戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・48 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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順ちゃんの死・2
それから二週間もたっても上陸は許されなかった。VO一八号よりあとから入港してきた船がどんどん碇をあげて入港していくのにわたしたちの船だけはいつまでもとりのこされていた。
当時の西日本新聞に、「博多湾に海上都市。浮べるホテル四一隻」の記事がある。
「博多湾がコレラ港に指定され引揚者の検疫が厳重になった一方、入港船はあいついでいるため先月二十日ごろから引揚者をのせたまま港内滞留船が漸増していたが、八日にはついに四一隻、未下船の引揚者は六万一千名にのぼり博多湾はこれらの浮かべるホテルでさながら海上都市を現出している。六万名の滞留引揚者への給食は一日米、高梁、乾パンなどをとりまぜ四百八十俵を要するので博多引揚援護局では食糧調達に大童であるが滞留の原因は引揚船が入港後検疫のため数日間揚陸されないこと、松原寮の一寮と三寮がコレラ発生のために収容できないためである。」(昭和二十一年十月九日づけ。)
週に一回の白いご飯とやはり週一回のパイナップルの缶詰を楽しみにしながらみんな退屈していた。
船倉の入り口にはクレオソートの液を入れてあるたらいが置かれていた。しかし一つの船倉でも数百人出入りし、船がゆれるたびに液はこぼれていたので、液はいつもそこの方に少し残っているだけだったりぜんぜんなかったりしていた。とくに、十月になるとしばしば嵐がやってきた。
引揚者たちもかなり慣れてきて階段から落ちる人は少なくなったが入り口のクレオソートはいつも残り少なかった。「かならず出入りには手を洗いなさい」 といわれながらもそれを守る子どもは少なかった。しかし、順ちゃんもお姉さん達もそれをていねいに実行しきちんと手を洗っていた。
同じ船倉でわが家のスペースから二十メートルぐらいはなれたところに場所を取っていた小父さんが急に担架にかつがれて診療室にむかった。そしてその日の午後、小父さんはコレラで死んだと伝えられた。「もうみているうちに死んでしまった」。そんな恐怖の声が船倉に広がり 「全員ここで死ねというのか」 という恨みの声があがった。洋武もそれからすこしまじめに手を洗うようになっていた。
さらに二日後の昼前、順ちゃんがあわただしく便所にのぼっていった。小母さんが心配そうにあとからついていた。恵子姉ちゃんが 「ひどい下痢になって脱水状態になって」 といった。私たちは絶えず下痢とおできには苦しめられていた。しかし、「ひどい下痢。脱水状態」 ということに圧し殺したようなひびきがあった。順ちゃんが便所にはいるまで私もついていった。「心配してくれるのね」 と小母さんがいってくれた。便所からでてきた順ちゃんは、小母さんのおんぶされていた。順ちゃんの弟のみっちゃんが三十八度線をこえるとき順ちゃんの背中に負ぶされて、敏くちゃになってぐつたりしていたのと、全く同じだった。私は 「順ちゃんもコレラだ」 と直感した。順ちゃんは、小母さんにおんぶされたまま診療室につれていかれた。
その夜、おそくハナに起こされ順ちゃんがコレラで死んだと伝えられた。順ちゃんの小母さんがハナと真剣になにかはなしていた。順ちゃんの遺体が上陸するため、小母さんもいっしょについていくので、お姉ちゃんたちをみてほしいというものだった。
「しっかりしたお姉ちゃんたちだから心配しないで」 とハナが励ましていた。
翌朝「順ちゃんとおわかれよ」といわれてハナに催促されて甲板にあがった。
ランチがやってきた。いつものようにランチごとがらがらと引き揚げられて、甲板にならんでつけられた。ランチのまわりには綱がはってあった。そして少しの荷物をのせたあと、順ちゃんの小母さんがルックサック姿でランチにのりこんだ。
