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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・41 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・41 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/8/15 8:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 三十八度線を越える

 市辺里を過ぎるころ、私たちとおなじく逃避行をつづける日本人集団とときどき遭遇した。日本人同志で大人たちは情報を交換しては道筋を決めていた。
 洋武は熱が下がった次ぎの日に母の胃痛も少し楽になったようだった。私は熱が下がってからまた、順ちゃんと一緒に動くようになった。順ちゃんは光夫君の世話を姉さんと一緒にしながら一生懸命に歩いていた。山のふもとにそって道の途中で休憩になった。私はルックを背中にぐつたりと休んでしまった。しかし、順ちゃんは畑の向こう側に白い敷布が落ちているのを見つけて「ミッちゃんが下痢でパンツもおしめも足りないので」といって白い敷布を拾いに行った。しかし、側まで言ってすぐ帰ってきた。「おばあちゃんが死んでいた。おばあちゃんの死体にかけてあった」そういって私の側で座っている光ちゃんの横にぐったりと寝転んだ。疲れているのに敷布を拾いにいっていっそう疲れた様子だった。死体を見たのはそれが初めてだった。しかし、それから三十八度線に近づくにつれて老人や子供の遺体が放置されていた。半ば埋められた遺体もあった。激しい雨で、腕や足がのぞいていた。そのたびにみんな目をそむけたが、何もできなかった。
 「あと三日で開城」と末永先生に言われてから五日もたっていたがまだ三十八度線にはたどり着けなかった。そして明日は間違いなく「国境をこえる」という連絡があって、集団はその夜、残りの食糧をみな整理したり翌日の準備に当てていた。
 大南面とういう部落を出た時、保安隊にとめられた。「また、略奪だ」とみんなが恐れた。保安隊長がみんなをあつめた。「あなたがたは道を間違えている。こちらにいけば開城とは反対に方に出る。ほんとうにたいへんですね」という注意だった。
 「私たち朝鮮人もよい国をつくります。あなた方も日本にかえってよい国を作ってください。朝鮮人があなた方にひどいことをしているのも知っています。いま、朝鮮も独立を前に混乱しています。ソ連軍やら保安隊やらそれぞれ動くのでみなさんに迷惑をかけています。地元の百姓は、日本人の避難民がかぼちゃや野菜を荒らして歩くのでみんな怒っているのです。気の毒に思っている朝鮮人もたくさんいますから気をつけてください。」
 それは雨宿りをした朝鮮のヤンバンさんの家庭以来の親切だった。「あれは九州弁だな」と誰かが言った。「ウン長崎弁だな」といった。保安隊長の長崎弁にみんなほっとして涙を流す人もいた。洋武は高梁畑でかぼちゃを手に入れたことを思いだし、なんとなくずきんとした。
 そして「これからも、おかしな人達が略奪するかもするかもしれないから、気をひきつめて歩いてほしい。このあたりの人は日本人がとおるたびに芋やらかぼちゃやら野あらしにあって日本人を憎んでいる。あとの人のためにあなた方はそんなことしないでいってはしい」と付け加えた。その保安隊長は逃避行の中で、避難民の味方にたったはじめてで最後の保安隊長だった。
 しかし、その翌日も三十八度線を越えることはできなかった。道を間違っていたらしい。小南面というところで野営をした。次ぎ日の朝、集団にはざわめきがあった。前日に「もう最後」と食糧を食べきっていたため多くの家族は、その朝食べるものがなかった。集団で朝飯をつくる家族はいなかった。ただ、林家だけは粟粥を作った。それはハナがそれでもと用心して残していたわずかな粟だった。鍋からにおいがたちあがると周囲の人達が激しい羨望の目で見るようになった。林家の回りにきて私たちの粟粥を食べるのをじっとみている子もいた。順ちゃんの家を大事にするハナだったが、その朝は母は知らないふりをして「早く食べなさい」と家族にせかしていた。粟粥は薄く少しドロンとするぐらいの潰さだった。粟粒も少なかった。わずか一握りの粟を六人でわけるのだから当然のことだった。でもどろんとした舌触りは空腹のたしになった。
