『肉声史』 戦争を語る
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- 『肉声史』 戦争を語る (61) (編集者, 2007/10/13 7:37)
- 『肉声史』 戦争を語る (62) (編集者, 2007/10/14 7:55)
- 『肉声史』 戦争を語る (63) (編集者, 2007/10/15 7:46)
- 『肉声史』 戦争を語る (64) (編集者, 2007/10/16 8:02)
- 『肉声史』 戦争を語る (65) (編集者, 2007/10/20 9:53)
- 『肉声史』 戦争を語る (66) (編集者, 2007/10/21 7:31)
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- 『肉声史』 戦争を語る (68) (編集者, 2007/10/23 8:10)
- 『肉声史』 戦争を語る (69) (編集者, 2007/10/24 8:49)
- 『肉声史』 戦争を語る (70) (編集者, 2007/10/25 8:01)
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投稿数: 4298
「海防艦34号(みよちゃん)」
山北町 城田 好光(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
私は、18歳で航海学校卒業と同時に海防艦34号に、呉《くれ=広島県》より乗艦)海防艦《旧海軍の艦種のひとつ》は爆雷120個等を兵員の居住室を犠牲にして搭載《=艦船・車両・航空機などに物資をつみこむ》、乗組員は艦長を始めとして戦争には不慣れな乗船員ばかりだった。多くの悪条件を抱えて広範《=範囲が広いさま》な海を守っていた。戦艦護衛の任を果たせば、またそこから新たな任務。休暇もなく、訓練もされていない船団の護衛。海防艦は特攻艦だと言われていたが、玉砕《ぎょくさい=名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》は許されず死んでも帰らねば任務達成にならなかった。
昭和19年10月10日商船15隻護衛艦7隻で佐世保よりシンガポールへ向かう。25日午前0時2隻の商船が雷撃を受け、1隻沈没、1隻航行不能に。他の商船を避難させ、沈没船員を救助した。単身機の零戦が爆雷2個を投下、敵潜水艦が撃沈。敵乗組員が次々と海に浮上しているのを夜明けに発見。中には口笛を吹いている人もいた。捕虜として高雄の司令部に引き渡した。
終戦は舞鶴で迎えた。昨日までの艦載機やP51の攻撃もなく静かだった。翌日には真水と燃料を積んで、即釜山へ。終戦とはいえ安全が懸念されたが、無事到着。
日本は食糧難だから港の米を持てるだけ持って行ってくれと。どこからか婦女子100名が帰国の為にやって来た。皆栄養失調で顔は紫色だった。皆弱っていて、死亡する子供や出産等軍医はてんやわんやだった。この時生まれた子は、艦の34号の名前をとって「みよちゃん」と命名された。8月17日復員命令。私達若い兵は残留し、復員輸送の任務に当たった。平和の大切さを感じるが、近頃また戦争の臭いがするのが残念だ。
(お話を聞いて)
今回、城田さんの戦争体験を聞かせて頂いた。わずか15~6歳で軍隊に志願して入り、潜水艦に乗って敵と戦って何回か死にそうな怖い目にあったが、やはり当時は一日でも早く国のために役立って死んで行くことは当然だったということを話してくれた。
上官の規律も厳しかったが、その中でも楽しみを見つけて、つかの間の休息を楽しんだというお話も頂いた。話を聞いて、やはり自分には15~6歳のまだ遊びたい盛りに、軍隊という厳しい規律の中で身を置くというのは、とても耐えられないことだと思った。最悪、死を覚悟して潜水艦の中にいるということも、やはり耐えられないと思う。それもこれも全部「国のため」ということであるのだが、当時の人たちはそのことが当然のことと考えているので別段普通のことだと考えているだ。私たちのような今の日本で暮らしている人にとって、当時の考え方を肯定するのはたぶん無理なのではないかと思う。でも城田さんの話を聞いて、戦時中当時の考え方の一端、を聞けてとても勉強になった。また生きる時代が違うと考え方も違ってくるということも分かってとても有意義だったと思った。
(聞き手 西川也桃 昭和51《1976》年生)
山北町 城田 好光(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
私は、18歳で航海学校卒業と同時に海防艦34号に、呉《くれ=広島県》より乗艦)海防艦《旧海軍の艦種のひとつ》は爆雷120個等を兵員の居住室を犠牲にして搭載《=艦船・車両・航空機などに物資をつみこむ》、乗組員は艦長を始めとして戦争には不慣れな乗船員ばかりだった。多くの悪条件を抱えて広範《=範囲が広いさま》な海を守っていた。戦艦護衛の任を果たせば、またそこから新たな任務。休暇もなく、訓練もされていない船団の護衛。海防艦は特攻艦だと言われていたが、玉砕《ぎょくさい=名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》は許されず死んでも帰らねば任務達成にならなかった。
昭和19年10月10日商船15隻護衛艦7隻で佐世保よりシンガポールへ向かう。25日午前0時2隻の商船が雷撃を受け、1隻沈没、1隻航行不能に。他の商船を避難させ、沈没船員を救助した。単身機の零戦が爆雷2個を投下、敵潜水艦が撃沈。敵乗組員が次々と海に浮上しているのを夜明けに発見。中には口笛を吹いている人もいた。捕虜として高雄の司令部に引き渡した。
終戦は舞鶴で迎えた。昨日までの艦載機やP51の攻撃もなく静かだった。翌日には真水と燃料を積んで、即釜山へ。終戦とはいえ安全が懸念されたが、無事到着。
日本は食糧難だから港の米を持てるだけ持って行ってくれと。どこからか婦女子100名が帰国の為にやって来た。皆栄養失調で顔は紫色だった。皆弱っていて、死亡する子供や出産等軍医はてんやわんやだった。この時生まれた子は、艦の34号の名前をとって「みよちゃん」と命名された。8月17日復員命令。私達若い兵は残留し、復員輸送の任務に当たった。平和の大切さを感じるが、近頃また戦争の臭いがするのが残念だ。
(お話を聞いて)
今回、城田さんの戦争体験を聞かせて頂いた。わずか15~6歳で軍隊に志願して入り、潜水艦に乗って敵と戦って何回か死にそうな怖い目にあったが、やはり当時は一日でも早く国のために役立って死んで行くことは当然だったということを話してくれた。
上官の規律も厳しかったが、その中でも楽しみを見つけて、つかの間の休息を楽しんだというお話も頂いた。話を聞いて、やはり自分には15~6歳のまだ遊びたい盛りに、軍隊という厳しい規律の中で身を置くというのは、とても耐えられないことだと思った。最悪、死を覚悟して潜水艦の中にいるということも、やはり耐えられないと思う。それもこれも全部「国のため」ということであるのだが、当時の人たちはそのことが当然のことと考えているので別段普通のことだと考えているだ。私たちのような今の日本で暮らしている人にとって、当時の考え方を肯定するのはたぶん無理なのではないかと思う。でも城田さんの話を聞いて、戦時中当時の考え方の一端、を聞けてとても勉強になった。また生きる時代が違うと考え方も違ってくるということも分かってとても有意義だったと思った。
(聞き手 西川也桃 昭和51《1976》年生)
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「戦地はとにかく食べ物の苦労が大」
開成町 露木 猛(大正11《1922》年生)
昭和14年4月に満鉄に入社。チチハル局へ配属された。箔城市で2年間塾へ通ったりして修行した。昭和17年に関東軍で21歳以上の者は兵隊検査を受けることになった。入隊が決まり、親が一度帰って来いと言うので、1カ月半の休暇をもらって帰った。内地では甘い物がないと聞いたので、砂糖を買い集めてトランクに一杯詰めて帰国した。東京も横浜も食べる物なかった。
昭和18年正月、ハイラル490部隊へ入隊。軍隊の食事はわりと良く、パンとお汁粉の朝食もあった。正月に餅が出たが、喉に詰まらせて兵隊が死んでも、戦病死の扱いだった。私は鉄砲の扱いを習った後、盲腸に。手術後、印刷当番となり、部隊長付きのタイピストをした。
