戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・49 (林ひろたけ)
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引き揚げ列車の中で 学生同盟の人達・1
その日、晋司もハナも兄達もばたばたしていた。上陸の手続きやまた援助物資が支給されたらしかった。由美と洋武は荷物を守って倉庫の片隅でじっと待っていた。
夜になって 引き揚げ列車は博多の引っ込み線から出発した。引き揚げの移動のなかで初めての客車だった。いままではトラックであったり貨車であったり、貨物船であったりした。「やはり内地ね。はじめて人間並みね」とハナは喜んだ。引揚げ列車はみんな椅子に座れた。ただ椅子に座ることのできないほど疲れた人たちが通路にそのまま寝転んでいたが、それでも便所にいくとき少し不便だったぐらいだった。兄達は関門トンネルや原子爆弾が落とされた広島をみたがっていたが、いづれも夜に通ることに不満だった。
原子爆弾の落ちた広島を一度みてみたいと兄達は、夜中の広島のホームにたったが一面のやけの野原以外なにもなかったという話だった。
朝飯は糸崎駅(広島県)だった。兄たちが外食券で駅弁を手に入れてきた。「ああ、駅弁なのね。なつかしいね」 とハナが言った。由美も洋武も駅弁は初めてだった。ボロボロの麦飯だったが、船の中の食事よりはるかにおいしかった。
林家のすわった席は北側だった。海が窓から見えなかったが中国地方の平野と山並みをみながら列車はすすんだ。山は朝鮮の山々とは違って赤や黄色で色づき燃えているようだった。引き揚げ列車は名もない駅に長時間とまった。そのたびにまた長野県に帰れなくなるのでないかと心配した。この一年 「今度こそは」 と何度も裏切られてきた。「ことは決して思うようにならないものだ」 と骨身にしみていた。少し停滞するとまた騙されたのかという不信が頭をよぎった。
「特別列車だから他の列車を先にだしているらしい」 兄達がそんな解説をしていた。
列車がすすむと窓からお祭りをしているらしい風景が見えてきた。万国旗をかかげて運動会をしている学校が見えてきた。「ああ今日は明治節ね。わたしたちが苦労している間にも日本は回復しているのね。国破れて山河あり」 とハナがつぶやいていた。「国破れて山河あり」 という言葉は終戦のあの日いらい何十回もきいた。しかし、中国路を走る列車からみえる運動会の姿は、たしかに子供心にもほっとさせるものがあった。はじめてみるもみじで赤や黄色に色付いた日本の山々や濁りのない川が流れている風景は美しかった。しかし、その日、新しい憲法が公布されたことなど私たちは誰も知らなかった。
福山で日本のお城をはじめてみた。軍国少年だった洋武は城の絵を見るのが好きだった。だから福山城の白壁と黒に瓦の屋根が漫画や絵でみてきたお城よりはるかにきれいに見えてきた。
やがて姫路城が遠くに見えてきた。「姫路城は焼けなかったのね」という声がしたが、鉄道から城までの間は焼け野原だった。博多では引き込み線からでたし、広島を夜中に通過しただけに引き揚げ列車の人たちには空襲のあとのすさまじさをみるのははじめてだった。
姫路を出てから、列車はまもなく神戸市にさしかかっていた。神戸のやけ野原はもっとすごかった。列車から山まで見渡す限り、家は一軒もなかった。折れた煙突だけがにょきにょきとたっていた。ときどき防空壕に住んでいるいるらしき人が、地下壕の穴のなかからでてきたり、多分お昼の準備だと思うが、七輪を外に出して炊事をしている女の人の姿が見えた。
「ひどいね。神戸は完全にやられたのね」 「内地の人たちも苦労していたのね。戦争は負けるのはいやね」。列車のなかはそのたびにざわついた。
神戸駅をすぎたころ、腕章をし角帽をかぶった大学生服のお兄ちゃんが二人、私たちの車両にはいってきた。「引揚者のみなさん、わたしたちは引揚者援護学生同盟のものです。私たちは、家族が海外にいる子弟で組織して引揚者のみなさんのお役に立ちたいと願ってやっているものです。みなさんのどんなご用にもお役にたちます」 といって車両のなかを車掌さんのように歩きだした。
「あのー、昼ご飯はでないのですか」。誰かがきいた。「はい、引き揚げ列車の弁当は朝と夜だけの二食です。夜はたしか米原駅ででるはずです。米原まではあと五時間ぐらいかかります」。昼がないことはあらかじめ連絡されていたがお腹がすいてしかたなかった。朝、糸崎駅で食べただけで、途中の駅では食べものらしき物は売っていなかった。列車のなかはこどもが「お腹がすいた」 とぐづついた声がたえずあった。
「きいてみたら」 ハナがいった。「あのどこの大学の方ですか」「はい同志社大です」。
