戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・47 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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順ちゃんの死・1
ある夜、甲板の上で慰安会が行なわれていた。慰安会は引揚げ者たちのあいだからつぎつぎと演じる人がでて、「私は平壌から帰ってきました」。とか「新義州から命からがら逃げてきました」などあいさつして歌を歌ったりした。浪花節もあった。漢詩の詩吟もあった。「さらばラバウルよ」という軍歌もあった。ただ、戦争中にきいた時は勇ましかった「さらばラバウルよ」という歌はずいぶんやさしい歌になった感じだった。落語もあった。「内地に帰るとみんな酒のみになってしまう。神戸に行くと『三升のめや三升のめや』という声がする。いや三の宮ことですがね」などいうのもあった。誰も笑わなかった。
「二千人もいるといろいろ芸達者がいるものね」とハナたちはそうした演芸に紛れていた。
もう夜も更けた頃、上から下まで真っ白いマドラス服を着た船員さんが楽器をぶらさげてでてきた。
「あれはマンドリンというのかな」 「ちがうよギターだよ。マンドリンは自動小銃のようにまるが一つだが、ギターはひょうたんがたになっているんだ」。順ちゃんが教えてくれた。
「おれは海軍軍人の駆逐艦のりだった。戦争に負けたばっかりにアメリカの傭船の船乗りにされて、しかもコレラ船に閉じこめれて、戦争には負けるものでない」などいって楽器をいじりだした。「あの人は海軍兵学校をでているのかな」ときびきびしたもの言いに、そんな風に私は想像した。船員さんは楽器をひきながら「だれか故郷を想わざる」という歌を歌った。こどもの耳にもいままでの芸とは際立って上手だった。
そのとき順ちゃんの小母さんがその船員さんになにか話し掛けていた。おばさんは坊主にした髪がのびかけていたが、少し色のついたスカーフを頭につけてなにか素敵な感じだった。やがてギターをうけとると「十年まえ、習ったんです。ギターは退廃的だといわれて習うのをやめました。でも船員さんの上手なギターをきいて昔をおもいだしました。ギターをお借りして十年ぶりにやってみます。」
私も順ちゃんもびっくりしてしまった。しかし、小母さんはかまわずつづけていた。
「私は主人と二人のこどもを北朝鮮にすててきました。死んでしまいました。せめて鎮魂歌をうたわせてください」。
「主人のつもりでしっかり抱けよ」。誰かが野次をとばした。げたげたと笑う声がきこえて少しいやな感じがした。
でもおばさんは「影を慕いて」を歌いますといってギターをひきながら歌をうたいだした。
「まぼろしの影を慕いて」と歌い出すと、目からぽろぽろ涙がでていた。騒ついていた慰安会の会場はしーんとしてきた。おばさんは歌を最後まで歌ったのかそれとも途中までだったのか私にはわからなかった。ギターに体中を伏せるようにして泣きだしてあとがつづかなかった。当時なんでも拍手するという習慣はなかった。しかし、みんなが拍手をしていた。みんなが泣いていた。順ちゃんは 「お母さんはすぐ泣くのだから」といいながらなぜか洋武も順ちゃんも泣いていた。
「あの星オリオンというんだよ。冬になるとお空の真ん中にでる星だ。お父さんに教えてもらった」。慰安会がすんで夜遅くになっていた。順ちゃんが洋武に夜空を指しながらいった。「ぼくは北斗七星しか知らないよ。順ちゃんはお父さん好きだったね」。「うん、お父さんは何でも教えてくれたもの。それにやさしかったもん」。
洋武は自分の父と比較した。晋司は何でも鉄拳制裁だった。そして酒を飲む晋司が好きではなかった。
「でも順ちゃんのお父さんは死んでしまったね」「死んでしまったらなんにもならない」順ちゃんは大人が言うようないい方をした。
「お父さんは死ぬときお姉さんやぼくたちに『お母さんの言う事よく聞いてね。お母さんを大事にしてね。』って眠るように死んだんだよ。あのオリオンの三ツ星、きっとお父さんとヤッちゃんとミッちゃんの星じゃないかと思うんだ」。
順ちゃんの家はお父さんが結核だったから、数少ない個室に入っていた。だから河村さんのおぁばちゃんが死んだ時は側で見ていたが、順ちゃんのお父さんはどんな死に方をしたか私は知らなかった。博多の夜景が遠くにみえて、夜空には星がまたたいていた。
