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疎開児童から21世紀への伝言

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/18 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 途中退場の君へ
  ー 植木悦夫さんのことなど -
 ゆりはじめ (老松校)

 疎開問題研究会の皆さんとは十五年以上も仕事を一緒にやってきたことになる。人間を知るのには一緒に仕事をするのが一番とは私の築いてきた哲学の一つだが、自ら言い出した事とは言え「横浜市の学童疎開五十周年を記念する会」、改称して「疎開問題研究会」を通じて友人になった人の数はまず半端ではない。平たく言えば私たちは皆が同じ国民学校の友人ではない新たな友人を、おおむね定年を迎えたころに作ったということである。それはそれで私には素晴らしい出未事であったことは間違いなかった。そして各セクションで、またその時々で建設的な意見を戴いたことは嬉しいことであった。

 ただ十五年の歳月の経過の加齢の現実は疑いのない事実であってその間に体調不良の方もポツポツとあり、なかには僅かではあるが亡くなられた方もある。私の記憶するだけでも森(紅蘭)神里(元街)山崎(桜岡)竹内(斎藤分)植木悦(北方)渡辺豪(太田)の諸兄姉がある。多分これ以外にも静かにこの世を去って行かれた方もあるやもしれぬが、歳月の流れの非情さを痛感する。なかで、親しくお付き合い戴いた植木悦夫さんの逝去は同年の私としてはまことにショックであった。楽しい酒の見本のような酔いぶりや、談論風発だが歌わない。酒を飲んで殆ど食べないことなどその態度はむしろ古典的な酒飲みの部類に入っていた。東芝に長く勤務し傍系会杜に移ったころ出あったというわけだ。朗らかな性格は皆が認めるところだが縁故の疎開体験では「相模原近辺に疎開したが、行ったその日から帰る日を数えていた」と巧みにその辛さを口にしていた。疎開の会では菊地章さんとコンビで世話人の役を果たしてくれた。特に教育委員会の窓口への橋渡しに旧制三中の友人梶田氏の線を強く押してくれて記念誌『横浜市の学童疎開』の展望がそこで確立したと私は思う。

 さて、個人的な付き合いが始まったのは多分「剣道」の話からだったろう。わたしの剣道は鎌倉師範で有段者だった叔父貴に庭でしごかれていた程度の軟弱なもので、終戦とともにさっぱりと忘れるといういい加減なものだった。しかし植木さんは早稲田大学ででも剣道部に所属して正式に錬成をされたという、いわば練達の士だ。たまたま学徒出陣で特攻死した私の叔父佐藤利男の関連で、呉東さんという知人のことが植木さんとの会話に出たことから話が始まった。そのときは呉東さんはすでに亡くなったばかりで私は墓参にゆく計画をもっていたので、ではご一緒にということになった。植木さんは呉東さんは尊敬する先輩だという。逗子駅に近いお寺に一緒に墓参しお宅にも伺った。植木さんと呉東さんとの関連は剣道の直接の師弟であったらしい。呉東さんの最初の名刺交換のときに早大の剣道部「練士」?とあったと記憶しているが、剣道に疎い私としてはその位がどれほどの重みがあるのか知る由もなかった。

 長身で胆力もありそうな呉東さんの、端正で堂々たる容姿を思い浮かべると剣道にぴったりさわしい人だという感想が今でもわくが、その先生に新入生だった植木さんが稽古をつけてもらっていたことがあったらしいことを想像すると何やら楽しいものでもあった。

 呉東さんは、叔父の佐藤利男と同じ学徒出陣の飛行学生であった。陸軍特別操縦見習士官という制度の一期生が呉東さん・佐騰利男は二期生であった。その区別は学年別ではなく入隊の時期で、時間的には三か月遅れと聞くが錬成中の待遇に微妙な差があったといわれている。消耗品と言われた学生パイロットは陸でも海でも多くが特攻に駆り出された。しかし戦場もまた運が左右する杜会である。というよりは戦場だけに、より増幅された運のある無しが人間をとらえている。

 そして呉東さんは沖縄戦では最新鋭戦闘機「疾風」の乗員で、次々と飛び込んでゆく特攻機の直援機として彼らを守り、見送る役にあったということであった。特攻機の種類は千差万別で前線の部隊に来た中から、適当に飛べる飛行機を割り振ったもののようで最新鋭の戦闘機から爆撃機まで。私の叔父の場合のように一昔前のノモンハン事変の花形で固定脚の九七式戦闘機や、はては練習機まで。かと思うと戦闘能力の高い軽爆や艦爆などを惜し気もなくつぎ込み、そこに何よりも貴重な若い人命をそれこそ「斤の痛みもなく注ぎ込んだ軍閥や無能な為政者ども、そして参謀の責任は未来永劫消えることはない。

 植木さんは陸軍幼年学校を半分受かっていたという伝説があった。半分というのは第二次試験と終戦日とが重なるという時期であったことだという。終戦近く戦死者の急増により軍部は志願者の年齢を切り下げて戦闘員の増加をはかった。陸軍幼年学校もご多分にもれず旧制中学の一年生からの受験を認めた。中学生になってわずかの少年を軍の学校に引き寄せようと狙ったというわけだ。

 その時代は一方ではそれは選ばれたものの名誉でもある訳で、入学試験の結果をそのまま中学が選んで受験させたのだろう。各校での人選が進んでいて試験は形式的なものであったようだ。伝続と人脈を重んじる陸幼試験にはその名誉がかかっていると学校は判断したのであろう。そして第二次試験の日?が終戦の日だったということである。これは私の疎開先の中学の同期生の証言と一致する。相模大野あたりの陸軍施設に行ったところそれどころではないと早々に追い返されたというのが真相のようだ。思えば植木さんの終戦体験もなかなかのものであったようだ。

 八月十五日のその日、彼の叔父上も航空基地の司令であったので、終戦の際に多くの若者を死地に追いやったという責任を感じて割腹をしたという話も酒を飲みながら聞いた事であった。思い出すのもまた口にしたくないつらい時代のことを回想する口調であった。

