戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・42 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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開城キャンプ
三〇分もかからないうちにキャンプについた。入り口にはアメリカ兵が銃剣を持って歩哨にたっていた。避難民にとってソ連兵であってもアメリカ兵であっても武器を持つ兵隊が恐ろしいことに変わりはなかった。運動場らしきところに鉄条網で囲ってあり、テントがきちんと行儀よく縦横ならべてたっていた。たくさんの人たちが集まっていた。
多くの人の靴はみんなだめになっていた。私たち一家も晋司が作ったぞうりをはいていたが、洋武は三十八度線あたりから裸足になっていた。裸足の人も多かった。歩くのに一生懸命だったのでその痛さを忘れていたが、足は傷だらけで血がいたるところににじんでいた。収容所では歯のない下駄が配給された。まもなく歩いてきた大人たちと合流して、順安組のテントに入った。順ちゃんたち一家もいっしょに歩いてきた。順ちゃんのおばさんは、顔は涙でくしやくしやになり、足取りもおぼつかないほどふらついていた。光夫君の遺体はあの学生さんと朝鮮の人たちによって片づけられたとのことだった。すでに順安の満州組はついていたが、栗本鐵工所組は一番最初に出発したのにまだついていなかった。
ついたとき子供と年寄りにはミルクにトウモロコシを浮かせた食事がでた。「オートミールでないかな」と誰かが言った。「いやトウモロコシだから、コーンミールというんだろう」。トウモロコシは柔らかく煮てあった。私にはこんなおいしいものがあるだろうかと思って飲んだ。しかし順ちゃんは手をつけなかった。
おばさんが「ほらおいしいのよ」といいながら自分で半分飲んでしまった。大人たちも子供にでたミルクを奪うように飲んだので子供達の泣き声があった。順ちゃんは小さな声で 「ミッゃんのうんちみたい」とつぶやいた。そういえば少し似ている感じもあったが、でも私はそれ以上にお腹がすいていた。
夕食にはトウモロコシが柔らかく煮てあるものが配給された。おばさんたちは「トウモロコシの食事でも、食事の調達の心配をしないだけでも助かるわ」と喜んだ。
キャンプは地べたにむしろを敷くだけだったが、テントが張られ、それでも雨宿りの牛小屋をでてずっと野宿がつづいていただけに、夜露にぬれないだけでもみんなはほっとした。
洋武も順ちゃんもほとんどの子ども達は体中傷だらけでしかもそれが膿んでおできになっていた。夜寝返りを打つだけでもおできがとびあがるほど痛かった。
予防注射をうけて、DDTという蚤や虱を退治する白い薬をあたまから下着の中まで真っ白になるまでかけられた。
典雄はキャンプの中の連絡員になった。体は小さかったが、人一倍機敏で気の利くほうで、連絡員として便利にされたらしく、あち こち飛び歩き情報を持ってきた。
「いまキャンプには八千人もいるらしい」 とか 「鉄道がストライキで止まっているので、汽車が動かないらしい」 など伝えていた。「ストライキってな一に」 という質問にハナは答えられなかった。「さあ、なんでしょう」。そのとき順ちゃんのおばさんが 「鉄道員が給与が少ないって仕事をしないこと」 と説明してくれた。鉄道のストライキで汽車が動かず、私たちも港に向けて動くことが出来なかった。九月二十四日から南朝鮮ではゼネストが行われたが、「十月人民抗争」 と呼ばれる解放後初めてのアメリカ占領軍への抗争が始まっていた。その前哨として小さな鉄道ストが行われていた。
栗本鐵工所組は、私たちより三日も遅れて開城のキャンプに入ってきた。栗本組のなかにいるはずの寺山君の姿はなかった。「川を渡る時おぼれて行方がわからない」 との話を聞いた。寺山君のお父さんにもお母さんにも会えなかった。洋武は自分がおぼれかかったあの川ではなかったかなと思った。順安の収容所でも一番元気のよかった寺山君がいなくなって 「私のようにマラリヤにかかったのだろうか」 と想像した。そして三十八度線をこえるとき見た老人や子供の遺体を思い浮かべた。
