちゃんが教えてくれた。
「おれは海軍軍人の駆逐艦のりだった。戦争に負けたばっかりにアメリカの傭船の船乗りにされて、しかもコレラ船に閉じこめれて、戦争には負けるものでない」などいって楽器をいじりだした。「あの人は海軍兵学校をでているのかな」ときびきびしたもの言いに、そんな風に私は想像した。船員さんは楽器をひきながら「だれか故郷を想わざる」という歌を歌った。こどもの耳にもいままでの芸とは際立って上手だった。
そのとき順ちゃんの小母さんがその船員さんになにか話し掛けていた。おばさんは坊主にした髪がのびかけていたが、少し色のついたスカーフを頭につけてなにか素敵な感じだった。やがてギターをうけとると「十年まえ、習ったんです。ギターは退廃的だといわれて習うのをやめました。でも船員さんの上手なギターをきいて昔をおもいだしました。ギターをお借りして十年ぶりにやってみます。」
私も順ちゃんもびっくりしてしまった。しかし、小母さんはかまわずつづけていた。
「私は主人と二人のこどもを北朝鮮にすててきました。死んでしまいました。せめて鎮魂歌をうたわせてください」。
「主人のつもりでしっかり抱けよ」。誰かが野次をとばした。げたげたと笑う声がきこえて少しいやな感じがした。
でもおばさんは「影を慕いて」を歌いますといってギターをひきながら歌をうたいだした。
「まぼろしの影を慕いて」と歌い出すと、目からぽろぽろ涙がでていた。騒ついていた慰安会の会場はしーんとしてきた。おばさんは歌を最後まで歌ったのかそれとも途中までだったのか私にはわからなかった。ギターに体中を伏せるようにして泣きだしてあとがつづかなかった。当時なんでも拍手するという習慣はなかった。しかし、みんなが拍手をしていた。みんなが泣いていた。順ちゃんは 「お母さんはすぐ泣くのだから」といいながらなぜか洋武も順ちゃんも泣いていた。
「あの星オリオンというんだよ。冬になるとお空の真ん中にでる星だ。お父さんに教えてもらった」。慰安会がすんで夜遅くになっていた。順ちゃんが洋武に夜空を指しながらいった。「ぼくは北斗七星しか知らないよ。順ちゃんはお父さん好きだったね」。「うん、お父さんは何でも教えてくれたもの。それにやさしかったもん」。
洋武は自分の父と比較した。晋司は何でも鉄拳制裁だった。そして酒を飲む晋司が好きではなかった。
「でも順ちゃんのお父さんは死んでしまったね」「死んでしまったらなんにもならない」順ちゃんは大人が言うようないい方をした。
「お父さんは死ぬときお姉さんやぼくたちに『お母さんの言う事よく聞いてね。お母さんを大事にしてね。』って眠るように死んだんだよ。あのオリオンの三ツ星、きっとお父さんとヤッちゃんとミッちゃんの星じゃないかと思うんだ」。
順ちゃんの家はお父さんが結核だったから、数少ない個室に入っていた。だから河村さんのおぁばちゃんが死んだ時は側で見ていたが、順ちゃんのお父さんはどんな死に方をしたか私は知らなかった。博多の夜景が遠くにみえて、夜空には星がまたたいていた。
順ちゃんの小母さんが慰安会で歌を歌ってから船内でも注目されるようになった。甲板にいる小母さんに声をかける人が増えていた。そんなある日、恵子さんが船倉で休んでいるハナのところに 「おばさん助けて。母が船員さんにいじめられている」と深刻そうな顔で飛びこんできた。
引揚者と船員は画然と区別されていた。船員の部屋をのぞくことも許されていなかった。しかし、子ども達はときどき船員の部屋を小さな窓からのぞくことがあった。船員達は電気コンロを持ちこんで白いご飯を炊いていた。二~三人でおいしそうな缶詰のおかずを囲んでご飯を食べている姿は、子ども達にとって文字通り垂誕の的だった。そんな時、かならず「ここは君達のくるところでない」とかカーテンをさっーと引いたり邪魔者扱いのうえ追い出された。ただ、若いお姉さんたちは例外だった。
長い隔離生活の中で船員達も退屈だった。若い女性たちは船の中では特別扱いの船員達に取り入ることで 「白いご飯」や長い間見たこともない缶詰などのご馳走に触れることができた。そうした風潮が船内に目につくにつれて引揚者の中で風紀問題として非難する声が広がった。母ハナなどはその先頭のようだった。
「露助(ソ連兵)をさけるために頭を丸坊主にしたのにここまで来てふしだらの事をするのは、坊主になった甲斐がない」。
そうしたことを方々でしゃべっていたらしい。
それを船員達が、順ちゃんの小母さんが言いふらしていると船室にとじこめてつるし上げていた。順ちゃんのおばさんは慰安会での一件で特別に目だっていたようだった。
ハナは緊張した顔で出かけていった。一時間ほどしたらまもなくハナは、順ちゃんのおばさんと恵子さんといっしよに意気揚揚と帰ってきた。順ちゃんの小母さんも恵子さんも「助かったわ」とくり返し御礼を言った。
