戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・45 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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∨〇一八号・3
船が玄界島の側にちかづく、陸地が急に迫ってきて島の家が見えてきた。松がきれいだった。それに形のよい太い松が珍しかった。そのたびに船の甲板にでている人達から歓声が沸いた。船の中はうきうきしていた。
船が湾内に入るとそこにはわたしたちと同じ船がいっぱいならんでいた。能古島の沖合に船が碇をおろしたとき、もうすっかり朝もあけていた。
「四十隻近くはいるよ。みんな外地からからの引き揚げ船ね。でもどうしてこんなにいるのでしょう。」菊村のおばさんがつぶやいた。
朝食のときこの船からすぐ上陸できないことが伝えられた。「検疫が行なわれる」ということだった。お昼すぎに小さな船・ランチが二隻白波をたてて、私たちの船にむかって走ってきた。そして前半と後半の船腹に分かれてつくと船からガラガラとロープがおろされてその小さな船ごとクレーンで引き揚げて船の甲板の高さまでひきあげてきた。白い服をきた看護婦さんやお医者さんたちが大きな荷物をかかえてつぎつぎにおりてきた。
検疫がはじまった。小さなテントが甲板の上にはられ、そこに船倉ごとに列ができた。テントは小さかったから中で何が行なわれるのかよくわかった。こどもも大人も女の人もつぎつぎにお尻をめくって、係の人がガラスの棒をお尻の穴に入れて便を取り出すのである。棒は一人づつ試験管の中で洗われていた。恵子姉さんが「いやよ。こんなこと」と嫌がった。おとなしい恵子さんの声が聞こえたが、おじさんの声がして「これをしなければみんなが上陸できません」と繰り返し大声でこたえた。
検便がおわって一週間たったが上陸の話はなかった。引揚者のなかからコレラの保菌者がでたのだ。保菌者がいなくなるまで全員上陸できないことが伝えられた。
博多湾に入って一週間ぐらいたって嵐がやってきた。船は激しくゆれた。いちばんたいへんだったのは階段の上がり下りだった。嵐が吹いているとき船に酔う人が続出した。便所が甲板にあるのでこの階段を昇っていかねばならなかったが、船がゆれると階段はオーバーヘツデングして手摺りのロープを握っていないとそのまま下まで叩きつけられるようにおちてきた。一番深刻だったのは食事をもっておりてくるときだった。両手に鍋をかかえたまま、ゴロゴロと下まで落ちてきた人があった。一つの鍋は何家族もの食事だった。そのグループは食事ができなかった。当然怪我人もでた。嵐は二日も三日もつづいた。
「とんでもない神風だ。吹いてほしいときに吹かずに弱いものいじめの神風だ」。船酔いになっている人のうめきのような声が聞こえ、洋武もまったく同感だった。
一週間目にパイナップルの缶詰が配給になった。米軍用のものらしかった。兵隊色で英語で印刷した缶詰のなかにパイナップルがドーナッツ型に切られてはいっていた。「一人一切れですよ」。くりかし注意があって二家族に一缶あるかないかだったが、甘いものを一年以上たべてない引揚者はむさぼるように食べていた。
船には長い滞留に全体としていらいらが広がっていた。食事は二回出るようにはなっていたがこうりやんやとうもろこしなど雑穀の食事と味のうすい海藻のはいった汁だった。
郵便局長のおばさんは体が小さかった。学芸会の時、朝鮮語でアリランやトラジを歌ったりったりしたおばさんだった。それに比しておじさんは比較的体は大きかった。
「おまえは、おれより体が小さい。食事の量もおれと同じでは不公平だ。もう少しおれの方によこせ」 「あなたの方におおくあげているじゃありませんか」。郵便局長夫婦には子どもは居なかった。おばさんは優しかったが、おじさんは逃避行の途中、晋司が土地の権利書を取り上げられたとき「おまえの親父が悪い」といっていきなり洋武を殴りつけてきたおじさんだった。食事をめぐるそんな喧嘩は方々で繰り返されていた。
十月に入ったばかりの頃、お汁の味がほとんどなくなってきた。 「これじゃ、お湯に海藻を浮かべただけじゃないか。いくらなんだったひどすぎる」そんな声が広がっていた。
塩あじがなくなっていた。ちょうどその頃「船長さんが警察に逮捕されたらしい」という噂があった。大人たちは「なんでもコレラ船から勝手に上陸したので捕まったらしい。女のところにでも出かけたのだろう」という人もいた。