「いいですか。仏様を二つのせます」と船員のひとがどこからか遺体をだしてきた。
「あっ順ちゃんだ」私はおもわず叫んだ。順ちゃんはむしろにくるまれていた。むしろが少し小さくて順ちゃんのやせたすねがみえていた。そのすねが順ちゃんのものであることはなぜかすぐわかった。大村のあっちゃんが大きな声でワーワーといった。大村のおばさんが「そう あーちゃんは順ちゃんに大事にされたね」とつぶやいた。小母さんは泣いていなかった。恵子・美代子お姉ちゃん達も不安そうに二人で右手は右手を、左手は左手をというように前で重なり合って、抱き合うように手をとりあってジツートながめていた。ハナが合掌をしたがあとはだれも茫然としていた。ランチは遺体をのせるといつものようにがらがらと音をたてて海におりていった。ランチは海上につくとうなりをあげて白波をたてて岸に向けて走っていった。
上陸が認められたのはそれからさらに一週間以上もたった十一月二日だった。前の日から「明日は上陸」と知らされていたが、船はお昼になるまで動かなかった。
天気の良い日だった。船が錨を上げて船が動き出すと私たちも船倉からルックを背負い家族毎にならんだ。「まだ接岸するまで一時間もあるのですから」と係りの人が叫んでいたが、みんなだまって甲板に腰を下ろしその場を動かなかった。船はスムーズに岸壁に横付けになった。
順安を出たのは八月三〇日、釜山を出たのは九月二二日。実に四十二日も海上に放置されていた。その間、順ちゃんもふくめて、十数名の人が船内でなくなった。船が岸壁につき階段をおりていくと久しぶりの大地に、ゆれていない大地に足が着くとほっとしたかんじだった。
ハナが「これが内地よ。やっとついたのよ」。確かめるように、みんなを励ますように、確認するように、声をかけた。白い姿の看護婦さんやエプロン姿の小母さん達が、並んでいた。戦闘帽に国民服姿の小父さん達がいた。私たちの行列の両側に並んでみんな一様に「長い間ご苦労さんでした」と声をかけてくれた。「内地に帰ってきた」という実感が体中に広がっていた。すこし列を進むとそこに順ちゃんの小母さんが白い骨箱をかかえて待つていた。戦争中、戦死した英霊が返ってくる時、兵隊さんが胸に英霊の遺骨を抱いていたようにだいていた。
ハナは小母さんをみるともう涙ぐんでいた。しかし、小母さんは泣かなかった。恵子姉さんと美代子姉さんが小母さんに抱きついていた。
「武ちゃん。これが順ちゃんよ」と白い布でおおった箱を示した。「四人も死んだが骨があるのは順ちゃんだけよ」といった。そのとき私はあれだけよく泣く小母さんが涙をみせなかったのに不思議に思った。「泣き女のように泣く」と悪口を言う人もいた。
ところが小母ちゃんは「生きている男はただ一人よ」といって大事にした順ちゃんが死んでも涙をみせなかった。母にどうして小母さんは泣かないのだろうと聞かずにはおれなかった。
ハナは「もう涙がすっかり枯れてしまったのでしょうね」とつぶやいた。私はこの一年のあいだに生涯忘れることのできない言葉をたくさんおぼえた。ロシヤ語も「ダワイとウラー」を覚えた。「生命財産を保障する」とか、三十八度線をこえるとき「日本人には気は心ということばあるだろう」といって追いはぎあったが、その「気は心」という言葉とともに「涙が枯れる」ということばも忘れることはできなかった。
小母さん達は愛媛にも長崎にも帰らないで、博多にある収容施設に入ることになっていた。
「また収容所くらしよ。でも今度は内地だから」「手紙を頂戴ね。うちは長野にだしてくれればしばらく変わらないと思うけど」。しかし、菊村さんたち一家とは埠頭でわかれたきりだった。
VO一八号の滞留期間は多くの引揚船の中でも群を抜いていたようだ。昭和二十一年十一月四日づけ朝日新聞西部版には「缶詰四二日間コレラ船の悲劇」 の記事がある。
「隔離期間四二日間、博多港始まって以来の長期碇泊を余儀なくされた釜山からの引揚船VO一八号は、二日やっと放免。便乗者一九八七名の上陸が許された。同船からは真性患者十一名保菌者十四名をだしたが、その塩分不足で乗組員の半数が脚がはれあがり栄養失調と塩分欠乏で死者七名をだすという有様」と報じている。船内の状況では、コレラにかかった人は一人も生きてはいなかった。
