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『肉声史』 戦争を語る (69)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (69)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/24 8:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「火薬の材料?髪を供出/自殺の仕方も学ぶ」

          鶴町 野中 律子(昭和3《1928》年生)
             鈴木 良子(昭和4《1929》年生)

 (あらすじ)

野中 
 女学校まで横須賀にいた。最後の1年は学徒動員で、もんぺ《=袴の形をして裾をしぼった労働用の衣服》に防空頭巾、大豆の炒ったものと水筒をさげて浦和造船所へ通った。私は造船設計課で東京大学の船舶工学科の生徒に教わって船の設計図を書いていた。針の先程の線を引くのだが、間違うと駆逐艦《くちくかん》ができた時に大変なことになると言われた。
 火薬の材料になるからと、髪をみんな切って国へ捧げた。昭和20年3月卒業だった。3月10日の東京大空襲で東京が全滅したので、田舎のある人は一日も早く疎開しろと。あとで卒業証書送るからと言われた。私も土浦へ。3月10日は、横須賀から見る東京の空が真っ赤だった。海軍の叔父が「日本は負ける。いろいろ覚悟がいるよ」と言っていた。横須賀は一度も空襲がなかったのに、土浦へ行ったとたん毎日のように空襲警報。一度防空壕に入りそびれて、家の窓から隠れながら見ていたら、アメリカ兵がすごい低空飛行で身を乗り出して撃ってくるのが見えた。部屋数の多い家には徴用《=国家が国民を強制的に動員して、兵役以外の業務につかせる》で地方から出てきた人を下宿させなきやならない。家にも4人来た。5人兄弟に加えて母は大変だったと思う。でも、その人達にまず食べさせた。母の分まで残らないこともあった。

鈴木 
 私は平塚の海軍火薬所へ。半分火薬作って、半分は会計係だった。学徒動員《=国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで労働させた》は一銭も出ないボランティアだった。当時、学生は強制で全員労働に行った。ここは怖い所で、摩擦《まさつ》で火薬が爆発すると窓ガラスも粉々に割れる。昭和19年には自殺の仕方も学んだ。とても大きな水槽があって、左手首を切ってそこへ浸《つ》けなさいと海軍の偉い・人が教えてくれた。平塚駅で初めてB29《=米爆撃機》を見た。20機位でキラキラときれいだった。
 戦争の感覚が麻痺《まひ》していた。火薬はうどん粉みたいに練って、そこへ繊維を入れて作る。なめると甘い。学徒動員と言ったけど、随分社会勉強させてもらった。浮浪児《=親がなく、一定の住居も持たずにさまよい暮らす子供》を沢山見た。戦争は国と国との争いだけど、結局は1対1なんだなと思った。兵隊は殺すか殺されるかだ。奮い立って、私達がやらなきやと思っていたけど馬鹿馬鹿しい。
 私達は麻痺していた。昭和21年に卒業して、親に内緒で東京の学校を受けて合格した。行きたいと言ったら「進駐軍《=太平洋戦争後日本に進駐した連合国軍隊》のいる東京には出せない」と入学取り消された。戦争のせいで、いまだに残念である。私は戦争で人間としてしなきやないらないこと、私は戦争で規律や道徳などを学んだ。物を粗末にしないことも。戦争じゃなくても災害等でいつまた食糧不足なるかわからない。そういう時の為に心の蓄えだけはしておいてほしい。

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編集者 (代理投稿)

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