洋武が、味気のないお汁の原因と船長が逮捕された原因を知るのはそれからはるかに時間がたっていた。当時の新聞には「塩不足で死亡続出、SOS船長捕る」の記事がある。「VO十八号は、栄養失調と塩分不足とで乗組員の半数が脚が腫れ上がり死者七名をだすという有様。同船船長日野氏は手旗信号で『塩送れ』と再三依頼したが埒があかないので去る三十日上陸し、運営会社福岡出張所食糧班と交渉し塩八十キロ、味噌、醤油各二樽を積み込もうとした。ところが『コレラ船脱出の名義』で博多署に逮捕された」「日野船長は、博多港に入港して以来、食糧が皆無となり、やむを得ず船員の私品を供出させ供したが焼け石に水、日に十名づつ続発する塩分不足患者など見かねて自身交渉にあった」「結局滞留船四十隻に対する港設備が不備だった」「船長は数時間後始末書をだして釈放」(朝日西部版十一月四日)
船内では順安の収容所より退屈だった。子どもだけでなく大人も退屈だった。狭い甲板の上にはクレーンもあった。太いワイヤーをまく滑車もあったその狭い甲板の上をうろうろ歩きまわるだけだった。それから二・三日たったころ、甲板で順ちゃんとぶらぶらしているとき、炊事場のまわりに人だかりがしていた。その日の夕食は乗船以来初めて白いご飯が出るという連絡があった。白いご飯は順安の収容所の生活に入って以来多くの人たちは食べていなかった。
炊事場は甲板の上に木造のバラックを建て大きな釜がいくつも並べてあった。蒸気がもうもうと上がり、炊事場の動きは忙しそうだった。たきあがった大きな釜の底についているおごげをみんなが大人もこどもも 「ちょうだい、ちょうだい」と手をだしていた。白いご飯のおこげをまかない船員が適当に配っていた。私もみんなといっしょになって 「ちょうだい」と手をだした。 そのとき目の前に柄の長いそして草履のような大きさのしゃもじが差し出され子供の頭ぐらいあるお焦げが目の前に突き出されていた。夢中でそのお焦げを両手でつかんだ。「わけてちょうだい」。こんどは私に大人もこどもも迫ってきた。
「順ちゃん船にもどろう」。私のかかえたお焦げを順ちゃんが守るように一目散に船倉にもどった。その間も何人かの大人からお焦げが奪われそうになったが、船倉にもどるとハナが鍋をだし受け取った。それでも人だかりがしていた。ハナは林家と菊村家にわけてくれた。騒ぎがおさまったころ順ちゃんのところからお姉ちゃんたちが「なによ。順ちゃんだけ多すぎる」と怒った声がした。傍でみていた私にもお焦げは順ちゃんの分は大盛りだった。小母さんは困った顔して「うちは男はみんな死んでしまったの。順ちゃんだけはどうしても内地につれていかないと、お父さんに申し立てができないの」。
そんなことをいってお姉ちゃんを宥めていた。「ぼくいいよ。どうせ武ちゃんからもらったんだから」そういっていた。男だからというおばさんの声にはなにかせっばつまった思いがこめられていた。「菊村さんのところは男ばかり死んでしまう」という非難めいた話を耳にしていた。
内地の都市の空襲の被害地図と写真が船の船倉に展示された。そこは人だかりをしていた。都市の空襲とは無縁だったわが家の兄たちは地図をみては「どこの都市がひどい。広島・長崎はおもったより全滅だ」と比較的気楽に語っていた。順ちゃんのおばさんは長い時間、長崎市の地図をみていたがハナのところに「奥さんうちは全滅。とても助からないわ」くびをふりながらもどってきた。「疎開しない。って頑張っていたからきっとだめよ」 小母さんは泣いていた。
小母さんの家はカソリック教徒だった。そして、長崎の教会の側でくらしていた。「おばあちゃんは田舎に疎開しても『スパイ』だなど陰口をいわれるし、長崎の天主様がきっと守ってくれるから疎開はしない、といってたの。その教会の周りが全滅しているのよ。母も父も助からなかったわ」
小母さんと母は船の上では仲良く話していた。
小父さんが長崎高等商業学校の学生のとき二人は知り合って、しかも小父さんが警察に追われたり刑務所に入れられたりしているなか、支援したために小母さんまで警察に連れて行かれた。警察からくり返し殴られ顔が大きくはれあがってしまってそんな小父さんに同情して結婚した話しなどいままでに聞いたことのない詰までしていた。
母の従兄弟にアカがいると聞いて少し安心したのだろうか、甲板の一角で長いこと話していた。
