疎開児童から21世紀への伝言 41
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途中退場の君へ
ー 植木悦夫さんのことなど -
ゆりはじめ (老松校)
疎開問題研究会の皆さんとは十五年以上も仕事を一緒にやってきたことになる。人間を知るのには一緒に仕事をするのが一番とは私の築いてきた哲学の一つだが、自ら言い出した事とは言え「横浜市の学童疎開五十周年を記念する会」、改称して「疎開問題研究会」を通じて友人になった人の数はまず半端ではない。平たく言えば私たちは皆が同じ国民学校の友人ではない新たな友人を、おおむね定年を迎えたころに作ったということである。それはそれで私には素晴らしい出未事であったことは間違いなかった。そして各セクションで、またその時々で建設的な意見を戴いたことは嬉しいことであった。
ただ十五年の歳月の経過の加齢の現実は疑いのない事実であってその間に体調不良の方もポツポツとあり、なかには僅かではあるが亡くなられた方もある。私の記憶するだけでも森(紅蘭)神里(元街)山崎(桜岡)竹内(斎藤分)植木悦(北方)渡辺豪(太田)の諸兄姉がある。多分これ以外にも静かにこの世を去って行かれた方もあるやもしれぬが、歳月の流れの非情さを痛感する。なかで、親しくお付き合い戴いた植木悦夫さんの逝去は同年の私としてはまことにショックであった。楽しい酒の見本のような酔いぶりや、談論風発だが歌わない。酒を飲んで殆ど食べないことなどその態度はむしろ古典的な酒飲みの部類に入っていた。東芝に長く勤務し傍系会杜に移ったころ出あったというわけだ。朗らかな性格は皆が認めるところだが縁故の疎開体験では「相模原近辺に疎開したが、行ったその日から帰る日を数えていた」と巧みにその辛さを口にしていた。疎開の会では菊地章さんとコンビで世話人の役を果たしてくれた。特に教育委員会の窓口への橋渡しに旧制三中の友人梶田氏の線を強く押してくれて記念誌『横浜市の学童疎開』の展望がそこで確立したと私は思う。
さて、個人的な付き合いが始まったのは多分「剣道」の話からだったろう。わたしの剣道は鎌倉師範で有段者だった叔父貴に庭でしごかれていた程度の軟弱なもので、終戦とともにさっぱりと忘れるといういい加減なものだった。しかし植木さんは早稲田大学ででも剣道部に所属して正式に錬成をされたという、いわば練達の士だ。たまたま学徒出陣で特攻死した私の叔父佐藤利男の関連で、呉東さんという知人のことが植木さんとの会話に出たことから話が始まった。そのときは呉東さんはすでに亡くなったばかりで私は墓参にゆく計画をもっていたので、ではご一緒にということになった。植木さんは呉東さんは尊敬する先輩だという。逗子駅に近いお寺に一緒に墓参しお宅にも伺った。植木さんと呉東さんとの関連は剣道の直接の師弟であったらしい。呉東さんの最初の名刺交換のときに早大の剣道部「練士」?とあったと記憶しているが、剣道に疎い私としてはその位がどれほどの重みがあるのか知る由もなかった。
長身で胆力もありそうな呉東さんの、端正で堂々たる容姿を思い浮かべると剣道にぴったりさわしい人だという感想が今でもわくが、その先生に新入生だった植木さんが稽古をつけてもらっていたことがあったらしいことを想像すると何やら楽しいものでもあった。
呉東さんは、叔父の佐藤利男と同じ学徒出陣の飛行学生であった。陸軍特別操縦見習士官という制度の一期生が呉東さん・佐騰利男は二期生であった。その区別は学年別ではなく入隊の時期で、時間的には三か月遅れと聞くが錬成中の待遇に微妙な差があったといわれている。消耗品と言われた学生パイロットは陸でも海でも多くが特攻に駆り出された。しかし戦場もまた運が左右する杜会である。というよりは戦場だけに、より増幅された運のある無しが人間をとらえている。
そして呉東さんは沖縄戦では最新鋭戦闘機「疾風」の乗員で、次々と飛び込んでゆく特攻機の直援機として彼らを守り、見送る役にあったということであった。特攻機の種類は千差万別で前線の部隊に来た中から、適当に飛べる飛行機を割り振ったもののようで最新鋭の戦闘機から爆撃機まで。私の叔父の場合のように一昔前のノモンハン事変の花形で固定脚の九七式戦闘機や、はては練習機まで。かと思うと戦闘能力の高い軽爆や艦爆などを惜し気もなくつぎ込み、そこに何よりも貴重な若い人命をそれこそ「斤の痛みもなく注ぎ込んだ軍閥や無能な為政者ども、そして参謀の責任は未来永劫消えることはない。
植木さんは陸軍幼年学校を半分受かっていたという伝説があった。半分というのは第二次試験と終戦日とが重なるという時期であったことだという。終戦近く戦死者の急増により軍部は志願者の年齢を切り下げて戦闘員の増加をはかった。陸軍幼年学校もご多分にもれず旧制中学の一年生からの受験を認めた。中学生になってわずかの少年を軍の学校に引き寄せようと狙ったというわけだ。
その時代は一方ではそれは選ばれたものの名誉でもある訳で、入学試験の結果をそのまま中学が選んで受験させたのだろう。各校での人選が進んでいて試験は形式的なものであったようだ。伝続と人脈を重んじる陸幼試験にはその名誉がかかっていると学校は判断したのであろう。そして第二次試験の日?が終戦の日だったということである。これは私の疎開先の中学の同期生の証言と一致する。相模大野あたりの陸軍施設に行ったところそれどころではないと早々に追い返されたというのが真相のようだ。思えば植木さんの終戦体験もなかなかのものであったようだ。
八月十五日のその日、彼の叔父上も航空基地の司令であったので、終戦の際に多くの若者を死地に追いやったという責任を感じて割腹をしたという話も酒を飲みながら聞いた事であった。思い出すのもまた口にしたくないつらい時代のことを回想する口調であった。
植木さんの読書量は相当なもので私の知らない本もいろいろと読んでいたようで、或るとき私の小説『修身「優」』の書き出しの部分‥昭和十七年秋の横浜港ドイツ船爆発事件を書いたものだが、それを引用しながら展開した小説を見付け出してくれた。話は横浜港に巣食った不良の勢力の盛衰のことが書かれていて面白いものであったが、私の読書範囲にはまずは入ってこないものであったので驚かされ、また面映ゆかった。
諷々とした人柄で会話に加わりユーモアを振り撒きながら明るく話題作りをして呉れていた自称ロバート・ティラーの植木さんは好きな酒杯を放さずにあの世へと旅立ったようだ。大人の風格をもっていた植木さんの魂の安らかにあることを願いたい。彼と一緒に仕事をしたことを生涯忘れる事はないだろう。ひたすら感謝しつつ筆を措きたい。