戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・46 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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∨〇一八号・4
戦争が終わって一年間、日本のニュースはほとんど知らされていなかった。船の中で聞く日本のニュースは驚くことが多かった。なかで東条英機元首相がピストルで自殺に失敗して戦犯に捕らわれているニュースはみんなを驚かしていた。
「お父さんね。文官の近衛さんが服毒自殺したのにどうして東条さんはピストルで自殺をし損なって戦犯に捕らわれたのでしょう。だって東条さんは『生きて虜囚の恥辱を受けず。死して罪過を残す事勿れ』といった戦陣訓を作った人でしょう」。近衛文麿は戦犯に捕らわれたとき服毒自殺をした元首相だった。晋司は「そんなこと俺知るか」とやりきれないように答えていた。杉山元帥は夫婦で自害されたというのに東条英機はなぜ戦犯に捕らわれるような惨めなことになったか。
ハナだけでなくおばさんたちはみな憤慨していた。
やがて船から手紙をだせることになった。書けばそこから破れてしまうような質の悪い紙に晋司とハナはていねいに時間をかけて手紙を書いた。わが家は長野県の伯父さんのところと、京都の俊雄兄さんところにだした。俊雄兄さんのところには下宿の住所だけでなく、晋司の提案で大学の工学部電気工学科にもだすことにした。順ちゃんの小母さんも愛媛のお父さんの里とおばあさんの両方に書いた。
最初に返事のあったのは、熊本の里にだした粟野さんのところだった。五高にすすみ、予科練にいっていた典雄兄さんと同級だったお兄ちゃんが 「特攻隊にいっていて、たぶん生きていないだろう」 といっていたのに無事、生きて里に帰っていることがわかって家中して喜びの歓声をあげていた。わが家にも長野の伯父さんと京都の俊雄兄さんからそれぞれ返事があった。手紙は中が開けられて検閲がされていた。GHQ (アメリカ占領軍) というローマ字の印がされていた。
セロハンのようなセロテープで封がされていたが、その時セロテープというのをはじめて手にした。俊雄兄さんは住所が変わっていて、やはり大学に出した手紙がとどき 「帰る列車は必ず連絡して」 と書いてあった。
生きているだけでもうれしかった。しかも大学で勉強していることにほっとした気持ちが疲れた気分のなか内地にかえってよかったという思いがしていた。しかし、順ちゃんの小母さんのところにはどちらからも返事はなかった。長崎の方は小母さんのだした手紙がそのまま帰ってきていた。「町全体がやけて居所不明」と付箋がしてあった。その手紙にも、セロテープで止めてありGHQの検閲済の判までおしてあった。
「天主様が守ってくれなかったのよ。どちらもだめでした。どうすればよいのでしょう」。おばさんはハナのところに手紙をもって相談にきていた。私は大きくなって「教会の近所にいる人達は、キリスト教の信者のおおい教会の周りはアメリカは爆撃しないだろう」という淡い期待があり疎開をしなかった人達が多かったことを知った。その人達に神の恵みは届かなかった。
「ともかくやってみるのよ。愛媛でも長崎でもあきらめずに生きていきましょうよ」 「それにしてもむごいことね。戦争はほんとうに無残ね」。ハナは「一億総出撃」などいって国防婦人会のたすきを掛けていた頃に比べてすっかり変わってしまっていた。
検便は三回も行なわれ、船が博多湾にはいって三週間も経っていた。それでも上陸は許されなかった
戦争が終わって一年間、日本のニュースはほとんど知らされていなかった。船の中で聞く日本のニュースは驚くことが多かった。なかで東条英機元首相がピストルで自殺に失敗して戦犯に捕らわれているニュースはみんなを驚かしていた。
「お父さんね。文官の近衛さんが服毒自殺したのにどうして東条さんはピストルで自殺をし損なって戦犯に捕らわれたのでしょう。だって東条さんは『生きて虜囚の恥辱を受けず。死して罪過を残す事勿れ』といった戦陣訓を作った人でしょう」。近衛文麿は戦犯に捕らわれたとき服毒自殺をした元首相だった。晋司は「そんなこと俺知るか」とやりきれないように答えていた。杉山元帥は夫婦で自害されたというのに東条英機はなぜ戦犯に捕らわれるような惨めなことになったか。
ハナだけでなくおばさんたちはみな憤慨していた。
やがて船から手紙をだせることになった。書けばそこから破れてしまうような質の悪い紙に晋司とハナはていねいに時間をかけて手紙を書いた。わが家は長野県の伯父さんのところと、京都の俊雄兄さんところにだした。俊雄兄さんのところには下宿の住所だけでなく、晋司の提案で大学の工学部電気工学科にもだすことにした。順ちゃんの小母さんも愛媛のお父さんの里とおばあさんの両方に書いた。
最初に返事のあったのは、熊本の里にだした粟野さんのところだった。五高にすすみ、予科練にいっていた典雄兄さんと同級だったお兄ちゃんが 「特攻隊にいっていて、たぶん生きていないだろう」 といっていたのに無事、生きて里に帰っていることがわかって家中して喜びの歓声をあげていた。わが家にも長野の伯父さんと京都の俊雄兄さんからそれぞれ返事があった。手紙は中が開けられて検閲がされていた。GHQ (アメリカ占領軍) というローマ字の印がされていた。
セロハンのようなセロテープで封がされていたが、その時セロテープというのをはじめて手にした。俊雄兄さんは住所が変わっていて、やはり大学に出した手紙がとどき 「帰る列車は必ず連絡して」 と書いてあった。
生きているだけでもうれしかった。しかも大学で勉強していることにほっとした気持ちが疲れた気分のなか内地にかえってよかったという思いがしていた。しかし、順ちゃんの小母さんのところにはどちらからも返事はなかった。長崎の方は小母さんのだした手紙がそのまま帰ってきていた。「町全体がやけて居所不明」と付箋がしてあった。その手紙にも、セロテープで止めてありGHQの検閲済の判までおしてあった。
「天主様が守ってくれなかったのよ。どちらもだめでした。どうすればよいのでしょう」。おばさんはハナのところに手紙をもって相談にきていた。私は大きくなって「教会の近所にいる人達は、キリスト教の信者のおおい教会の周りはアメリカは爆撃しないだろう」という淡い期待があり疎開をしなかった人達が多かったことを知った。その人達に神の恵みは届かなかった。
「ともかくやってみるのよ。愛媛でも長崎でもあきらめずに生きていきましょうよ」 「それにしてもむごいことね。戦争はほんとうに無残ね」。ハナは「一億総出撃」などいって国防婦人会のたすきを掛けていた頃に比べてすっかり変わってしまっていた。
検便は三回も行なわれ、船が博多湾にはいって三週間も経っていた。それでも上陸は許されなかった