 植木さんの読書量は相当なもので私の知らない本もいろいろと読んでいたようで、或るとき私の小説『修身「優」』の書き出しの部分‥昭和十七年秋の横浜港ドイツ船爆発事件を書いたものだが、それを引用しながら展開した小説を見付け出してくれた。話は横浜港に巣食った不良の勢力の盛衰のことが書かれていて面白いものであったが、私の読書範囲にはまずは入ってこないものであったので驚かされ、また面映ゆかった。

 諷々とした人柄で会話に加わりユーモアを振り撒きながら明るく話題作りをして呉れていた自称ロバート・ティラーの植木さんは好きな酒杯を放さずにあの世へと旅立ったようだ。大人の風格をもっていた植木さんの魂の安らかにあることを願いたい。彼と一緒に仕事をしたことを生涯忘れる事はないだろう。ひたすら感謝しつつ筆を措きたい。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/19 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 奈良屋の思い出 1
 伊波新之助(間門校)

 僕の集団疎開はとても恵まれた一年でした。まだ国民学校初等科、いまの小学校三年生の子どもながら、自分で志願して参加した間門国民学校の集団疎開です。

 一流の温泉旅館に泊まり、上級生に可愛いがられ、そのうえ三度三度のおいしい食事と毎日の温泉入浴。

 女生徒たちが演じる毎月の楽しい学芸会や、上級生に教わる勉強。それに加えて、美しい箱根の自然-。

 濃密な一年間は、いつまでも楽しい思い出として僕の胸の中にあります。皆さんとてもありがとうと、声を大きくしてお礼を言いたい気持ちです。疎開は僕を裏切りませんでした。

 もちろん人によっては同じ経験をしてもつらいことばかりを拾って、思い出したくない体験として記憶に残す人もいますし、楽しかったことを思い出して懐かしみ、年とともに美化する人もいます。僕は「美化派」かもしれません。
 でもつらかったこと、けしからんと思ったこともしっかり覚えています。しかし、生きるか死ぬかの戦時中のことです。贅沢は言えないでしょう。

 疎開中、一度も帰りたいとは思わず、一度も泣かなかった僕でした。

 僕たち、間門国民学校の児童が疎開した箱根の奈良屋旅館は、地勢のうえからも観光的にも、箱根の中心と言われていた宮の下温泉にあって、道を隔てて富士屋ホテルと向き合う立派な旅館でした。江戸時代から十何代も続いている本格的な和風旅館で、明治天皇がお泊まりになったことからも知れるように、ある意味では富士屋ホテル以上の存在でした。


みごとだった奈良屋の庭

 明治時代に外国人観光客に便利なようにと、富士屋ホテルと共同して、今は国道一号線になっている、湯本から塔ノ沢、宮の下までの立派な道路を私費で掘削・建設したそうです。この事実だけでも、奈良屋の財力や、先を見通す経営力に驚かされます。

 富士屋ホテルは道をはさんで山側の一画を占め、奈良屋は向かい合うようにして早川渓谷側に位置していました。そして登山電車は冨土屋ホテルの背後をゆっくりと走っていました。後から調べたところによると、両方のホテル・旅館で初めは外国人客、日本人客とも奪い合う競争関係にあったようですが、途中から純洋風と純和風とに分けて、客を分け合うように話がついたということでした。

 奈良屋は国道から渓谷に向けての広大な斜面を敷地として庭園化し、その中に僕たち学童と先生・職員ら三百三十人を収容できた大きな本館と、緑の中に見え隠れする、それぞれ独立した十以上の別館を擁していました。ですから、奈良屋は別天地でした。旅館の庭ですから、庭師・仕事師たちの手になる人工的な庭園であることは間違いないのですが、その高度な技術と経てきた長い年月は、都会から来た我々子どもたちにはこのうえない快適な自然そのものでした。

 大小の池にはさまざまな色模様の大きな鯉が群れ泳ぎ、石垣や橋、滝、石灯龍、飛び石が彩りを添えています。小径に沿った流れは温泉からあふれたよい匂いのぬるい湯水がもやもやとした藻を育て、下流は白くて大きい沢ガニの棲み家になっていました。本牧では海のカニを何種類も見てきたし、根岸の不動の滝の周辺には沢ガニもいましたが、ここの沢ガニにはまた別の親しみを感じました。

 石垣には時々蛇の抜け殻が見つかり、僕の貴重なコレクションになりました。建物の軒下には蟻地獄が棲んでいて、横浜では知らなかった新知識を得ました。トカゲや沢ガニを時には鯉にやり、争うさまを楽しんだこともありますが、可哀想なことをしたと思います。

 横浜では蝉のランキングではミンミン蝉が一位で、クマ蝉は噂の世界の存在でしたが、箱根では本物の立派なクマ蝉が鳴いていて、大きくて美しい姿と珍しい鳴き方に惹きつけられました。

 庭園の中を一種の探検のように行くと、陶磁製の 「敏(とん)」という俵を縦に立てたような形の庭椅子がいくつも並んでいます。風流な袖垣、茶屋風の建物。池の周りのトクサや石垣のシダ。蔦やアケビに飾られた小さな門や木戸、竹垣など風雅なたたずまいに魂を奪われました。

 いろいろな種類の竹も生えていました。竹は箱根の名物の一つです。僕たちは手頃な竹を勝手に伐って、箸や箸箱を作ったりしました。工夫して僕は印籠式の身と蓋がかちつと締まる箸箱を作ったら、周りの上級生や友たちから作り方を教えるように求められました。

 しかし、庭の竹を勝手に伐ってしまってよかったのでしょうか。奈良屋のおばさん安藤伸子さんはこう書いています。

 「私たち夫婦には子どもがいなかったので、主人は皆さんを可愛がったと思います。いたずらをされても『戦争が終わったら直せばいいんだから』と口癖のように言っていました。私も先生には『子どもたちにあまりやかましく言わないで』と申し上げていました」
 もちろん、竹を勝手に伐ってはいけなかったのです。でも、奈良屋の方たちは大目に見てくれました。

 度の過ぎたいたずらは叱られました。庭の中を探検しているうちに、ある子はどこかで読んだ宝探しの物語の人物になったような気になったのでしょう。太い立派な孟宗竹の幹に下手な字で「この下に宝あり」などと彫りつけたのです。これはさすがに叱られました。このほか、温泉浴場の排水口に雑巾を詰まらせて大変な工事になってしまったり、消毒液を誤って流して池の鯉が大量に死んだことは、一同がしゅんとなるくらい、先生を通じて叱られました。何枚もの延の上に何十匹もの大きな鯉が引き揚げられて横たわった時には、我々も実に悲しく、やりきれない思いになりました。