「私言ってやったのよ。なにもやましいことがなければいちいちそんなこと気にすることないでしょう。頭を坊主にしてまでして身を守ってきた娘さんたちが、食べもののためにもしものことがあったら親御さん達は心配するのはあたりまえでしょう。あなたがたもやましくなければ、船乗りというのは人がなにをいおうと堂々としているのが男らしいのではないの」。ハナの正論には船乗り達はグーの音もでなかったらしい。
ある夜、甲板の上で慰安会が行なわれていた。慰安会は引揚げ者たちのあいだからつぎつぎと演じる人がでて、「私は平壌から帰ってきました」。とか「新義州から命からがら逃げてきました」などあいさつして歌を歌ったりした。浪花節もあった。漢詩の詩吟もあった。「さらばラバウルよ」という軍歌もあった。ただ、戦争中にきいた時は勇ましかった「さらばラバウルよ」という歌はずいぶんやさしい歌になった感じだった。落語もあった。「内地に帰るとみんな酒のみになってしまう。神戸に行くと『三升のめや三升のめや』という声がする。いや三の宮ことですがね」などいうのもあった。誰も笑わなかった。
「二千人もいるといろいろ芸達者がいるものね」とハナたちはそうした演芸に紛れていた。
もう夜も更けた頃、上から下まで真っ白いマドラス服を着た船員さんが楽器をぶらさげてでてきた。
「あれはマンドリンというのかな」 「ちがうよギターだよ。マンドリンは自動小銃のようにまるが一つだが、ギターはひょうたんがたになっているんだ」。順ちゃんが教えてくれた。
「おれは海軍軍人の駆逐艦のりだった。戦争に負けたばっかりにアメリカの傭船の船乗りにされて、しかもコレラ船に閉じこめれて、戦争には負けるものでない」などいって楽器をいじりだした。「あの人は海軍兵学校をでているのかな」ときびきびしたもの言いに、そんな風に私は想像した。船員さんは楽器をひきながら「だれか故郷を想わざる」という歌を歌った。こどもの耳にもいままでの芸とは際立って上手だった。
そのとき順ちゃんの小母さんがその船員さんになにか話し掛けていた。おばさんは坊主にした髪がのびかけていたが、少し色のついたスカーフを頭につけてなにか素敵な感じだった。やがてギターをうけとると「十年まえ、習ったんです。ギターは退廃的だといわれて習うのをやめました。でも船員さんの上手なギターをきいて昔をおもいだしました。ギターをお借りして十年ぶりにやってみます。」
私も順ちゃんもびっくりしてしまった。しかし、小母さんはかまわずつづけていた。
「私は主人と二人のこどもを北朝鮮にすててきました。死んでしまいました。せめて鎮魂歌をうたわせてください」。
「主人のつもりでしっかり抱けよ」。誰かが野次をとばした。げたげたと笑う声がきこえて少しいやな感じがした。
でもおばさんは「影を慕いて」を歌いますといってギターをひきながら歌をうたいだした。
「まぼろしの影を慕いて」と歌い出すと、目からぽろぽろ涙がでていた。騒ついていた慰安会の会場はしーんとしてきた。おばさんは歌を最後まで歌ったのかそれとも途中までだったのか私にはわからなかった。ギターに体中を伏せるようにして泣きだしてあとがつづかなかった。当時なんでも拍手するという習慣はなかった。しかし、みんなが拍手をしていた。みんなが泣いていた。順ちゃんは 「お母さんはすぐ泣くのだから」といいながらなぜか洋武も順ちゃんも泣いていた。
「あの星オリオンというんだよ。冬になるとお空の真ん中にでる星だ。お父さんに教えてもらった」。慰安会がすんで夜遅くになっていた。順ちゃんが洋武に夜空を指しながらいった。「ぼくは北斗七星しか知らないよ。順ちゃんはお父さん好きだったね」。「うん、お父さんは何でも教えてくれたもの。それにやさしかったもん」。
洋武は自分の父と比較した。晋司は何でも鉄拳制裁だった。そして酒を飲む晋司が好きではなかった。
「でも順ちゃんのお父さんは死んでしまったね」「死んでしまったらなんにもならない」順ちゃんは大人が言うようないい方をした。
「お父さんは死ぬときお姉さんやぼくたちに『お母さんの言う事よく聞いてね。お母さんを大事にしてね。』って眠るように死んだんだよ。あのオリオンの三ツ星、きっとお父さんとヤッちゃんとミッちゃんの星じゃないかと思うんだ」。
順ちゃんの家はお父さんが結核だったから、数少ない個室に入っていた。だから河村さんのおぁばちゃんが死んだ時は側で見ていたが、順ちゃんのお父さんはどんな死に方をしたか私は知らなかった。博多の夜景が遠くにみえて、夜空には星がまたたいていた。
順ちゃんの小母さんが慰安会で歌を歌ってから船内でも注目されるようになった。甲板にいる小母さんに声をかける人が増えていた。そんなある日、恵子さんが船倉で休んでいるハナのところに 「おばさん助けて。母が船員さんにいじめられている」と深刻そうな顔で飛びこんできた。