私はソ連軍が憎くて仕方なかった。そして仇を討つとしたらソ連のことだと思っていた。ソ連は赤い国ではないか。パーロ (中国共産党軍)とどうちがうのかな、私にはことが混乱してよく分からなかった。
船が玄界島の側にちかづく、陸地が急に迫ってきて島の家が見えてきた。松がきれいだった。それに形のよい太い松が珍しかった。そのたびに船の甲板にでている人達から歓声が沸いた。船の中はうきうきしていた。
船が湾内に入るとそこにはわたしたちと同じ船がいっぱいならんでいた。能古島の沖合に船が碇をおろしたとき、もうすっかり朝もあけていた。
「四十隻近くはいるよ。みんな外地からからの引き揚げ船ね。でもどうしてこんなにいるのでしょう。」菊村のおばさんがつぶやいた。
朝食のときこの船からすぐ上陸できないことが伝えられた。「検疫が行なわれる」ということだった。お昼すぎに小さな船・ランチが二隻白波をたてて、私たちの船にむかって走ってきた。そして前半と後半の船腹に分かれてつくと船からガラガラとロープがおろされてその小さな船ごとクレーンで引き揚げて船の甲板の高さまでひきあげてきた。白い服をきた看護婦さんやお医者さんたちが大きな荷物をかかえてつぎつぎにおりてきた。
検疫がはじまった。小さなテントが甲板の上にはられ、そこに船倉ごとに列ができた。テントは小さかったから中で何が行なわれるのかよくわかった。こどもも大人も女の人もつぎつぎにお尻をめくって、係の人がガラスの棒をお尻の穴に入れて便を取り出すのである。棒は一人づつ試験管の中で洗われていた。恵子姉さんが「いやよ。こんなこと」と嫌がった。おとなしい恵子さんの声が聞こえたが、おじさんの声がして「これをしなければみんなが上陸できません」と繰り返し大声でこたえた。
検便がおわって一週間たったが上陸の話はなかった。引揚者のなかからコレラの保菌者がでたのだ。保菌者がいなくなるまで全員上陸できないことが伝えられた。
博多湾に入って一週間ぐらいたって嵐がやってきた。船は激しくゆれた。いちばんたいへんだったのは階段の上がり下りだった。嵐が吹いているとき船に酔う人が続出した。便所が甲板にあるのでこの階段を昇っていかねばならなかったが、船がゆれると階段はオーバーヘツデングして手摺りのロープを握っていないとそのまま下まで叩きつけられるようにおちてきた。一番深刻だったのは食事をもっておりてくるときだった。両手に鍋をかかえたまま、ゴロゴロと下まで落ちてきた人があった。一つの鍋は何家族もの食事だった。そのグループは食事ができなかった。当然怪我人もでた。嵐は二日も三日もつづいた。
「とんでもない神風だ。吹いてほしいときに吹かずに弱いものいじめの神風だ」。船酔いになっている人のうめきのような声が聞こえ、洋武もまったく同感だった。
一週間目にパイナップルの缶詰が配給になった。米軍用のものらしかった。兵隊色で英語で印刷した缶詰のなかにパイナップルがドーナッツ型に切られてはいっていた。「一人一切れですよ」。くりかし注意があって二家族に一缶あるかないかだったが、甘いものを一年以上たべてない引揚者はむさぼるように食べていた。
船には長い滞留に全体としていらいらが広がっていた。食事は二回出るようにはなっていたがこうりやんやとうもろこしなど雑穀の食事と味のうすい海藻のはいった汁だった。
郵便局長のおばさんは体が小さかった。学芸会の時、朝鮮語でアリランやトラジを歌ったりったりしたおばさんだった。それに比しておじさんは比較的体は大きかった。
「おまえは、おれより体が小さい。食事の量もおれと同じでは不公平だ。もう少しおれの方によこせ」 「あなたの方におおくあげているじゃありませんか」。郵便局長夫婦には子どもは居なかった。おばさんは優しかったが、おじさんは逃避行の途中、晋司が土地の権利書を取り上げられたとき「おまえの親父が悪い」といっていきなり洋武を殴りつけてきたおじさんだった。食事をめぐるそんな喧嘩は方々で繰り返されていた。
十月に入ったばかりの頃、お汁の味がほとんどなくなってきた。 「これじゃ、お湯に海藻を浮かべただけじゃないか。いくらなんだったひどすぎる」そんな声が広がっていた。
塩あじがなくなっていた。ちょうどその頃「船長さんが警察に逮捕されたらしい」という噂があった。大人たちは「なんでもコレラ船から勝手に上陸したので捕まったらしい。女のところにでも出かけたのだろう」という人もいた。