 こんなわけでしたから、間門の子どもたちは時折、地元の温泉村の温泉国民学校へ教室を借りての授業や東京からの本格的なハーモニカバンドの演奏、少女歌手の歌などを聴きに行ったり、薪取りや行軍で箱根の山野を歩きまわる以外はほとんど地元の人たちと交流することはありませんでした。僕が外で買い物をしたのは箱根の絵葉書くらいのものです。生活も遊びも奈良屋の中で完結していたのです。独立の別天地でした。

 外出すると四季の箱根の美しさに心を奪われました。薪取りの途中で立ち寄る小涌谷の 「千条(ちすじ)の滝」の先で見た深紅の楓の紅葉、早川渓谷にかかる杉林に霧がかかった墨絵のような幽玄の風景、仙石原や明星岳のすすきの原、登山電車の線路際に真夏でも色を失わない紫陽花の花。ひょっとすると僕は厳しい現実を忘れてこんな自然の中の風景に何かを夢見ていたのかもしれません。

 旅館で毎月のように開く、小さな学芸会のような催しも最高でした。奈良屋は大きな旅館だったのでピアノがありましたが、高学年の女の子の中には達者に演奏する子が何人もいました。女生徒の歌やダンスや寸劇を見ることは真面目一方で厳しいわが家の流儀からは想像もできない楽しみでした。

 男の子も歌うのですが、慰問先の傷病兵のところで習ってきた大人向けの怪しげな歌とか「うちのラバさん 酋長の娘」などという戦時の緊張にはふさわしくない歌なども飛び出しましたが、先生方は大目に見てくれました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/20 7:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 奈良屋の思い出 2
 伊波新之助(間門校)

 三度三度 かたいご飯で

 温泉旅館だからもちろん毎日温泉への入浴がありました。箱根で一番の立派な旅館ですから、けちけちした今風の循環式などではなく、余ったお湯は流してしまう掛け流し式です。そのうえ、あの太平洋戦争の最中に、疎開先で一度もお粥や薄い雑炊を食べたことがないと言ったら、皆さんに疑われるかもしれません。

 現実に、六年生の男児が食事についてこう書いています。
 「つらかったことと言えば食糧が十分ではなかったことです。食事はボウルに軽く盛られた蒜の麦飯とわずかなおかずだけでした」

 でも僕が戦後比べてみたところだと、ボウルは普通のご飯茶碗よりずっと大きく、井に近い内容量でした。しかもご飯は決して「ふんわりと軽く」ではなく、しっかりとよそってくれたと思います。

 当時の六年生女子は「食事は、女の子はなんとか足りましたが男の子たちは足りなかったと思います」と書き、五年生女子は「食事は満ち足りていました。ひもじかったという話は男の子たちのことだったと思います。大好きなブリ、サケ缶などは横浜では食べられないと感謝し‥…・」と書いています。

 女の子や低学年の男の子にとってはまず十分だったのではないでしょうか。その証拠に汚い話で恐縮ですが、僕の同級生の中には食べ過ぎて、部屋に帰ってから戻したり、反芻する子が結構いました。昭和二十年になって疎開してきた新しい三年生の中には食事の終わり頃になって「食べられません」と先生に申告して残す子さえいました。

 おかずだって、「これはひどい」と思ったことはほとんどありません。輪切りにして茄でた大根にタレ味噌をかけただけの「風呂吹き大根」にはさすがに不満を感じておふくろに後日訴えたものです。これだって一年もの間に数えるほどしか出たことはなく、サケ缶とタマネギ、ブリの切り身、白いアスパラガスなど、戦時中なのに相当に贅沢なご馳走だったと思います。

 うずら豆を甘く煮たおかずの時には量が多かったので、目を白黒させて全部いただきましたが、お腹が張ってずいぶん苦しかったことを思い出します。ブリは、相模湾の網で獲れたものが奈良屋には五尾配給され、それを子どもたちが宮ノ下駅に受け取りに行ったのでした。お米も同様に俵で配給になるのをリヤカーで宮ノ下駅へ五年生と六年生が受け取りに行きました。

 ご飯の量は上級生や、男の先生方にはボウルに相当山盛りでしたが、それでも不十分だった面もあるのでしょう。当時の男の子たちの口癖は「腹減った」 でしたから。
 今になって考えると、学校から帰ってすぐおやつを食べていた子どもたちにとって、間食がなかったのはこたえました。それでも初めのうちは蜜柑や南京豆などが金属のお皿で出され、それは嬉しいものでした。

 しかしそのおやつが次第に出なくなったので、子どもたちは親からワカモトやエビオスなど栄養剤と称する錠剤を送ってもらい、お菓子代わりにそれをポリポリと食べることが行われていました。本当は、世間からすっかりお菓子は姿を消していたのに、疎開児童は戦争が激しくなる前のお菓子がまだ豊かだった時代の空想の中に生きていたのです。

 無駄にしない精神が大事にされていたので、蜜柑の皮まで、食事の魚は骨まで食べるようになりました。タイの硬い骨まで食べた子のことはさすがに話題になりましたが。

 ですから女の子より男の子、下級生より上級生にもっと多くご飯を出していたら上級生の不満はだいぶ解消されていたでしょう。

 大きな庭園のある立派な旅館、温泉付き、水洗トイレ。そして代用食に芋などが出たことはない、三度三度のかたい白いご飯、おいしいおかず。戦時中に、これ以上のものを求めるのは無理だし無茶です。おそらく全国の学童疎開で僕たちの生活は最も恵まれたものだったろうと考えています。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/22 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 奈良屋の思い出 3
 伊波新之助(間門校)

 皆に可愛がられたこと 1

 とにかく親父からはよく手紙が来ました。その書き出しは「新君」という呼びかけです。上級生は僕に対しての手紙を真似して「新君」と呼ぶようになりました。こういう呼び方がマイナスに働くことはないでしょう。「新君」と呼ばれ可愛がられるようになりました。