その後、免途河という零下45度になる寒いところへ転属。それから孫呉《そんご=中国の県》へ。そこは各部隊から一人ずつ集まってできた部隊で、皆何も武器を持たずに来たので、その辺の板を集めて戦車の形にして練習していた。結局そこで終戦。ニタンの陣地へ行けと指令が出て、3日3晩歩いてフラフラになって到着。食べる物も使う物も皆泥棒して生活した。
そこでソ連と4日間位戦い、収容所へ。初めは炭鉱で働かされ、その後手が足りないからと時計屋へ。炭鉱はノルマで食事量が決められたが、時計は直したら小遣いをくれた。1年半そこにいて、私はケガをしていたから、復員の列車に先に乗せてもらえた。昭和22年4月に帰国。礼儀は必要。敵でも礼を尽くしていれば気持ち通じる。人情というのかな。向こうも好きで戦争しているんじゃないからね。
「戦時最後は自給自足の生活」
開成町 井上 恒夫(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和17年に現役兵として、東京青山にあった東部7部隊に入営。 1カ月後、ハルビンへ。12月30.日頃で寒かった。軍靴《ぐんか》に鋲《びょう=金具》が付いていて凍った道で滑って苦労した。駅から部隊まで行くのに倍以上の時間かけて行った。満州は雪が止んでも、粉雪みたいなのが舞う。乾燥していて雪合戦もできない。気をつけないと雪で穴が見えなくて落ちる。それで死ぬ人もいた。
部隊はソ連との国境へ。兵舎があったが、壕《ごう=土を掘ってつくった穴やみぞ》みたいに深く掘ってあって寒さをしのいでいた。ここは狼が多く、夜には馬がやられた。その後、憲兵隊へ。当時はスパイ合戦で、湖が凍って人も戦車も国境渡って満州へ通ってくる。毎晩獣道《けものみち》みたいな所へ見張りに行った。電気がなくてランプだったから夜は真っ暗。工作員は農作物やアへンを報酬としてもらっていた。捕まえると拷問《ごうもん=肉体的苦痛を与え、自白を強制する》はすさまじかった。憲兵として日本兵の犯罪も取り調べた。
関東軍の南方進出が決まり、私は部隊へ帰った。門司へ行き、鹿児島湾から沖縄へ。宮古島へ上陸した兵は3、4000人。ここでは飛行場を作るために土方ばかりやっていた。食料がなく、住民に芋をもらったり、ノビルやアザミの根をよく食べた。補給がなかったので草履も編んだ。塩は海水から作った。台湾沖の戦いでは、夕方になると日本の特攻隊が飛んできた。少年飛行兵だった。日本は物が何もなくて惨めだった。武装解除となり、沖縄本島へ捕虜として連行された。格納庫を作る使役をしながら1年いて、復員。13ドル25セント貰って、昭和21年暮れに帰って来た。
開成町 露木 猛(大正11《1922》年生)
昭和14年4月に満鉄に入社。チチハル局へ配属された。箔城市で2年間塾へ通ったりして修行した。昭和17年に関東軍で21歳以上の者は兵隊検査を受けることになった。入隊が決まり、親が一度帰って来いと言うので、1カ月半の休暇をもらって帰った。内地では甘い物がないと聞いたので、砂糖を買い集めてトランクに一杯詰めて帰国した。東京も横浜も食べる物なかった。
昭和18年正月、ハイラル490部隊へ入隊。軍隊の食事はわりと良く、パンとお汁粉の朝食もあった。正月に餅が出たが、喉に詰まらせて兵隊が死んでも、戦病死の扱いだった。私は鉄砲の扱いを習った後、盲腸に。手術後、印刷当番となり、部隊長付きのタイピストをした。
その後、免途河という零下45度になる寒いところへ転属。それから孫呉《そんご=中国の県》へ。そこは各部隊から一人ずつ集まってできた部隊で、皆何も武器を持たずに来たので、その辺の板を集めて戦車の形にして練習していた。結局そこで終戦。ニタンの陣地へ行けと指令が出て、3日3晩歩いてフラフラになって到着。食べる物も使う物も皆泥棒して生活した。
そこでソ連と4日間位戦い、収容所へ。初めは炭鉱で働かされ、その後手が足りないからと時計屋へ。炭鉱はノルマで食事量が決められたが、時計は直したら小遣いをくれた。1年半そこにいて、私はケガをしていたから、復員の列車に先に乗せてもらえた。昭和22年4月に帰国。礼儀は必要。敵でも礼を尽くしていれば気持ち通じる。人情というのかな。向こうも好きで戦争しているんじゃないからね。
「戦時最後は自給自足の生活」
開成町 井上 恒夫(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和17年に現役兵として、東京青山にあった東部7部隊に入営。 1カ月後、ハルビンへ。12月30.日頃で寒かった。軍靴《ぐんか》に鋲《びょう=金具》が付いていて凍った道で滑って苦労した。駅から部隊まで行くのに倍以上の時間かけて行った。満州は雪が止んでも、粉雪みたいなのが舞う。乾燥していて雪合戦もできない。気をつけないと雪で穴が見えなくて落ちる。それで死ぬ人もいた。
部隊はソ連との国境へ。兵舎があったが、壕《ごう=土を掘ってつくった穴やみぞ》みたいに深く掘ってあって寒さをしのいでいた。ここは狼が多く、夜には馬がやられた。その後、憲兵隊へ。当時はスパイ合戦で、湖が凍って人も戦車も国境渡って満州へ通ってくる。毎晩獣道《けものみち》みたいな所へ見張りに行った。電気がなくてランプだったから夜は真っ暗。工作員は農作物やアへンを報酬としてもらっていた。捕まえると拷問《ごうもん=肉体的苦痛を与え、自白を強制する》はすさまじかった。憲兵として日本兵の犯罪も取り調べた。
関東軍の南方進出が決まり、私は部隊へ帰った。門司へ行き、鹿児島湾から沖縄へ。宮古島へ上陸した兵は3、4000人。ここでは飛行場を作るために土方ばかりやっていた。食料がなく、住民に芋をもらったり、ノビルやアザミの根をよく食べた。補給がなかったので草履も編んだ。塩は海水から作った。台湾沖の戦いでは、夕方になると日本の特攻隊が飛んできた。少年飛行兵だった。日本は物が何もなくて惨めだった。武装解除となり、沖縄本島へ捕虜として連行された。格納庫を作る使役をしながら1年いて、復員。13ドル25セント貰って、昭和21年暮れに帰って来た。
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「配給生活を空襲が直撃」
開成町 小宮 美智子(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16年2月に結婚を機に横浜の保土ヶ谷に住んだ。田舎から都会へ嫁ぎ、わからないまま暮らしていたが、戦争の気配は濃厚になってきていた。
結婚式でも派手なことは許されず、衣料切符《=衣料を買うためには政府発行の切符が必要》がないと買えなかったので、全部を揃えることはできなかった。全て配給だった。米、味噌等1ケ月の分量が決まっていたが、空いている土地で野菜を作ったりして食べるのに困るということは、まだなかった。田舎からの援助もあったし。
私の田舎は、今の山北町の山の中だった。舅《しゅうと》は貸家の不動産を持っていたが、自宅もろとも焼けてしまった。B29が焼夷弾《しょういだん=焼き尽くすことを目的とした爆弾》を薪の束を撒《ま》くようにバラバラと落とす。真っ暗になるくらい落ちてきて、それが家の屋根を突き破り、座敷に落ちてきて立て掛けたようになり、落ちると同時に火が出るようになっている。保土ヶ谷の丘の上の畑の中で、玉ねぎが蒸し焼きになっていたのを覚えている。横浜大空襲だった。小さな子供と舅、姑《しゅうと、しゅうとめ》と必死に暮らしていた。焼け出された後も庭の防空壕等で暫く暮らしていたが、そのうち実家へ疎開した。横浜では空襲が多く、お皿1杯のカレーを14回位で食べたことを覚えている。食べ始めると空襲警報、また食べ始めると空襲警報と。本当に命がよく助かったと思う。
食糧事情は悪くなる一方で、主人が復員してマラリヤにかかっていたので、栄養つけようと、親に言わないで取って置きのお米を2升使ったら、姑に叱られて離婚騒動にまで発展した。食べ物の恨みは怖い。今はすぐに捨ててしまうが、物を大切にすることは大切だと思う。
開成町 小宮 美智子(大正10《1921》年生)
(あらすじ)
昭和16年2月に結婚を機に横浜の保土ヶ谷に住んだ。田舎から都会へ嫁ぎ、わからないまま暮らしていたが、戦争の気配は濃厚になってきていた。
