歌集巣鴨
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冬
長梗(ながくき)の石蕗(つは)の黄の花いたぶれる風は見えつつ玻璃窓(はりど)を閉ざす 平尾 健一
(巣鴨七首)
糸杉の支へ木二本影曳きて交る所に石蕗(つは)の黄の花 故井上 勝太郎
向つ棟をやうやく越えし日の光石蕗の廣葉にきらひ初めけり 故田口 泰正
巖(いつく)しき天のそぐへはやがて来む冬をひそめて澄みとほりたる 楢崎 正彦
天づとふ陽は照らせれど露霜のまだひぬ杉葉ここだたまれる 故井上 乙彦
時雨降る今朝は右足の戦傷を両手(もろて)の中に暖めてをり 故井上勝太郎
眼は閉じて夜半をさめをり硝子窓(ど)を揺りて過ぎゆく冬の風の音 鍵山 鉄樹
今は亡き友の放しし池の魚は氷の下に生きてありける 星野 多喜雄
(上海)
指の先いたく冷えつつ書きゐしが窓白むまで雪積みにけり 故井上勝太郎
(巣鴨十三首)
投光器の光に冴えて雪の上(へ)に丁字立標の斜に曳く影 同
扉(と)の上に「女囚」の札あり雪の面に木の葉の影が動きてゐたり 故幕田 稔
淡々と起き出でし時靄こむる庭に鋭く鳴くは何鳥 同
暖房電動機(サーモタンク)の微動つたふる石廊にあかあかと長し没り日のひかり 故田口 泰正
冬の日の照りやはらかき窓の外に午告ぐるラッパ鳴りわたりつつ 同
吾がこもる畳に冬の陽光(ひかり)さししましば心和みてゐたり 瀬山 忠幸
あかあかと圓かなる陽(ひ)は没らむとし逆光線に立つ雪の富士 田代 敏雄
釈放のニュース吾らにかかはりなく氷雲(ひぐも)は低しクリスマスの朝 鍵山 鉄樹
年暮るるしづかに寒き夜の牢に聖誕の歌かすかにきこゆ 友森 清晴
釈放の人もあるらし年の瀬を窓のそとびは雪降りしきる 故榎本 宗應
ながらへて春を待つべき身ならねどなほ惜しまるる年の暮かな 故板垣 征四郎
死に就きし友ら憶ひつつ逝く年の冷き水に髯そりにけり 冬至 堅太郎
編集者
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感 懐
故國遙かに
あやふかるいのちなれどもおほらかに生きむと思ふ朝の爽けき 故黒沢 次男
(上海三首)
朝なさな東の方に額けばいはけなくして心満ち足る 同
今日か明日かと胸おののかす死刑囚我もまじりて其の中に在り 同
靖國の杜にしづもる戦友よこの恥に逝く吾を迎ふるや 故高橋 雷二
(北京)
今日もまた大地ふみわけ帰りゆくわがつはものの姿たのもし 故山下 奉文
(マニラ)
乾麺包の袋をつづり逝く日着る襦袢を仕上げひとり微笑む 毛利 兼雄
(北京)
明日知れぬ命にはあれど吾が心ゆたけくあれと歌作りをり 故浅野 隆俊
(上海三首)
世のつねの人に我あれやたまきはる命を惜しみ神に額く 故下田 治郎
朝霧の八重の潮路をへだつとも守らせ給へ産土の神 同
逝く日にと友がくれにし日の丸に大書一筆「祖国再建」 早矢仕 高市
(アンボン)
殺すなら早く殺せとつめよりて青き眼玉をにらみかへしぬ 故中田 新一
(ビルマ二首)
どうなりと勝手にせよと仰向けに魚の如く寝る牢のひる 故中田 新一
マラリヤの悪寒に悩むわれの背に手錠の友が背を寄せくれぬ 佐藤 武雄
(マカッサル)
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壁文字
荒れ果てし御國の姿見るにつけただ思はるる罪の深きを 故土肥原 賢二
(巣鴨三十八首)
大神のみたまの前にひれ伏してひたすら深き罪を乞ふなり 故板垣 征四郎
現身の折ふし妻子恋ふといへどますらたけをは死に遲れせじ 故武藤 章
はからずも五日ながらふわがいのちいとしからずやいつくしむべし 同
生くるより死ぬるがましと隣人の語らふ声はわが耳をうつ 故平手 嘉一
いかにとも甲斐なき身には今日もまた壁にむかひてひとりわめきぬ 同