 そもそも親父は子ども好きで、地元本牧神社のお祭りでは、町内の子ども御輿の係になって僕を含めて近所の子たちの面倒をみてくれていたのです。そのおかげで、三之谷町内の子はうちの親父のことをよく憶えてくれていました。そして親父は疎開に行く子には僕のことを「よろしく頼む」と声をかけていました。

 そんな親父の僕への愛情過多が戦時の厳しい空気に合わないと学校から指弾されたこともありました。僕への手紙が先生の検閲に引っかかって「決戦への気持ちが足りない手紙」の例として横浜のお父さんお母さんが集まった席で読み上げられ、嘲笑の対象になったそうです。子ども思いが過ぎて、時代に迎合することを知らなかった父。

 また親父は物資のない時代に、ためになる本を見つけて何冊か送ってくれました。その本が僕の手に届く前に一部を先生が皆に朗読して聞かせたり、本が上級生の間で引っ張りだこになることもありました。こういうことも、僕をいじめから守ってくれたと思います。しかし、回し読みされているうちに僕の手元にはついに一冊も戻らず、すべて行方不明になってしまいましたが。

 奈良屋の疎開児童は五つの区分に分けられました。一寮は本牧三之谷と根岸の男子。二寮は本牧和田と電車バス通学の男子。三寮は間門の男子。四寮・五寮は女子でした。僕は一寮六班に入りました。六年生は横山班長と柴田さん、富田さん、村田さんの四人。五年生二人、四年生二人で、三年生は僕一人でした。

 この中の村田斉(ひとし)さんが腕白大将で「新君」と僕を呼ぶようになったのも村田さんが最初です。村田さんには可愛がられました。腕白といっても下級生をいじめるようなことはなく、ある種のリーダーでした。

 後に芸能プロダクションの社長として知られるようになったホリプロの堀威夫さんは根岸の「山の手」の方で一寮一班でしたが、後年「僕の親友は村田だった」と言っています。親元を離れた僕には箱根でとりあえず立派な保護者が現れたようなものでした。

 僕が学童疎開に行って一度も横浜に帰りたいなどと思わなかったのは、こういう温かい上級生に守られていたということが大きかったと思います。

 もちろん糸と針は持参していましたからボタンを付けたり、小さなほつれを縫い合わせるぐらいのことはしました。大きく破れた布団などは僕が隠していても、いつの間にか高等女学校出身の寮母さんが発見して縫ってくれました。とても感謝しています。

 僕が「箱根はよかった」と思っている理由の一つは腕白な村田さんが最後に残してくれた言葉のせいでもあります。この言葉は忘れられません。それは昭和二十年の四月か五月のことです。村田さんたち、疎開児童の最上級生は国民学校初等科(今の小学校)を卒業するため疎開先の箱根から帰り、そこで義務教育を終えて中学や高等女学校、国民学校高等科などにそれぞれ進みました。受験も進学も一段落した頃、数人が語り合って箱根にやって来たのです。皆、元気でした。そして僕たちに言ったのです。

 「お前たち、ここの食事がまずいの量が少ないのなんて言ったらとんでもないぞ。横浜の生活はもっとひどいんだから。毎日が雑炊や代用食ばかりで皆腹ぺこだ。かたいご飯なんかめったに食べられない。横浜に帰って箱根のありがたさが分かったよ」

 僕は村田さんのこのひと言で箱根が別天地であること、世の中が容易でない事態になっていることを改めて知ったのです。それまでも箱根の集団疎開生活を楽しく味わっていた僕でしたが、このひと言がそれから後の、僕の箱根での疎開生活の評価を「恵まれたものだった。これ以上の贅沢を言ったら罰が当たる」という思いの強い根っこのようなものになったのです。

 箱根の疎開先から、戦争が終わってすぐ、山を下って神奈川県西部の農村地帯に移ってからはひどい食生活だったので、以上のような感想は確信へと変わりました。

 村田さんは当時、地元の子が志望する本牧の山の上にある県立横浜三中ではなく、どこか遠くにある、確か日大四中という学校に進学したいと言っていましたが、そこへの合格は叶わず、中学浪人というか宙ぶらりんの状態で箱根に飛んできたのです。よほど奈良屋が懐かしかったのでしょう。そして、ここでの集団疎開生活がとても恵まれていることを僕たちに知らせたいと思っていたのでしょう。

 わざわざ僕の本牧の自宅に寄って、わが家に同居していた女の方が僕のためにと作った海苔巻きを持ってきてくれました。これは後で僕が手にしているところを先生に見つかってとんでもないことになるのですが、それはまた別の話です。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/24 8:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 奈良屋の思い出 4
 伊波新之助(間門校)

 皆に可愛がられたこと 2

 その頃、中学生やいまの中学一、二年生にあたる国民学校高等科の生徒はもう軍需工場へ働きに行っていて大人扱いでした。集団疎開の六年生たちも軍隊に準ずるような戦時中の集団生活の中でリーダーとして行動し、僕たちの目から見れば大人のように見えました。朝礼では六年生のリーダー同士や先生との間では挙手の礼が交わされ、きびきびとした報告が大声で行われていました。薪取りでも六年生は進んで大きな丸太を担ぎ、毎月の床屋さんでは六年生が僕たちの頭を刈ってくれました。下級生を統率するこういう六年生のあり方は、特に集団疎開で際立っていたもので縁故疎開の人には経験がないから分からないでしょう。

 昭和二十年五月二十九日、横浜は大空襲に見舞われました。本牧から根岸にかけて間門国民学校の学区は丘陵地帯と海岸にはさまれたところですが、そのうち山裾に近いところの中には戦災を免れたところもあったものの市電通りに面した商店街、住宅街の一帯はすべて焼き尽くされ、僕たちの一寮六班の三之谷の子どもたち全員の家も完全に焼けてしまいました。

 本牧に帰った六年生はどうだったんだろう。街が焼け野原になった話、あちこちの家の様子が断片的に聞こえてくる中で、そのうちにあの村田さん一家が全滅したという知らせが疎開児童の中を走り抜けました。信じられない話です。よりによって、僕を守ってくれたあの村田さんが。まさかという思いです。僕は深い喪失感に襲われました。