結婚式でも派手なことは許されず、衣料切符《=衣料を買うためには政府発行の切符が必要》がないと買えなかったので、全部を揃えることはできなかった。全て配給だった。米、味噌等1ケ月の分量が決まっていたが、空いている土地で野菜を作ったりして食べるのに困るということは、まだなかった。田舎からの援助もあったし。
私の田舎は、今の山北町の山の中だった。舅《しゅうと》は貸家の不動産を持っていたが、自宅もろとも焼けてしまった。B29が焼夷弾《しょういだん=焼き尽くすことを目的とした爆弾》を薪の束を撒《ま》くようにバラバラと落とす。真っ暗になるくらい落ちてきて、それが家の屋根を突き破り、座敷に落ちてきて立て掛けたようになり、落ちると同時に火が出るようになっている。保土ヶ谷の丘の上の畑の中で、玉ねぎが蒸し焼きになっていたのを覚えている。横浜大空襲だった。小さな子供と舅、姑《しゅうと、しゅうとめ》と必死に暮らしていた。焼け出された後も庭の防空壕等で暫く暮らしていたが、そのうち実家へ疎開した。横浜では空襲が多く、お皿1杯のカレーを14回位で食べたことを覚えている。食べ始めると空襲警報、また食べ始めると空襲警報と。本当に命がよく助かったと思う。
食糧事情は悪くなる一方で、主人が復員してマラリヤにかかっていたので、栄養つけようと、親に言わないで取って置きのお米を2升使ったら、姑に叱られて離婚騒動にまで発展した。食べ物の恨みは怖い。今はすぐに捨ててしまうが、物を大切にすることは大切だと思う。
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西湘ブロック
「戦争は時として死をも忘れる」
小田原市 野谷 昌平(大正12《1923》年生まれ)
(あらすじ)
徴用《ちょうよう=国民を強制的に動員して、一定の仕事に就かせる》により海軍へ。その後召集令状が来て陸軍高射砲隊へ。自分は終戦1年前に徴用され、いよいよ本土決戦ということで、ひそかに出征《=軍隊に加わって戦地に行く》。兄の出征時とは違い寂しい思いもあった。
川崎の富士見公園の高射砲陣地に配属された。爆撃機B29が爆撃に現れたが、見上げれば豆粒ほど。高射砲は届かず爆弾をアメあられと落としていった。焼夷弾は束で落としたものが、ある位置で散る仕掛けになっていた。特に恐ろしいのは、艦載機で昼に何10機、何百機と飛んでくる。東京や横浜で迎撃《=攻めて来る相手を迎え撃つ》する高射砲の音が良く聞こえた。よく今まで生きていたと思っている。とにかく当時は弾が当たると死ぬなどとは考えず、夢中であった。
戦争が終わった時は信じられず、静かで不思議な気持ちであった。今、幸せすぎて戦争のことを知らぬことは恐ろしいと思う。
(お話を聞いて)
映画や小説を通して、戦争というものがどんなものかを知識としては知っているつもりでいましたが、今回、野谷さんのお話を聞いて、ただの知識だけでは理解できないと痛感しました。そして思想というものは、与えられる知識によって、こうも変化してしまうのかと少し怖くもなりました。
野谷さんは、戦争に召集されるとき不思議と怖くはなかったとおっしゃっていました。なぜならば、その時勢は「男子はお国のために戦うものであり、死ぬことは名誉なこと」であり、自分も周囲もそれが当たり前に受け止めていたからとの事でした。軍事教育や規制された情報の中、美化された「戦争」という知識。体験談をお伺いする中で、野谷さんにとっての戦争が、美化されたものから、ただ生きるか死ぬかの目の前の事実として、そして憎むべきものへと変化していく様子が分かり、本当の意味での戦争の恐ろしさを知っているのは、実際に体験された方だけだと強く感じました。
そして、今回お話をお伺いできて、ほんの一握りでありますが私にも初めて戦争を知ることが出来たと思います。最後に野谷さんは「自分には使命がある。」とおっしゃいました。戦争を伝えること、核兵器をなくすこと、平和に貢献すること、これは戦火を生き延びた自分に与えられた使命だと。戦争の残酷さを知っている体験者の方だからこそ、平和を深く愛する気持ち、それを守ろうとする意志の強さが伝わってきました。そしてその使命を伺った私自身の使命として、戦争がない平和な世の中になるよう少しでも貢献し、頂いたバトンを次の世代に伝えていかねばならないと感じています。
(聞き手 小田原市 稚野 恵子 昭和52《1977》年生)
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「苦難は無条件降伏《=一切の条件をつけずに降伏》から始まった」
小田原市 遠藤 治郎(大正14《1925》年生まれ)
(あらすじ)
昭和20年7月1日に入隊。3月東京、5月には川崎、横浜の空襲で、それまで勤めていた東芝の工場が焼けたら、すぐ赤紙がきた。
魚雷のエンジンを作っていた技術兵だったので召集が延びていた。浜松の航空隊に入隊したがすでに飛行機がなかった。敦賀港《つるがこう=福井県中部、若狭湾の東にある》から釜山港へ。その後北朝鮮の感興に着き、宣徳飛行場で土嚢《どのう=陣地や堤防を築く》を積む仕事をした。そこから特攻機を2回見送った。8月10日にソ連が参戦。ウラジオに近くの朝鮮領にも攻撃開始の情報が入ってきて戦々恐々《せんせんきょうきょう》とした。15日に全員整列させられてラジオを聞き、「無条件降伏」だと上官が説明してくれた。
すぐに残務整理にかかった。飛行場は軍事物資がたくさんあり、燃やすものも多かった。物資を列車に乗せて出発。途中でソ連兵が来て武器を取られ、朝鮮人の夜襲もあったので、単独で逃げることに。
その後朝鮮保安隊に止められて捕虜になった。10月中頃に関東省延吉の陸軍病院で病兵の世話をする看護師の仕事に回された。零下30度以下で越冬し、8ケ月に1万人死んだ。私の両脇で昨夜12時まで一緒に話していた人が朝起きたら死んでいた。私自身赤痢から栄養失調になり、壊血病《かいけつびょう=ビタミンcの不足で起こる病気》にかかった。そのうち引き上げが決まったが、軍医は体力的に無理だろうと許可しなかった。頼み込んで、何とか無蓋列車《むがいしゃ=おおいのない貨車など》に乗って1ケ月かかって大連へ。大連から船で佐世保に着いたら、大村の海軍病院に入れられた。 家族に知らせる間もなく横浜の海軍病院へ転院となったので、移動の列車の窓から家族宛の葉書を投げた。するときちんと届いていて養母が見舞いに来てくれた。
(お話を聞いて)
遠藤さんの体験された「あの戦争」を1時間で知り尽くすことなど到底出来なし、ましてその実感のほんの一部でも共感できたと思うことなど、はばかられるべきだろう・・・それが私が遠藤さんのお話を伺って持った感想です。それほどその体験は私の想像を絶していた。
敗戦から21年8月までの1年間を遠藤さんは延慶という場所で過ごしたのだが、ここには中国東北部から兵士たちが送り込まれ捕捉《ほそく=とらわれる》されていた。季節が秋から冬にさしかかると延慶の気温は氷点下30度まで下がり、翌10月までの8ケ月間で施設内の死者は一万人に達した。遠藤さんはその厳寒地獄を生き抜かれた。元は技術兵だった遠藤さんは当地で看護師のような役目に就き、極度の栄養失調と赤痢などのあらゆる疾患で死んでいく人々を目の当たりにした。寒さで固まったままの死者を霊安室に並べると、その数は30から50、そしてすぐ100になった。遠藤さんはそこで一万の死と対峙《たいじ》された。その現実を私たちは到底理解できないだろう。
遠藤さんは私たちへのメッセージとして「戦争のみじめさ」と語っておられた。つまり戦争はそういうものだと私はその時痛感した。実際の戦闘状況ではなく、家に残された家族や戦火を逃れた疎開者や、外地に見捨てられた者や焼け出された孤児など、戦争の周縁《しゅうえん=周り》にある者達が次々に死んでいくという現実、その悲惨とみじめさなのだろうと。
そんな彼らのことを「戦争の当事者」とは言い難いことは遠藤さんも語られた通り、玉音放送の遠い感覚に象徴されている。開戦も敗戦も、彼らにとってどこか遠い現実であり、それにもかかわらず、実際はその只中で命に迫る厳しい、あまりに厳しい現実を生き、そして死ななければならなかった、その不合理こそが「戦争の惨めさ」である。「戦争は決して繰り返してはならない」と語られた遠藤さんの声は、戦争の終焉に斃れた方々の悲痛な叫びとして私の心に響きました。
(聞き手 渡辺剛冶 昭和50《1975》年生)