見るまじと思ひし人の寫真(うつしゑ)をつばらにも視る心きまれば 同
求めてもつくることなき道をもとめとぼしき命なげくおろかさ 同
三六一病院にてショック療法をうけて
電撃をまたも頭に當てむとす殺せ殺せとわめき倒れぬ 故青木 勇次
昨夜(きぞ)例の軍曹の来しを知らずやと温湯(ゆ)に浸りつつ友の声ごゑ 故井上 乙彦
(金曜日)
処刑なき四週間のすぎゆけばまた兆(きざ)しくる一縷の希望 同
膝まづき彌撒のいのりを捧げゐる瞳落せば手錠巖しも 同
袖珍の聖書をもらひてぱらぱらと何か求めつつ頁くりけり 同
囚はれの久しくなりて視力薄れ日に幾度か眼鏡拭きつつ 同
假釈放(パロール)の記事よみゆきてその中に潜む結論を思ひてゐたり 同
年明けて死刑の予感うすらげばまた湧きいづるここだの不満 同
亡き友の手垢に染める麻雀を吾残りゐて幾日うつらむ 同
ひとときを囚友(とも)とかこみて麻雀の和了(あがり)きそひつつ命のべをり 同
悪感する日にゆくりなく紅生姜神の恵とかみしめにけり 同
いくらかは緩下剤にもなるべしとグリーンピースを食めば甘しも 同
三成の最後思ひてあと幾日生くらむ腹をいたはりてをり 同
「笑ってゆく」と署名してある壁文字を遺書かく棚のわきに見出でし 同
(処刑前夜)
悔多き一生(ひとよ)と知るゆゑ灯の下に俯向く吾の影痛々し 故井上 勝太郎
共に長き苦患に堪へて生きゐつつ傷つき易しいささ事にも 同
英文法の栞はさめる中程よりアンダーラインは絶えてをりけり 同
(故石崎英男氏)
心苦(ぐ)く眠り得ざりしあかときは始發電車をしみじみ聞きぬ 同
何事か呟きながら一日(ひとひ)かかり友は遺品入れの箱を作りぬ 同
蹴散らされし下着を探し索めつつ彼等の前に弱く私語する 同
(捜検)
幾度か紙片を送り交はしつつ隣房の友と歌一つ論ず 同
忘れむと努めゐるとき副官の経歴など云ひて君は頼むも 同
悪業のいくらかは消ゆる思ひして友の歎願書を訳し続くる 同
靄深き香港の沖にB25一機墜ししひそかなる慰め 同
愛すべき祖国もたざりし学徒らのかなしき道をわれもゆくべし 同
編集者
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孤 独
暗き日は千尋の沼の底深く心沈みて吾が默し居り 故幕田 稔
(巣鴨二十六首)
入浴も終へ髯剃りたればあはあはと晝飯まではうたたねをせむ 同
二月(ふたつき)を住みゐし房を移り来ぬ紙のコップを棚に忘れて 同
最后(つひ)の日まで圖書の整理を続くるはわれに残されし幸福とぞ思ふ 同
天皇も人民も頼りとしてはをれず孤独を生きしこの二年半 同
み佛像(ほとけ)よ幾多の獄友(とも)が秘めにけむ最后(つい)の想ひを吾に知らしめ 同
岩蔭の深山椿が幽けくも地に落つるごと吾は死なむか 同
何をしてもまとまり一つつかぬ日の昏わゆけばはやい寝むとぞする 故田口 泰正
手造りのエヴァーシャープの感觸を試みるごとくもの書きはじむ 同
残飯に歯磨粉(こな)を練りまぜて煙草のパイプつくりゐる囚友(とも) 同
いきほひて語りゐたるに赤潮のプランクトンの名を思ひ出ださず 同
満ち足りてとり片附くる食盤にわが残したる人参二切 同
あくまでも妥協はせざりきしかすかに昂りゐたる吾とし思ふ 同
疲れ来てもうこれ以上はと思ひしが残る二枚を寫し始めぬ 同
「神経痛は早く癒さにや」と背の凝りを揉みくるる君の容赦なき力 同
口すすぐ水に映れるわが顔は生命あふれて耀ふものを 同
この朝け熟睡(うまね)ゆ覚めしたまゆらにまつはり来る暗き死のかげ 故田口 泰正
わが足の爪は鋏に虧げゆきて房の朝の空気は重し 故成迫 忠邦
隣房の友に合はせて唄ひをり向つ玻璃窓(はりど)の夕映ゆる頃 同
向つ棟(や)につらなる窓の灯は消えて吾が監房の夜はしづもりぬ 同