 後に僕が本牧に帰ると、一家が全員戦災で亡くなったところに兵隊で戦地に行っていた長男のお兄さんが戦後帰ってきて愕然としたという話にいくつも出会いました。近所の人が協力して帰ってきた息子さんを助けて家業の理髪店を焼け跡の商店街に建てたという話は、わが家のすぐ近くで実際にあったことです。

 村田さんのお兄さんに僕がお会いできたのは、戦災からずっと後のことです。横浜で女学校や教会が並ぶハイカラな山手本通りと峰続きの南区の共同墓地の頂上のようなところに村田さんのお墓がありました。僕は、ご遺族の前でしたが、涙ながらに語りかけました。「村田さん、ずっと探していました。箱根ではお世話になりました。ここから僕たちを見守ってくれていたんだね。本当にありがとう」村田さんの前ではいくつになっても、ぼくはあの頃の少年のままです。お線香をあげて、お参りをしてお墓の後ろにまわると戒名が彫ってありました。「稚斉童子」-。えっ?大人に近い存在だった村田さんが童子だなんて。僕は不意をつかれました。そうか、当時満八歳の僕から見れば十二、三歳のお兄さんは大人だったけれど、世間から見ればまだ子どもだったんだ。しかしそれにしてはなんと頑張った健気な子どもだったことか。あの頃の集団疎開の六年生たちを半世紀経った今も感謝とともに懐かしく、不思議な感動をもって思い出すのです。

 村田さんの最期の様子も少しずつ分かってきました。家業の雑貨屋さんは市電通りに面していましたが、空襲警報と同時に家の前の防空壕に飛び込み、そのまま大火災に包まれて酸欠状態となって亡くなったのだと思います。

 同じ六班の六年生で村田さんの店と隣り合っていたお茶と海苔の店の柴田順吉さんはいったん入った防空壕から飛び出し、海岸に逃げて助かりました。こういう時は一瞬の判断の差が生死を分けるようです。

 一つ救いなのは、村田さんが僕たちに会いに箱根に来てくれた後で、柴田さんが先に入学を決めていた私立本牧中学の二次募集かに合格して、遅れていた入学を決めたことでした。柴田さんはこう言ってくれました。

「村田のやつ、すんごく喜んで『これからも一緒にやろう』と大喜びしていた」

 童子という戒名にいまだに少しちぐはぐな気持ちを抱きながら、「村田さん、合格してよかったですね。しかしそれにしても残念な亡くなり方でした」といまも僕はお墓に語りかけるのです。そしてくづく戦争ってむごいなあ、ひどいなあとお墓から立ち去ることができずに思いにふけるのです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/26 9:30
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争が残したもの
 小堀初枝(青木校)

 半月程前に叔母が九十四歳で他界。高尾まで葬儀に行って来ました。
 叔母は三十歳前半で夫がバシー海峡で戦死。以来、三歳の娘を女手一つで育て、傍ら茶道、華道の免許を取得、教授の看板を掲げる女丈夫でした。しかし、亡くなる前三年間は寝たきりの病院生活。これにつき、菩提寺から出向され葬儀を司って下さったご住職は「故人はご主人三郎様の為に、孟蘭盆会、施餓鬼会等には、かかさず〝外出する事が出来ない身、主人の為に回向をお願いします。″と達筆な毛筆の手紙を添えてこられました。」と話されました。

 又、親族挨拶で同居の娘婿は「本当に義母は、しっかり者でした。しかし、療養生活に入るきっかけの時の事を話しますと、その時、室内で転び大腿骨を骨折したのです。義母の部屋から異常な叫び声。驚いて駆けつけますと、義母が大声で叫んでいるのです。〝三郎!何故私を置いて、一人で逝ってしまったんだ!″と喚いていたのでした。」と。

 この話を伺い、叔母の心の深淵に触れた想いで万感胸に迫り思わず涙致しました。

 私の母はこの叔母の姉に当ります。母は、平成十年一月に八十九歳で他界致しましたが、横浜大空襲があった昭和二十年(一九四五年)五月二十九日を境に、それまでの生活が覆されました。この日は湯河原へ学童疎開している弟への面会日に当っていました。(私も六年生で、卒業まで疎開地でお世話になっていました。)私は女学校入学の報告や寮母さん、先生方にお会い出来ると思うと心が弾む様な気持でした。母と私と七歳と三歳の妹二人と、まだ生まれて三ケ月だった弟の五人で、早朝から湯河原へ出発しました。

 現地で元気な四年生の弟を囲んで喜んでいたのも束の間、お昼頃、先生方から「今日は横浜が朝から空襲を受け、被害が大きいとのニュースが入り帰宅を急ぐように。」と言われ早々に帰宅の途につきました。東海道線は大船止り。横須賀線は戸塚までであとは不通。戸塚で降ろされた時はもう夕暮れになっていましたが、横浜方面の空は赤く、横浜から逃げて来る人々は引きもきらず、私どもは母と幼い子供ばかり、でも横浜に行くと言う人達の後を無言で歩き続けました。夜はとっぷりと暮れ、歩いても歩いても横浜へは着けません。横浜から来る人は口々に「横浜はみんな焼けてしまったぞ。」「危ないから行かない方がいいぞ!」と歩いて来ます。私達の足は棒の様。その時、小型のトラックが通りかかり「横浜へ行く人は乗っていいですよ。」と私達を乗せて下さり横浜駅の東口まで運んで頂き本当に助かりました。もう二歩も歩けない状態で、朝までそこに留まりました。

 夜明け、横浜駅構内を西口まで行き、驚きました。改札も駅舎もなく、ぽっかり口を開けた様。駅を出ると目の前は焼け野原です。重い足を引きずりながら、自宅と思われる所まで行くと、ちょうどお隣りのおじさんが外に立っていて「中島さん、帰って来たか。あそこに倒れているのはお兄ちゃんじゃないか?」と言うので家の前の三メートル程の所の焼けた車か何かの脇に倒れているのは、そう、兄でした。煙に巻かれて窒息死したのでしょう。焼け焦げていなかったので、すぐ解りました。家は跡形もなく兄もなく、その上に父は横穴の防空壕の中だと聞かされました。母と私達が行ってみると真っ暗な防空壕の中から、うめき声が聞こえて来ました。父です。両手両足と顔に火傷をした父が戸板の様な物の上に寝かされ、寝返りも出来ずにいました。「みんな帰って来たか。和夫(兄の名です)がいないんだ。」と何度も繰り返します。でも、そんな父に、もう亡くなっているとは言えませんでした。

