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『肉声史』 戦争を語る (68)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (68)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/23 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「虎は死んで皮残し、人は死んでシラミ去る」

 箱根町 勝俣 義満(大正9《1920》年生まれ)
 
 (あらすじ)

 昭和16年3月5日現役入隊で広島へ。そのまま3月15日から終戦まで満州へ行った。
 21歳だった。同年6月、国境守備隊として戦車壕を掘らされた。1日5回食事とって、号令で一斉に掘る。サボることもできず、腕が回らなくなる。それが戦うより辛かった。同じ部隊に同郷の先輩がいると随分助かって嬉しいものだった。終戦は満州で、昭和20年10月10日から4年間抑留《=一定の場所にとめおかれる》された。食糧はなく寒くて、乞食《こじき》同様の生活。1日3回の食事はあるが、ほんの少量。抑留中怖かったのは、日本人同士の殺し合い。洗脳教育《=その人の主義や思想を根本的に改めさせる》に従う者とそうでない者の対立だった。収容所が変わると人民裁判がある。「反動分子」とされると村八分《むらはちぶ=従わない者に対し全体が申し合わせて、その人と絶交》になる。そういう思想教育が一番辛かった。昭和23年ウラジオ《ウラジオストク=ロシアの極東部に位置する州都》から帰れると思ったら、船が満杯でまた山奥へ戻された。
 そこで1年間労働して翌年の5月にやっと帰国できた。西舞鶴に到着。8年ぶりに日本の土を踏んで本当に嬉しかった。箱根の山を見た時は涙が出た。
 抑留中、風土病と過労で皆死んでいく。人が死ぬ5、6時間前にはその人からシラミ《=人、畜の血をすう害虫》がいなくなって元気な人に移るということも知った。自分達で水を汲んできて、2日間かけて風呂を沸かした。でも上がり際に一人一杯のお湯しかくれない。しかも風呂は1ケ月に2回だけ。働くのにギリギリの食事で、働きによって黒パンの量が調整される。
 作業にはノルマ《=各人に課せられる仕事などの量》があった。経験した人にしかわからない辛さだと思う。決して戦争はしてはならない。


 「戦争 平気で人殺しをする異常な世界」
                   
 箱根町 渡辺 亘(大正14《1925》年生)

 (あらすじ)

 徴兵検査は若者が大人になる関所のような所。皆一発合格を目指し、必死で体を鍛えた。
 私は16歳から予科練《=注1》に。幼くして両親を亡くし、貧乏だったので村でいじめられた。見返してやりたくて受検。昭和17年土浦《茨城県》海軍航空隊に入隊して1年半、軍人精神を叩《たた》き込まれ、死を恐れない教育を受けた。初めの配属は厚木航空隊、次は九州の佐伯航空隊。佐伯は連日空襲で死闘を繰り広げた。天皇や国の為に死ぬのは最高の名誉だったから死を何とも思っていなかった。自爆テロと同じ。戦争は平気で人殺しをする異常な精神状態になるということを特に伝えたい。人権を全く無視して、命令ひとつで縁も所縁《ゆかり=なんらかの係わり合い》もない人達が殺すか殺されるかの戦いをする。兵隊も市民も虫けらのように殺された。殺人が正当化されて、戦争という極限の場面では法も人権もなく、殺人行為がまかり通る異常な状態。
 予科練の無垢《むく=けがれなく》で純粋な心を洗脳するのは簡単だった。原爆を落としたと敵国ばかり責めるが、真珠湾奇襲攻撃《注2》は日本が仕掛けた。それぞれの言い分があるのが戦争だ。人間の欲望が悪魔となって暴走するのが戦争。どんな理由を並べても敵味方の兵や一般人の2000万とも3000万とも言われる尊い命を犠牲にした事実は、末代まで言い伝えて、二度と戦争はしてはいけないと声を大にして言いたい。沖縄戦は学徒出陣の人がにわかに訓練を受けて、操縦桿を握った。離陸と着陸ができるだけの特攻隊員が必死の思いで敵艦に突っ込んでいった。帰りの燃料もなく、敵の集中砲火の中突っ込んだ。散華《さんげ=華と散るの意・戦死》していった青年は二度と戻ってこない。


 (お話を聞いて) (勝俣義光さんと渡辺亘さん)

 私は、戦争を体験してこられた方々のお話しをお聞きする機会をお引き受けいたしましたが、本当のところ、戦争の苦労や残酷さは、思い出すのも、人に話すのも嫌だということをよく聞くこともありましたし、戦後60年という長い年月が経過した今、快くお話しをしていただけるものかと不安でなりませんでしたが、ご本人にお会いしたところ、気さくにお話しをしてくださり大変嬉しく感じました。
 今回、お話しを聞かせていただき、話しの内容は経験されたことによって違いは有りますが、戦争を体験していないものには計り知ることの出来ないいろいろな思いがあると感じました。また、戦争というものの恐ろしさ、辛さ、残酷さを感じさせられると共に、何も言えず強制的に軍隊に入れられ、昼夜を問わず厳しい訓練をし、お国のために死ぬことは最高の名誉なのだと教育を受け、死ぬことになんとも思わなかったというお話しを伺ったとき、今の私達には到底考えられないことであり、当時の人々の強さを感じ、胸の詰まる思いがしました。
 テレビや映画等で戦争というものを知ってはいましたが、実際にお話しを伺って、改めて戦争の悲惨さを強く感じ、今、このような戦争が起きたらと思うと身震いを覚える感じがしました。
 豊富な資源に恵まれ、何一つ不便を感じることなく生活を送っている今日、戦争で尊い命を落とされた沢山の方々、そして、懸命に戦って来られた方々があってこそ、今の平和があることをしみじみと噛み締め、戦争は絶対にあってはならないものだとつくづく思い知らされました。

 (聞き手 匿名 昭和40《1965》年生)

注1 予科練=「海軍飛行予科練習生」の略称
    旧日本海軍で、飛行機搭乗員育成のために設けられた制度。    14~15歳の少年に約3か年の基礎教育を施した。

注2 真珠湾攻撃=1941 年(昭和 16)12 月 8 日、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した事件。これによって太平洋戦争が始まった。

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編集者 (代理投稿)

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