掌(たなぞこ)に佛と言ふ字を繰り返し我は書きをり夜の小床に 同
枕辺の壁に手影の小狐の影繪をみつつ吾は寝ねしか 同
汗たりて飯盛りくるる獄友(とも)のことした思ひつつさじをとるなり 故榎本 宗應
聞きなれぬ下駄音のして窓下にああ筒井さんが仰ぎ見ゐるよ 同
曇りたる今朝の朝けを地階より老師のみ声すみとほり来も 同
木曜の夜は再びめぐり来ぬ肌ふき清め遺書をととのふ 故藤中 松雄
編集者
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静 寂
判決を批判し合ひてつつまりは愚痴の羅列に墜ちてゆくなり 炭床 静男
(巣鴨十三首)
執行の近き予感にひかへゐし齲歯の治療年明けて為む 同
父母にかかる嘆きを負はしたる吾が罪業は消ゆることなし 同
永遠の歴史の中の一点と人知らぬままわれ過ぐらむか 北田 満能
糸杉の揺らぐ静寂(しじま)に耐へゆかむ小暗き房に生命しあらば 上新原 種義
守り来し童貞を清(すが)しみて月の照る夜にわれは死なむか 久保 久吉
處刑されし友の机に爪書きの「三日母さんが来た」と文字うすく見ゆ 瀬山 忠幸
月明き牢に観音経を誦(づ)しませし本間将軍逝きて四年か 白倉 刀禰男
國挙げて血の純潔を叫びたる声は男性の嫉妬なりしか 同
逝きてはや二月(ふたつき)経たる網棚の塵に残れる君が指跡 出口 太一
極まりゆくおのが命の明け暮れに「赤光」を待つはや一ヶ月 鍵山 鉄樹
責は負ふと古き倫理を固執する心の奥処を汝知るらむか 同
先人の幾多の歎きこもらへる壁に背をよせ亡友(とも)思ひをり 田代 敏雄
しとしとと降る雨音を聞きゐつつ悔多き身を横たへてをり 同
この夏はつづけて歯を病み腰いたみ芯から老いの進むにあらむ 越川 正雄
今日もまた何事もなく過ぎたるを喜びあひて友と碁を打つ 神本 啓司
「世の父」と宣らせしところ身に沁みて讀経のあした涙ながるる 福島 久作
天井の隅の小ぐもが白き蛾を襲はむとする今の緊張 佐藤 吉直
佃煮を念入れてかみぬカルシウムに老いづきし歯も強くなるべし 同
翼断面と風圧曲線を説きし後の郷愁に似たる淡き感傷 同
いつもいつも網棚の奥に顔を出す鼡はいたく大きくなりぬ 同
たぎりたつ心静むと吸ふ煙草幾度となく火はつけにつつ 同
編集者
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梟 の 心
既にして関りなき人の世の賑ひ見つつ護送(おく)らるる我は 冬至 堅太郎
(巣鴨二十首)
わが髪を入れて遺すとこのひと日ちひさき紙の筥貼りにけり 同
味噌汁の白葱しみて香にたてば生きたき心抑へかねつも 同
友二人減刑になりて去り行くを扉(と)の隙間より見てゐたりけり 同
未亡人救済事業にわが縣が先駆せるとふ記事を冩しぬ 同
最后(つひ)の日も近しと思ふ小机(をづくえ)に埃かむれる「善の研究」 同
わだつみの磯の平(たひら)の大き巖昏れゆく如く我は死なむか 楢崎 正彦
時折は母に対ひてしみじみと名のみの妻の歎きいふらし 同
處刑場(しをきば)につづく寒夜の石廊を曳かれゆく思ひ我をよぎりぬ 同
武士道は死ぬことなりと「葉隠」を人に説きたる昔もありき 友森 清晴
夕まけて風や出で来し玻璃窓の網目にさせる折鶴ゆるる 鳥巣 太郎
何となく気がねをしたる面持に減刑されし人ら出でゆく 同
戯(たはむ)れに丸めし毛布撫(さす)りつつ児の名を呼びゐし獄友(とも)は狂ひぬ 森 良雄
同室の友刑執行を確認せらる
枕辺の壁に珠数吊り眠りゐる丸刈り頭をわれは見下(おろ)す 同
乏しかる遺品のなかにつる折れし眼鏡は紙に包み添へけり 同
わだつみの底ひに棲める眼なし魚おほかたの世に忘れられつつ 平尾 健一
この晨(あした)つづけさまに地震(なゐ)おそひ来て看経(かんぎやう)の身をゆすぶりやまず 同
