疎開児童から21世紀への伝言 42
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編集者
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奈良屋の思い出 1
伊波新之助(間門校)
僕の集団疎開はとても恵まれた一年でした。まだ国民学校初等科、いまの小学校三年生の子どもながら、自分で志願して参加した間門国民学校の集団疎開です。
一流の温泉旅館に泊まり、上級生に可愛いがられ、そのうえ三度三度のおいしい食事と毎日の温泉入浴。
女生徒たちが演じる毎月の楽しい学芸会や、上級生に教わる勉強。それに加えて、美しい箱根の自然-。
濃密な一年間は、いつまでも楽しい思い出として僕の胸の中にあります。皆さんとてもありがとうと、声を大きくしてお礼を言いたい気持ちです。疎開は僕を裏切りませんでした。
もちろん人によっては同じ経験をしてもつらいことばかりを拾って、思い出したくない体験として記憶に残す人もいますし、楽しかったことを思い出して懐かしみ、年とともに美化する人もいます。僕は「美化派」かもしれません。
でもつらかったこと、けしからんと思ったこともしっかり覚えています。しかし、生きるか死ぬかの戦時中のことです。贅沢は言えないでしょう。
疎開中、一度も帰りたいとは思わず、一度も泣かなかった僕でした。
僕たち、間門国民学校の児童が疎開した箱根の奈良屋旅館は、地勢のうえからも観光的にも、箱根の中心と言われていた宮の下温泉にあって、道を隔てて富士屋ホテルと向き合う立派な旅館でした。江戸時代から十何代も続いている本格的な和風旅館で、明治天皇がお泊まりになったことからも知れるように、ある意味では富士屋ホテル以上の存在でした。
みごとだった奈良屋の庭
明治時代に外国人観光客に便利なようにと、富士屋ホテルと共同して、今は国道一号線になっている、湯本から塔ノ沢、宮の下までの立派な道路を私費で掘削・建設したそうです。この事実だけでも、奈良屋の財力や、先を見通す経営力に驚かされます。
富士屋ホテルは道をはさんで山側の一画を占め、奈良屋は向かい合うようにして早川渓谷側に位置していました。そして登山電車は冨土屋ホテルの背後をゆっくりと走っていました。後から調べたところによると、両方のホテル・旅館で初めは外国人客、日本人客とも奪い合う競争関係にあったようですが、途中から純洋風と純和風とに分けて、客を分け合うように話がついたということでした。
奈良屋は国道から渓谷に向けての広大な斜面を敷地として庭園化し、その中に僕たち学童と先生・職員ら三百三十人を収容できた大きな本館と、緑の中に見え隠れする、それぞれ独立した十以上の別館を擁していました。ですから、奈良屋は別天地でした。旅館の庭ですから、庭師・仕事師たちの手になる人工的な庭園であることは間違いないのですが、その高度な技術と経てきた長い年月は、都会から来た我々子どもたちにはこのうえない快適な自然そのものでした。
大小の池にはさまざまな色模様の大きな鯉が群れ泳ぎ、石垣や橋、滝、石灯龍、飛び石が彩りを添えています。小径に沿った流れは温泉からあふれたよい匂いのぬるい湯水がもやもやとした藻を育て、下流は白くて大きい沢ガニの棲み家になっていました。本牧では海のカニを何種類も見てきたし、根岸の不動の滝の周辺には沢ガニもいましたが、ここの沢ガニにはまた別の親しみを感じました。
石垣には時々蛇の抜け殻が見つかり、僕の貴重なコレクションになりました。建物の軒下には蟻地獄が棲んでいて、横浜では知らなかった新知識を得ました。トカゲや沢ガニを時には鯉にやり、争うさまを楽しんだこともありますが、可哀想なことをしたと思います。
横浜では蝉のランキングではミンミン蝉が一位で、クマ蝉は噂の世界の存在でしたが、箱根では本物の立派なクマ蝉が鳴いていて、大きくて美しい姿と珍しい鳴き方に惹きつけられました。
庭園の中を一種の探検のように行くと、陶磁製の 「敏(とん)」という俵を縦に立てたような形の庭椅子がいくつも並んでいます。風流な袖垣、茶屋風の建物。池の周りのトクサや石垣のシダ。蔦やアケビに飾られた小さな門や木戸、竹垣など風雅なたたずまいに魂を奪われました。
いろいろな種類の竹も生えていました。竹は箱根の名物の一つです。僕たちは手頃な竹を勝手に伐って、箸や箸箱を作ったりしました。工夫して僕は印籠式の身と蓋がかちつと締まる箸箱を作ったら、周りの上級生や友たちから作り方を教えるように求められました。
しかし、庭の竹を勝手に伐ってしまってよかったのでしょうか。奈良屋のおばさん安藤伸子さんはこう書いています。
「私たち夫婦には子どもがいなかったので、主人は皆さんを可愛がったと思います。いたずらをされても『戦争が終わったら直せばいいんだから』と口癖のように言っていました。私も先生には『子どもたちにあまりやかましく言わないで』と申し上げていました」
もちろん、竹を勝手に伐ってはいけなかったのです。でも、奈良屋の方たちは大目に見てくれました。
度の過ぎたいたずらは叱られました。庭の中を探検しているうちに、ある子はどこかで読んだ宝探しの物語の人物になったような気になったのでしょう。太い立派な孟宗竹の幹に下手な字で「この下に宝あり」などと彫りつけたのです。これはさすがに叱られました。このほか、温泉浴場の排水口に雑巾を詰まらせて大変な工事になってしまったり、消毒液を誤って流して池の鯉が大量に死んだことは、一同がしゅんとなるくらい、先生を通じて叱られました。何枚もの延の上に何十匹もの大きな鯉が引き揚げられて横たわった時には、我々も実に悲しく、やりきれない思いになりました。
こんなわけでしたから、間門の子どもたちは時折、地元の温泉村の温泉国民学校へ教室を借りての授業や東京からの本格的なハーモニカバンドの演奏、少女歌手の歌などを聴きに行ったり、薪取りや行軍で箱根の山野を歩きまわる以外はほとんど地元の人たちと交流することはありませんでした。僕が外で買い物をしたのは箱根の絵葉書くらいのものです。生活も遊びも奈良屋の中で完結していたのです。独立の別天地でした。
外出すると四季の箱根の美しさに心を奪われました。薪取りの途中で立ち寄る小涌谷の 「千条(ちすじ)の滝」の先で見た深紅の楓の紅葉、早川渓谷にかかる杉林に霧がかかった墨絵のような幽玄の風景、仙石原や明星岳のすすきの原、登山電車の線路際に真夏でも色を失わない紫陽花の花。ひょっとすると僕は厳しい現実を忘れてこんな自然の中の風景に何かを夢見ていたのかもしれません。
旅館で毎月のように開く、小さな学芸会のような催しも最高でした。奈良屋は大きな旅館だったのでピアノがありましたが、高学年の女の子の中には達者に演奏する子が何人もいました。女生徒の歌やダンスや寸劇を見ることは真面目一方で厳しいわが家の流儀からは想像もできない楽しみでした。
男の子も歌うのですが、慰問先の傷病兵のところで習ってきた大人向けの怪しげな歌とか「うちのラバさん 酋長の娘」などという戦時の緊張にはふさわしくない歌なども飛び出しましたが、先生方は大目に見てくれました。