引揚者と船員は画然と区別されていた。船員の部屋をのぞくことも許されていなかった。しかし、子ども達はときどき船員の部屋を小さな窓からのぞくことがあった。船員達は電気コンロを持ちこんで白いご飯を炊いていた。二~三人でおいしそうな缶詰のおかずを囲んでご飯を食べている姿は、子ども達にとって文字通り垂誕の的だった。そんな時、かならず「ここは君達のくるところでない」とかカーテンをさっーと引いたり邪魔者扱いのうえ追い出された。ただ、若いお姉さんたちは例外だった。
長い隔離生活の中で船員達も退屈だった。若い女性たちは船の中では特別扱いの船員達に取り入ることで 「白いご飯」や長い間見たこともない缶詰などのご馳走に触れることができた。そうした風潮が船内に目につくにつれて引揚者の中で風紀問題として非難する声が広がった。母ハナなどはその先頭のようだった。
「露助(ソ連兵)をさけるために頭を丸坊主にしたのにここまで来てふしだらの事をするのは、坊主になった甲斐がない」。
そうしたことを方々でしゃべっていたらしい。
それを船員達が、順ちゃんの小母さんが言いふらしていると船室にとじこめてつるし上げていた。順ちゃんのおばさんは慰安会での一件で特別に目だっていたようだった。
ハナは緊張した顔で出かけていった。一時間ほどしたらまもなくハナは、順ちゃんのおばさんと恵子さんといっしよに意気揚揚と帰ってきた。順ちゃんの小母さんも恵子さんも「助かったわ」とくり返し御礼を言った。
「私言ってやったのよ。なにもやましいことがなければいちいちそんなこと気にすることないでしょう。頭を坊主にしてまでして身を守ってきた娘さんたちが、食べもののためにもしものことがあったら親御さん達は心配するのはあたりまえでしょう。あなたがたもやましくなければ、船乗りというのは人がなにをいおうと堂々としているのが男らしいのではないの」。ハナの正論には船乗り達はグーの音もでなかったらしい。
編集者
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順ちゃんの死・2
それから二週間もたっても上陸は許されなかった。VO一八号よりあとから入港してきた船がどんどん碇をあげて入港していくのにわたしたちの船だけはいつまでもとりのこされていた。
当時の西日本新聞に、「博多湾に海上都市。浮べるホテル四一隻」の記事がある。
「博多湾がコレラ港に指定され引揚者の検疫が厳重になった一方、入港船はあいついでいるため先月二十日ごろから引揚者をのせたまま港内滞留船が漸増していたが、八日にはついに四一隻、未下船の引揚者は六万一千名にのぼり博多湾はこれらの浮かべるホテルでさながら海上都市を現出している。六万名の滞留引揚者への給食は一日米、高梁、乾パンなどをとりまぜ四百八十俵を要するので博多引揚援護局では食糧調達に大童であるが滞留の原因は引揚船が入港後検疫のため数日間揚陸されないこと、松原寮の一寮と三寮がコレラ発生のために収容できないためである。」(昭和二十一年十月九日づけ。)
週に一回の白いご飯とやはり週一回のパイナップルの缶詰を楽しみにしながらみんな退屈していた。
船倉の入り口にはクレオソートの液を入れてあるたらいが置かれていた。しかし一つの船倉でも数百人出入りし、船がゆれるたびに液はこぼれていたので、液はいつもそこの方に少し残っているだけだったりぜんぜんなかったりしていた。とくに、十月になるとしばしば嵐がやってきた。
引揚者たちもかなり慣れてきて階段から落ちる人は少なくなったが入り口のクレオソートはいつも残り少なかった。「かならず出入りには手を洗いなさい」 といわれながらもそれを守る子どもは少なかった。しかし、順ちゃんもお姉さん達もそれをていねいに実行しきちんと手を洗っていた。
同じ船倉でわが家のスペースから二十メートルぐらいはなれたところに場所を取っていた小父さんが急に担架にかつがれて診療室にむかった。そしてその日の午後、小父さんはコレラで死んだと伝えられた。「もうみているうちに死んでしまった」。そんな恐怖の声が船倉に広がり 「全員ここで死ねというのか」 という恨みの声があがった。洋武もそれからすこしまじめに手を洗うようになっていた。
さらに二日後の昼前、順ちゃんがあわただしく便所にのぼっていった。小母さんが心配そうにあとからついていた。恵子姉ちゃんが 「ひどい下痢になって脱水状態になって」 といった。私たちは絶えず下痢とおできには苦しめられていた。しかし、「ひどい下痢。脱水状態」 ということに圧し殺したようなひびきがあった。順ちゃんが便所にはいるまで私もついていった。「心配してくれるのね」 と小母さんがいってくれた。便所からでてきた順ちゃんは、小母さんのおんぶされていた。順ちゃんの弟のみっちゃんが三十八度線をこえるとき順ちゃんの背中に負ぶされて、敏くちゃになってぐつたりしていたのと、全く同じだった。私は 「順ちゃんもコレラだ」 と直感した。順ちゃんは、小母さんにおんぶされたまま診療室につれていかれた。