空(くう)の理(り)を説きあかします師(きみ)がこゑ訥々(とつとつ)として心に迫(せ)むる 同
(田島隆純先生)
執着(しうぢゃく)の濃き面持をするならむと頬の硬(こわ)ひげ撫でつつ思ふ 同
あからひく光に向ふ梟の心まどひをひと知るらむか 同
編集者
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思 郷
子の夢
巣鴨よりマヌス島へ送らる
会ひ得ざりし老い母おきて再びを八重の潮路(うしほぢ)今かこえゆく 鍵山 鉄樹
(巣鴨四首)
ズボンの破れからとび出してゐる膝小僧よ私は母が恋しくてならぬ 故幕田 稔
中学にゆく吾の学資に関りて常に諍ひし父母なりき 故井上 勝太郎
とげとげしくわが振舞ひし日のありて亡母(はは)の思ひ出に滞りあり 鳥巣 太郎
花菖蒲咲きにし庭にただ一人帰らぬ吾を母は待つらむ 故黒沢 次男
(上海)
寂しさの極まるときを「久吉」と呼び給ふてふ老いませし母 久保 久吉
(巣鴨八首)
絞首刑の判決を受けて
父ちゃんは何処と母に問ふなかれ遂に会ふべき身にしあらねば 吉原 剛
靴下のやぶれつくろふ一時(ひととき)を母の面影ひたに迫(せ)むるも 故成迫 忠邦
ゆくりなく故郷(くに)の地圖あり右隅に姉の部落の道は切れゐつ 同
冬の日の淡き陽射しに肩並めて荒地拓(ひら)きし妻し思ほゆ 炭床 静男
十年を消息(たより)たえゐし師の短歌囚屋の古き圖書に見出でつ 故田口 泰正
能登の海に放流したりし鱈の稚魚三年(みとせ)は過ぎて育ちにけむか 同
家郷(ふるさと)の前つ岡野(おかぬ)の道のべに咲き匂ひゐし蝦夷菊を思ふ 同
しみじみと故國(くに)の父母しのべよと夜もすがらなく秋虫の声 故発生川 清
(ビルマ)
空腹(すきはら)を訴ふ吾子思ひつつ唯胸せまる箸とる夕餉 故福原 勲
(巣鴨四首)
膳にのるリンゴにかよふ吾子の顔サジさへ採らず目守りて居たり 故藤中 松雄
降りしきる雨の畦道通ふらむ吾子思ひつつ遺書書きて居り 同
子を抱きし夢よさむれば飈々(へうへう)と虚空に夜の風は吼(おら)べり 冬至 堅太郎
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
母の手紙
執行の予感に私物整理しゐたるとき投げこまれたる母の手紙よ 故田口 泰正
(巣鴨四首)
まとまりし病中詠なれど父母に書き送るのはやめむと思ふ 同
家妻に死刑確定を報らすとき「不忘此恨(ふぼうしこん)」と書き添へにけり 炭床 静男
丹念に妻に書きたる初便り字数超過と返されにけり 同
寂しさに耐へつつ強く生きてありと死刑囚(とも)の便り来ぬ霙降る日に 星野 多喜雄
(上海)
二月(ふたつき)振りに受取りたりし妹の手紙(ふみ)は只平凡に家況告げ来し 故井上 勝太郎
(巣鴨十二首)
老母の病ませ給へば家妻は子を背負ひつつ手綱とるてふ 故藤中 松雄
命すでにきはまりをれど今日もなほ吾子のことなど便りする妻 北田 満能
山茶花の机の上に匂ふさへ淋しと妻は詠(うた)ひよこしぬ 友森 清晴
俸給を初めて受けしよろこびを傳へ来にけりあはれわが妻 鳥巣 太郎
しもやけの手が痛むとふわが妻のながきたよりをひろひ読みつつ 故井上 乙彦
三年余を離(さか)りて居ればわが妻は口紅(ルージュ)おしたる手紙(ふみ)おくりこし 同
なかの子が送りくれにし静物の絵に金賞の印附きてあり 佐藤 吉直
世のことは空しきものと知りそめて父の手紙に泣かじと思ふ 故平手 嘉一
絞首刑受けし不幸を父に詫ぶと遺書かきゐつつ涙ぐみとり 越川 正雄
幼な児の遠くかすかなる泣き声を遺書かき止めてしまし聞きをり 瀬山 忠幸
残生(ざんしょう)を子らにかたむけ書く手紙百五十字に制限されつ 森 良雄
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
