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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・50 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・50 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/8/25 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 引き揚げ列車の中で 学生同盟の人達・2

 話はずっと先に進む。高校三年に進む頃、洋武の成績は奇妙に上がり始めた。学年で五十番を超えることのなかった成績が二十番以内にはいることが多くなった。洋武の通っていた高校から例年、東大に四・五十人合格していた。当時国公立大学は授業料年間六千円だった。初度度に一万円あれば進学することが出来た。しかし、私立大学は最低二十万円は必要だった。「国公立の大学ならアルバイトしてでも何とか大学にいける。私立でなければ大学にいってもよい」という兄弟たちの許可をもらっていたがその期待にこたえることができそうだった。数学と社会がいつも一〇〇点近かった。国語や英語は苦手だったが、総合点で勝負をする東大を受けてみろという先生の指導で挑戦することになった。その年、洋武は自信はあったが二校受けることの出来る国立大学にどちらも合格できなかった。そして、試験が失敗したことがわかったとき重症の肺結核に冒されていることを医師から告げられた。さらに、林家を襲った不幸は兄俊雄も相次いで結核になっていた。和雄も含めて五人兄姉のうち三人までが結核に侵されることになった。
 俊雄は会社の都合で急いで回復する必要があった。手術をした。すでに二人の子がいたが、手術は失敗して二人の子供と未亡人を残して三二歳で命をたった。引揚者の家庭に痛烈な打撃だった。
 洋武の結核も軽いものではなかったが、結核治療薬が出始めていて手術は兄の例もあり受けなかった。二年間の療養生活の後、東大に合格するができた。東大に入学したときはすでに平和のためなら何かしなければいけないと考える青年だった。ただ、結核で療養生活を余儀なくされていたので体力には自信がなかった。
 それでも、洋武は大学に進んだ時、学生ボランテア活動の原点といわれた学生セツルメント活動に参加した。結核に侵された体に体力はなかった。貧しい家庭だからアルバイトで自活した。体力も金力もなかった大学生括の中で、その上セツルメント活動に熱中した。そこには夜中の十二時過ぎに私たち一家のために、多くの引揚者家族のために、面倒を見、席までとってくれた名古屋の学生同盟の人達への感謝の思いが残っていた。あのときの学生のように困っている人から感謝をされたい。その思いは強かった。学生同盟の活動は全国で行われたが、昭和二四年頃引き揚げ事業が一段落するなかで自然に消滅していった。しかし、東京などの学生同盟の一部から学生セツルメント活動に移っていく学生たちがいた。

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