@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

『肉声史』 戦争を語る (70)

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 『肉声史』 戦争を語る (70)

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/25 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「戦地で悲しい夕焼けカラス/行けば必死 これが戦」

 真鶴町 青木 良治(大正12《1923》年生)
       間瀬 政三(大正13《1924》年生)

 (あらすじ)

青木 
 昭和19年8月に飛行機整備兵として入隊し、彦根の飛行場へ。1週間後北軍へ行った。そこで初年兵教育を受けた。私は戦争に行く前、東京電力で電柱を建てる設計をやっていた。うちは、母親一人だったからあんまり行きたいとは思わなかった。飛行兵と分った時、もう帰れないと思った。行く前日、親戚や同僚とドンちゃん騒ぎして駅まで見送り。今考えれば、おだてられていたんだ。北支の石家荘で3ケ月初年兵教育。
 夕暮れにカラスが家に帰る頃、家が恋しくて哀しかった。担当した内務班は洗濯、飯盛《めしもり》りが仕事。食べるのが遅い、風呂が遅い等で殴られる。連帯責任で殴られる。やっと上の方へきて、これから楽になるという時に終戦。軍隊は殴られた思い出しかない。 北支では戦いはなかった。戦争行ってよかったのは、忍耐、努力、義務は必ず果たすというのが身についた。やればできる。兵隊に行った人は相当な苦労した。昭和20年10月12日、真鶴に帰ってきた。

間瀬 
 昭和19年11月入隊,千葉県の香取海軍航空隊へ。航空母艦に乗って零式戦闘機の整備に当たる為の兵隊として入隊した。3ケ月の新兵教育を受けた後、海軍一等兵として飛行機整備の訓練を受ける。それが約6ケ月。もうその頃には船がなく、航空母艦に乗れなくなって整備の練習していたが、空襲を受けて自分の隊が全滅した。命からがら勝浦へ隊ごと出向した。そこでは、一人乗りの潜水艦用の海からつながる防空壕を作った。
 そこへ潜水艦を入れる作業で、海の経験があるからと班長になった。同年兵より楽な仕事だった。戦争に行く前は漁師だった。私達の頃は、みんな行けば死ぬという状態だった。入隊して何の訓練も受ける前の移動中に死んだ人もいる。終戦は勝浦で知った。日常で辛いのはメシだった。食べるものがなかった。サイパン攻撃の兵舎には食べ物がいっぱいあった。そこへ盗みに入る。残飯捨てるのを見ていて、夜中へそこへ行って食べる。人間は食べるものがなかったらそこまでするんだよ。タバコも同じ。上の人が吸って捨てた吸殻を夜中に拾いに行って吸った。
 同年兵は半分位死んだ。艦載機がいっぱい来て、機銃掃射。間一髪で助かった。防空壕まであと20mなのに行けなかった。海軍では明後日までに雑巾3枚縫えと突然言われる。材料もないところで試される。でもなんとか出来てしまう。要はやる気があるかないか。手ぬぐいを使って樺《かば》の糸抜いて、針金で縫う。軍隊も結構為になった。終戦は「これで終わった。家へ帰れる」とちょっと朗らかな気分になった。今の人へのメッセージは「何でも努力すればできる」。ということだろう。



--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