小田原市 遠藤 治郎(大正14《1925》年生まれ)
(あらすじ)
昭和20年7月1日に入隊。3月東京、5月には川崎、横浜の空襲で、それまで勤めていた東芝の工場が焼けたら、すぐ赤紙がきた。
魚雷のエンジンを作っていた技術兵だったので召集が延びていた。浜松の航空隊に入隊したがすでに飛行機がなかった。敦賀港《つるがこう=福井県中部、若狭湾の東にある》から釜山港へ。その後北朝鮮の感興に着き、宣徳飛行場で土嚢《どのう=陣地や堤防を築く》を積む仕事をした。そこから特攻機を2回見送った。8月10日にソ連が参戦。ウラジオに近くの朝鮮領にも攻撃開始の情報が入ってきて戦々恐々《せんせんきょうきょう》とした。15日に全員整列させられてラジオを聞き、「無条件降伏」だと上官が説明してくれた。
すぐに残務整理にかかった。飛行場は軍事物資がたくさんあり、燃やすものも多かった。物資を列車に乗せて出発。途中でソ連兵が来て武器を取られ、朝鮮人の夜襲もあったので、単独で逃げることに。
その後朝鮮保安隊に止められて捕虜になった。10月中頃に関東省延吉の陸軍病院で病兵の世話をする看護師の仕事に回された。零下30度以下で越冬し、8ケ月に1万人死んだ。私の両脇で昨夜12時まで一緒に話していた人が朝起きたら死んでいた。私自身赤痢から栄養失調になり、壊血病《かいけつびょう=ビタミンcの不足で起こる病気》にかかった。そのうち引き上げが決まったが、軍医は体力的に無理だろうと許可しなかった。頼み込んで、何とか無蓋列車《むがいしゃ=おおいのない貨車など》に乗って1ケ月かかって大連へ。大連から船で佐世保に着いたら、大村の海軍病院に入れられた。 家族に知らせる間もなく横浜の海軍病院へ転院となったので、移動の列車の窓から家族宛の葉書を投げた。するときちんと届いていて養母が見舞いに来てくれた。
(お話を聞いて)
遠藤さんの体験された「あの戦争」を1時間で知り尽くすことなど到底出来なし、ましてその実感のほんの一部でも共感できたと思うことなど、はばかられるべきだろう・・・それが私が遠藤さんのお話を伺って持った感想です。それほどその体験は私の想像を絶していた。
敗戦から21年8月までの1年間を遠藤さんは延慶という場所で過ごしたのだが、ここには中国東北部から兵士たちが送り込まれ捕捉《ほそく=とらわれる》されていた。季節が秋から冬にさしかかると延慶の気温は氷点下30度まで下がり、翌10月までの8ケ月間で施設内の死者は一万人に達した。遠藤さんはその厳寒地獄を生き抜かれた。元は技術兵だった遠藤さんは当地で看護師のような役目に就き、極度の栄養失調と赤痢などのあらゆる疾患で死んでいく人々を目の当たりにした。寒さで固まったままの死者を霊安室に並べると、その数は30から50、そしてすぐ100になった。遠藤さんはそこで一万の死と対峙《たいじ》された。その現実を私たちは到底理解できないだろう。
遠藤さんは私たちへのメッセージとして「戦争のみじめさ」と語っておられた。つまり戦争はそういうものだと私はその時痛感した。実際の戦闘状況ではなく、家に残された家族や戦火を逃れた疎開者や、外地に見捨てられた者や焼け出された孤児など、戦争の周縁《しゅうえん=周り》にある者達が次々に死んでいくという現実、その悲惨とみじめさなのだろうと。
そんな彼らのことを「戦争の当事者」とは言い難いことは遠藤さんも語られた通り、玉音放送の遠い感覚に象徴されている。開戦も敗戦も、彼らにとってどこか遠い現実であり、それにもかかわらず、実際はその只中で命に迫る厳しい、あまりに厳しい現実を生き、そして死ななければならなかった、その不合理こそが「戦争の惨めさ」である。「戦争は決して繰り返してはならない」と語られた遠藤さんの声は、戦争の終焉に斃れた方々の悲痛な叫びとして私の心に響きました。
(聞き手 渡辺剛冶 昭和50《1975》年生)
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「悲しい誉の家」《=戦士された家族の家。玄関に表示物》
小田原市 石井 一雄(昭和5《1930》年生)
(あらすじ)
私の戦争は、昭和12年の8月、父に召集令状がきて始まった。漁師だった父は電報で漁から呼び戻され、9月に赤羽工兵隊へ入隊。 4人いた子供は10歳の姉から7歳の私を含め一番下は2歳だった。 戦争による各家庭の苦しみは表に出ないけれどたくさんある。 母は大変だった。子供も苦労はあった。父がいなくても小学2年生で一人前の手伝いをさせられた。大人と一緒に防空壕を掘ったり、薪拾い、農家の手伝いをしたり。近所も容赦なく厳しく割り当ててくる。
母は裁縫ができたので近所から仕事を貰っていた。その合間に農家へ手伝いに行って、朝早くから夜遅くまで働いていつ寝ているかわからなかった。国は何もしてくれなかった。
嫌だったのは「誉の家」。戦没者《=戦争で亡くなった方》の立派な家だと言われ、曲がったことをしてはいけないと窮屈だった。運動会も母はお偉方とテントの中。弁当も兄弟だけでボソボソと寂しく食べた。絶対に忘れない。
「誉の家」は子供にも指導があって、靖国神社参拝の作文を書かされた。本当のことが書けず、「父がいなくても国の為にがんばる」と本心じゃないことを書いた。
父に手紙や日用品を入れた慰問袋《いもんぶくろ=出征軍人に慰問のため手紙・日用品・娯楽品などを入れた袋》を送ったが、届いていなかったようだ。父は、9月の入隊後上海の激戦地へ行き、11月に死んだ。終戦後復員する人がいるのに父は帰らず寂しかった。硫黄島《いおうじま=東京都》がアメリカに陥落《=攻め落とされ》され、昭和18年暮れから昭和19年にかけては毎日のように空襲があった。終戦間際には宣伝ビラも撒《ま》かれた。 「日本良い国花の国。7月8月灰の国」と書いてあったのを覚えている。
(お話を聞いて)
石井さんが「戦争なんだ!」と感じたのは、お父さんに「赤紙」が来たときだそうです。この時代は戦争に行くことが、「良い事」のように思われていて、送り出されていくときは、たくさんの人達が集まり旗を振ってまで送り出したということでしたが、現代に生きる私には、とても理解しがたく、もどかしく思いました。当時は、「行って欲しくは無い」という気持ちを外に出してはいけないことになっていたそうで、また家族が「誉の家」と国から表彰されていたので、一生懸命尽くすような雰囲気があり、素直な気持ちや考えを言ってはいけないことになっていたそうです。
小学生で自分の父親が遠くに行く。必ずしもかえってくるとは限らない。そんなときも、黙って旗を振る・・・今と比べるとあまりに違うというより、残酷だと思います。石井さんは、小学校に通いながら、大人の人と一緒に働いてつらい事も沢山あったようです。母親は、兄弟四人の暮らしを立てるために朝早くから夜遅くまで働き、石井さんはとてもさびしい思いをしたといっていました。戦争だから仕方がないと言い聞かせつつ過ごす事の悲しさが伝わって来ました。私は、戦争中のこと始めて直接聞きましたが、戦争というと、戦地でのつらさを想像していましたが、戦地で戦う人も、内地で残された家族で生活するのも同じぐらい「辛さ」があると感じました。戦争映画やテレビとは違った遠い世界の出来事ではなかったんだ、私のおじいさんくらいの年の人が体験したのだからもっと身近なことと思える様になりました。 戦争は今も世界で起きていて、全世界から戦争を無くすのは、今回のように戦争の話を聞いたり、小さな事から沢山の人が戦争について考えなければならないと思いはじめました。お話を聞かせてくださった石井さんありがとうございました。
(聞き手 奥津香菓子 昭和61《1986》年生)
小田原市 石井 一雄(昭和5《1930》年生)
(あらすじ)
私の戦争は、昭和12年の8月、父に召集令状がきて始まった。漁師だった父は電報で漁から呼び戻され、9月に赤羽工兵隊へ入隊。 4人いた子供は10歳の姉から7歳の私を含め一番下は2歳だった。 戦争による各家庭の苦しみは表に出ないけれどたくさんある。 母は大変だった。子供も苦労はあった。父がいなくても小学2年生で一人前の手伝いをさせられた。大人と一緒に防空壕を掘ったり、薪拾い、農家の手伝いをしたり。近所も容赦なく厳しく割り当ててくる。
母は裁縫ができたので近所から仕事を貰っていた。その合間に農家へ手伝いに行って、朝早くから夜遅くまで働いていつ寝ているかわからなかった。国は何もしてくれなかった。