 洋武から卵をとりあげて順ちゃんの家にもっていったハナだったが、この日ばかりは人が変わったようにきびしい表情をしていた。順ちゃん一家は少し離れたところで空腹に耐えていたようだった。
 「今日こそは三十八度線をこえられる」 そういう声がある中、歩き出した。山の中に入ってまもなく、集団は道がちょっと広くなったところで止められた。それは保安隊ではなく、チゲ (背負い子)をもった一団だった。彼らはみんなを並ばせた。一人だけ銃をもった若者がいてまず、威嚇の実弾を撃って見せた。
 上手な日本語で 「ご苦労さん。日本人を助けてあげようと待っていました。これから山をこえるのはたいへんです。子どもさんやおばあさんや大きな荷物をチゲに載せて南まで送ってあげましょう」 と隊長らしき人がいった。「皆さんはどの集団よりみすぼらしい貧乏な日本人だ。お金がないこともだいたいわかる。しかし、それでも何かあるでしょう。まず鍋や釜は、今日一目でもういりません。明日からはアメリカ軍が食事の面倒見てくれます。みんな置いていってください。私たちはチゲで荷物や老人を背負っていったあげるから、なにかだしなさい」。
 「日本語に『気は心』という言葉があるでしょう。皆さんの気を示してください」。そういったかと思うといっせいにルックを勝手に開き出した。言葉つきはていねいだったが、追いはぎだった。もうなにもない集団だった。しかし彼らは日本人が大事なものをどこに隠しているかよく知っていた。手品のように次々に獲物を見つけ出した。順ちゃんの小母さんのリックの手の厚いところを切り開くと指輪が出てきた。「結婚指輪です。主人は死んだのです」といったが通用しなかった。「みんなそう言うんだ」と遮ろうとしたおばさんの手を足で蹴飛ばして指輪を取り上げた。
 大村会長は、靴の中に隠してあったお金をとりあげられた。そしてわが家の権利書がとりあげられたとき、「お前の家が悪い」といって洋武をなぐりつけた郵便局長のおじさんのルックからは油紙につつまれた大量な切手が出てきた。彼らは有無を言わずに取り上げていった。彼らの略奪が終わると荷物を持って案内をしはじめたが、森の切れ目でソ連兵の小隊が通りすぎるとそれを理由にさっさと姿を消した。形ばかりの荷物運びだった。「あれが一等国民だから」。誰かが叫んだ。
 ソ連兵は鉄兜をかぶり例のマンドリンの自動小銃を腰だめに構え、時々威嚇発射をしながら進軍していた。自動小銃特有のビューンバリバリという音が不気味だった。三十八度線が近づいていることがひしひしとわかった。
 それからも、私は「気は心」という言葉を聞くと必ずあの三八度線での追いはぎ集団を思い出した。
 道はもう一度山の中にはいって一人がやっと歩けるように狭くなり坂もきつくなった。光夫君は朝から元気はなく、その日はぜんぜん歩けなかった。それは多分朝ご飯を食べなかったからだと思っていた。光夫君を美代子姉さんが背負い、順ちゃんは後ろから元気のなくなった光夫君を「ミッちゃん元気を出して」と励ましながら山道を歩いていた。
 時々老人や子供の遺体が放置してあった。土がかけてあっても半分ぐらいで手が出ていたり足が出ていたりして、遺体は惨めだった。「ここまできて、倒れるなってかわいそうにね」という声と「死んだらああなるんだよ」と誰かがいうと集団からため息があった。
 「三八度線をこえたらしい」と声がでたのは昼過ぎだった。みんな朝ご飯を食べていなかったから元気はなかったが、それでも喜びでざわついていた。その時、光夫君は順ちゃんが負ぶっていた。元気のない声をあげて、ぐつたりとしていた。ズボンは下痢でぐちゃぐちゃだった。しかもその下痢は今までの黄色い便ではなくて、米のとぎ汁のような白い塊のようなウンチがズボンの横から出ていた。
 小さな集落のはずれの子供の遊び場のような広場に出た。そこは間違いなく南側三八度線をこえていた。満州組と順安組の百名をこえる大集団が広場にはいると広場はいっばいになった。