その夜、おそくハナに起こされ順ちゃんがコレラで死んだと伝えられた。順ちゃんの小母さんがハナと真剣になにかはなしていた。順ちゃんの遺体が上陸するため、小母さんもいっしょについていくので、お姉ちゃんたちをみてほしいというものだった。
「しっかりしたお姉ちゃんたちだから心配しないで」 とハナが励ましていた。
翌朝「順ちゃんとおわかれよ」といわれてハナに催促されて甲板にあがった。
ランチがやってきた。いつものようにランチごとがらがらと引き揚げられて、甲板にならんでつけられた。ランチのまわりには綱がはってあった。そして少しの荷物をのせたあと、順ちゃんの小母さんがルックサック姿でランチにのりこんだ。
「いいですか。仏様を二つのせます」と船員のひとがどこからか遺体をだしてきた。
「あっ順ちゃんだ」私はおもわず叫んだ。順ちゃんはむしろにくるまれていた。むしろが少し小さくて順ちゃんのやせたすねがみえていた。そのすねが順ちゃんのものであることはなぜかすぐわかった。大村のあっちゃんが大きな声でワーワーといった。大村のおばさんが「そう あーちゃんは順ちゃんに大事にされたね」とつぶやいた。小母さんは泣いていなかった。恵子・美代子お姉ちゃん達も不安そうに二人で右手は右手を、左手は左手をというように前で重なり合って、抱き合うように手をとりあってジツートながめていた。ハナが合掌をしたがあとはだれも茫然としていた。ランチは遺体をのせるといつものようにがらがらと音をたてて海におりていった。ランチは海上につくとうなりをあげて白波をたてて岸に向けて走っていった。
上陸が認められたのはそれからさらに一週間以上もたった十一月二日だった。前の日から「明日は上陸」と知らされていたが、船はお昼になるまで動かなかった。
天気の良い日だった。船が錨を上げて船が動き出すと私たちも船倉からルックを背負い家族毎にならんだ。「まだ接岸するまで一時間もあるのですから」と係りの人が叫んでいたが、みんなだまって甲板に腰を下ろしその場を動かなかった。船はスムーズに岸壁に横付けになった。
順安を出たのは八月三〇日、釜山を出たのは九月二二日。実に四十二日も海上に放置されていた。その間、順ちゃんもふくめて、十数名の人が船内でなくなった。船が岸壁につき階段をおりていくと久しぶりの大地に、ゆれていない大地に足が着くとほっとしたかんじだった。
ハナが「これが内地よ。やっとついたのよ」。確かめるように、みんなを励ますように、確認するように、声をかけた。白い姿の看護婦さんやエプロン姿の小母さん達が、並んでいた。戦闘帽に国民服姿の小父さん達がいた。私たちの行列の両側に並んでみんな一様に「長い間ご苦労さんでした」と声をかけてくれた。「内地に帰ってきた」という実感が体中に広がっていた。すこし列を進むとそこに順ちゃんの小母さんが白い骨箱をかかえて待つていた。戦争中、戦死した英霊が返ってくる時、兵隊さんが胸に英霊の遺骨を抱いていたようにだいていた。
ハナは小母さんをみるともう涙ぐんでいた。しかし、小母さんは泣かなかった。恵子姉さんと美代子姉さんが小母さんに抱きついていた。
「武ちゃん。これが順ちゃんよ」と白い布でおおった箱を示した。「四人も死んだが骨があるのは順ちゃんだけよ」といった。そのとき私はあれだけよく泣く小母さんが涙をみせなかったのに不思議に思った。「泣き女のように泣く」と悪口を言う人もいた。
ところが小母ちゃんは「生きている男はただ一人よ」といって大事にした順ちゃんが死んでも涙をみせなかった。母にどうして小母さんは泣かないのだろうと聞かずにはおれなかった。
ハナは「もう涙がすっかり枯れてしまったのでしょうね」とつぶやいた。私はこの一年のあいだに生涯忘れることのできない言葉をたくさんおぼえた。ロシヤ語も「ダワイとウラー」を覚えた。「生命財産を保障する」とか、三十八度線をこえるとき「日本人には気は心ということばあるだろう」といって追いはぎあったが、その「気は心」という言葉とともに「涙が枯れる」ということばも忘れることはできなかった。
小母さん達は愛媛にも長崎にも帰らないで、博多にある収容施設に入ることになっていた。
「また収容所くらしよ。でも今度は内地だから」「手紙を頂戴ね。うちは長野にだしてくれればしばらく変わらないと思うけど」。しかし、菊村さんたち一家とは埠頭でわかれたきりだった。
VO一八号の滞留期間は多くの引揚船の中でも群を抜いていたようだ。昭和二十一年十一月四日づけ朝日新聞西部版には「缶詰四二日間コレラ船の悲劇」 の記事がある。
「隔離期間四二日間、博多港始まって以来の長期碇泊を余儀なくされた釜山からの引揚船VO一八号は、二日やっと放免。便乗者一九八七名の上陸が許された。同船からは真性患者十一名保菌者十四名をだしたが、その塩分不足で乗組員の半数が脚がはれあがり栄養失調と塩分欠乏で死者七名をだすという有様」と報じている。船内の状況では、コレラにかかった人は一人も生きてはいなかった。