嫌だったのは「誉の家」。戦没者《=戦争で亡くなった方》の立派な家だと言われ、曲がったことをしてはいけないと窮屈だった。運動会も母はお偉方とテントの中。弁当も兄弟だけでボソボソと寂しく食べた。絶対に忘れない。
「誉の家」は子供にも指導があって、靖国神社参拝の作文を書かされた。本当のことが書けず、「父がいなくても国の為にがんばる」と本心じゃないことを書いた。
父に手紙や日用品を入れた慰問袋《いもんぶくろ=出征軍人に慰問のため手紙・日用品・娯楽品などを入れた袋》を送ったが、届いていなかったようだ。父は、9月の入隊後上海の激戦地へ行き、11月に死んだ。終戦後復員する人がいるのに父は帰らず寂しかった。硫黄島《いおうじま=東京都》がアメリカに陥落《=攻め落とされ》され、昭和18年暮れから昭和19年にかけては毎日のように空襲があった。終戦間際には宣伝ビラも撒《ま》かれた。 「日本良い国花の国。7月8月灰の国」と書いてあったのを覚えている。
(お話を聞いて)
石井さんが「戦争なんだ!」と感じたのは、お父さんに「赤紙」が来たときだそうです。この時代は戦争に行くことが、「良い事」のように思われていて、送り出されていくときは、たくさんの人達が集まり旗を振ってまで送り出したということでしたが、現代に生きる私には、とても理解しがたく、もどかしく思いました。当時は、「行って欲しくは無い」という気持ちを外に出してはいけないことになっていたそうで、また家族が「誉の家」と国から表彰されていたので、一生懸命尽くすような雰囲気があり、素直な気持ちや考えを言ってはいけないことになっていたそうです。
小学生で自分の父親が遠くに行く。必ずしもかえってくるとは限らない。そんなときも、黙って旗を振る・・・今と比べるとあまりに違うというより、残酷だと思います。石井さんは、小学校に通いながら、大人の人と一緒に働いてつらい事も沢山あったようです。母親は、兄弟四人の暮らしを立てるために朝早くから夜遅くまで働き、石井さんはとてもさびしい思いをしたといっていました。戦争だから仕方がないと言い聞かせつつ過ごす事の悲しさが伝わって来ました。私は、戦争中のこと始めて直接聞きましたが、戦争というと、戦地でのつらさを想像していましたが、戦地で戦う人も、内地で残された家族で生活するのも同じぐらい「辛さ」があると感じました。戦争映画やテレビとは違った遠い世界の出来事ではなかったんだ、私のおじいさんくらいの年の人が体験したのだからもっと身近なことと思える様になりました。 戦争は今も世界で起きていて、全世界から戦争を無くすのは、今回のように戦争の話を聞いたり、小さな事から沢山の人が戦争について考えなければならないと思いはじめました。お話を聞かせてくださった石井さんありがとうございました。
(聞き手 奥津香菓子 昭和61《1986》年生)
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「帰国ご苦労様 の横断幕にただ涙」
小田原市 佐藤 時野(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
単身外地へ行っていて病気になっても医者に見てもらえない。 肋膜《ろくまく》と腹膜と腎臓《じんぞう》が悪かったが満鉄病院に行ったのは8月13日で終戦2日前。寝ていてはダメだったので繕《つくろ》い物をしていた。
終戦で坊主頭になって逃げなきやならなくなった。引率の女先生に逃げる時のかばんに生理帯を入れていいですかと聞くと「そんなもの緊張すればなくなります」。いざ逃げる時には両ポケットに炒り豆が入ってただけ。他は何も持って逃げれなかった。病気でも必死について行った。
夜間、公主領に向かった。公主領では醤油倉庫に入れられて「明日ソ連兵に検査される」と。赤い着物は女性だとわかるから捨ててきたが、妹が編んでくれた紫色のセーター1枚だけは冬を越せないからと持っていたのでビクビクした。ところが検査はなく、80人位が10人程に分かれて鉄道官舎に入った。
表には×を書いて、「山」「川」の合図でしか開けなかった。
昭和21年の9月に帰国。博多で「ご苦労様」の横断幕を見たら涙がポロポロ出た。船の上では缶にコーリャン、芋のつる、鰯《いわし》がご飯。妊娠6ケ月の体だった。帰国するとすでに母は亡くなっており、親不孝だったなあと後悔した。
外地へ行くきっかけは、村の女子青年団長の先生が両親もよく知っている方で、毎日「行ってください」と頼まれたからである。女でも国の為に行かねばという気になって行った。振り返れば外地へ行ったのは昭和20年4月。そこで結婚をしたのだった。
(お話を聞いて)
佐藤時野さんのお話を聞いて、今まで戦争をニュースや教科書などでしか知らなかった私はいかに戦争というものの実態に対して無知だったかを思い知らされた。佐藤さんは、満州の公主領市にある農場に昭和20年4月に向かった。冬は零下20度ににもなるこの地から、当初は半年で帰る予定だった所、終戦後に約一年もの間、ソ連軍から逃げまどって行軍していたという。
病気にかかっても病院に薬もなく、作業させられ、あげくに着のみ着のまま逃げ歩いたという話には言葉も出なかった。特に、佐藤さんは女性であったため、ソ連軍に見つかって連れて行かれたり、乱暴されたりするのではないかと、倉庫の中でびくびくしておられ、そのときの気持ちは想像出来ないほど辛いものであっただろう。
1年後、やっとの思いで帰国し、「ご苦労様」という横断幕を見た時は涙が出たという。だが、ようやく帰ってきた故郷で待っていたのは、母親が亡くなったという知らせ。なんと言う親不幸者かと自分を責めたという。佐藤さんは何も悪いことをしたわけでもないのに、このような気持ちにさせられた。今まで戦争というと、出兵して命を落としたり、空襲を受けて町が焼かれたりといったことしか想像できなかったが、こんな形で悲しみを負う方もいたなんて、とショックをうけた。
最後に佐藤さんは、今幸せに生きていることが幸せ、とおっしゃった。普段私たちが当たり前だと思っていることが、実は平和な世の中の上に成り立っているということを再認識させられる言葉だった。そして、やはり戦争は絶対にしてはいけない、とおっしゃった。
実際に戦争で苦労した方の言葉なだけに、大変な重みを感じた。私たちは、戦争を乗り越え、平和な世の中を築いてきた世代に感謝するとともに、今後もわが国を戦争する国にして過去の過ちを再び犯すようなことのないようにしなければならない。
(聞き手 伊藤聡士 昭和55《1980》年)生まれ
小田原市 佐藤 時野(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
単身外地へ行っていて病気になっても医者に見てもらえない。 肋膜《ろくまく》と腹膜と腎臓《じんぞう》が悪かったが満鉄病院に行ったのは8月13日で終戦2日前。寝ていてはダメだったので繕《つくろ》い物をしていた。
終戦で坊主頭になって逃げなきやならなくなった。引率の女先生に逃げる時のかばんに生理帯を入れていいですかと聞くと「そんなもの緊張すればなくなります」。いざ逃げる時には両ポケットに炒り豆が入ってただけ。他は何も持って逃げれなかった。病気でも必死について行った。
夜間、公主領に向かった。公主領では醤油倉庫に入れられて「明日ソ連兵に検査される」と。赤い着物は女性だとわかるから捨ててきたが、妹が編んでくれた紫色のセーター1枚だけは冬を越せないからと持っていたのでビクビクした。ところが検査はなく、80人位が10人程に分かれて鉄道官舎に入った。
表には×を書いて、「山」「川」の合図でしか開けなかった。
昭和21年の9月に帰国。博多で「ご苦労様」の横断幕を見たら涙がポロポロ出た。船の上では缶にコーリャン、芋のつる、鰯《いわし》がご飯。妊娠6ケ月の体だった。帰国するとすでに母は亡くなっており、親不孝だったなあと後悔した。
外地へ行くきっかけは、村の女子青年団長の先生が両親もよく知っている方で、毎日「行ってください」と頼まれたからである。女でも国の為に行かねばという気になって行った。振り返れば外地へ行ったのは昭和20年4月。そこで結婚をしたのだった。
(お話を聞いて)
佐藤時野さんのお話を聞いて、今まで戦争をニュースや教科書などでしか知らなかった私はいかに戦争というものの実態に対して無知だったかを思い知らされた。佐藤さんは、満州の公主領市にある農場に昭和20年4月に向かった。冬は零下20度ににもなるこの地から、当初は半年で帰る予定だった所、終戦後に約一年もの間、ソ連軍から逃げまどって行軍していたという。
