疎開児童から21世紀への伝言 50
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編集者
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 3
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
船橋聖一は十九年三月、気のすすまない両親を説得して宮城県蔵王山麓の遠刈田温泉に疎開させ、妻子は岩手県一ノ関の奥にある萩荘村へ疎開させた。「目白駅の貨物係に交渉して、無蓋車を一両借受け、人夫に心づけをはずみ、家財道具を積み込ませる事に成功した」。十九年四月以降は旅客輸送制限で、百キロを越える旅行には旅行証明書が必要となり、一等車、寝台車、食堂車は廃止された。貨車一台借切りで家財を運び出す事は禁止となる直前の滑り込みである。「私の一生でこんなに機敏に自分自身の手足をうごかしたのは、かつてないことであった。その無蓋車に防水シートをかけ、長い貨車の中の一輌として連結したのが、目白駅の陸橋の下を走り去るまで見送った」。
一人になった船橋はどうしたかといえば熱海・来宮の旅館の一室を借り、一日おきに東京の自宅を見て廻り、暗くなる頃戸締りして熱海に帰る。熱海では警防団に怒鳴られながら黒い遮蔽幕にかこまれて執筆に励む日々であったという。何かと不自由であったろうと思われる“疎開やもめ”の生活も、船橋にとっては願ってもない楽しみがあったのではないだろうか。彼には開戦前から親しくしていた新橋の売れっ子芸者幾松がいた。執筆のため熱海に投宿していた舟橋は、十二月八日開戦の報に接し「戦果のラジオを聴きながらせめて一度でも二度でも痴愚を演じてみたいと思った。その中に溺れ、自分を見失うまでに陶酔してみたい‥・。」と書いている。開戦だというのに、東京の花柳界では、いつもと同じように芸者遊びが行なわれていたらしい。舟橋は無理を言ってその日のうちに熱海へ幾松を呼び出し、この戦争の見通しの悪い事を語り、身請けや疎開の相談までした。その結果であろうか「疎開のたびに随行して面倒をみてくれたのは幾松であった」。戦後になって、「戦禍をよそに女と寝る」と批難が浴びせられたということだが「この辺の事情」 を指しているらしい。
それはともかく舟橋が谷崎と交友関係にあったのは、熱海へ疎開している間だった。住まいが近いこともあり、食べ物を通しての交わりであった。戦時下の生活はあらゆる場面で「コネ」「顔」が幅をきかしていた。列車の切符の入手、食糧の入手も、いくらお金があっても自由に買うことは出来ない。まずコネであり、ついでお金が物を言った。
当時、谷崎といえども牛肉はなかなか手に入らなくなっていたが、谷崎が猪を持ってきて舟橋と一緒に猪鍋を食べたこともあった。「函南(かんなみ)の方から来る闇屋が牛肉を高く売りつけて行ったが、それさえ三度に一度はイルカと承知でその肉を買ってやらなければならないのだ」と、谷崎はよくこぼしていたそうだ。当時谷崎の住いは西山にあり、舟橋はそこから下った来宮で『悉皆屋康吉』を書いていたから、創元社の小林茂は、一度に二つ用が足せると言って喜んでいたという。ちなみに西山の凌寒荘には短歌の大御所・佐々木信綱も疎開していた。
舟橋の宿の近くには広津和郎の住まいもあり、配給所が一緒で、舟橋と広津は並んで行列していたこともあった。これも“食つながり″と言えるだろうか。船橋はその往復にしばしば広津家へ寄り、二人は反戦的な時局談をしていたという。派手好きの道楽者のような印象を持たれる船橋だが、左翼ではないが特高からも目をつけられていたし、多くの作家、文化人が軍の要請に応えて南方諸地域に出かけたとき、軍からの従軍要請を二度も断るなど、自分流のやりかたで時代に抵抗した人でもあったようだ。
二十年になると米軍の上陸に備えて伊豆や湘南の海岸線を要塞化する工事が始まり、熱海も安全な所ではなくなる。舟橋によると、谷崎は最初来宮の西にある函南に逃げようと考えたようで、リハーサルと言って西山から函南へ出る道を歩いたりしたが、結局岡山の津山に再疎開を決めた。谷崎は五月三日に熱海在住の知人に別れの挨拶をして回った。舟橋にも別れを告げに寄るが、あいにく留守だった。「夜、舟橋氏夫婦来たり十時頃まで話して」別れを惜しんだ。谷崎は「生き形見として二代目左団次が締めていた鹿皮の男帯」を贈った。舟橋も心細くなり、志賀高原ホテルの支配人に問合わすと、現在ドイツ人を軟禁中だが、一室くらいならなんとかするとのことで、七月に熱海から志賀高原に再疎開して終戦を迎えた。