 父はご近所の方々のお世話で浦舟町の横浜市大病院(当時の名称は十全病院)へ運ばれました。病院は火傷の患者がベッドを除いた病室の床から廊下にも溢れて、足の踏み場もない有様でした。医者の回診もなく看護婦の方が患者のガーゼを取り替えるだけ、もちろん注射も薬もなく、ただ寝かされているだけでした。

 母は三ケ月の弟を背負い妹達もいるので病院へは私が通いました。鶴屋町から洪福寺-久保山を越え、黄金町を通り病院まで一時間程かけ、歩いて行くのですが、歩道にはまだ黒焦げになった死体が転がっていたりするので、電車の線路の上を足早に通りました。

 父の火傷は深く、手の肘のあたりまで、足は脛まで皮膚が剥れ、ガーゼも包帯も膿と血で、すぐドロドロになってしまいます。これを洗うのは病院を出て、焼け跡にむき出しになっている水道です。六月十日頃には、あれ程一ばいだった患者も家族が引き取りに来て、ついには父だけが病室に取り残されました。

 十四日の事でした。父の火傷の腕から姐虫が一匹とび出てきたのです。生きている人から、まして父の体から‥・。背筋の凍る思いでした。医者から「明日、お母さんに来る様に言って下さい。」と告げられました。

 六月十五日、母と私の前で、三十八歳の父の最後でした。言葉もありません。父の無念はいかばかりであったでしょう。母の悲痛は‥・。全く涙も乾いてしまいました。

 (衣)=着のみ着のまま。(食)=お米などにありつけません。(住)=今晩、寝る所がないのです。文字通り路頭に迷いました。母にとっては頼りにする親戚は皆、東京で既に空襲で焼け出されています。相談する人もなく、私を頭に子供四人の生活をどうしたら良いか、三十七歳の母は途方に暮れました。

 やがて、八月十五日の玉音放送で日本の敗戦。

 一体、父や兄の死は無駄死にではなかったのかと思われました。軍属ではないので年金は無し、父の勤務先も空襲で跡形もなく、中小企業でしたから退職金も無し、働き手を失った我が家は僅かな貯えを取り崩すばかりで、ついに底をついたと、母から私に働いて貰えないかと言われたのが女学校二年を終る時。受け持ちの先生が驚き、母に説得に来られましたが、生活を維持する為には仕方のない事でした。止むなく二年中退で先生が手を尽して下さった銀行に勤務致しました。母も近所の麻袋会社に務め、ミシンの作業につきました。経験のない仕事でした。

 ある日、母が蒼白な顔で帰宅。動力ミシンで左手の薬指を縫い込んでしまった由。出血もひどく、びっくりしました。結果、母の左手の薬指は生涯、第一関節から先がありませんでした。

 湯河原へ疎開当時、四年生だった弟も中学卒業で就職し、高校、大学と夜学へ通う様になり母とても頼りにしていましたが、昭和三十二年十月、この弟の事故死に遭遇。又、悲しみの底に突き落とされてしまいました。私が大変だったと思うより、母の苦しみの深さは計り知れないものだったでしょう。母三十七歳からの来し方は限りない苦労の連続でした。

 その中で、妹達がそれぞれに良き伴侶を見つけて結婚してくれたのは、せめてもの慰めでした。私は家計の他、自分の学費も割出せる様になってから、高校、短大と夜学で教員資格を取得しました。
 晩年の母は昭和二十年三月に生まれ、五月の空襲時、母の背に負われていた中島家旧姓唯一の男子として、三男の弟が夫婦で母が亡くなるまで世話をしてくれました。そして今も家族の墓守りをしていてくれます。私も喜寿を迎え、今はお陰さまで衣食住の整った生活を送らせて頂いています。

 叔母や母達の本当の幸せは!

 あの戦争に依ってどれ程の人々が悲しみ苦労をした事でしょう。再び惨禍を繰り返す事のなき様、平和の世で誰もが人間らしい生活を送っていかれる様、祈念致します。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/27 8:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 葛野重雄氏旧蔵資料のことなど
 小柴俊雄(平沼校)

 一九九六(平成八)年の夏、『横浜市の学童疎開-それは子どもたちのたたかいであった』が刊行された。

 発行は横浜市教育委員会であるが、実際は疎開問題研究会の前身「横浜市の学童疎開五十周年を記念する会」が、刊行を高秀秀信横浜市長へ要望したことに始まる。これに賛同した市長が、戦後五十年の平和事業の一環として予算化し、編集に満三年の歳月をかけた結果、上梓された。「ピース・メッセンジャー都市横浜」の面目躍如の行政の対応だった。これらは正確に記録されなければならない。

 私もこの編集制作委員の一人として加わり、第一部「横浜市の学童疎開関係資料」を担当した。横浜市の学童疎開の実態を、公的資料などにより、時系列に沿って構成したものである。太平洋戦争下の国民学校初等科学童の運命を決めた、昭和一九年六月三十日の「内務文部大臣請議 学童疎開ノ促進二関スル件」閣議決定の文書を国立公文書館から得たのが大きな収穫だった。安藤紀二郎内務大臣、同部長景文部大臣の花押に、あと二週間余ののち総理の座を去る東条英機の印影が心なしか薄く感じられて忘れられない。

 何ぶん、神奈川県・横浜市の学童疎開に関する公文書は、敗戦直後に焼却処分されていたので、資料を集めることに難儀したが、当時としてはかなり充実した内容のものを仕上げたと思っている。

 この『横浜市の学童疎開……』の発行を終えた三年後の一九九九年四月、『「学童疎開」の詳細 公文書で浮き彫り 戸塚区の元教員葛野伸夫さん宅で発見』というニュースが飛び込んできた(同年四月二十日付朝日新聞横浜版)。葛野伸夫さんの父の重雄さん(一九八九年没、享年八五歳) は戦時中、横浜市の職員で学童疎開の事務を担当し、後で何か役に立つかと思い、学童疎開に関する公文書(二三九点)を自宅に持ち帰っていた。それが残されていたのである。戦後の混乱の時代を経てなお、焼失しなかったことに驚きを禁じえない。