それから二週間もたっても上陸は許されなかった。VO一八号よりあとから入港してきた船がどんどん碇をあげて入港していくのにわたしたちの船だけはいつまでもとりのこされていた。
当時の西日本新聞に、「博多湾に海上都市。浮べるホテル四一隻」の記事がある。
「博多湾がコレラ港に指定され引揚者の検疫が厳重になった一方、入港船はあいついでいるため先月二十日ごろから引揚者をのせたまま港内滞留船が漸増していたが、八日にはついに四一隻、未下船の引揚者は六万一千名にのぼり博多湾はこれらの浮かべるホテルでさながら海上都市を現出している。六万名の滞留引揚者への給食は一日米、高梁、乾パンなどをとりまぜ四百八十俵を要するので博多引揚援護局では食糧調達に大童であるが滞留の原因は引揚船が入港後検疫のため数日間揚陸されないこと、松原寮の一寮と三寮がコレラ発生のために収容できないためである。」(昭和二十一年十月九日づけ。)
週に一回の白いご飯とやはり週一回のパイナップルの缶詰を楽しみにしながらみんな退屈していた。
船倉の入り口にはクレオソートの液を入れてあるたらいが置かれていた。しかし一つの船倉でも数百人出入りし、船がゆれるたびに液はこぼれていたので、液はいつもそこの方に少し残っているだけだったりぜんぜんなかったりしていた。とくに、十月になるとしばしば嵐がやってきた。
引揚者たちもかなり慣れてきて階段から落ちる人は少なくなったが入り口のクレオソートはいつも残り少なかった。「かならず出入りには手を洗いなさい」 といわれながらもそれを守る子どもは少なかった。しかし、順ちゃんもお姉さん達もそれをていねいに実行しきちんと手を洗っていた。
同じ船倉でわが家のスペースから二十メートルぐらいはなれたところに場所を取っていた小父さんが急に担架にかつがれて診療室にむかった。そしてその日の午後、小父さんはコレラで死んだと伝えられた。「もうみているうちに死んでしまった」。そんな恐怖の声が船倉に広がり 「全員ここで死ねというのか」 という恨みの声があがった。洋武もそれからすこしまじめに手を洗うようになっていた。
さらに二日後の昼前、順ちゃんがあわただしく便所にのぼっていった。小母さんが心配そうにあとからついていた。恵子姉ちゃんが 「ひどい下痢になって脱水状態になって」 といった。私たちは絶えず下痢とおできには苦しめられていた。しかし、「ひどい下痢。脱水状態」 ということに圧し殺したようなひびきがあった。順ちゃんが便所にはいるまで私もついていった。「心配してくれるのね」 と小母さんがいってくれた。便所からでてきた順ちゃんは、小母さんのおんぶされていた。順ちゃんの弟のみっちゃんが三十八度線をこえるとき順ちゃんの背中に負ぶされて、敏くちゃになってぐつたりしていたのと、全く同じだった。私は 「順ちゃんもコレラだ」 と直感した。順ちゃんは、小母さんにおんぶされたまま診療室につれていかれた。
その夜、おそくハナに起こされ順ちゃんがコレラで死んだと伝えられた。順ちゃんの小母さんがハナと真剣になにかはなしていた。順ちゃんの遺体が上陸するため、小母さんもいっしょについていくので、お姉ちゃんたちをみてほしいというものだった。
「しっかりしたお姉ちゃんたちだから心配しないで」 とハナが励ましていた。
翌朝「順ちゃんとおわかれよ」といわれてハナに催促されて甲板にあがった。
ランチがやってきた。いつものようにランチごとがらがらと引き揚げられて、甲板にならんでつけられた。ランチのまわりには綱がはってあった。そして少しの荷物をのせたあと、順ちゃんの小母さんがルックサック姿でランチにのりこんだ。
「いいですか。仏様を二つのせます」と船員のひとがどこからか遺体をだしてきた。