最後(つひ)の面会(あひ)
育ちゆくさまを一目を見せむとて連れ来し吾子を椅子に立たしむ 平尾 健一
(巣鴨十八首)
かぼそかる喉(のみど)鳴らして水のめるこの子の命永遠(とは)に生かしめ 同
去りゆくを廊の果てに逆光に立ちし妻子(つまこ)をかへり見につつ 同
子らを育て努め果して来む君を彼岸に待つと言(こと)に遺しつ 同
冬の雨にはるばると来し老妻は金網越しのわが顔みつむる 故井上 乙彦
帰りゆく妻の肩まで丈のびしオカッパ髪の吾娘(あこ)をかなしむ 同
一年を秘めゐし覚悟春されば過ぎにし如く妻に語りぬ 同
旅遠く最后(つひ)の別れに連れられし子は野球帽かむり眠れる 森 良雄
最後(いやはて)の別れと知らず小さき手を母に委ねて打ち振る吾子よ 出口 太一
相見ずて十年(ととせ)を経たる吾妹子は振りかへりつつ網の彼方へ 手塚 敏雄
見せまじと努むる手錠に目をとめて涙し給ふははそはの母 久保 久吉
はるばると訪ね給ひし老母は近う寄れよと涙も拭はず 故藤中 松雄
命ある我に一目を会はせむと孫の手曳きて父は来ますも 冬至 堅太郎
六年前買ひ與へける黒無地の単衣よそひて遇ひに来し妻 佐藤 吉直
金借りて夏の盛りをはろばろと妻子は来しかわれに会はむため 鳥巣 太郎
やせたりとはや涙ぐむ妹に「お前もやせた」と網越しに云ふ 瀬山 忠幸
駆けつけし妻は網越しに今生の礼述べむとて泣き崩れけり 福島 久作
ではこれが最后と吾娘(あこ)に告げし時我はや立ちて顔見ざりけり 同
編集者
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死 刑 囚 に 寄 す
異 国(その一)
開きたる獄の鉄扉の夕蔭を出で行く君のマスクは白し 長谷川 稔
(上海八首)
父が友人張宗援、伊達順之助先輩を提藍橋監獄に送る
刑場につづかむ道も大君の辺と往く君の眉目のすがしさ 加藤 三之輔
その胸に日章旗いだき夏草を赤き血染に君は染めしか 大西 正重
一年を其日のままに俗名の位牌におはすみ灯(ともし)の揺れ 伴 健雄
魂祀る宵とはなりぬしかすがにその遠妻に告げむ術はや 永田 勝之輔
同胞が守りてかへる御骨らを畑に佇ちて見おくりまつる 安野 秀岳
ここにして時雨冷し埋もれる勇士の骨に浸み徹るらむ 酒井 正司
還りゆくわれら集ひて野火の煙たゆたふ丘にみ骨を拾ふ 今野 逸郎
唐人の歓呼の中に散りしかや銃声聞ゆ白雲山(はくうん)の麓 増山 喜平
(廣東)
鯉魚門(りぎよもん)に葬られたる御霊はや二歳(ふたとせ)の忌に黒潮おらぶ 小原 直治
(香港五首)
鯉魚門の潮(うしお)は疾(はや)し底碧(あを)し鉄を抱(いだ)きて葬(はふ)られし友等 吉田 朋信
水葬する屍の重錘(おもし)の鉄棒が解剖室の前に置きあり 田原 巌
名も知らぬ野の花なれど水に泛かべこころからなる霊祭りする 徳永 徳
二十六人の同胞の首吊りにける英人看守の腕の入墨 吉田 朋信
刑場に今向はむとする友の金歯の光今も目にあり 神保 善治
逝き給ふ刻は迫るか独房の前の足音(あのと)のあわただしもよ 吉井 啓祐
この辺(あた)り君か亡骸(むくろ)の土ならむ手に掻きよせて袋におさむ 若松 斉
海ゆかばみづく屍と歌ひつつ絞首台にいま友ひかれゆく 渡辺 正
(マニラ二首)
死刑囚が今する挙手の敬礼は永久の別れぞ應ふ術もなき 酒瀬川 眞澄
「十四名銃殺せらる」と大文字のマニラニュースを声なく見詰む 野口 悦司
(巣鴨四首)
「比島戦犯死刑執行」の記事いたまし罪なき戦友(とも)ら遂に逝きたり 野崎 敏雄
比島の死刑囚
厳かにいのちきはまる時にして己が潔白を語りしといふ 北田 満能
十四名比島にて執行さるとききて
さなきだにかなしきものを白藤の散れる夕べの庭に佇ちゐし 鈴木 義輔
刑死せし友の空部屋おとなへば小鉢の野菊色あせてあり 小市 廣栄
(グアム島)