 この資料は歴史家から貴重なものと高く評価されており、発見時に金原左門中央大学教授(日本近代政治史) は次のように語っている。
 
 「横浜市では戦時中の多くの疎開関係文書が失われ、当時の人の記憶に頼るしかなかった。東京都品川区で同様の文書が見つかったことがあるが、全国的にみても、これほど詳細でまとまった資料の発見は珍しく、非常に貴重だ」 (前掲、朝日新聞横浜版)。

 この資料の所有者だった葛野重雄氏は、学童疎開が始まった一九四四(昭和一九)年段階では、視学をされていたが、その後、教育部教学課施設係長や同課疎開教育係長として、市と学校・疎開地との間にあって学童疎開事業の推進役であった。横浜市の学校としての集団疎開第一陣は下野谷国民学校(鶴見区)。佐藤忠一校長のもと、学童四一〇名が疎開先の足柄上郡南足柄町(現・南足柄市) の最乗寺へ出発したのは昭和一九年八月七日であるが、その時、横浜市長代理として葛野氏も同行している。このため、資料の中に学童疎開関係のものが数多く含まれているのである。

 この葛野資料は、まもなく神奈川県立公文書館(横浜市旭区中尾町)に寄贈された。現在は同館が「葛野重雄氏旧蔵資料」として公開されている。

 疎開問題研究会でもさっそく、二〇〇三年三月に開いた「横浜市の学童疎開展PART3」 (会場 横浜市栄区の県立地球市民かながわプラザ) で、以下にあげたものを含む計一七点を展示した。

 「横浜市学童疎開児童数および職員数 昭和二十年五月」
 「集団疎開学童赤痢擢病経過報告 昭和二十年六月」
 「横浜市集団疎開学童復帰計画書 昭和二十年十月」
  そして二〇〇八年八月に催した「ニッポン1945の証言 学童疎開・大空襲を乗り越えて」でも、以下にあげたものを含む計五点を展示した。

 「昭和二十年度集団疎開児童見込数 昭和二十年二月」
 「学童疎開宿舎二関スル設備状況報告」

 「学務委員会諮問報告事項 学童集団疎開復帰二関スル件 昭和二十年十月」
 これら貴重な資料を、冒頭に記した『横浜市の学童疎開……』の欠如を補う心持ちで展示している。
 太平洋戦争の最後の一年に翻弄された学童たちの姿を後世に残そうという希望から生まれたのが『横浜市の学童疎開-それは子どもたちのたたかいであった』である。増補版が編集・出版される機会があれば、この葛野重雄氏旧蔵資料から、これまでにあげた資料に、昭和二十年に入って戦局が悪化する中での疎開地への米軍機襲来の資料を示す「学童宿舎敵機機銃掃射二関スル件 山元国民学校下曽我田島村疎開団 昭和二十年八月五日」を加えたいと考えている。平和が六四年間も続き、戦争があったことも知らない子どもたちに、「後期高齢者」になった 「学童」が平和への祈念を込めて伝えたいと思うのである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/28 9:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 1
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 「とにかく大変でした」とまず書いてみなさいとは、書き出しに悩む若手の記者に朝日新聞の扇谷正造が言った言葉である。とにかく大変でした。疎開展で昭和二十年の著名人の所在を突き止め、地図上に名前を記載してみたいという大それた企画を考えてしまったのだから。手をつけて半年、探偵もどきに彼らの行方を追う作業は、本筋よりも枝葉の細部が面白く、そのせいか時間切れで五百人にとどまった。地図に示す彼らの「名前と所在地」のわずか一行の背後に茂っている面白い枝ぶりや、小さく咲いていた花々。隠れていたそれらのいくつかを拾って見よう。

 「決して関西が厭になった訳でもありませぬから余程の事態に立ち至らぬ限り一家を挙げて引き移ろうなどとは考えておりませぬ。只々満一の場合家族の避難所として、また冬の間あなた様の避寒地としては絶好の所でありますし‥・」熱海に別荘を購入した谷崎潤一郎が、昭和十七年三月に松子夫人にだした手紙である。まだ「疎開」という言葉も、考えもなかった。日本軍が南方諸地域を次々と占領し、二月十五日にはシンガポールが陥落。旗行列の興奮が残っている時期である。谷崎は熱海・来宮駅に近い西山で中央公論に掲載する「細雪」の執筆にとりかかった。それから二年後の昭和十九年四月、「万一の場合」が到来した。

 谷崎にとっては「疎開といふことをせんとて住み馴れし阪神の地を振りすてて」行くという心境であった。

 「あり経なば またもかへらん津の国の 住吉川の松の木かげに」

 関西を離れた谷崎は熱海の来宮神社を少し登った西山で疎開生活をはじめた。気候温暖で東京への足場がよい熱海に疎開地を求めて作家たちが移ってきた。勤め人でない彼らは早い時期に家族ぐるみの疎開が可能だった。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/29 9:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 2
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 宇野千代は十九年春から「疎開する、ということの、まだ流行しない前」に、夫北原武夫と熱海・来宮駅に近い別荘の一室を借りて疎開生活をはじめた。熱海の生活が軌道に乗りはじめた頃、谷崎潤一郎がすぐ近く住んでいる事を知った。そして谷崎が彼らの住まいを訪れることになった日、大先輩を迎える宇野は恐縮し、緊張して文学論などを話題にしようとしたが、谷崎は返事もせず「今日このあたりに豚肉が入ったらしいということを聞いて来たのだが」と言った。

 人々が食糧探しに血眼であった戦時中は、宇野千代の持つ独特の才能が見事に発揮された時代であった。乱世を泳ぎぬく知恵というか、彼女の開けっぴろげな人柄が土地の漁師やオバサン、闇屋のお兄ちゃんに慕われ、普通ではとても手に入らない肉や魚、米などが自然に彼女のもとに集まってくるのだ。彼女はそれらのものを「花咲婆さん」よろしく惜しげもなく人々に振りまいた。

 「私はその日から鶏肉、じゃが薯、白米、鰯の切り身などが手に入るたびに、谷崎家に通報した。この非常時にそんなことの出来るのが自慢であったとは、何と言うことか」喜び勇んで食糧を集める姿が目に浮かぶようだ。時には谷崎が自ら買い物篭をぶら下げて宇野が集めた闇物資を受け取りに来たという。

