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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・43 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・43 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/8/17 8:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 第四章 コレラ船に乗せられて

 ∨〇一八号・1

 翌朝、釜山についたときみんなくたくただった。列車がついたところを降りるとそこは大きな倉庫の中のようなところだった。「税関倉庫だな」何回も内地と往復して釜山のことをよく知っている人もいた。大人もこどももみんな、倉庫に敷かれたむしろの上に寝転んで疲れをいやした。貨物列車のなかがあまりにもぎゆうぎゆうに詰め込まれたので手や足をゆっくりのばせることができてほっとした。
 大人たちは、どこから避難してきたのかとか、家族は何人なのかとか名簿を作ったり忙しそうだったが、子ども達は倉庫のむしろの上でエビのように寝転がって休んでいた。倉庫は大きかった。レールが倉庫の中に引き込まれていて、私たちが休んでいるときにもぞろぞろと避難民が送り込まれてきた。昼の弁当には乾パンと三人に一つの缶詰のスープだった。「これは乾パンじやない。ビスケットだ。」ざわめきが広がった。かってないごちそうだった。大きなビスケットが一人二枚づつ配られてどこでもうれしそうな声が聞こえていた。
 「十五才から四五才までの婦人は集まるように」という指示が出された。倉庫の片隅に集められ、白いお医者さんのような白衣を着た男の人や女の人が一人ずつ面接していた。
 話が終わって群からはなれる女の人たちは一様に不快そうな顔をしてでてきていた。わが家は、ハナも由美も年齢としては該当しなかったが順ちゃんの家はおばさんも恵子姉さんも呼ばれていった。まもなく、それが 「ソ連兵や朝鮮人に暴行されなかったかどうか」 という質問だということを子どもも知ることになった。
 「妊娠した人は上陸地で堕胎するんだそうよ」 「露助の子どもを生むわけにはいかないものね」とひそひそ話があちこちで広がっていた。
 ソ連兵の暴行は方々で広がっていた。同時に、朝鮮人のなかにも日本人を襲うものもでていた。北朝鮮からの避難の途中もくりかえし行われていた。「マダムダバイ」 (女を出せ)以来子ども達にも、それがどんな意味なのかぐらいの性の知識は持つことになっていた。
 午後になるといよいよ乗船が始まった。
 開城では水鉄砲のように手でおして粉をかけていたが、釜山では機械で勢いよく、DDTを頭からそして袖口から体中に乗船前にかけられた。「今度は効率がいいね」 みんな真っ白の消毒にとまどいながら、それでもしらみや蚤から解放されること喜んでいた。DDTは殺虫剤として威力を発揮したが、猛毒のダイオキシンも含まれておりその後使われることはなかった。しかし、外地から引き揚げてきた人たちにとってDDTによる消毒は強烈な記憶であった。
 倉庫の前には大きな貨物船がついていた。船は岸壁に横付けになっていた長いタラップ階段がついていた。
 「やっと船よ。やっとかえれるのよ」 とハナがいった。「満州に嫁にきてから二四年目に内地にかえれる」。そんな思いをのせて船に乗り込んだ。
 終戦になってから私たちには写真というものとは全く無縁だった。ただ、この釜山では日本人のカメラマンがいたらしい。「邦人引き揚げの記録」 (毎日新聞社刊) には引揚げ船にのりこむ写真がある。
 そして 「戦後引揚の記録」 (若槻泰雄著) の表紙にもなっている。昭和二十一年九月とあるから私たちの一行が引揚船にのりこむ写真ではないかとしばしば思っている。大人は大きなルックサックをかつぎ女の人は大きな鞄を前にたらし背中には赤ちゃんを負ぶっている。子供はルックとともに延をくるくるまいて背中に背負っている。物乞いのような難民の集団だった。私たちもこの写真とまったく同じ姿で船に乗りこんだ。
 また、この写真集の別のページには、船腹に 「VO一八号」 煙突に 「SARA BACHE」とかかれた引揚船が釜山港を出航する写真も掲載されている。それはまぎれもなく私たちがのりこんだ引揚船だった。
 「船は戦時標準船リバティ型VO一八号別名サラバック号といいます。約八千トン。アメリカから日本政府が借りて海外邦人の引揚げのためにつかっています。この船には二千名の引揚者が乗り組みます。この船は博多港につきます」。そんな説明が係の人からあった。「引揚者」という言葉をはじめて聞いた。私たちが引揚者と呼ばれていることをはじめて知った。
 船は船橋で前と後が仕切られており私たちは後の船尾のほうに乗り込んだ。船の船倉はかなり高い二階に仕切られていた。その間を木の板で作った階段がついていたが手摺りはロープしかなかった。 順安からの引揚者たちは二度階段をおりて船底のほうの船倉をあたえられた。船底はさらにスクリューの覆いででタテに二つに分かれていた。それぞれの家庭が順安での収容所のように家族ごとにルックサックで他の家族と境をして縄張りをつくった。貨物船に貨物のようにつみこまれたが、それでもあの野宿の逃避行よりはるかによかった。こうりやゃんと豆かすと海藻が浮いた薄い汁物の食事が家族ごとに配給になった。みんなその船倉で黙々とたべていた。それに毛布が一人一枚づつ貸し与えられた。

 夕食をおえるとみんな出航を待ってつぎつぎに甲板に出た。順ちゃんと私は甲板にでて船端から下をみていた。
 「あれはタグボートというんだよ。船が出るとき大きな船を押してして岸壁を離れさせるんだ」「よく知っているね」「うん、内地に帰ったときお父さんが教えてくれた」
 ひらべったい形をしたそのタグボートはさかんに船を押したり引いたりしていた。タグボートの船長さんらしき人がマイクを通して大きな声をだしてなにか叫んでいた。貨物船のスクリューにロープが巻き付いていて船はうごくことができなかった。
 「出航はあすになるらしい」 そんな声があった。「わたしたちはどこまで運が悪いんでしょう。ロープがスクリューに巻きつくなど考えられないわ」。順ちゃんの小母さんが憤慨していた。
 翌日、朝から潜水服をきた人が船縁に潜って作業が続けられ、昼すぎにはロープはとりはづされていた。その一日みんなは 「本当に船が出航できるのだろうか」 といらいらしていた。が釜山の岸壁をはなれたのは九月二二日の夕方だった。

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