『肉声史』 戦争を語る (61)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「海防艦34号(みよちゃん)」
山北町 城田 好光(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
私は、18歳で航海学校卒業と同時に海防艦34号に、呉《くれ=広島県》より乗艦)海防艦《旧海軍の艦種のひとつ》は爆雷120個等を兵員の居住室を犠牲にして搭載《=艦船・車両・航空機などに物資をつみこむ》、乗組員は艦長を始めとして戦争には不慣れな乗船員ばかりだった。多くの悪条件を抱えて広範《=範囲が広いさま》な海を守っていた。戦艦護衛の任を果たせば、またそこから新たな任務。休暇もなく、訓練もされていない船団の護衛。海防艦は特攻艦だと言われていたが、玉砕《ぎょくさい=名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》は許されず死んでも帰らねば任務達成にならなかった。
昭和19年10月10日商船15隻護衛艦7隻で佐世保よりシンガポールへ向かう。25日午前0時2隻の商船が雷撃を受け、1隻沈没、1隻航行不能に。他の商船を避難させ、沈没船員を救助した。単身機の零戦が爆雷2個を投下、敵潜水艦が撃沈。敵乗組員が次々と海に浮上しているのを夜明けに発見。中には口笛を吹いている人もいた。捕虜として高雄の司令部に引き渡した。
終戦は舞鶴で迎えた。昨日までの艦載機やP51の攻撃もなく静かだった。翌日には真水と燃料を積んで、即釜山へ。終戦とはいえ安全が懸念されたが、無事到着。
日本は食糧難だから港の米を持てるだけ持って行ってくれと。どこからか婦女子100名が帰国の為にやって来た。皆栄養失調で顔は紫色だった。皆弱っていて、死亡する子供や出産等軍医はてんやわんやだった。この時生まれた子は、艦の34号の名前をとって「みよちゃん」と命名された。8月17日復員命令。私達若い兵は残留し、復員輸送の任務に当たった。平和の大切さを感じるが、近頃また戦争の臭いがするのが残念だ。
(お話を聞いて)
今回、城田さんの戦争体験を聞かせて頂いた。わずか15~6歳で軍隊に志願して入り、潜水艦に乗って敵と戦って何回か死にそうな怖い目にあったが、やはり当時は一日でも早く国のために役立って死んで行くことは当然だったということを話してくれた。
上官の規律も厳しかったが、その中でも楽しみを見つけて、つかの間の休息を楽しんだというお話も頂いた。話を聞いて、やはり自分には15~6歳のまだ遊びたい盛りに、軍隊という厳しい規律の中で身を置くというのは、とても耐えられないことだと思った。最悪、死を覚悟して潜水艦の中にいるということも、やはり耐えられないと思う。それもこれも全部「国のため」ということであるのだが、当時の人たちはそのことが当然のことと考えているので別段普通のことだと考えているだ。私たちのような今の日本で暮らしている人にとって、当時の考え方を肯定するのはたぶん無理なのではないかと思う。でも城田さんの話を聞いて、戦時中当時の考え方の一端、を聞けてとても勉強になった。また生きる時代が違うと考え方も違ってくるということも分かってとても有意義だったと思った。
(聞き手 西川也桃 昭和51《1976》年生)
山北町 城田 好光(昭和2《1927》年生)
(あらすじ)
私は、18歳で航海学校卒業と同時に海防艦34号に、呉《くれ=広島県》より乗艦)海防艦《旧海軍の艦種のひとつ》は爆雷120個等を兵員の居住室を犠牲にして搭載《=艦船・車両・航空機などに物資をつみこむ》、乗組員は艦長を始めとして戦争には不慣れな乗船員ばかりだった。多くの悪条件を抱えて広範《=範囲が広いさま》な海を守っていた。戦艦護衛の任を果たせば、またそこから新たな任務。休暇もなく、訓練もされていない船団の護衛。海防艦は特攻艦だと言われていたが、玉砕《ぎょくさい=名誉・忠節を守って潔く死ぬこと》は許されず死んでも帰らねば任務達成にならなかった。
昭和19年10月10日商船15隻護衛艦7隻で佐世保よりシンガポールへ向かう。25日午前0時2隻の商船が雷撃を受け、1隻沈没、1隻航行不能に。他の商船を避難させ、沈没船員を救助した。単身機の零戦が爆雷2個を投下、敵潜水艦が撃沈。敵乗組員が次々と海に浮上しているのを夜明けに発見。中には口笛を吹いている人もいた。捕虜として高雄の司令部に引き渡した。
終戦は舞鶴で迎えた。昨日までの艦載機やP51の攻撃もなく静かだった。翌日には真水と燃料を積んで、即釜山へ。終戦とはいえ安全が懸念されたが、無事到着。
日本は食糧難だから港の米を持てるだけ持って行ってくれと。どこからか婦女子100名が帰国の為にやって来た。皆栄養失調で顔は紫色だった。皆弱っていて、死亡する子供や出産等軍医はてんやわんやだった。この時生まれた子は、艦の34号の名前をとって「みよちゃん」と命名された。8月17日復員命令。私達若い兵は残留し、復員輸送の任務に当たった。平和の大切さを感じるが、近頃また戦争の臭いがするのが残念だ。
(お話を聞いて)
今回、城田さんの戦争体験を聞かせて頂いた。わずか15~6歳で軍隊に志願して入り、潜水艦に乗って敵と戦って何回か死にそうな怖い目にあったが、やはり当時は一日でも早く国のために役立って死んで行くことは当然だったということを話してくれた。
上官の規律も厳しかったが、その中でも楽しみを見つけて、つかの間の休息を楽しんだというお話も頂いた。話を聞いて、やはり自分には15~6歳のまだ遊びたい盛りに、軍隊という厳しい規律の中で身を置くというのは、とても耐えられないことだと思った。最悪、死を覚悟して潜水艦の中にいるということも、やはり耐えられないと思う。それもこれも全部「国のため」ということであるのだが、当時の人たちはそのことが当然のことと考えているので別段普通のことだと考えているだ。私たちのような今の日本で暮らしている人にとって、当時の考え方を肯定するのはたぶん無理なのではないかと思う。でも城田さんの話を聞いて、戦時中当時の考え方の一端、を聞けてとても勉強になった。また生きる時代が違うと考え方も違ってくるということも分かってとても有意義だったと思った。
(聞き手 西川也桃 昭和51《1976》年生)
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編集者 (代理投稿)