「あっ順ちゃんだ」私はおもわず叫んだ。順ちゃんはむしろにくるまれていた。むしろが少し小さくて順ちゃんのやせたすねがみえていた。そのすねが順ちゃんのものであることはなぜかすぐわかった。大村のあっちゃんが大きな声でワーワーといった。大村のおばさんが「そう あーちゃんは順ちゃんに大事にされたね」とつぶやいた。小母さんは泣いていなかった。恵子・美代子お姉ちゃん達も不安そうに二人で右手は右手を、左手は左手をというように前で重なり合って、抱き合うように手をとりあってジツートながめていた。ハナが合掌をしたがあとはだれも茫然としていた。ランチは遺体をのせるといつものようにがらがらと音をたてて海におりていった。ランチは海上につくとうなりをあげて白波をたてて岸に向けて走っていった。
上陸が認められたのはそれからさらに一週間以上もたった十一月二日だった。前の日から「明日は上陸」と知らされていたが、船はお昼になるまで動かなかった。
天気の良い日だった。船が錨を上げて船が動き出すと私たちも船倉からルックを背負い家族毎にならんだ。「まだ接岸するまで一時間もあるのですから」と係りの人が叫んでいたが、みんなだまって甲板に腰を下ろしその場を動かなかった。船はスムーズに岸壁に横付けになった。
順安を出たのは八月三〇日、釜山を出たのは九月二二日。実に四十二日も海上に放置されていた。その間、順ちゃんもふくめて、十数名の人が船内でなくなった。船が岸壁につき階段をおりていくと久しぶりの大地に、ゆれていない大地に足が着くとほっとしたかんじだった。
ハナが「これが内地よ。やっとついたのよ」。確かめるように、みんなを励ますように、確認するように、声をかけた。白い姿の看護婦さんやエプロン姿の小母さん達が、並んでいた。戦闘帽に国民服姿の小父さん達がいた。私たちの行列の両側に並んでみんな一様に「長い間ご苦労さんでした」と声をかけてくれた。「内地に帰ってきた」という実感が体中に広がっていた。すこし列を進むとそこに順ちゃんの小母さんが白い骨箱をかかえて待つていた。戦争中、戦死した英霊が返ってくる時、兵隊さんが胸に英霊の遺骨を抱いていたようにだいていた。
ハナは小母さんをみるともう涙ぐんでいた。しかし、小母さんは泣かなかった。恵子姉さんと美代子姉さんが小母さんに抱きついていた。
「武ちゃん。これが順ちゃんよ」と白い布でおおった箱を示した。「四人も死んだが骨があるのは順ちゃんだけよ」といった。そのとき私はあれだけよく泣く小母さんが涙をみせなかったのに不思議に思った。「泣き女のように泣く」と悪口を言う人もいた。
ところが小母ちゃんは「生きている男はただ一人よ」といって大事にした順ちゃんが死んでも涙をみせなかった。母にどうして小母さんは泣かないのだろうと聞かずにはおれなかった。
ハナは「もう涙がすっかり枯れてしまったのでしょうね」とつぶやいた。私はこの一年のあいだに生涯忘れることのできない言葉をたくさんおぼえた。ロシヤ語も「ダワイとウラー」を覚えた。「生命財産を保障する」とか、三十八度線をこえるとき「日本人には気は心ということばあるだろう」といって追いはぎあったが、その「気は心」という言葉とともに「涙が枯れる」ということばも忘れることはできなかった。
小母さん達は愛媛にも長崎にも帰らないで、博多にある収容施設に入ることになっていた。
「また収容所くらしよ。でも今度は内地だから」「手紙を頂戴ね。うちは長野にだしてくれればしばらく変わらないと思うけど」。しかし、菊村さんたち一家とは埠頭でわかれたきりだった。
VO一八号の滞留期間は多くの引揚船の中でも群を抜いていたようだ。昭和二十一年十一月四日づけ朝日新聞西部版には「缶詰四二日間コレラ船の悲劇」 の記事がある。
「隔離期間四二日間、博多港始まって以来の長期碇泊を余儀なくされた釜山からの引揚船VO一八号は、二日やっと放免。便乗者一九八七名の上陸が許された。同船からは真性患者十一名保菌者十四名をだしたが、その塩分不足で乗組員の半数が脚がはれあがり栄養失調と塩分欠乏で死者七名をだすという有様」と報じている。船内の状況では、コレラにかかった人は一人も生きてはいなかった。