 光夫君が広場に下ろされたとき光夫君はすでに息はなかった。順ちゃんのお母さんは激しく泣いた。順ちゃんだけでなく、洋武も泣いた。みんなが泣いた。「ここまできたのにどうして」という思いがみんなにあった。辻村先生が光夫君の死体とウンチを見たとき顔色が変わった感じが子供の私たちにもわかった。
 「遺体は焼きましよう。コレラでないかとおもう。コレラです」。そういった。順ちゃんのおばさんが遺体を近くの川で洗おうとしたがそれも伝染病だからととめられた。私はコレラという病気を知らなかった。しかし、コレラがどんなに恐ろしい伝染病かということをそれから直面することになった。
 ちょっと休んでいると自転車で若い学生風の日本人が駆けつけてきた。戦闘帽に南洋の兵隊さんがつけているような耳を覆うような日陰よけをつけていた。
 学生風の人はその広場にある旗ざおに日の丸を掲げた。私たちにとって日の丸は一年以上見たことはなかった。みんなを座らせてからその人は話を始めた。
 「ご苦労様でした。私の家族も北朝鮮にいます。こうして皆さんの世話をしながら家族が逃げてくるのを待っているのです。開城には避難民のキャンプがあり、これからそこに移動します。トラックが一台きますのでこどもと老人はのってください。大人は半里ほどですから歩いてください」。
 「北朝鮮には四〇万人の同朋が一年間も閉じ込められみんなたいへんな思いをしていました。ソ連は日ソ平和条約を廃棄した上、一方的に三八度線を封鎖しました。
 フウヒョウでは一八〇〇名の邦人が死にました。ソ連は北海道を半分占領しようとしました。ソ連はほんとうに野蛮な国です」 など話した。
 私たちには難しい言葉も多かった。
 「内地は戦争に負けても今復興しています。先日は中等学校野球大会も復活して大阪の浪速商業が優勝しました」。
 兄たちは中等野球大会が復活したことに声をあげた。「中等野球大会ってな一に」。私たちは知らなかった。「甲子園という野球場で日本中の中学校があつまって野球の大会を開くんだ。平壌一中も出たことがあるんだ。戦争で中止になっていたんだ」。兄達は興奮しながら交互に説明してくれた。私たちは野球そのものを知らなかった。
 フウヒョウというのは 「富坪の悲劇」 として、日本人にとって北朝鮮での代表的で最大の悲劇の一つだった。
 終戦の年の八月九日、ソ連軍の開戦は朝鮮東北部にも激しい攻撃をかけてきた。ソ連国境の成鏡北道では攻撃を受けた八万余人の日本人がいっせいに成鏡南道の感興府近辺に避難した。その多くは一ケ月以上歩いておりすでにたいへんな犠牲者がでていた。避難民は成興からさらに南下しょうとしたが、ソ連軍は南下を阻止して成興駅前におしとどめた。そこには満州からの避難民も加わり大混乱となった。その駅前にいた日本人避難民の一部四千名が朝鮮保安隊によって成興の南二〇数キロの「富坪」の荒れた兵舎あとに再収容された。食糧の配給がほとんど保障されず、その上ソ連兵の監視が厳しく外に出ることも許されず、しかもたいへんな寒さの中、飢えと発疹チフスがしょうけつをきわめ、十一月から一月までの三ケ月の間に四〇〇〇人の日本人のうち、一五〇〇名から一八〇〇名の日本人が死んだという悲劇を生んだ。
 日本人住民を置き去りにした日本軍、日本人の南上を理由もなく阻止したソ連軍、そして避難民への対応をまだ行政能力の整っていなかった北朝鮮当局の官僚的な対応などが多くの日本人を死に至らしめた。北朝鮮に取り残された日本人の最大の悲劇であるとともに、もっとも集中的で大規模な悲劇であった。「朝鮮終戦の記録」(太田芳夫著 )「わが青春の朝鮮」(磯谷季次著)による。
 「ところで今日は何日ですか」力ない笑いが起こつた。そういえば何日かみんな忘れていた。
 「九月十四日です。あなたたちは何日に出ましたか。そう三〇日ですか。十六日の苦闘でしたね」
学生さんらしい人は答えた。
 「もうソ連兵は追ってきません。同じ敵でもアメリカ兵は紳士的です」その人はそのほかこまごまと世話を焼いた。
 トラックが迎えにきてハナも由美も洋武もトラックに乗った。その広場の垣根にはむくげがいっぱい咲いていた。「あっ。むくげが咲いている。順安の家のむくげも咲いているでしょうね」ハナがつぶやいた。順ちゃんたち一家は乗らなかった。光夫君の遺体の後始末が必要だった。晋司や兄たちといっしょに歩くことになった。

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