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疎開児童から21世紀への伝言 46

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 46

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/26 9:30
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争が残したもの
 小堀初枝(青木校)

 半月程前に叔母が九十四歳で他界。高尾まで葬儀に行って来ました。
 叔母は三十歳前半で夫がバシー海峡で戦死。以来、三歳の娘を女手一つで育て、傍ら茶道、華道の免許を取得、教授の看板を掲げる女丈夫でした。しかし、亡くなる前三年間は寝たきりの病院生活。これにつき、菩提寺から出向され葬儀を司って下さったご住職は「故人はご主人三郎様の為に、孟蘭盆会、施餓鬼会等には、かかさず〝外出する事が出来ない身、主人の為に回向をお願いします。″と達筆な毛筆の手紙を添えてこられました。」と話されました。

 又、親族挨拶で同居の娘婿は「本当に義母は、しっかり者でした。しかし、療養生活に入るきっかけの時の事を話しますと、その時、室内で転び大腿骨を骨折したのです。義母の部屋から異常な叫び声。驚いて駆けつけますと、義母が大声で叫んでいるのです。〝三郎!何故私を置いて、一人で逝ってしまったんだ!″と喚いていたのでした。」と。

 この話を伺い、叔母の心の深淵に触れた想いで万感胸に迫り思わず涙致しました。

 私の母はこの叔母の姉に当ります。母は、平成十年一月に八十九歳で他界致しましたが、横浜大空襲があった昭和二十年(一九四五年)五月二十九日を境に、それまでの生活が覆されました。この日は湯河原へ学童疎開している弟への面会日に当っていました。(私も六年生で、卒業まで疎開地でお世話になっていました。)私は女学校入学の報告や寮母さん、先生方にお会い出来ると思うと心が弾む様な気持でした。母と私と七歳と三歳の妹二人と、まだ生まれて三ケ月だった弟の五人で、早朝から湯河原へ出発しました。

 現地で元気な四年生の弟を囲んで喜んでいたのも束の間、お昼頃、先生方から「今日は横浜が朝から空襲を受け、被害が大きいとのニュースが入り帰宅を急ぐように。」と言われ早々に帰宅の途につきました。東海道線は大船止り。横須賀線は戸塚までであとは不通。戸塚で降ろされた時はもう夕暮れになっていましたが、横浜方面の空は赤く、横浜から逃げて来る人々は引きもきらず、私どもは母と幼い子供ばかり、でも横浜に行くと言う人達の後を無言で歩き続けました。夜はとっぷりと暮れ、歩いても歩いても横浜へは着けません。横浜から来る人は口々に「横浜はみんな焼けてしまったぞ。」「危ないから行かない方がいいぞ!」と歩いて来ます。私達の足は棒の様。その時、小型のトラックが通りかかり「横浜へ行く人は乗っていいですよ。」と私達を乗せて下さり横浜駅の東口まで運んで頂き本当に助かりました。もう二歩も歩けない状態で、朝までそこに留まりました。

 夜明け、横浜駅構内を西口まで行き、驚きました。改札も駅舎もなく、ぽっかり口を開けた様。駅を出ると目の前は焼け野原です。重い足を引きずりながら、自宅と思われる所まで行くと、ちょうどお隣りのおじさんが外に立っていて「中島さん、帰って来たか。あそこに倒れているのはお兄ちゃんじゃないか?」と言うので家の前の三メートル程の所の焼けた車か何かの脇に倒れているのは、そう、兄でした。煙に巻かれて窒息死したのでしょう。焼け焦げていなかったので、すぐ解りました。家は跡形もなく兄もなく、その上に父は横穴の防空壕の中だと聞かされました。母と私達が行ってみると真っ暗な防空壕の中から、うめき声が聞こえて来ました。父です。両手両足と顔に火傷をした父が戸板の様な物の上に寝かされ、寝返りも出来ずにいました。「みんな帰って来たか。和夫(兄の名です)がいないんだ。」と何度も繰り返します。でも、そんな父に、もう亡くなっているとは言えませんでした。