洋武が、味気のないお汁の原因と船長が逮捕された原因を知るのはそれからはるかに時間がたっていた。当時の新聞には「塩不足で死亡続出、SOS船長捕る」の記事がある。「VO十八号は、栄養失調と塩分不足とで乗組員の半数が脚が腫れ上がり死者七名をだすという有様。同船船長日野氏は手旗信号で『塩送れ』と再三依頼したが埒があかないので去る三十日上陸し、運営会社福岡出張所食糧班と交渉し塩八十キロ、味噌、醤油各二樽を積み込もうとした。ところが『コレラ船脱出の名義』で博多署に逮捕された」「日野船長は、博多港に入港して以来、食糧が皆無となり、やむを得ず船員の私品を供出させ供したが焼け石に水、日に十名づつ続発する塩分不足患者など見かねて自身交渉にあった」「結局滞留船四十隻に対する港設備が不備だった」「船長は数時間後始末書をだして釈放」(朝日西部版十一月四日)
船内では順安の収容所より退屈だった。子どもだけでなく大人も退屈だった。狭い甲板の上にはクレーンもあった。太いワイヤーをまく滑車もあったその狭い甲板の上をうろうろ歩きまわるだけだった。それから二・三日たったころ、甲板で順ちゃんとぶらぶらしているとき、炊事場のまわりに人だかりがしていた。その日の夕食は乗船以来初めて白いご飯が出るという連絡があった。白いご飯は順安の収容所の生活に入って以来多くの人たちは食べていなかった。
炊事場は甲板の上に木造のバラックを建て大きな釜がいくつも並べてあった。蒸気がもうもうと上がり、炊事場の動きは忙しそうだった。たきあがった大きな釜の底についているおごげをみんなが大人もこどもも 「ちょうだい、ちょうだい」と手をだしていた。白いご飯のおこげをまかない船員が適当に配っていた。私もみんなといっしょになって 「ちょうだい」と手をだした。 そのとき目の前に柄の長いそして草履のような大きさのしゃもじが差し出され子供の頭ぐらいあるお焦げが目の前に突き出されていた。夢中でそのお焦げを両手でつかんだ。「わけてちょうだい」。こんどは私に大人もこどもも迫ってきた。
「順ちゃん船にもどろう」。私のかかえたお焦げを順ちゃんが守るように一目散に船倉にもどった。その間も何人かの大人からお焦げが奪われそうになったが、船倉にもどるとハナが鍋をだし受け取った。それでも人だかりがしていた。ハナは林家と菊村家にわけてくれた。騒ぎがおさまったころ順ちゃんのところからお姉ちゃんたちが「なによ。順ちゃんだけ多すぎる」と怒った声がした。傍でみていた私にもお焦げは順ちゃんの分は大盛りだった。小母さんは困った顔して「うちは男はみんな死んでしまったの。順ちゃんだけはどうしても内地につれていかないと、お父さんに申し立てができないの」。
そんなことをいってお姉ちゃんを宥めていた。「ぼくいいよ。どうせ武ちゃんからもらったんだから」そういっていた。男だからというおばさんの声にはなにかせっばつまった思いがこめられていた。「菊村さんのところは男ばかり死んでしまう」という非難めいた話を耳にしていた。
内地の都市の空襲の被害地図と写真が船の船倉に展示された。そこは人だかりをしていた。都市の空襲とは無縁だったわが家の兄たちは地図をみては「どこの都市がひどい。広島・長崎はおもったより全滅だ」と比較的気楽に語っていた。順ちゃんのおばさんは長い時間、長崎市の地図をみていたがハナのところに「奥さんうちは全滅。とても助からないわ」くびをふりながらもどってきた。「疎開しない。って頑張っていたからきっとだめよ」 小母さんは泣いていた。
小母さんの家はカソリック教徒だった。そして、長崎の教会の側でくらしていた。「おばあちゃんは田舎に疎開しても『スパイ』だなど陰口をいわれるし、長崎の天主様がきっと守ってくれるから疎開はしない、といってたの。その教会の周りが全滅しているのよ。母も父も助からなかったわ」
小母さんと母は船の上では仲良く話していた。
小父さんが長崎高等商業学校の学生のとき二人は知り合って、しかも小父さんが警察に追われたり刑務所に入れられたりしているなか、支援したために小母さんまで警察に連れて行かれた。警察からくり返し殴られ顔が大きくはれあがってしまってそんな小父さんに同情して結婚した話しなどいままでに聞いたことのない詰までしていた。
母の従兄弟にアカがいると聞いて少し安心したのだろうか、甲板の一角で長いこと話していた。
私はソ連軍が憎くて仕方なかった。そして仇を討つとしたらソ連のことだと思っていた。ソ連は赤い国ではないか。パーロ (中国共産党軍)とどうちがうのかな、私にはことが混乱してよく分からなかった。