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『肉声史』 戦争を語る (63)

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通常 『肉声史』 戦争を語る (63)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/10/15 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「配給生活を空襲が直撃」
  
 開成町 小宮 美智子(大正10《1921》年生)

 (あらすじ)

 昭和16年2月に結婚を機に横浜の保土ヶ谷に住んだ。田舎から都会へ嫁ぎ、わからないまま暮らしていたが、戦争の気配は濃厚になってきていた。
 結婚式でも派手なことは許されず、衣料切符《=衣料を買うためには政府発行の切符が必要》がないと買えなかったので、全部を揃えることはできなかった。全て配給だった。米、味噌等1ケ月の分量が決まっていたが、空いている土地で野菜を作ったりして食べるのに困るということは、まだなかった。田舎からの援助もあったし。
 私の田舎は、今の山北町の山の中だった。舅《しゅうと》は貸家の不動産を持っていたが、自宅もろとも焼けてしまった。B29が焼夷弾《しょういだん=焼き尽くすことを目的とした爆弾》を薪の束を撒《ま》くようにバラバラと落とす。真っ暗になるくらい落ちてきて、それが家の屋根を突き破り、座敷に落ちてきて立て掛けたようになり、落ちると同時に火が出るようになっている。保土ヶ谷の丘の上の畑の中で、玉ねぎが蒸し焼きになっていたのを覚えている。横浜大空襲だった。小さな子供と舅、姑《しゅうと、しゅうとめ》と必死に暮らしていた。焼け出された後も庭の防空壕等で暫く暮らしていたが、そのうち実家へ疎開した。横浜では空襲が多く、お皿1杯のカレーを14回位で食べたことを覚えている。食べ始めると空襲警報、また食べ始めると空襲警報と。本当に命がよく助かったと思う。
 食糧事情は悪くなる一方で、主人が復員してマラリヤにかかっていたので、栄養つけようと、親に言わないで取って置きのお米を2升使ったら、姑に叱られて離婚騒動にまで発展した。食べ物の恨みは怖い。今はすぐに捨ててしまうが、物を大切にすることは大切だと思う。

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編集者 (代理投稿)

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