病気にかかっても病院に薬もなく、作業させられ、あげくに着のみ着のまま逃げ歩いたという話には言葉も出なかった。特に、佐藤さんは女性であったため、ソ連軍に見つかって連れて行かれたり、乱暴されたりするのではないかと、倉庫の中でびくびくしておられ、そのときの気持ちは想像出来ないほど辛いものであっただろう。
1年後、やっとの思いで帰国し、「ご苦労様」という横断幕を見た時は涙が出たという。だが、ようやく帰ってきた故郷で待っていたのは、母親が亡くなったという知らせ。なんと言う親不幸者かと自分を責めたという。佐藤さんは何も悪いことをしたわけでもないのに、このような気持ちにさせられた。今まで戦争というと、出兵して命を落としたり、空襲を受けて町が焼かれたりといったことしか想像できなかったが、こんな形で悲しみを負う方もいたなんて、とショックをうけた。
最後に佐藤さんは、今幸せに生きていることが幸せ、とおっしゃった。普段私たちが当たり前だと思っていることが、実は平和な世の中の上に成り立っているということを再認識させられる言葉だった。そして、やはり戦争は絶対にしてはいけない、とおっしゃった。
実際に戦争で苦労した方の言葉なだけに、大変な重みを感じた。私たちは、戦争を乗り越え、平和な世の中を築いてきた世代に感謝するとともに、今後もわが国を戦争する国にして過去の過ちを再び犯すようなことのないようにしなければならない。
(聞き手 伊藤聡士 昭和55《1980》年)生まれ
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「虎は死んで皮残し、人は死んでシラミ去る」
箱根町 勝俣 義満(大正9《1920》年生まれ)
(あらすじ)
昭和16年3月5日現役入隊で広島へ。そのまま3月15日から終戦まで満州へ行った。
21歳だった。同年6月、国境守備隊として戦車壕を掘らされた。1日5回食事とって、号令で一斉に掘る。サボることもできず、腕が回らなくなる。それが戦うより辛かった。同じ部隊に同郷の先輩がいると随分助かって嬉しいものだった。終戦は満州で、昭和20年10月10日から4年間抑留《=一定の場所にとめおかれる》された。食糧はなく寒くて、乞食《こじき》同様の生活。1日3回の食事はあるが、ほんの少量。抑留中怖かったのは、日本人同士の殺し合い。洗脳教育《=その人の主義や思想を根本的に改めさせる》に従う者とそうでない者の対立だった。収容所が変わると人民裁判がある。「反動分子」とされると村八分《むらはちぶ=従わない者に対し全体が申し合わせて、その人と絶交》になる。そういう思想教育が一番辛かった。昭和23年ウラジオ《ウラジオストク=ロシアの極東部に位置する州都》から帰れると思ったら、船が満杯でまた山奥へ戻された。
そこで1年間労働して翌年の5月にやっと帰国できた。西舞鶴に到着。8年ぶりに日本の土を踏んで本当に嬉しかった。箱根の山を見た時は涙が出た。
抑留中、風土病と過労で皆死んでいく。人が死ぬ5、6時間前にはその人からシラミ《=人、畜の血をすう害虫》がいなくなって元気な人に移るということも知った。自分達で水を汲んできて、2日間かけて風呂を沸かした。でも上がり際に一人一杯のお湯しかくれない。しかも風呂は1ケ月に2回だけ。働くのにギリギリの食事で、働きによって黒パンの量が調整される。
作業にはノルマ《=各人に課せられる仕事などの量》があった。経験した人にしかわからない辛さだと思う。決して戦争はしてはならない。
「戦争 平気で人殺しをする異常な世界」
箱根町 渡辺 亘(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
徴兵検査は若者が大人になる関所のような所。皆一発合格を目指し、必死で体を鍛えた。
私は16歳から予科練《=注1》に。幼くして両親を亡くし、貧乏だったので村でいじめられた。見返してやりたくて受検。昭和17年土浦《茨城県》海軍航空隊に入隊して1年半、軍人精神を叩《たた》き込まれ、死を恐れない教育を受けた。初めの配属は厚木航空隊、次は九州の佐伯航空隊。佐伯は連日空襲で死闘を繰り広げた。天皇や国の為に死ぬのは最高の名誉だったから死を何とも思っていなかった。自爆テロと同じ。戦争は平気で人殺しをする異常な精神状態になるということを特に伝えたい。人権を全く無視して、命令ひとつで縁も所縁《ゆかり=なんらかの係わり合い》もない人達が殺すか殺されるかの戦いをする。兵隊も市民も虫けらのように殺された。殺人が正当化されて、戦争という極限の場面では法も人権もなく、殺人行為がまかり通る異常な状態。
予科練の無垢《むく=けがれなく》で純粋な心を洗脳するのは簡単だった。原爆を落としたと敵国ばかり責めるが、真珠湾奇襲攻撃《注2》は日本が仕掛けた。それぞれの言い分があるのが戦争だ。人間の欲望が悪魔となって暴走するのが戦争。どんな理由を並べても敵味方の兵や一般人の2000万とも3000万とも言われる尊い命を犠牲にした事実は、末代まで言い伝えて、二度と戦争はしてはいけないと声を大にして言いたい。沖縄戦は学徒出陣の人がにわかに訓練を受けて、操縦桿を握った。離陸と着陸ができるだけの特攻隊員が必死の思いで敵艦に突っ込んでいった。帰りの燃料もなく、敵の集中砲火の中突っ込んだ。散華《さんげ=華と散るの意・戦死》していった青年は二度と戻ってこない。
(お話を聞いて) (勝俣義光さんと渡辺亘さん)
私は、戦争を体験してこられた方々のお話しをお聞きする機会をお引き受けいたしましたが、本当のところ、戦争の苦労や残酷さは、思い出すのも、人に話すのも嫌だということをよく聞くこともありましたし、戦後60年という長い年月が経過した今、快くお話しをしていただけるものかと不安でなりませんでしたが、ご本人にお会いしたところ、気さくにお話しをしてくださり大変嬉しく感じました。
今回、お話しを聞かせていただき、話しの内容は経験されたことによって違いは有りますが、戦争を体験していないものには計り知ることの出来ないいろいろな思いがあると感じました。また、戦争というものの恐ろしさ、辛さ、残酷さを感じさせられると共に、何も言えず強制的に軍隊に入れられ、昼夜を問わず厳しい訓練をし、お国のために死ぬことは最高の名誉なのだと教育を受け、死ぬことになんとも思わなかったというお話しを伺ったとき、今の私達には到底考えられないことであり、当時の人々の強さを感じ、胸の詰まる思いがしました。
テレビや映画等で戦争というものを知ってはいましたが、実際にお話しを伺って、改めて戦争の悲惨さを強く感じ、今、このような戦争が起きたらと思うと身震いを覚える感じがしました。
豊富な資源に恵まれ、何一つ不便を感じることなく生活を送っている今日、戦争で尊い命を落とされた沢山の方々、そして、懸命に戦って来られた方々があってこそ、今の平和があることをしみじみと噛み締め、戦争は絶対にあってはならないものだとつくづく思い知らされました。
(聞き手 匿名 昭和40《1965》年生)
注1 予科練=「海軍飛行予科練習生」の略称
旧日本海軍で、飛行機搭乗員育成のために設けられた制度。 14~15歳の少年に約3か年の基礎教育を施した。
注2 真珠湾攻撃=1941 年(昭和 16)12 月 8 日、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した事件。これによって太平洋戦争が始まった。
箱根町 勝俣 義満(大正9《1920》年生まれ)
(あらすじ)
昭和16年3月5日現役入隊で広島へ。そのまま3月15日から終戦まで満州へ行った。
21歳だった。同年6月、国境守備隊として戦車壕を掘らされた。1日5回食事とって、号令で一斉に掘る。サボることもできず、腕が回らなくなる。それが戦うより辛かった。同じ部隊に同郷の先輩がいると随分助かって嬉しいものだった。終戦は満州で、昭和20年10月10日から4年間抑留《=一定の場所にとめおかれる》された。食糧はなく寒くて、乞食《こじき》同様の生活。1日3回の食事はあるが、ほんの少量。抑留中怖かったのは、日本人同士の殺し合い。洗脳教育《=その人の主義や思想を根本的に改めさせる》に従う者とそうでない者の対立だった。収容所が変わると人民裁判がある。「反動分子」とされると村八分《むらはちぶ=従わない者に対し全体が申し合わせて、その人と絶交》になる。そういう思想教育が一番辛かった。昭和23年ウラジオ《ウラジオストク=ロシアの極東部に位置する州都》から帰れると思ったら、船が満杯でまた山奥へ戻された。