わが家の雰囲気は少しがっかりしていた。「なんでしょうか」 「いやうちの息子が京都大学にいるのですがちょときいてみたくて」。晋司はそんな会話をして黙ってしまった。ハナがすかさず「林俊雄はしりませんか」と声をかけた。学生さんはびっくりした感じでハナを見返していた。「あっ林君のご家族ですか。知っているどころか、さっきまで京都駅でいっしょでした。そういえばお姉さんは林君そっくりですね」。その学生は由美を指してそういった。おかっぱ姿で長い逃避行生活でやつれきっていた由美もこうした場所では目立った美少女だった。車内が騒ついていた。兄達も洋武までおもわず「よかった」と大きな声で叫んだ。ハナがすかさず聞かなかったら会話はそれまでだったかもしれない。ハナはおとなしい質であったがこうしたとき抜け目のない人だった。「次の駅で林君に連絡します」。その親切な同志社大の学生はきびきびとこたえた。
列車が京都駅に滑り込んだとき、俊雄兄さんが学生援護同盟の腕章をした学生服姿で窓から乗り込んできた。特別列車だったから一般の人は乗ることはできなかったが、神戸をすぎると大きなルックサックを担いだ一般の人もどんどん列車にのりこんできて、窓から乗りする人が多くなっていた。
ハナが「俊雄生きて帰ってきた。一人も死なずに。でもルック一つであとはみんな朝鮮においてきた」といって俊雄をだきしめて泣きだした。兄たちもみんな泣いていた。「生きていればいい。生きていればこれから何でもできる」。晋司も俊雄兄さんが生きていたことをほんとうに喜んでいたようだった。俊雄は窓枠に尻をのせてみんなの方をみながら船の中からだした手紙がついてほっとしたことや同志社大の学生から駅の電話をとおして連絡があったことをなどを手短にした。「この腕章をしていれば汽車賃はいらないんだ。学生援護同盟が引揚者の面倒を見ているんだ」 と俊雄は続けた。
洋武も俊雄兄さんのズボンにすがった。「お兄さん。順ちゃんが死んだよ。安っちゃんも死んだよ。小島校長先生の小母さんも死んだよ」。俊雄は菊村さん一家も順安の人たちも詳しくは知らなかった。ただ、みんな死んでしまったこと誰かに伝えたかった。順安で知っている何人かの消息を話し合った。そして俊雄の友達も特攻隊や召集でつぎつぎの戦死した話をしていた。兄さんも「海軍飛行特別訓練生」に志願したが健康の不調で不合格だったことも報告していた。列車の人たちは生きて会える一家を羨望の眼でみていた。
俊雄は「スターリンは『こんどの戦争で日露戦争の仇を取った』といったんだ。それほど無目的の戦争だった。しかも子ども老人をひどいめにあわせて。林家はともかくみんな生きて帰れたが満州の開拓団はものすごい状態なんだ。もっともっとひどい家族がいるんだ」とソ連を激しく非難した。順安にいるとき満州から逃げてきたお兄ちゃんの話は本当だったんだと思い返した。
同時に三十八度線をこえたときの学生さんが「ソ連はひどい国だ」との話とも同じだなと思った。
「なにもないが」といいながら、乾パンをポケットからだした。一人に二枚づつでもあっただろうか一枚一枚なんども味あいながらたべた。俊雄は大津駅で列車からはなれた。「正月には長野に帰るからそのときもっと話そう」とわかれたが家族みんなが話し足りない感じをもったままわかれた。米原駅で夕食の弁当がでた。
名古屋についたのは夜十二時前の深夜だった。中央線への乗り換えだった。「これからは引揚者の特別列車でないから迷子にならないようにね。」そんな注意をうけながら名古屋駅をおりた。
名古屋駅を降りた時、数人の学生らしき人達が「引揚者のみなさんご苦労さまです。私たち学生援護同盟のものです。荷物をもちます。」とかけよってきた。晋司もハナも警戒の構えを崩さなかった。「中央線で席を確保してあります。急ぎましょう。ぼくはルックをおろしましょう。」と女の学生が声をかけたが、洋武はそれに応じなかった。学生たち二人に体ごとかかえられ背中におぶされてホームにでた。「長いこと苦労したのでみんさん警戒するのです。 でも私たちはほんとうに大丈夫です」。そう両親に声をかけた。中央線の列車には別の学生の一団がすでに席をとっていて、わが一家が入っていくと一斉に席を立った。他の二、三の引揚者家族もそうして席に座ることが出来た。全部で二〇数名の学生達が働いていた。「私たちの家族も海外からまだ帰ってこないのが半分くらいです」。学生の一人が答えた。一家が席に着いて、晋司がはじめて 「こんな夜遅くまで親切にありがとう。一生忘れません。戦争に負けてもみなさんのような方がいるとはほんとうに心強いかぎりです」 とお礼をいった。両親が何度もお礼を言うので学生さん達は照れていた。列車は便所にも立てないぐらい大きなルックを背負った乗客でいっぱいになった。