隣のテントでものすごい大人たちのけんかがあった。典雄兄さんが飛んでいったが 「一人死人がでた。逃避行の途中でなにか問題があったらしい」。みんないらいらしていた。もう我慢の出来ないところまで頂点に達していた。リンチが行われたのはそうめづらしいことでないようだった。「こんな苦労してここまできたのにどうして殺し合いになるほど喧嘩になるのでしょう」とハナと順ちゃんのおばさんが話していた。私は郵便局長のおじさんが「お前の父さんが悪い」といきなり殴りつけてきたことを思いだし、おじさんに仕返しをしたかった。大人たちにもきっとあんなことがあったに違いない。恐ろしいことだった。
「キャンプでもコレラ患者がでている。コレラになったらすぐ死ぬしかない」と典雄が伝えてきた。
すぐにでも釜山にむかう様子だったが、ストライキで数日間動けなかった。食事は一日二食でしかも毎食トウモロコシだった。初めはおいしかったが毎食トウモロコシではみんなから不満が出た。しかし、難民たちはそれ以外食べるものはなかった。もっとも、鉄条網の外には朝鮮人の女の人が籠にお餅やおにぎりや果物などすぐ食べられるものをもって売りにきていた。鉄条網を通して買っている日本人も多くいた。まだお金を持っている人達だった。ただ順安組はもう金がなかったので買う人はいなかった。収容所の人はいろいろだった。順安組のようにお金がない組とお金がたくさんあって収容所の支給されるトウモロコシを捨てて、鉄条網の外から食糧を買う人たちがいた。「余るんだったら、みんなに分けたらよいのに。捨てることはないのに」 という激しい声が広がった。
みっちゃんが死んで、順ちゃんはしばらく洋武に口も聞いてくれなかった。お姉さんたちといっしよにじっとしていた。ハナは「洋武、順ちゃんといっしょにキャンプの中見ていらっしやい」と気を遣った。二人でキャンプ内をあちこち見て歩いた。
まだ暑い時期だった。テントの下にじっと寝ている人が多かった。子どもも私たちのようにうろつくことはなかった。私たちのテントの反対側にもう一つ鉄条網の囲みがあった。それは北から逃げてきた朝鮮人の人たちを収容していた。キャンプは日本人用より小さかったが、日本人と同じように家族連れ子ども連れだった。日本人のキャンプが毎日ふえるように朝鮮人のキャンプも次々に人があふれるように入ってきていた。
順ちゃんが突如「あれ、新井君じゃないかな」と指をさした。朝鮮人が収容されているキャンプのなかで新井君そっくりの後姿をみとめた。二人は「おーい新井君」と二度ほど呼んだが振り向かなかった。私たちの思い違いだったかも知れなかった。「ぼくたちは内地に帰るんだけど、あの人達はどこに帰るんだろうね」と順ちゃんがつぶやいた。
やっと汽車が出ることになった。栗本鐵工所班は遅く着いたので私たちとはべつべつになった。いっしょに苦労した栗本鐵工所の人達とここでわかれて、それ以来音信はなかった。開城の駅まで歩くことになった。夕方の街のなかをぞろぞろと列をなして歩いた。
駅には貨物列車がまっていた。プラットホームのないところから次々と乗り込んだ。乗り込む高さが高いので家族ごとに大騒ぎになっていた。ルックサックを天井や壁に掛けても座るのがやっとだった。横になることは出来なかった。「屋根があるからまだましよ」 と誰かが話していたが、扉がガチャンとしめられて、外から鍵をかけられた。なにしろ、汽車が釜山に行くのか、仁川に行くのかわからないまま乗りこんだ。「京城に行くのは確か」 と頼りのない話しだった。それでも夜になって汽車が動きだした時は内地がそれだけ近づいた思いだった。
「おしっこがしたいよ」 と子供がいいだした。女の人も言い出した。しかし貨車のなかには便所もないし、外から鍵を閉められているので開けるわけには行かなかった。どこをどう走っているかわらなかった。連絡員の典雄がみんなから責められていた。
「この子は連絡員だから何も知らないんです」 とハナがむきになって応えていた。列車の中で誰かがついにおしっこをしたらしい。匂いがせまい貨車の中にたちこめた。
夜になってどこかの駅に泊まって扉があけられた。みんなは外に出て用を足そうとしたがそこには便所も何もなかった。高い貨車から飛び降りて、列車の側で延々とした用を足す人たちがつながった。
「外から扉の鍵を閉めないでくれ」 「夜、扉をあけて落ちた人がいる」 など大人たちの騒ぎがあった。列車は京城をすぎて釜山に向かっていることを典雄連絡員がみんなに伝えていた。みんなはすわったまま、眠っていた。