『肉声史』 戦争を語る (65)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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「苦難は無条件降伏《=一切の条件をつけずに降伏》から始まった」
小田原市 遠藤 治郎(大正14《1925》年生まれ)
(あらすじ)
昭和20年7月1日に入隊。3月東京、5月には川崎、横浜の空襲で、それまで勤めていた東芝の工場が焼けたら、すぐ赤紙がきた。
魚雷のエンジンを作っていた技術兵だったので召集が延びていた。浜松の航空隊に入隊したがすでに飛行機がなかった。敦賀港《つるがこう=福井県中部、若狭湾の東にある》から釜山港へ。その後北朝鮮の感興に着き、宣徳飛行場で土嚢《どのう=陣地や堤防を築く》を積む仕事をした。そこから特攻機を2回見送った。8月10日にソ連が参戦。ウラジオに近くの朝鮮領にも攻撃開始の情報が入ってきて戦々恐々《せんせんきょうきょう》とした。15日に全員整列させられてラジオを聞き、「無条件降伏」だと上官が説明してくれた。
すぐに残務整理にかかった。飛行場は軍事物資がたくさんあり、燃やすものも多かった。物資を列車に乗せて出発。途中でソ連兵が来て武器を取られ、朝鮮人の夜襲もあったので、単独で逃げることに。
その後朝鮮保安隊に止められて捕虜になった。10月中頃に関東省延吉の陸軍病院で病兵の世話をする看護師の仕事に回された。零下30度以下で越冬し、8ケ月に1万人死んだ。私の両脇で昨夜12時まで一緒に話していた人が朝起きたら死んでいた。私自身赤痢から栄養失調になり、壊血病《かいけつびょう=ビタミンcの不足で起こる病気》にかかった。そのうち引き上げが決まったが、軍医は体力的に無理だろうと許可しなかった。頼み込んで、何とか無蓋列車《むがいしゃ=おおいのない貨車など》に乗って1ケ月かかって大連へ。大連から船で佐世保に着いたら、大村の海軍病院に入れられた。 家族に知らせる間もなく横浜の海軍病院へ転院となったので、移動の列車の窓から家族宛の葉書を投げた。するときちんと届いていて養母が見舞いに来てくれた。
(お話を聞いて)
遠藤さんの体験された「あの戦争」を1時間で知り尽くすことなど到底出来なし、ましてその実感のほんの一部でも共感できたと思うことなど、はばかられるべきだろう・・・それが私が遠藤さんのお話を伺って持った感想です。それほどその体験は私の想像を絶していた。
敗戦から21年8月までの1年間を遠藤さんは延慶という場所で過ごしたのだが、ここには中国東北部から兵士たちが送り込まれ捕捉《ほそく=とらわれる》されていた。季節が秋から冬にさしかかると延慶の気温は氷点下30度まで下がり、翌10月までの8ケ月間で施設内の死者は一万人に達した。遠藤さんはその厳寒地獄を生き抜かれた。元は技術兵だった遠藤さんは当地で看護師のような役目に就き、極度の栄養失調と赤痢などのあらゆる疾患で死んでいく人々を目の当たりにした。寒さで固まったままの死者を霊安室に並べると、その数は30から50、そしてすぐ100になった。遠藤さんはそこで一万の死と対峙《たいじ》された。その現実を私たちは到底理解できないだろう。
遠藤さんは私たちへのメッセージとして「戦争のみじめさ」と語っておられた。つまり戦争はそういうものだと私はその時痛感した。実際の戦闘状況ではなく、家に残された家族や戦火を逃れた疎開者や、外地に見捨てられた者や焼け出された孤児など、戦争の周縁《しゅうえん=周り》にある者達が次々に死んでいくという現実、その悲惨とみじめさなのだろうと。
そんな彼らのことを「戦争の当事者」とは言い難いことは遠藤さんも語られた通り、玉音放送の遠い感覚に象徴されている。開戦も敗戦も、彼らにとってどこか遠い現実であり、それにもかかわらず、実際はその只中で命に迫る厳しい、あまりに厳しい現実を生き、そして死ななければならなかった、その不合理こそが「戦争の惨めさ」である。「戦争は決して繰り返してはならない」と語られた遠藤さんの声は、戦争の終焉に斃れた方々の悲痛な叫びとして私の心に響きました。