そこで1年間労働して翌年の5月にやっと帰国できた。西舞鶴に到着。8年ぶりに日本の土を踏んで本当に嬉しかった。箱根の山を見た時は涙が出た。
抑留中、風土病と過労で皆死んでいく。人が死ぬ5、6時間前にはその人からシラミ《=人、畜の血をすう害虫》がいなくなって元気な人に移るということも知った。自分達で水を汲んできて、2日間かけて風呂を沸かした。でも上がり際に一人一杯のお湯しかくれない。しかも風呂は1ケ月に2回だけ。働くのにギリギリの食事で、働きによって黒パンの量が調整される。
作業にはノルマ《=各人に課せられる仕事などの量》があった。経験した人にしかわからない辛さだと思う。決して戦争はしてはならない。
「戦争 平気で人殺しをする異常な世界」
箱根町 渡辺 亘(大正14《1925》年生)
(あらすじ)
徴兵検査は若者が大人になる関所のような所。皆一発合格を目指し、必死で体を鍛えた。
私は16歳から予科練《=注1》に。幼くして両親を亡くし、貧乏だったので村でいじめられた。見返してやりたくて受検。昭和17年土浦《茨城県》海軍航空隊に入隊して1年半、軍人精神を叩《たた》き込まれ、死を恐れない教育を受けた。初めの配属は厚木航空隊、次は九州の佐伯航空隊。佐伯は連日空襲で死闘を繰り広げた。天皇や国の為に死ぬのは最高の名誉だったから死を何とも思っていなかった。自爆テロと同じ。戦争は平気で人殺しをする異常な精神状態になるということを特に伝えたい。人権を全く無視して、命令ひとつで縁も所縁《ゆかり=なんらかの係わり合い》もない人達が殺すか殺されるかの戦いをする。兵隊も市民も虫けらのように殺された。殺人が正当化されて、戦争という極限の場面では法も人権もなく、殺人行為がまかり通る異常な状態。
予科練の無垢《むく=けがれなく》で純粋な心を洗脳するのは簡単だった。原爆を落としたと敵国ばかり責めるが、真珠湾奇襲攻撃《注2》は日本が仕掛けた。それぞれの言い分があるのが戦争だ。人間の欲望が悪魔となって暴走するのが戦争。どんな理由を並べても敵味方の兵や一般人の2000万とも3000万とも言われる尊い命を犠牲にした事実は、末代まで言い伝えて、二度と戦争はしてはいけないと声を大にして言いたい。沖縄戦は学徒出陣の人がにわかに訓練を受けて、操縦桿を握った。離陸と着陸ができるだけの特攻隊員が必死の思いで敵艦に突っ込んでいった。帰りの燃料もなく、敵の集中砲火の中突っ込んだ。散華《さんげ=華と散るの意・戦死》していった青年は二度と戻ってこない。
(お話を聞いて) (勝俣義光さんと渡辺亘さん)
私は、戦争を体験してこられた方々のお話しをお聞きする機会をお引き受けいたしましたが、本当のところ、戦争の苦労や残酷さは、思い出すのも、人に話すのも嫌だということをよく聞くこともありましたし、戦後60年という長い年月が経過した今、快くお話しをしていただけるものかと不安でなりませんでしたが、ご本人にお会いしたところ、気さくにお話しをしてくださり大変嬉しく感じました。
今回、お話しを聞かせていただき、話しの内容は経験されたことによって違いは有りますが、戦争を体験していないものには計り知ることの出来ないいろいろな思いがあると感じました。また、戦争というものの恐ろしさ、辛さ、残酷さを感じさせられると共に、何も言えず強制的に軍隊に入れられ、昼夜を問わず厳しい訓練をし、お国のために死ぬことは最高の名誉なのだと教育を受け、死ぬことになんとも思わなかったというお話しを伺ったとき、今の私達には到底考えられないことであり、当時の人々の強さを感じ、胸の詰まる思いがしました。
テレビや映画等で戦争というものを知ってはいましたが、実際にお話しを伺って、改めて戦争の悲惨さを強く感じ、今、このような戦争が起きたらと思うと身震いを覚える感じがしました。
豊富な資源に恵まれ、何一つ不便を感じることなく生活を送っている今日、戦争で尊い命を落とされた沢山の方々、そして、懸命に戦って来られた方々があってこそ、今の平和があることをしみじみと噛み締め、戦争は絶対にあってはならないものだとつくづく思い知らされました。
(聞き手 匿名 昭和40《1965》年生)
注1 予科練=「海軍飛行予科練習生」の略称
旧日本海軍で、飛行機搭乗員育成のために設けられた制度。 14~15歳の少年に約3か年の基礎教育を施した。
注2 真珠湾攻撃=1941 年(昭和 16)12 月 8 日、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した事件。これによって太平洋戦争が始まった。
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「火薬の材料?髪を供出/自殺の仕方も学ぶ」
鶴町 野中 律子(昭和3《1928》年生)
鈴木 良子(昭和4《1929》年生)
(あらすじ)
野中
女学校まで横須賀にいた。最後の1年は学徒動員で、もんぺ《=袴の形をして裾をしぼった労働用の衣服》に防空頭巾、大豆の炒ったものと水筒をさげて浦和造船所へ通った。私は造船設計課で東京大学の船舶工学科の生徒に教わって船の設計図を書いていた。針の先程の線を引くのだが、間違うと駆逐艦《くちくかん》ができた時に大変なことになると言われた。
火薬の材料になるからと、髪をみんな切って国へ捧げた。昭和20年3月卒業だった。3月10日の東京大空襲で東京が全滅したので、田舎のある人は一日も早く疎開しろと。あとで卒業証書送るからと言われた。私も土浦へ。3月10日は、横須賀から見る東京の空が真っ赤だった。海軍の叔父が「日本は負ける。いろいろ覚悟がいるよ」と言っていた。横須賀は一度も空襲がなかったのに、土浦へ行ったとたん毎日のように空襲警報。一度防空壕に入りそびれて、家の窓から隠れながら見ていたら、アメリカ兵がすごい低空飛行で身を乗り出して撃ってくるのが見えた。部屋数の多い家には徴用《=国家が国民を強制的に動員して、兵役以外の業務につかせる》で地方から出てきた人を下宿させなきやならない。家にも4人来た。5人兄弟に加えて母は大変だったと思う。でも、その人達にまず食べさせた。母の分まで残らないこともあった。
鈴木
私は平塚の海軍火薬所へ。半分火薬作って、半分は会計係だった。学徒動員《=国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで労働させた》は一銭も出ないボランティアだった。当時、学生は強制で全員労働に行った。ここは怖い所で、摩擦《まさつ》で火薬が爆発すると窓ガラスも粉々に割れる。昭和19年には自殺の仕方も学んだ。とても大きな水槽があって、左手首を切ってそこへ浸《つ》けなさいと海軍の偉い・人が教えてくれた。平塚駅で初めてB29《=米爆撃機》を見た。20機位でキラキラときれいだった。
戦争の感覚が麻痺《まひ》していた。火薬はうどん粉みたいに練って、そこへ繊維を入れて作る。なめると甘い。学徒動員と言ったけど、随分社会勉強させてもらった。浮浪児《=親がなく、一定の住居も持たずにさまよい暮らす子供》を沢山見た。戦争は国と国との争いだけど、結局は1対1なんだなと思った。兵隊は殺すか殺されるかだ。奮い立って、私達がやらなきやと思っていたけど馬鹿馬鹿しい。
私達は麻痺していた。昭和21年に卒業して、親に内緒で東京の学校を受けて合格した。行きたいと言ったら「進駐軍《=太平洋戦争後日本に進駐した連合国軍隊》のいる東京には出せない」と入学取り消された。戦争のせいで、いまだに残念である。私は戦争で人間としてしなきやないらないこと、私は戦争で規律や道徳などを学んだ。物を粗末にしないことも。戦争じゃなくても災害等でいつまた食糧不足なるかわからない。そういう時の為に心の蓄えだけはしておいてほしい。
鶴町 野中 律子(昭和3《1928》年生)
鈴木 良子(昭和4《1929》年生)
(あらすじ)
野中
女学校まで横須賀にいた。最後の1年は学徒動員で、もんぺ《=袴の形をして裾をしぼった労働用の衣服》に防空頭巾、大豆の炒ったものと水筒をさげて浦和造船所へ通った。私は造船設計課で東京大学の船舶工学科の生徒に教わって船の設計図を書いていた。針の先程の線を引くのだが、間違うと駆逐艦《くちくかん》ができた時に大変なことになると言われた。