それから二週間もたっても上陸は許されなかった。VO一八号よりあとから入港してきた船がどんどん碇をあげて入港していくのにわたしたちの船だけはいつまでもとりのこされていた。
当時の西日本新聞に、「博多湾に海上都市。浮べるホテル四一隻」の記事がある。
「博多湾がコレラ港に指定され引揚者の検疫が厳重になった一方、入港船はあいついでいるため先月二十日ごろから引揚者をのせたまま港内滞留船が漸増していたが、八日にはついに四一隻、未下船の引揚者は六万一千名にのぼり博多湾はこれらの浮かべるホテルでさながら海上都市を現出している。六万名の滞留引揚者への給食は一日米、高梁、乾パンなどをとりまぜ四百八十俵を要するので博多引揚援護局では食糧調達に大童であるが滞留の原因は引揚船が入港後検疫のため数日間揚陸されないこと、松原寮の一寮と三寮がコレラ発生のために収容できないためである。」(昭和二十一年十月九日づけ。)
週に一回の白いご飯とやはり週一回のパイナップルの缶詰を楽しみにしながらみんな退屈していた。
船倉の入り口にはクレオソートの液を入れてあるたらいが置かれていた。しかし一つの船倉でも数百人出入りし、船がゆれるたびに液はこぼれていたので、液はいつもそこの方に少し残っているだけだったりぜんぜんなかったりしていた。とくに、十月になるとしばしば嵐がやってきた。
引揚者たちもかなり慣れてきて階段から落ちる人は少なくなったが入り口のクレオソートはいつも残り少なかった。「かならず出入りには手を洗いなさい」 といわれながらもそれを守る子どもは少なかった。しかし、順ちゃんもお姉さん達もそれをていねいに実行しきちんと手を洗っていた。
同じ船倉でわが家のスペースから二十メートルぐらいはなれたところに場所を取っていた小父さんが急に担架にかつがれて診療室にむかった。そしてその日の午後、小父さんはコレラで死んだと伝えられた。「もうみているうちに死んでしまった」。そんな恐怖の声が船倉に広がり 「全員ここで死ねというのか」 という恨みの声があがった。洋武もそれからすこしまじめに手を洗うようになっていた。
さらに二日後の昼前、順ちゃんがあわただしく便所にのぼっていった。小母さんが心配そうにあとからついていた。恵子姉ちゃんが 「ひどい下痢になって脱水状態になって」 といった。私たちは絶えず下痢とおできには苦しめられていた。しかし、「ひどい下痢。脱水状態」 ということに圧し殺したようなひびきがあった。順ちゃんが便所にはいるまで私もついていった。「心配してくれるのね」 と小母さんがいってくれた。便所からでてきた順ちゃんは、小母さんのおんぶされていた。順ちゃんの弟のみっちゃんが三十八度線をこえるとき順ちゃんの背中に負ぶされて、敏くちゃになってぐつたりしていたのと、全く同じだった。私は 「順ちゃんもコレラだ」 と直感した。順ちゃんは、小母さんにおんぶされたまま診療室につれていかれた。
その夜、おそくハナに起こされ順ちゃんがコレラで死んだと伝えられた。順ちゃんの小母さんがハナと真剣になにかはなしていた。順ちゃんの遺体が上陸するため、小母さんもいっしょについていくので、お姉ちゃんたちをみてほしいというものだった。
「しっかりしたお姉ちゃんたちだから心配しないで」 とハナが励ましていた。
翌朝「順ちゃんとおわかれよ」といわれてハナに催促されて甲板にあがった。
ランチがやってきた。いつものようにランチごとがらがらと引き揚げられて、甲板にならんでつけられた。ランチのまわりには綱がはってあった。そして少しの荷物をのせたあと、順ちゃんの小母さんがルックサック姿でランチにのりこんだ。
「いいですか。仏様を二つのせます」と船員のひとがどこからか遺体をだしてきた。
「あっ順ちゃんだ」私はおもわず叫んだ。順ちゃんはむしろにくるまれていた。むしろが少し小さくて順ちゃんのやせたすねがみえていた。そのすねが順ちゃんのものであることはなぜかすぐわかった。大村のあっちゃんが大きな声でワーワーといった。大村のおばさんが「そう あーちゃんは順ちゃんに大事にされたね」とつぶやいた。小母さんは泣いていなかった。恵子・美代子お姉ちゃん達も不安そうに二人で右手は右手を、左手は左手をというように前で重なり合って、抱き合うように手をとりあってジツートながめていた。ハナが合掌をしたがあとはだれも茫然としていた。ランチは遺体をのせるといつものようにがらがらと音をたてて海におりていった。ランチは海上につくとうなりをあげて白波をたてて岸に向けて走っていった。
上陸が認められたのはそれからさらに一週間以上もたった十一月二日だった。前の日から「明日は上陸」と知らされていたが、船はお昼になるまで動かなかった。
天気の良い日だった。船が錨を上げて船が動き出すと私たちも船倉からルックを背負い家族毎にならんだ。「まだ接岸するまで一時間もあるのですから」と係りの人が叫んでいたが、みんなだまって甲板に腰を下ろしその場を動かなかった。船はスムーズに岸壁に横付けになった。
