疎開児童から21世紀への伝言 44
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奈良屋の思い出 3
伊波新之助(間門校)
皆に可愛がられたこと 1
とにかく親父からはよく手紙が来ました。その書き出しは「新君」という呼びかけです。上級生は僕に対しての手紙を真似して「新君」と呼ぶようになりました。こういう呼び方がマイナスに働くことはないでしょう。「新君」と呼ばれ可愛がられるようになりました。
そもそも親父は子ども好きで、地元本牧神社のお祭りでは、町内の子ども御輿の係になって僕を含めて近所の子たちの面倒をみてくれていたのです。そのおかげで、三之谷町内の子はうちの親父のことをよく憶えてくれていました。そして親父は疎開に行く子には僕のことを「よろしく頼む」と声をかけていました。
そんな親父の僕への愛情過多が戦時の厳しい空気に合わないと学校から指弾されたこともありました。僕への手紙が先生の検閲に引っかかって「決戦への気持ちが足りない手紙」の例として横浜のお父さんお母さんが集まった席で読み上げられ、嘲笑の対象になったそうです。子ども思いが過ぎて、時代に迎合することを知らなかった父。
また親父は物資のない時代に、ためになる本を見つけて何冊か送ってくれました。その本が僕の手に届く前に一部を先生が皆に朗読して聞かせたり、本が上級生の間で引っ張りだこになることもありました。こういうことも、僕をいじめから守ってくれたと思います。しかし、回し読みされているうちに僕の手元にはついに一冊も戻らず、すべて行方不明になってしまいましたが。
奈良屋の疎開児童は五つの区分に分けられました。一寮は本牧三之谷と根岸の男子。二寮は本牧和田と電車バス通学の男子。三寮は間門の男子。四寮・五寮は女子でした。僕は一寮六班に入りました。六年生は横山班長と柴田さん、富田さん、村田さんの四人。五年生二人、四年生二人で、三年生は僕一人でした。
この中の村田斉(ひとし)さんが腕白大将で「新君」と僕を呼ぶようになったのも村田さんが最初です。村田さんには可愛がられました。腕白といっても下級生をいじめるようなことはなく、ある種のリーダーでした。
後に芸能プロダクションの社長として知られるようになったホリプロの堀威夫さんは根岸の「山の手」の方で一寮一班でしたが、後年「僕の親友は村田だった」と言っています。親元を離れた僕には箱根でとりあえず立派な保護者が現れたようなものでした。
僕が学童疎開に行って一度も横浜に帰りたいなどと思わなかったのは、こういう温かい上級生に守られていたということが大きかったと思います。
もちろん糸と針は持参していましたからボタンを付けたり、小さなほつれを縫い合わせるぐらいのことはしました。大きく破れた布団などは僕が隠していても、いつの間にか高等女学校出身の寮母さんが発見して縫ってくれました。とても感謝しています。
僕が「箱根はよかった」と思っている理由の一つは腕白な村田さんが最後に残してくれた言葉のせいでもあります。この言葉は忘れられません。それは昭和二十年の四月か五月のことです。村田さんたち、疎開児童の最上級生は国民学校初等科(今の小学校)を卒業するため疎開先の箱根から帰り、そこで義務教育を終えて中学や高等女学校、国民学校高等科などにそれぞれ進みました。受験も進学も一段落した頃、数人が語り合って箱根にやって来たのです。皆、元気でした。そして僕たちに言ったのです。
「お前たち、ここの食事がまずいの量が少ないのなんて言ったらとんでもないぞ。横浜の生活はもっとひどいんだから。毎日が雑炊や代用食ばかりで皆腹ぺこだ。かたいご飯なんかめったに食べられない。横浜に帰って箱根のありがたさが分かったよ」
僕は村田さんのこのひと言で箱根が別天地であること、世の中が容易でない事態になっていることを改めて知ったのです。それまでも箱根の集団疎開生活を楽しく味わっていた僕でしたが、このひと言がそれから後の、僕の箱根での疎開生活の評価を「恵まれたものだった。これ以上の贅沢を言ったら罰が当たる」という思いの強い根っこのようなものになったのです。
箱根の疎開先から、戦争が終わってすぐ、山を下って神奈川県西部の農村地帯に移ってからはひどい食生活だったので、以上のような感想は確信へと変わりました。
村田さんは当時、地元の子が志望する本牧の山の上にある県立横浜三中ではなく、どこか遠くにある、確か日大四中という学校に進学したいと言っていましたが、そこへの合格は叶わず、中学浪人というか宙ぶらりんの状態で箱根に飛んできたのです。よほど奈良屋が懐かしかったのでしょう。そして、ここでの集団疎開生活がとても恵まれていることを僕たちに知らせたいと思っていたのでしょう。
わざわざ僕の本牧の自宅に寄って、わが家に同居していた女の方が僕のためにと作った海苔巻きを持ってきてくれました。これは後で僕が手にしているところを先生に見つかってとんでもないことになるのですが、それはまた別の話です。