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疎開児童から21世紀への伝言 47

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 47

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/27 8:38
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 葛野重雄氏旧蔵資料のことなど
 小柴俊雄(平沼校)

 一九九六(平成八)年の夏、『横浜市の学童疎開-それは子どもたちのたたかいであった』が刊行された。

 発行は横浜市教育委員会であるが、実際は疎開問題研究会の前身「横浜市の学童疎開五十周年を記念する会」が、刊行を高秀秀信横浜市長へ要望したことに始まる。これに賛同した市長が、戦後五十年の平和事業の一環として予算化し、編集に満三年の歳月をかけた結果、上梓された。「ピース・メッセンジャー都市横浜」の面目躍如の行政の対応だった。これらは正確に記録されなければならない。

 私もこの編集制作委員の一人として加わり、第一部「横浜市の学童疎開関係資料」を担当した。横浜市の学童疎開の実態を、公的資料などにより、時系列に沿って構成したものである。太平洋戦争下の国民学校初等科学童の運命を決めた、昭和一九年六月三十日の「内務文部大臣請議 学童疎開ノ促進二関スル件」閣議決定の文書を国立公文書館から得たのが大きな収穫だった。安藤紀二郎内務大臣、同部長景文部大臣の花押に、あと二週間余ののち総理の座を去る東条英機の印影が心なしか薄く感じられて忘れられない。

 何ぶん、神奈川県・横浜市の学童疎開に関する公文書は、敗戦直後に焼却処分されていたので、資料を集めることに難儀したが、当時としてはかなり充実した内容のものを仕上げたと思っている。

 この『横浜市の学童疎開……』の発行を終えた三年後の一九九九年四月、『「学童疎開」の詳細 公文書で浮き彫り 戸塚区の元教員葛野伸夫さん宅で発見』というニュースが飛び込んできた(同年四月二十日付朝日新聞横浜版)。葛野伸夫さんの父の重雄さん(一九八九年没、享年八五歳) は戦時中、横浜市の職員で学童疎開の事務を担当し、後で何か役に立つかと思い、学童疎開に関する公文書(二三九点)を自宅に持ち帰っていた。それが残されていたのである。戦後の混乱の時代を経てなお、焼失しなかったことに驚きを禁じえない。

 この資料は歴史家から貴重なものと高く評価されており、発見時に金原左門中央大学教授(日本近代政治史) は次のように語っている。
 
 「横浜市では戦時中の多くの疎開関係文書が失われ、当時の人の記憶に頼るしかなかった。東京都品川区で同様の文書が見つかったことがあるが、全国的にみても、これほど詳細でまとまった資料の発見は珍しく、非常に貴重だ」 (前掲、朝日新聞横浜版)。

 この資料の所有者だった葛野重雄氏は、学童疎開が始まった一九四四(昭和一九)年段階では、視学をされていたが、その後、教育部教学課施設係長や同課疎開教育係長として、市と学校・疎開地との間にあって学童疎開事業の推進役であった。横浜市の学校としての集団疎開第一陣は下野谷国民学校(鶴見区)。佐藤忠一校長のもと、学童四一〇名が疎開先の足柄上郡南足柄町(現・南足柄市) の最乗寺へ出発したのは昭和一九年八月七日であるが、その時、横浜市長代理として葛野氏も同行している。このため、資料の中に学童疎開関係のものが数多く含まれているのである。

 この葛野資料は、まもなく神奈川県立公文書館(横浜市旭区中尾町)に寄贈された。現在は同館が「葛野重雄氏旧蔵資料」として公開されている。

 疎開問題研究会でもさっそく、二〇〇三年三月に開いた「横浜市の学童疎開展PART3」 (会場 横浜市栄区の県立地球市民かながわプラザ) で、以下にあげたものを含む計一七点を展示した。

 「横浜市学童疎開児童数および職員数 昭和二十年五月」
 「集団疎開学童赤痢擢病経過報告 昭和二十年六月」
 「横浜市集団疎開学童復帰計画書 昭和二十年十月」
  そして二〇〇八年八月に催した「ニッポン1945の証言 学童疎開・大空襲を乗り越えて」でも、以下にあげたものを含む計五点を展示した。

 「昭和二十年度集団疎開児童見込数 昭和二十年二月」
 「学童疎開宿舎二関スル設備状況報告」

 「学務委員会諮問報告事項 学童集団疎開復帰二関スル件 昭和二十年十月」
 これら貴重な資料を、冒頭に記した『横浜市の学童疎開……』の欠如を補う心持ちで展示している。
 太平洋戦争の最後の一年に翻弄された学童たちの姿を後世に残そうという希望から生まれたのが『横浜市の学童疎開-それは子どもたちのたたかいであった』である。増補版が編集・出版される機会があれば、この葛野重雄氏旧蔵資料から、これまでにあげた資料に、昭和二十年に入って戦局が悪化する中での疎開地への米軍機襲来の資料を示す「学童宿舎敵機機銃掃射二関スル件 山元国民学校下曽我田島村疎開団 昭和二十年八月五日」を加えたいと考えている。平和が六四年間も続き、戦争があったことも知らない子どもたちに、「後期高齢者」になった 「学童」が平和への祈念を込めて伝えたいと思うのである。

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