順ちゃんの小母さんが慰安会で歌を歌ってから船内でも注目されるようになった。甲板にいる小母さんに声をかける人が増えていた。そんなある日、恵子さんが船倉で休んでいるハナのところに 「おばさん助けて。母が船員さんにいじめられている」と深刻そうな顔で飛びこんできた。
引揚者と船員は画然と区別されていた。船員の部屋をのぞくことも許されていなかった。しかし、子ども達はときどき船員の部屋を小さな窓からのぞくことがあった。船員達は電気コンロを持ちこんで白いご飯を炊いていた。二~三人でおいしそうな缶詰のおかずを囲んでご飯を食べている姿は、子ども達にとって文字通り垂誕の的だった。そんな時、かならず「ここは君達のくるところでない」とかカーテンをさっーと引いたり邪魔者扱いのうえ追い出された。ただ、若いお姉さんたちは例外だった。
長い隔離生活の中で船員達も退屈だった。若い女性たちは船の中では特別扱いの船員達に取り入ることで 「白いご飯」や長い間見たこともない缶詰などのご馳走に触れることができた。そうした風潮が船内に目につくにつれて引揚者の中で風紀問題として非難する声が広がった。母ハナなどはその先頭のようだった。
「露助(ソ連兵)をさけるために頭を丸坊主にしたのにここまで来てふしだらの事をするのは、坊主になった甲斐がない」。
そうしたことを方々でしゃべっていたらしい。
それを船員達が、順ちゃんの小母さんが言いふらしていると船室にとじこめてつるし上げていた。順ちゃんのおばさんは慰安会での一件で特別に目だっていたようだった。
ハナは緊張した顔で出かけていった。一時間ほどしたらまもなくハナは、順ちゃんのおばさんと恵子さんといっしよに意気揚揚と帰ってきた。順ちゃんの小母さんも恵子さんも「助かったわ」とくり返し御礼を言った。
「私言ってやったのよ。なにもやましいことがなければいちいちそんなこと気にすることないでしょう。頭を坊主にしてまでして身を守ってきた娘さんたちが、食べもののためにもしものことがあったら親御さん達は心配するのはあたりまえでしょう。あなたがたもやましくなければ、船乗りというのは人がなにをいおうと堂々としているのが男らしいのではないの」。ハナの正論には船乗り達はグーの音もでなかったらしい。
ある夜、甲板の上で慰安会が行なわれていた。慰安会は引揚げ者たちのあいだからつぎつぎと演じる人がでて、「私は平壌から帰ってきました」。とか「新義州から命からがら逃げてきました」などあいさつして歌を歌ったりした。浪花節もあった。漢詩の詩吟もあった。「さらばラバウルよ」という軍歌もあった。ただ、戦争中にきいた時は勇ましかった「さらばラバウルよ」という歌はずいぶんやさしい歌になった感じだった。落語もあった。「内地に帰るとみんな酒のみになってしまう。神戸に行くと『三升のめや三升のめや』という声がする。いや三の宮ことですがね」などいうのもあった。誰も笑わなかった。
「二千人もいるといろいろ芸達者がいるものね」とハナたちはそうした演芸に紛れていた。
もう夜も更けた頃、上から下まで真っ白いマドラス服を着た船員さんが楽器をぶらさげてでてきた。
「あれはマンドリンというのかな」 「ちがうよギターだよ。マンドリンは自動小銃のようにまるが一つだが、ギターはひょうたんがたになっているんだ」。順ちゃんが教えてくれた。
「おれは海軍軍人の駆逐艦のりだった。戦争に負けたばっかりにアメリカの傭船の船乗りにされて、しかもコレラ船に閉じこめれて、戦争には負けるものでない」などいって楽器をいじりだした。「あの人は海軍兵学校をでているのかな」ときびきびしたもの言いに、そんな風に私は想像した。船員さんは楽器をひきながら「だれか故郷を想わざる」という歌を歌った。こどもの耳にもいままでの芸とは際立って上手だった。
そのとき順ちゃんの小母さんがその船員さんになにか話し掛けていた。おばさんは坊主にした髪がのびかけていたが、少し色のついたスカーフを頭につけてなにか素敵な感じだった。やがてギターをうけとると「十年まえ、習ったんです。ギターは退廃的だといわれて習うのをやめました。でも船員さんの上手なギターをきいて昔をおもいだしました。ギターをお借りして十年ぶりにやってみます。」
