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疎開児童から21世紀への伝言 48

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 48

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/8/28 9:00
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 1
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 「とにかく大変でした」とまず書いてみなさいとは、書き出しに悩む若手の記者に朝日新聞の扇谷正造が言った言葉である。とにかく大変でした。疎開展で昭和二十年の著名人の所在を突き止め、地図上に名前を記載してみたいという大それた企画を考えてしまったのだから。手をつけて半年、探偵もどきに彼らの行方を追う作業は、本筋よりも枝葉の細部が面白く、そのせいか時間切れで五百人にとどまった。地図に示す彼らの「名前と所在地」のわずか一行の背後に茂っている面白い枝ぶりや、小さく咲いていた花々。隠れていたそれらのいくつかを拾って見よう。

 「決して関西が厭になった訳でもありませぬから余程の事態に立ち至らぬ限り一家を挙げて引き移ろうなどとは考えておりませぬ。只々満一の場合家族の避難所として、また冬の間あなた様の避寒地としては絶好の所でありますし‥・」熱海に別荘を購入した谷崎潤一郎が、昭和十七年三月に松子夫人にだした手紙である。まだ「疎開」という言葉も、考えもなかった。日本軍が南方諸地域を次々と占領し、二月十五日にはシンガポールが陥落。旗行列の興奮が残っている時期である。谷崎は熱海・来宮駅に近い西山で中央公論に掲載する「細雪」の執筆にとりかかった。それから二年後の昭和十九年四月、「万一の場合」が到来した。

 谷崎にとっては「疎開といふことをせんとて住み馴れし阪神の地を振りすてて」行くという心境であった。

 「あり経なば またもかへらん津の国の 住吉川の松の木かげに」

 関西を離れた谷崎は熱海の来宮神社を少し登った西山で疎開生活をはじめた。気候温暖で東京への足場がよい熱海に疎開地を求めて作家たちが移ってきた。勤め人でない彼らは早い時期に家族ぐるみの疎開が可能だった。


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