火薬の材料になるからと、髪をみんな切って国へ捧げた。昭和20年3月卒業だった。3月10日の東京大空襲で東京が全滅したので、田舎のある人は一日も早く疎開しろと。あとで卒業証書送るからと言われた。私も土浦へ。3月10日は、横須賀から見る東京の空が真っ赤だった。海軍の叔父が「日本は負ける。いろいろ覚悟がいるよ」と言っていた。横須賀は一度も空襲がなかったのに、土浦へ行ったとたん毎日のように空襲警報。一度防空壕に入りそびれて、家の窓から隠れながら見ていたら、アメリカ兵がすごい低空飛行で身を乗り出して撃ってくるのが見えた。部屋数の多い家には徴用《=国家が国民を強制的に動員して、兵役以外の業務につかせる》で地方から出てきた人を下宿させなきやならない。家にも4人来た。5人兄弟に加えて母は大変だったと思う。でも、その人達にまず食べさせた。母の分まで残らないこともあった。
鈴木
私は平塚の海軍火薬所へ。半分火薬作って、半分は会計係だった。学徒動員《=国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで労働させた》は一銭も出ないボランティアだった。当時、学生は強制で全員労働に行った。ここは怖い所で、摩擦《まさつ》で火薬が爆発すると窓ガラスも粉々に割れる。昭和19年には自殺の仕方も学んだ。とても大きな水槽があって、左手首を切ってそこへ浸《つ》けなさいと海軍の偉い・人が教えてくれた。平塚駅で初めてB29《=米爆撃機》を見た。20機位でキラキラときれいだった。
戦争の感覚が麻痺《まひ》していた。火薬はうどん粉みたいに練って、そこへ繊維を入れて作る。なめると甘い。学徒動員と言ったけど、随分社会勉強させてもらった。浮浪児《=親がなく、一定の住居も持たずにさまよい暮らす子供》を沢山見た。戦争は国と国との争いだけど、結局は1対1なんだなと思った。兵隊は殺すか殺されるかだ。奮い立って、私達がやらなきやと思っていたけど馬鹿馬鹿しい。
私達は麻痺していた。昭和21年に卒業して、親に内緒で東京の学校を受けて合格した。行きたいと言ったら「進駐軍《=太平洋戦争後日本に進駐した連合国軍隊》のいる東京には出せない」と入学取り消された。戦争のせいで、いまだに残念である。私は戦争で人間としてしなきやないらないこと、私は戦争で規律や道徳などを学んだ。物を粗末にしないことも。戦争じゃなくても災害等でいつまた食糧不足なるかわからない。そういう時の為に心の蓄えだけはしておいてほしい。
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「戦地で悲しい夕焼けカラス/行けば必死 これが戦」
真鶴町 青木 良治(大正12《1923》年生)
間瀬 政三(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
青木
昭和19年8月に飛行機整備兵として入隊し、彦根の飛行場へ。1週間後北軍へ行った。そこで初年兵教育を受けた。私は戦争に行く前、東京電力で電柱を建てる設計をやっていた。うちは、母親一人だったからあんまり行きたいとは思わなかった。飛行兵と分った時、もう帰れないと思った。行く前日、親戚や同僚とドンちゃん騒ぎして駅まで見送り。今考えれば、おだてられていたんだ。北支の石家荘で3ケ月初年兵教育。
夕暮れにカラスが家に帰る頃、家が恋しくて哀しかった。担当した内務班は洗濯、飯盛《めしもり》りが仕事。食べるのが遅い、風呂が遅い等で殴られる。連帯責任で殴られる。やっと上の方へきて、これから楽になるという時に終戦。軍隊は殴られた思い出しかない。 北支では戦いはなかった。戦争行ってよかったのは、忍耐、努力、義務は必ず果たすというのが身についた。やればできる。兵隊に行った人は相当な苦労した。昭和20年10月12日、真鶴に帰ってきた。
間瀬
昭和19年11月入隊,千葉県の香取海軍航空隊へ。航空母艦に乗って零式戦闘機の整備に当たる為の兵隊として入隊した。3ケ月の新兵教育を受けた後、海軍一等兵として飛行機整備の訓練を受ける。それが約6ケ月。もうその頃には船がなく、航空母艦に乗れなくなって整備の練習していたが、空襲を受けて自分の隊が全滅した。命からがら勝浦へ隊ごと出向した。そこでは、一人乗りの潜水艦用の海からつながる防空壕を作った。
そこへ潜水艦を入れる作業で、海の経験があるからと班長になった。同年兵より楽な仕事だった。戦争に行く前は漁師だった。私達の頃は、みんな行けば死ぬという状態だった。入隊して何の訓練も受ける前の移動中に死んだ人もいる。終戦は勝浦で知った。日常で辛いのはメシだった。食べるものがなかった。サイパン攻撃の兵舎には食べ物がいっぱいあった。そこへ盗みに入る。残飯捨てるのを見ていて、夜中へそこへ行って食べる。人間は食べるものがなかったらそこまでするんだよ。タバコも同じ。上の人が吸って捨てた吸殻を夜中に拾いに行って吸った。
同年兵は半分位死んだ。艦載機がいっぱい来て、機銃掃射。間一髪で助かった。防空壕まであと20mなのに行けなかった。海軍では明後日までに雑巾3枚縫えと突然言われる。材料もないところで試される。でもなんとか出来てしまう。要はやる気があるかないか。手ぬぐいを使って樺《かば》の糸抜いて、針金で縫う。軍隊も結構為になった。終戦は「これで終わった。家へ帰れる」とちょっと朗らかな気分になった。今の人へのメッセージは「何でも努力すればできる」。ということだろう。
真鶴町 青木 良治(大正12《1923》年生)
間瀬 政三(大正13《1924》年生)
(あらすじ)
青木
昭和19年8月に飛行機整備兵として入隊し、彦根の飛行場へ。1週間後北軍へ行った。そこで初年兵教育を受けた。私は戦争に行く前、東京電力で電柱を建てる設計をやっていた。うちは、母親一人だったからあんまり行きたいとは思わなかった。飛行兵と分った時、もう帰れないと思った。行く前日、親戚や同僚とドンちゃん騒ぎして駅まで見送り。今考えれば、おだてられていたんだ。北支の石家荘で3ケ月初年兵教育。
夕暮れにカラスが家に帰る頃、家が恋しくて哀しかった。担当した内務班は洗濯、飯盛《めしもり》りが仕事。食べるのが遅い、風呂が遅い等で殴られる。連帯責任で殴られる。やっと上の方へきて、これから楽になるという時に終戦。軍隊は殴られた思い出しかない。 北支では戦いはなかった。戦争行ってよかったのは、忍耐、努力、義務は必ず果たすというのが身についた。やればできる。兵隊に行った人は相当な苦労した。昭和20年10月12日、真鶴に帰ってきた。
間瀬
昭和19年11月入隊,千葉県の香取海軍航空隊へ。航空母艦に乗って零式戦闘機の整備に当たる為の兵隊として入隊した。3ケ月の新兵教育を受けた後、海軍一等兵として飛行機整備の訓練を受ける。それが約6ケ月。もうその頃には船がなく、航空母艦に乗れなくなって整備の練習していたが、空襲を受けて自分の隊が全滅した。命からがら勝浦へ隊ごと出向した。そこでは、一人乗りの潜水艦用の海からつながる防空壕を作った。
そこへ潜水艦を入れる作業で、海の経験があるからと班長になった。同年兵より楽な仕事だった。戦争に行く前は漁師だった。私達の頃は、みんな行けば死ぬという状態だった。入隊して何の訓練も受ける前の移動中に死んだ人もいる。終戦は勝浦で知った。日常で辛いのはメシだった。食べるものがなかった。サイパン攻撃の兵舎には食べ物がいっぱいあった。そこへ盗みに入る。残飯捨てるのを見ていて、夜中へそこへ行って食べる。人間は食べるものがなかったらそこまでするんだよ。タバコも同じ。上の人が吸って捨てた吸殻を夜中に拾いに行って吸った。
同年兵は半分位死んだ。艦載機がいっぱい来て、機銃掃射。間一髪で助かった。防空壕まであと20mなのに行けなかった。海軍では明後日までに雑巾3枚縫えと突然言われる。材料もないところで試される。でもなんとか出来てしまう。要はやる気があるかないか。手ぬぐいを使って樺《かば》の糸抜いて、針金で縫う。軍隊も結構為になった。終戦は「これで終わった。家へ帰れる」とちょっと朗らかな気分になった。今の人へのメッセージは「何でも努力すればできる」。ということだろう。
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編集者 (代理投稿)