 父はご近所の方々のお世話で浦舟町の横浜市大病院(当時の名称は十全病院)へ運ばれました。病院は火傷の患者がベッドを除いた病室の床から廊下にも溢れて、足の踏み場もない有様でした。医者の回診もなく看護婦の方が患者のガーゼを取り替えるだけ、もちろん注射も薬もなく、ただ寝かされているだけでした。

 母は三ケ月の弟を背負い妹達もいるので病院へは私が通いました。鶴屋町から洪福寺-久保山を越え、黄金町を通り病院まで一時間程かけ、歩いて行くのですが、歩道にはまだ黒焦げになった死体が転がっていたりするので、電車の線路の上を足早に通りました。

 父の火傷は深く、手の肘のあたりまで、足は脛まで皮膚が剥れ、ガーゼも包帯も膿と血で、すぐドロドロになってしまいます。これを洗うのは病院を出て、焼け跡にむき出しになっている水道です。六月十日頃には、あれ程一ばいだった患者も家族が引き取りに来て、ついには父だけが病室に取り残されました。

 十四日の事でした。父の火傷の腕から姐虫が一匹とび出てきたのです。生きている人から、まして父の体から‥・。背筋の凍る思いでした。医者から「明日、お母さんに来る様に言って下さい。」と告げられました。

 六月十五日、母と私の前で、三十八歳の父の最後でした。言葉もありません。父の無念はいかばかりであったでしょう。母の悲痛は‥・。全く涙も乾いてしまいました。

 (衣)=着のみ着のまま。(食)=お米などにありつけません。(住)=今晩、寝る所がないのです。文字通り路頭に迷いました。母にとっては頼りにする親戚は皆、東京で既に空襲で焼け出されています。相談する人もなく、私を頭に子供四人の生活をどうしたら良いか、三十七歳の母は途方に暮れました。

 やがて、八月十五日の玉音放送で日本の敗戦。

 一体、父や兄の死は無駄死にではなかったのかと思われました。軍属ではないので年金は無し、父の勤務先も空襲で跡形もなく、中小企業でしたから退職金も無し、働き手を失った我が家は僅かな貯えを取り崩すばかりで、ついに底をついたと、母から私に働いて貰えないかと言われたのが女学校二年を終る時。受け持ちの先生が驚き、母に説得に来られましたが、生活を維持する為には仕方のない事でした。止むなく二年中退で先生が手を尽して下さった銀行に勤務致しました。母も近所の麻袋会社に務め、ミシンの作業につきました。経験のない仕事でした。

 ある日、母が蒼白な顔で帰宅。動力ミシンで左手の薬指を縫い込んでしまった由。出血もひどく、びっくりしました。結果、母の左手の薬指は生涯、第一関節から先がありませんでした。

 湯河原へ疎開当時、四年生だった弟も中学卒業で就職し、高校、大学と夜学へ通う様になり母とても頼りにしていましたが、昭和三十二年十月、この弟の事故死に遭遇。又、悲しみの底に突き落とされてしまいました。私が大変だったと思うより、母の苦しみの深さは計り知れないものだったでしょう。母三十七歳からの来し方は限りない苦労の連続でした。

 その中で、妹達がそれぞれに良き伴侶を見つけて結婚してくれたのは、せめてもの慰めでした。私は家計の他、自分の学費も割出せる様になってから、高校、短大と夜学で教員資格を取得しました。
 晩年の母は昭和二十年三月に生まれ、五月の空襲時、母の背に負われていた中島家旧姓唯一の男子として、三男の弟が夫婦で母が亡くなるまで世話をしてくれました。そして今も家族の墓守りをしていてくれます。私も喜寿を迎え、今はお陰さまで衣食住の整った生活を送らせて頂いています。

 叔母や母達の本当の幸せは!

 あの戦争に依ってどれ程の人々が悲しみ苦労をした事でしょう。再び惨禍を繰り返す事のなき様、平和の世で誰もが人間らしい生活を送っていかれる様、祈念致します。

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