順安を出たのは八月三〇日、釜山を出たのは九月二二日。実に四十二日も海上に放置されていた。その間、順ちゃんもふくめて、十数名の人が船内でなくなった。船が岸壁につき階段をおりていくと久しぶりの大地に、ゆれていない大地に足が着くとほっとしたかんじだった。
ハナが「これが内地よ。やっとついたのよ」。確かめるように、みんなを励ますように、確認するように、声をかけた。白い姿の看護婦さんやエプロン姿の小母さん達が、並んでいた。戦闘帽に国民服姿の小父さん達がいた。私たちの行列の両側に並んでみんな一様に「長い間ご苦労さんでした」と声をかけてくれた。「内地に帰ってきた」という実感が体中に広がっていた。すこし列を進むとそこに順ちゃんの小母さんが白い骨箱をかかえて待つていた。戦争中、戦死した英霊が返ってくる時、兵隊さんが胸に英霊の遺骨を抱いていたようにだいていた。
ハナは小母さんをみるともう涙ぐんでいた。しかし、小母さんは泣かなかった。恵子姉さんと美代子姉さんが小母さんに抱きついていた。
「武ちゃん。これが順ちゃんよ」と白い布でおおった箱を示した。「四人も死んだが骨があるのは順ちゃんだけよ」といった。そのとき私はあれだけよく泣く小母さんが涙をみせなかったのに不思議に思った。「泣き女のように泣く」と悪口を言う人もいた。
ところが小母ちゃんは「生きている男はただ一人よ」といって大事にした順ちゃんが死んでも涙をみせなかった。母にどうして小母さんは泣かないのだろうと聞かずにはおれなかった。
ハナは「もう涙がすっかり枯れてしまったのでしょうね」とつぶやいた。私はこの一年のあいだに生涯忘れることのできない言葉をたくさんおぼえた。ロシヤ語も「ダワイとウラー」を覚えた。「生命財産を保障する」とか、三十八度線をこえるとき「日本人には気は心ということばあるだろう」といって追いはぎあったが、その「気は心」という言葉とともに「涙が枯れる」ということばも忘れることはできなかった。
小母さん達は愛媛にも長崎にも帰らないで、博多にある収容施設に入ることになっていた。
「また収容所くらしよ。でも今度は内地だから」「手紙を頂戴ね。うちは長野にだしてくれればしばらく変わらないと思うけど」。しかし、菊村さんたち一家とは埠頭でわかれたきりだった。
VO一八号の滞留期間は多くの引揚船の中でも群を抜いていたようだ。昭和二十一年十一月四日づけ朝日新聞西部版には「缶詰四二日間コレラ船の悲劇」 の記事がある。
「隔離期間四二日間、博多港始まって以来の長期碇泊を余儀なくされた釜山からの引揚船VO一八号は、二日やっと放免。便乗者一九八七名の上陸が許された。同船からは真性患者十一名保菌者十四名をだしたが、その塩分不足で乗組員の半数が脚がはれあがり栄養失調と塩分欠乏で死者七名をだすという有様」と報じている。船内の状況では、コレラにかかった人は一人も生きてはいなかった。
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引き揚げ列車の中で 学生同盟の人達・1
その日、晋司もハナも兄達もばたばたしていた。上陸の手続きやまた援助物資が支給されたらしかった。由美と洋武は荷物を守って倉庫の片隅でじっと待っていた。
夜になって 引き揚げ列車は博多の引っ込み線から出発した。引き揚げの移動のなかで初めての客車だった。いままではトラックであったり貨車であったり、貨物船であったりした。「やはり内地ね。はじめて人間並みね」とハナは喜んだ。引揚げ列車はみんな椅子に座れた。ただ椅子に座ることのできないほど疲れた人たちが通路にそのまま寝転んでいたが、それでも便所にいくとき少し不便だったぐらいだった。兄達は関門トンネルや原子爆弾が落とされた広島をみたがっていたが、いづれも夜に通ることに不満だった。
原子爆弾の落ちた広島を一度みてみたいと兄達は、夜中の広島のホームにたったが一面のやけの野原以外なにもなかったという話だった。
朝飯は糸崎駅(広島県)だった。兄たちが外食券で駅弁を手に入れてきた。「ああ、駅弁なのね。なつかしいね」 とハナが言った。由美も洋武も駅弁は初めてだった。ボロボロの麦飯だったが、船の中の食事よりはるかにおいしかった。
林家のすわった席は北側だった。海が窓から見えなかったが中国地方の平野と山並みをみながら列車はすすんだ。山は朝鮮の山々とは違って赤や黄色で色づき燃えているようだった。引き揚げ列車は名もない駅に長時間とまった。そのたびにまた長野県に帰れなくなるのでないかと心配した。この一年 「今度こそは」 と何度も裏切られてきた。「ことは決して思うようにならないものだ」 と骨身にしみていた。少し停滞するとまた騙されたのかという不信が頭をよぎった。
「特別列車だから他の列車を先にだしているらしい」 兄達がそんな解説をしていた。
