疎開児童から21世紀への伝言 45
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奈良屋の思い出 4
伊波新之助(間門校)
皆に可愛がられたこと 2
その頃、中学生やいまの中学一、二年生にあたる国民学校高等科の生徒はもう軍需工場へ働きに行っていて大人扱いでした。集団疎開の六年生たちも軍隊に準ずるような戦時中の集団生活の中でリーダーとして行動し、僕たちの目から見れば大人のように見えました。朝礼では六年生のリーダー同士や先生との間では挙手の礼が交わされ、きびきびとした報告が大声で行われていました。薪取りでも六年生は進んで大きな丸太を担ぎ、毎月の床屋さんでは六年生が僕たちの頭を刈ってくれました。下級生を統率するこういう六年生のあり方は、特に集団疎開で際立っていたもので縁故疎開の人には経験がないから分からないでしょう。
昭和二十年五月二十九日、横浜は大空襲に見舞われました。本牧から根岸にかけて間門国民学校の学区は丘陵地帯と海岸にはさまれたところですが、そのうち山裾に近いところの中には戦災を免れたところもあったものの市電通りに面した商店街、住宅街の一帯はすべて焼き尽くされ、僕たちの一寮六班の三之谷の子どもたち全員の家も完全に焼けてしまいました。
本牧に帰った六年生はどうだったんだろう。街が焼け野原になった話、あちこちの家の様子が断片的に聞こえてくる中で、そのうちにあの村田さん一家が全滅したという知らせが疎開児童の中を走り抜けました。信じられない話です。よりによって、僕を守ってくれたあの村田さんが。まさかという思いです。僕は深い喪失感に襲われました。
後に僕が本牧に帰ると、一家が全員戦災で亡くなったところに兵隊で戦地に行っていた長男のお兄さんが戦後帰ってきて愕然としたという話にいくつも出会いました。近所の人が協力して帰ってきた息子さんを助けて家業の理髪店を焼け跡の商店街に建てたという話は、わが家のすぐ近くで実際にあったことです。
村田さんのお兄さんに僕がお会いできたのは、戦災からずっと後のことです。横浜で女学校や教会が並ぶハイカラな山手本通りと峰続きの南区の共同墓地の頂上のようなところに村田さんのお墓がありました。僕は、ご遺族の前でしたが、涙ながらに語りかけました。「村田さん、ずっと探していました。箱根ではお世話になりました。ここから僕たちを見守ってくれていたんだね。本当にありがとう」村田さんの前ではいくつになっても、ぼくはあの頃の少年のままです。お線香をあげて、お参りをしてお墓の後ろにまわると戒名が彫ってありました。「稚斉童子」-。えっ?大人に近い存在だった村田さんが童子だなんて。僕は不意をつかれました。そうか、当時満八歳の僕から見れば十二、三歳のお兄さんは大人だったけれど、世間から見ればまだ子どもだったんだ。しかしそれにしてはなんと頑張った健気な子どもだったことか。あの頃の集団疎開の六年生たちを半世紀経った今も感謝とともに懐かしく、不思議な感動をもって思い出すのです。
村田さんの最期の様子も少しずつ分かってきました。家業の雑貨屋さんは市電通りに面していましたが、空襲警報と同時に家の前の防空壕に飛び込み、そのまま大火災に包まれて酸欠状態となって亡くなったのだと思います。
同じ六班の六年生で村田さんの店と隣り合っていたお茶と海苔の店の柴田順吉さんはいったん入った防空壕から飛び出し、海岸に逃げて助かりました。こういう時は一瞬の判断の差が生死を分けるようです。
一つ救いなのは、村田さんが僕たちに会いに箱根に来てくれた後で、柴田さんが先に入学を決めていた私立本牧中学の二次募集かに合格して、遅れていた入学を決めたことでした。柴田さんはこう言ってくれました。
「村田のやつ、すんごく喜んで『これからも一緒にやろう』と大喜びしていた」
童子という戒名にいまだに少しちぐはぐな気持ちを抱きながら、「村田さん、合格してよかったですね。しかしそれにしても残念な亡くなり方でした」といまも僕はお墓に語りかけるのです。そしてくづく戦争ってむごいなあ、ひどいなあとお墓から立ち去ることができずに思いにふけるのです。