(聞き手 渡辺剛冶 昭和50《1975》年生)
小田原市 遠藤 治郎(大正14《1925》年生まれ)
(あらすじ)
昭和20年7月1日に入隊。3月東京、5月には川崎、横浜の空襲で、それまで勤めていた東芝の工場が焼けたら、すぐ赤紙がきた。
魚雷のエンジンを作っていた技術兵だったので召集が延びていた。浜松の航空隊に入隊したがすでに飛行機がなかった。敦賀港《つるがこう=福井県中部、若狭湾の東にある》から釜山港へ。その後北朝鮮の感興に着き、宣徳飛行場で土嚢《どのう=陣地や堤防を築く》を積む仕事をした。そこから特攻機を2回見送った。8月10日にソ連が参戦。ウラジオに近くの朝鮮領にも攻撃開始の情報が入ってきて戦々恐々《せんせんきょうきょう》とした。15日に全員整列させられてラジオを聞き、「無条件降伏」だと上官が説明してくれた。
すぐに残務整理にかかった。飛行場は軍事物資がたくさんあり、燃やすものも多かった。物資を列車に乗せて出発。途中でソ連兵が来て武器を取られ、朝鮮人の夜襲もあったので、単独で逃げることに。
その後朝鮮保安隊に止められて捕虜になった。10月中頃に関東省延吉の陸軍病院で病兵の世話をする看護師の仕事に回された。零下30度以下で越冬し、8ケ月に1万人死んだ。私の両脇で昨夜12時まで一緒に話していた人が朝起きたら死んでいた。私自身赤痢から栄養失調になり、壊血病《かいけつびょう=ビタミンcの不足で起こる病気》にかかった。そのうち引き上げが決まったが、軍医は体力的に無理だろうと許可しなかった。頼み込んで、何とか無蓋列車《むがいしゃ=おおいのない貨車など》に乗って1ケ月かかって大連へ。大連から船で佐世保に着いたら、大村の海軍病院に入れられた。 家族に知らせる間もなく横浜の海軍病院へ転院となったので、移動の列車の窓から家族宛の葉書を投げた。するときちんと届いていて養母が見舞いに来てくれた。
(お話を聞いて)
遠藤さんの体験された「あの戦争」を1時間で知り尽くすことなど到底出来なし、ましてその実感のほんの一部でも共感できたと思うことなど、はばかられるべきだろう・・・それが私が遠藤さんのお話を伺って持った感想です。それほどその体験は私の想像を絶していた。
敗戦から21年8月までの1年間を遠藤さんは延慶という場所で過ごしたのだが、ここには中国東北部から兵士たちが送り込まれ捕捉《ほそく=とらわれる》されていた。季節が秋から冬にさしかかると延慶の気温は氷点下30度まで下がり、翌10月までの8ケ月間で施設内の死者は一万人に達した。遠藤さんはその厳寒地獄を生き抜かれた。元は技術兵だった遠藤さんは当地で看護師のような役目に就き、極度の栄養失調と赤痢などのあらゆる疾患で死んでいく人々を目の当たりにした。寒さで固まったままの死者を霊安室に並べると、その数は30から50、そしてすぐ100になった。遠藤さんはそこで一万の死と対峙《たいじ》された。その現実を私たちは到底理解できないだろう。
遠藤さんは私たちへのメッセージとして「戦争のみじめさ」と語っておられた。つまり戦争はそういうものだと私はその時痛感した。実際の戦闘状況ではなく、家に残された家族や戦火を逃れた疎開者や、外地に見捨てられた者や焼け出された孤児など、戦争の周縁《しゅうえん=周り》にある者達が次々に死んでいくという現実、その悲惨とみじめさなのだろうと。
そんな彼らのことを「戦争の当事者」とは言い難いことは遠藤さんも語られた通り、玉音放送の遠い感覚に象徴されている。開戦も敗戦も、彼らにとってどこか遠い現実であり、それにもかかわらず、実際はその只中で命に迫る厳しい、あまりに厳しい現実を生き、そして死ななければならなかった、その不合理こそが「戦争の惨めさ」である。「戦争は決して繰り返してはならない」と語られた遠藤さんの声は、戦争の終焉に斃れた方々の悲痛な叫びとして私の心に響きました。
(聞き手 渡辺剛冶 昭和50《1975》年生)
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編集者 (代理投稿)