列車がすすむと窓からお祭りをしているらしい風景が見えてきた。万国旗をかかげて運動会をしている学校が見えてきた。「ああ今日は明治節ね。わたしたちが苦労している間にも日本は回復しているのね。国破れて山河あり」 とハナがつぶやいていた。「国破れて山河あり」 という言葉は終戦のあの日いらい何十回もきいた。しかし、中国路を走る列車からみえる運動会の姿は、たしかに子供心にもほっとさせるものがあった。はじめてみるもみじで赤や黄色に色付いた日本の山々や濁りのない川が流れている風景は美しかった。しかし、その日、新しい憲法が公布されたことなど私たちは誰も知らなかった。
福山で日本のお城をはじめてみた。軍国少年だった洋武は城の絵を見るのが好きだった。だから福山城の白壁と黒に瓦の屋根が漫画や絵でみてきたお城よりはるかにきれいに見えてきた。
やがて姫路城が遠くに見えてきた。「姫路城は焼けなかったのね」という声がしたが、鉄道から城までの間は焼け野原だった。博多では引き込み線からでたし、広島を夜中に通過しただけに引き揚げ列車の人たちには空襲のあとのすさまじさをみるのははじめてだった。
姫路を出てから、列車はまもなく神戸市にさしかかっていた。神戸のやけ野原はもっとすごかった。列車から山まで見渡す限り、家は一軒もなかった。折れた煙突だけがにょきにょきとたっていた。ときどき防空壕に住んでいるいるらしき人が、地下壕の穴のなかからでてきたり、多分お昼の準備だと思うが、七輪を外に出して炊事をしている女の人の姿が見えた。
「ひどいね。神戸は完全にやられたのね」 「内地の人たちも苦労していたのね。戦争は負けるのはいやね」。列車のなかはそのたびにざわついた。
神戸駅をすぎたころ、腕章をし角帽をかぶった大学生服のお兄ちゃんが二人、私たちの車両にはいってきた。「引揚者のみなさん、わたしたちは引揚者援護学生同盟のものです。私たちは、家族が海外にいる子弟で組織して引揚者のみなさんのお役に立ちたいと願ってやっているものです。みなさんのどんなご用にもお役にたちます」 といって車両のなかを車掌さんのように歩きだした。
「あのー、昼ご飯はでないのですか」。誰かがきいた。「はい、引き揚げ列車の弁当は朝と夜だけの二食です。夜はたしか米原駅ででるはずです。米原まではあと五時間ぐらいかかります」。昼がないことはあらかじめ連絡されていたがお腹がすいてしかたなかった。朝、糸崎駅で食べただけで、途中の駅では食べものらしき物は売っていなかった。列車のなかはこどもが「お腹がすいた」 とぐづついた声がたえずあった。
「きいてみたら」 ハナがいった。「あのどこの大学の方ですか」「はい同志社大です」。
わが家の雰囲気は少しがっかりしていた。「なんでしょうか」 「いやうちの息子が京都大学にいるのですがちょときいてみたくて」。晋司はそんな会話をして黙ってしまった。ハナがすかさず「林俊雄はしりませんか」と声をかけた。学生さんはびっくりした感じでハナを見返していた。「あっ林君のご家族ですか。知っているどころか、さっきまで京都駅でいっしょでした。そういえばお姉さんは林君そっくりですね」。その学生は由美を指してそういった。おかっぱ姿で長い逃避行生活でやつれきっていた由美もこうした場所では目立った美少女だった。車内が騒ついていた。兄達も洋武までおもわず「よかった」と大きな声で叫んだ。ハナがすかさず聞かなかったら会話はそれまでだったかもしれない。ハナはおとなしい質であったがこうしたとき抜け目のない人だった。「次の駅で林君に連絡します」。その親切な同志社大の学生はきびきびとこたえた。
列車が京都駅に滑り込んだとき、俊雄兄さんが学生援護同盟の腕章をした学生服姿で窓から乗り込んできた。特別列車だったから一般の人は乗ることはできなかったが、神戸をすぎると大きなルックサックを担いだ一般の人もどんどん列車にのりこんできて、窓から乗りする人が多くなっていた。
ハナが「俊雄生きて帰ってきた。一人も死なずに。でもルック一つであとはみんな朝鮮においてきた」といって俊雄をだきしめて泣きだした。兄たちもみんな泣いていた。「生きていればいい。生きていればこれから何でもできる」。晋司も俊雄兄さんが生きていたことをほんとうに喜んでいたようだった。俊雄は窓枠に尻をのせてみんなの方をみながら船の中からだした手紙がついてほっとしたことや同志社大の学生から駅の電話をとおして連絡があったことをなどを手短にした。「この腕章をしていれば汽車賃はいらないんだ。学生援護同盟が引揚者の面倒を見ているんだ」 と俊雄は続けた。
洋武も俊雄兄さんのズボンにすがった。「お兄さん。順ちゃんが死んだよ。安っちゃんも死んだよ。小島校長先生の小母さんも死んだよ」。俊雄は菊村さん一家も順安の人たちも詳しくは知らなかった。ただ、みんな死んでしまったこと誰かに伝えたかった。順安で知っている何人かの消息を話し合った。そして俊雄の友達も特攻隊や召集でつぎつぎの戦死した話をしていた。兄さんも「海軍飛行特別訓練生」に志願したが健康の不調で不合格だったことも報告していた。列車の人たちは生きて会える一家を羨望の眼でみていた。
