『肉声史』 戦争を語る (62)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「戦地はとにかく食べ物の苦労が大」
開成町 露木 猛(大正11《1922》年生)
昭和14年4月に満鉄に入社。チチハル局へ配属された。箔城市で2年間塾へ通ったりして修行した。昭和17年に関東軍で21歳以上の者は兵隊検査を受けることになった。入隊が決まり、親が一度帰って来いと言うので、1カ月半の休暇をもらって帰った。内地では甘い物がないと聞いたので、砂糖を買い集めてトランクに一杯詰めて帰国した。東京も横浜も食べる物なかった。
昭和18年正月、ハイラル490部隊へ入隊。軍隊の食事はわりと良く、パンとお汁粉の朝食もあった。正月に餅が出たが、喉に詰まらせて兵隊が死んでも、戦病死の扱いだった。私は鉄砲の扱いを習った後、盲腸に。手術後、印刷当番となり、部隊長付きのタイピストをした。
その後、免途河という零下45度になる寒いところへ転属。それから孫呉《そんご=中国の県》へ。そこは各部隊から一人ずつ集まってできた部隊で、皆何も武器を持たずに来たので、その辺の板を集めて戦車の形にして練習していた。結局そこで終戦。ニタンの陣地へ行けと指令が出て、3日3晩歩いてフラフラになって到着。食べる物も使う物も皆泥棒して生活した。
そこでソ連と4日間位戦い、収容所へ。初めは炭鉱で働かされ、その後手が足りないからと時計屋へ。炭鉱はノルマで食事量が決められたが、時計は直したら小遣いをくれた。1年半そこにいて、私はケガをしていたから、復員の列車に先に乗せてもらえた。昭和22年4月に帰国。礼儀は必要。敵でも礼を尽くしていれば気持ち通じる。人情というのかな。向こうも好きで戦争しているんじゃないからね。
「戦時最後は自給自足の生活」
開成町 井上 恒夫(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和17年に現役兵として、東京青山にあった東部7部隊に入営。 1カ月後、ハルビンへ。12月30.日頃で寒かった。軍靴《ぐんか》に鋲《びょう=金具》が付いていて凍った道で滑って苦労した。駅から部隊まで行くのに倍以上の時間かけて行った。満州は雪が止んでも、粉雪みたいなのが舞う。乾燥していて雪合戦もできない。気をつけないと雪で穴が見えなくて落ちる。それで死ぬ人もいた。
部隊はソ連との国境へ。兵舎があったが、壕《ごう=土を掘ってつくった穴やみぞ》みたいに深く掘ってあって寒さをしのいでいた。ここは狼が多く、夜には馬がやられた。その後、憲兵隊へ。当時はスパイ合戦で、湖が凍って人も戦車も国境渡って満州へ通ってくる。毎晩獣道《けものみち》みたいな所へ見張りに行った。電気がなくてランプだったから夜は真っ暗。工作員は農作物やアへンを報酬としてもらっていた。捕まえると拷問《ごうもん=肉体的苦痛を与え、自白を強制する》はすさまじかった。憲兵として日本兵の犯罪も取り調べた。
関東軍の南方進出が決まり、私は部隊へ帰った。門司へ行き、鹿児島湾から沖縄へ。宮古島へ上陸した兵は3、4000人。ここでは飛行場を作るために土方ばかりやっていた。食料がなく、住民に芋をもらったり、ノビルやアザミの根をよく食べた。補給がなかったので草履も編んだ。塩は海水から作った。台湾沖の戦いでは、夕方になると日本の特攻隊が飛んできた。少年飛行兵だった。日本は物が何もなくて惨めだった。武装解除となり、沖縄本島へ捕虜として連行された。格納庫を作る使役をしながら1年いて、復員。13ドル25セント貰って、昭和21年暮れに帰って来た。
開成町 露木 猛(大正11《1922》年生)
昭和14年4月に満鉄に入社。チチハル局へ配属された。箔城市で2年間塾へ通ったりして修行した。昭和17年に関東軍で21歳以上の者は兵隊検査を受けることになった。入隊が決まり、親が一度帰って来いと言うので、1カ月半の休暇をもらって帰った。内地では甘い物がないと聞いたので、砂糖を買い集めてトランクに一杯詰めて帰国した。東京も横浜も食べる物なかった。
昭和18年正月、ハイラル490部隊へ入隊。軍隊の食事はわりと良く、パンとお汁粉の朝食もあった。正月に餅が出たが、喉に詰まらせて兵隊が死んでも、戦病死の扱いだった。私は鉄砲の扱いを習った後、盲腸に。手術後、印刷当番となり、部隊長付きのタイピストをした。
その後、免途河という零下45度になる寒いところへ転属。それから孫呉《そんご=中国の県》へ。そこは各部隊から一人ずつ集まってできた部隊で、皆何も武器を持たずに来たので、その辺の板を集めて戦車の形にして練習していた。結局そこで終戦。ニタンの陣地へ行けと指令が出て、3日3晩歩いてフラフラになって到着。食べる物も使う物も皆泥棒して生活した。
そこでソ連と4日間位戦い、収容所へ。初めは炭鉱で働かされ、その後手が足りないからと時計屋へ。炭鉱はノルマで食事量が決められたが、時計は直したら小遣いをくれた。1年半そこにいて、私はケガをしていたから、復員の列車に先に乗せてもらえた。昭和22年4月に帰国。礼儀は必要。敵でも礼を尽くしていれば気持ち通じる。人情というのかな。向こうも好きで戦争しているんじゃないからね。
「戦時最後は自給自足の生活」
開成町 井上 恒夫(大正11《1922》年生)
(あらすじ)
昭和17年に現役兵として、東京青山にあった東部7部隊に入営。 1カ月後、ハルビンへ。12月30.日頃で寒かった。軍靴《ぐんか》に鋲《びょう=金具》が付いていて凍った道で滑って苦労した。駅から部隊まで行くのに倍以上の時間かけて行った。満州は雪が止んでも、粉雪みたいなのが舞う。乾燥していて雪合戦もできない。気をつけないと雪で穴が見えなくて落ちる。それで死ぬ人もいた。
部隊はソ連との国境へ。兵舎があったが、壕《ごう=土を掘ってつくった穴やみぞ》みたいに深く掘ってあって寒さをしのいでいた。ここは狼が多く、夜には馬がやられた。その後、憲兵隊へ。当時はスパイ合戦で、湖が凍って人も戦車も国境渡って満州へ通ってくる。毎晩獣道《けものみち》みたいな所へ見張りに行った。電気がなくてランプだったから夜は真っ暗。工作員は農作物やアへンを報酬としてもらっていた。捕まえると拷問《ごうもん=肉体的苦痛を与え、自白を強制する》はすさまじかった。憲兵として日本兵の犯罪も取り調べた。
関東軍の南方進出が決まり、私は部隊へ帰った。門司へ行き、鹿児島湾から沖縄へ。宮古島へ上陸した兵は3、4000人。ここでは飛行場を作るために土方ばかりやっていた。食料がなく、住民に芋をもらったり、ノビルやアザミの根をよく食べた。補給がなかったので草履も編んだ。塩は海水から作った。台湾沖の戦いでは、夕方になると日本の特攻隊が飛んできた。少年飛行兵だった。日本は物が何もなくて惨めだった。武装解除となり、沖縄本島へ捕虜として連行された。格納庫を作る使役をしながら1年いて、復員。13ドル25セント貰って、昭和21年暮れに帰って来た。
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