私も順ちゃんもびっくりしてしまった。しかし、小母さんはかまわずつづけていた。
「私は主人と二人のこどもを北朝鮮にすててきました。死んでしまいました。せめて鎮魂歌をうたわせてください」。
「主人のつもりでしっかり抱けよ」。誰かが野次をとばした。げたげたと笑う声がきこえて少しいやな感じがした。
でもおばさんは「影を慕いて」を歌いますといってギターをひきながら歌をうたいだした。
「まぼろしの影を慕いて」と歌い出すと、目からぽろぽろ涙がでていた。騒ついていた慰安会の会場はしーんとしてきた。おばさんは歌を最後まで歌ったのかそれとも途中までだったのか私にはわからなかった。ギターに体中を伏せるようにして泣きだしてあとがつづかなかった。当時なんでも拍手するという習慣はなかった。しかし、みんなが拍手をしていた。みんなが泣いていた。順ちゃんは 「お母さんはすぐ泣くのだから」といいながらなぜか洋武も順ちゃんも泣いていた。
「あの星オリオンというんだよ。冬になるとお空の真ん中にでる星だ。お父さんに教えてもらった」。慰安会がすんで夜遅くになっていた。順ちゃんが洋武に夜空を指しながらいった。「ぼくは北斗七星しか知らないよ。順ちゃんはお父さん好きだったね」。「うん、お父さんは何でも教えてくれたもの。それにやさしかったもん」。
洋武は自分の父と比較した。晋司は何でも鉄拳制裁だった。そして酒を飲む晋司が好きではなかった。
「でも順ちゃんのお父さんは死んでしまったね」「死んでしまったらなんにもならない」順ちゃんは大人が言うようないい方をした。
「お父さんは死ぬときお姉さんやぼくたちに『お母さんの言う事よく聞いてね。お母さんを大事にしてね。』って眠るように死んだんだよ。あのオリオンの三ツ星、きっとお父さんとヤッちゃんとミッちゃんの星じゃないかと思うんだ」。
順ちゃんの家はお父さんが結核だったから、数少ない個室に入っていた。だから河村さんのおぁばちゃんが死んだ時は側で見ていたが、順ちゃんのお父さんはどんな死に方をしたか私は知らなかった。博多の夜景が遠くにみえて、夜空には星がまたたいていた。
順ちゃんの小母さんが慰安会で歌を歌ってから船内でも注目されるようになった。甲板にいる小母さんに声をかける人が増えていた。そんなある日、恵子さんが船倉で休んでいるハナのところに 「おばさん助けて。母が船員さんにいじめられている」と深刻そうな顔で飛びこんできた。
引揚者と船員は画然と区別されていた。船員の部屋をのぞくことも許されていなかった。しかし、子ども達はときどき船員の部屋を小さな窓からのぞくことがあった。船員達は電気コンロを持ちこんで白いご飯を炊いていた。二~三人でおいしそうな缶詰のおかずを囲んでご飯を食べている姿は、子ども達にとって文字通り垂誕の的だった。そんな時、かならず「ここは君達のくるところでない」とかカーテンをさっーと引いたり邪魔者扱いのうえ追い出された。ただ、若いお姉さんたちは例外だった。
長い隔離生活の中で船員達も退屈だった。若い女性たちは船の中では特別扱いの船員達に取り入ることで 「白いご飯」や長い間見たこともない缶詰などのご馳走に触れることができた。そうした風潮が船内に目につくにつれて引揚者の中で風紀問題として非難する声が広がった。母ハナなどはその先頭のようだった。
「露助(ソ連兵)をさけるために頭を丸坊主にしたのにここまで来てふしだらの事をするのは、坊主になった甲斐がない」。
そうしたことを方々でしゃべっていたらしい。
それを船員達が、順ちゃんの小母さんが言いふらしていると船室にとじこめてつるし上げていた。順ちゃんのおばさんは慰安会での一件で特別に目だっていたようだった。
ハナは緊張した顔で出かけていった。一時間ほどしたらまもなくハナは、順ちゃんのおばさんと恵子さんといっしよに意気揚揚と帰ってきた。順ちゃんの小母さんも恵子さんも「助かったわ」とくり返し御礼を言った。
「私言ってやったのよ。なにもやましいことがなければいちいちそんなこと気にすることないでしょう。頭を坊主にしてまでして身を守ってきた娘さんたちが、食べもののためにもしものことがあったら親御さん達は心配するのはあたりまえでしょう。あなたがたもやましくなければ、船乗りというのは人がなにをいおうと堂々としているのが男らしいのではないの」。ハナの正論には船乗り達はグーの音もでなかったらしい。