俊雄は「スターリンは『こんどの戦争で日露戦争の仇を取った』といったんだ。それほど無目的の戦争だった。しかも子ども老人をひどいめにあわせて。林家はともかくみんな生きて帰れたが満州の開拓団はものすごい状態なんだ。もっともっとひどい家族がいるんだ」とソ連を激しく非難した。順安にいるとき満州から逃げてきたお兄ちゃんの話は本当だったんだと思い返した。
同時に三十八度線をこえたときの学生さんが「ソ連はひどい国だ」との話とも同じだなと思った。
「なにもないが」といいながら、乾パンをポケットからだした。一人に二枚づつでもあっただろうか一枚一枚なんども味あいながらたべた。俊雄は大津駅で列車からはなれた。「正月には長野に帰るからそのときもっと話そう」とわかれたが家族みんなが話し足りない感じをもったままわかれた。米原駅で夕食の弁当がでた。
名古屋についたのは夜十二時前の深夜だった。中央線への乗り換えだった。「これからは引揚者の特別列車でないから迷子にならないようにね。」そんな注意をうけながら名古屋駅をおりた。
名古屋駅を降りた時、数人の学生らしき人達が「引揚者のみなさんご苦労さまです。私たち学生援護同盟のものです。荷物をもちます。」とかけよってきた。晋司もハナも警戒の構えを崩さなかった。「中央線で席を確保してあります。急ぎましょう。ぼくはルックをおろしましょう。」と女の学生が声をかけたが、洋武はそれに応じなかった。学生たち二人に体ごとかかえられ背中におぶされてホームにでた。「長いこと苦労したのでみんさん警戒するのです。 でも私たちはほんとうに大丈夫です」。そう両親に声をかけた。中央線の列車には別の学生の一団がすでに席をとっていて、わが一家が入っていくと一斉に席を立った。他の二、三の引揚者家族もそうして席に座ることが出来た。全部で二〇数名の学生達が働いていた。「私たちの家族も海外からまだ帰ってこないのが半分くらいです」。学生の一人が答えた。一家が席に着いて、晋司がはじめて 「こんな夜遅くまで親切にありがとう。一生忘れません。戦争に負けてもみなさんのような方がいるとはほんとうに心強いかぎりです」 とお礼をいった。両親が何度もお礼を言うので学生さん達は照れていた。列車は便所にも立てないぐらい大きなルックを背負った乗客でいっぱいになった。
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引き揚げ列車の中で 学生同盟の人達・2
話はずっと先に進む。高校三年に進む頃、洋武の成績は奇妙に上がり始めた。学年で五十番を超えることのなかった成績が二十番以内にはいることが多くなった。洋武の通っていた高校から例年、東大に四・五十人合格していた。当時国公立大学は授業料年間六千円だった。初度度に一万円あれば進学することが出来た。しかし、私立大学は最低二十万円は必要だった。「国公立の大学ならアルバイトしてでも何とか大学にいける。私立でなければ大学にいってもよい」という兄弟たちの許可をもらっていたがその期待にこたえることができそうだった。数学と社会がいつも一〇〇点近かった。国語や英語は苦手だったが、総合点で勝負をする東大を受けてみろという先生の指導で挑戦することになった。その年、洋武は自信はあったが二校受けることの出来る国立大学にどちらも合格できなかった。そして、試験が失敗したことがわかったとき重症の肺結核に冒されていることを医師から告げられた。さらに、林家を襲った不幸は兄俊雄も相次いで結核になっていた。和雄も含めて五人兄姉のうち三人までが結核に侵されることになった。
俊雄は会社の都合で急いで回復する必要があった。手術をした。すでに二人の子がいたが、手術は失敗して二人の子供と未亡人を残して三二歳で命をたった。引揚者の家庭に痛烈な打撃だった。
洋武の結核も軽いものではなかったが、結核治療薬が出始めていて手術は兄の例もあり受けなかった。二年間の療養生活の後、東大に合格するができた。東大に入学したときはすでに平和のためなら何かしなければいけないと考える青年だった。ただ、結核で療養生活を余儀なくされていたので体力には自信がなかった。
それでも、洋武は大学に進んだ時、学生ボランテア活動の原点といわれた学生セツルメント活動に参加した。結核に侵された体に体力はなかった。貧しい家庭だからアルバイトで自活した。体力も金力もなかった大学生括の中で、その上セツルメント活動に熱中した。そこには夜中の十二時過ぎに私たち一家のために、多くの引揚者家族のために、面倒を見、席までとってくれた名古屋の学生同盟の人達への感謝の思いが残っていた。あのときの学生のように困っている人から感謝をされたい。その思いは強かった。学生同盟の活動は全国で行われたが、昭和二四年頃引き揚げ事業が一段落するなかで自然に消滅していった。しかし、東京などの学生同盟の一部から学生セツルメント活動に移っていく学生たちがいた。