 谷崎の日記には「十九年七月十一日 夜来風雨あり五時過ぎに至りて晴る。今朝の新聞に依れば中央公論改造社いよいよ解散と決定の由なり、余は「細雪」第三十回の終わりまで書き上げて、明日兎も角も上京せんとす、午後午睡中北原夫妻来訪せりとて起さる。サイパン島すでに占領されたる由を宇野氏に聞く」 「七月十四日 東京朝日に東京都防衛本部の名にて空襲切迫、疎開をすすむる旨の広告出づ(略)」「八月十七日終日執筆三枚進行。夕刻宇野千代氏鶏一羽持参代三十円也。米英軍南仏上陸」とある。

 谷崎の「細雪」の連載は時局をわきまえぬ内容であると軍の干渉があり、掲載禁止に追い込まれた。松子夫人は「私は谷崎の気落ちを思うとともに、時局の重大さをも悟ったが、たまらない切迫した気持ちになって、宇野さんのお宅に走った。谷崎の現実を理解していただけるのは、この方だと、ただ一途に思った。北原さんとお二人で、谷崎は決して屈しないであろう。当分の辛抱で、また書きつづけられるに違いないと、励ましと慰めの力強い言葉をかけて下さった。涙ながらに辞去。谷崎に伝えると、ただ大きく肯いた。それからは来る日も来る日も黙々と机上の原稿紙に向かって、筆を進めていた」と書いている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/30 8:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 3
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 船橋聖一は十九年三月、気のすすまない両親を説得して宮城県蔵王山麓の遠刈田温泉に疎開させ、妻子は岩手県一ノ関の奥にある萩荘村へ疎開させた。「目白駅の貨物係に交渉して、無蓋車を一両借受け、人夫に心づけをはずみ、家財道具を積み込ませる事に成功した」。十九年四月以降は旅客輸送制限で、百キロを越える旅行には旅行証明書が必要となり、一等車、寝台車、食堂車は廃止された。貨車一台借切りで家財を運び出す事は禁止となる直前の滑り込みである。「私の一生でこんなに機敏に自分自身の手足をうごかしたのは、かつてないことであった。その無蓋車に防水シートをかけ、長い貨車の中の一輌として連結したのが、目白駅の陸橋の下を走り去るまで見送った」。

 一人になった船橋はどうしたかといえば熱海・来宮の旅館の一室を借り、一日おきに東京の自宅を見て廻り、暗くなる頃戸締りして熱海に帰る。熱海では警防団に怒鳴られながら黒い遮蔽幕にかこまれて執筆に励む日々であったという。何かと不自由であったろうと思われる“疎開やもめ”の生活も、船橋にとっては願ってもない楽しみがあったのではないだろうか。彼には開戦前から親しくしていた新橋の売れっ子芸者幾松がいた。執筆のため熱海に投宿していた舟橋は、十二月八日開戦の報に接し「戦果のラジオを聴きながらせめて一度でも二度でも痴愚を演じてみたいと思った。その中に溺れ、自分を見失うまでに陶酔してみたい‥・。」と書いている。開戦だというのに、東京の花柳界では、いつもと同じように芸者遊びが行なわれていたらしい。舟橋は無理を言ってその日のうちに熱海へ幾松を呼び出し、この戦争の見通しの悪い事を語り、身請けや疎開の相談までした。その結果であろうか「疎開のたびに随行して面倒をみてくれたのは幾松であった」。戦後になって、「戦禍をよそに女と寝る」と批難が浴びせられたということだが「この辺の事情」 を指しているらしい。

 それはともかく舟橋が谷崎と交友関係にあったのは、熱海へ疎開している間だった。住まいが近いこともあり、食べ物を通しての交わりであった。戦時下の生活はあらゆる場面で「コネ」「顔」が幅をきかしていた。列車の切符の入手、食糧の入手も、いくらお金があっても自由に買うことは出来ない。まずコネであり、ついでお金が物を言った。

 当時、谷崎といえども牛肉はなかなか手に入らなくなっていたが、谷崎が猪を持ってきて舟橋と一緒に猪鍋を食べたこともあった。「函南(かんなみ)の方から来る闇屋が牛肉を高く売りつけて行ったが、それさえ三度に一度はイルカと承知でその肉を買ってやらなければならないのだ」と、谷崎はよくこぼしていたそうだ。当時谷崎の住いは西山にあり、舟橋はそこから下った来宮で『悉皆屋康吉』を書いていたから、創元社の小林茂は、一度に二つ用が足せると言って喜んでいたという。ちなみに西山の凌寒荘には短歌の大御所・佐々木信綱も疎開していた。

 舟橋の宿の近くには広津和郎の住まいもあり、配給所が一緒で、舟橋と広津は並んで行列していたこともあった。これも“食つながり″と言えるだろうか。船橋はその往復にしばしば広津家へ寄り、二人は反戦的な時局談をしていたという。派手好きの道楽者のような印象を持たれる船橋だが、左翼ではないが特高からも目をつけられていたし、多くの作家、文化人が軍の要請に応えて南方諸地域に出かけたとき、軍からの従軍要請を二度も断るなど、自分流のやりかたで時代に抵抗した人でもあったようだ。

 二十年になると米軍の上陸に備えて伊豆や湘南の海岸線を要塞化する工事が始まり、熱海も安全な所ではなくなる。舟橋によると、谷崎は最初来宮の西にある函南に逃げようと考えたようで、リハーサルと言って西山から函南へ出る道を歩いたりしたが、結局岡山の津山に再疎開を決めた。谷崎は五月三日に熱海在住の知人に別れの挨拶をして回った。舟橋にも別れを告げに寄るが、あいにく留守だった。「夜、舟橋氏夫婦来たり十時頃まで話して」別れを惜しんだ。谷崎は「生き形見として二代目左団次が締めていた鹿皮の男帯」を贈った。舟橋も心細くなり、志賀高原ホテルの支配人に問合わすと、現在ドイツ人を軟禁中だが、一室くらいならなんとかするとのことで、七月に熱海から志賀高原に再疎開して終戦を迎えた。
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