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義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり>

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あんみつ姫

通常 義父の遺稿ー終戦直前より今日までの回想ー <英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/16 18:51
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
  
義父の残した戦時の満州・抑留《よくりゅう=強制的に留め置かれること》せいかつの記録

私には戦争の記憶は殆ど《ほとんど》ありません。

 亡くなった母が、私をオンブして焼夷弾《しょういだん=油脂とさく薬を入れた爆弾》の嵐《あらし》の中を逃げ回った話しなど聞いても、他人事のようです。

  でも、あの戦争の時代を生きたシニアが、理屈でなく事実を語り継いでいけば、押しつけられた歴史でない、庶民の歴史が残ってゆくのではないでしょうか?
 それが出来るのは、もう一握りの人達しかいないのが、ちょっと寂しいけど・・。

  私の義父は第二次世界大戦《1939~1945年》の時は、満州《=中国東北部の俗称》の昭和製鋼所に居ました。その義父も、もう亡くなって23年が経ちますが、「終戦直前より今日までの回想」を書き記し、生前に私に残してくれていました。

  当時は多くの日本人が満人を使って暮らしていた国《満州国は1932年日本が中国東北部に作り上げた偽の国家、終戦で消滅(1945年)》、今は近くて遠い国で、あの戦争の時を過ごした一人の人の記録を、少しづつここで発表したいと思います。

【義父の遺稿】(その1)

 戦況が苛烈《かれつ=厳しく激しい》になった戦争末期、私は遺言状を書き遺髪を入れて、いよいよ最後の場合の覚悟を決めた。ソ聯《ソビエト社会主義共和国連邦の略称》が南下して来ると、工場を死守しなくてはならぬ。新しい下着一組と、一本だけ残しておいたウイスキーを持って工場に立てこもり、最後の杯を上げて祖国のために死のうと決心し、家内や子供にもこの事を話した。

 八月に入ってソ聯と戦争状態に入ったが、戦闘は北満だけで南満にまでは及ばなかった。やがて、あの終戦の日、八月十五日となった。本館に集り、終戦の詔勅《しょうちょく=天皇のお言葉》を聞いた時は、体中の力が抜けてしまい、涙が出て仕方がなかった。暫くして、理事長は赤穂浪士の例《注1》を挙げて、立派に城を開け渡さなくてはならぬと訓辞された。

 その後も工場は余り変化なく操業して居ったが、八月下旬頃だったか、ソ聯軍が進駐《しんちゅう=軍隊が他国の領土に入り留まること》して来て工場を視察した。骸炭《がいたん=コークス》工場へは独逸《ドイツ》語を話せる陸軍少佐が来た。

 その内に工場を撤去することになり、第一骸炭と第ニ骸炭を残して他は撤去と決定し、九月一日より連日、朝の六時から夕方六時まで十二時間勤務で、社員全員・軍隊・街の業者までがこの撤去作業に当った。

 毎日の撤去量にはノルマがあり、例えば排気弁のような物を撤去した日は重量が増えるが、機械類の撤去の日には重量がノルマに達しない。このため、ノルマに達しない日に備えて、ノルマを大きく超えた日は、ストックしておいたりした。

《注1》
《赤穂浪士の例》  《1701年3月、播州赤穂藩の城主 浅野長矩が千代田城中で抜刀した罪で切腹した後、城地が没収され、国家老の大石内蔵助の見事な采配で城明け渡しを完了した》




  【鞍山の社宅前・お手伝いさんと家族】
  (右端が私の義父)



  【社宅前でゴルフの優勝カップを前に】

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あんみつ姫

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