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南十字星の下で (2) ホベン

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通常 南十字星の下で (2) ホベン

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/17 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 南十字星の下で その1 97/02/28 07:22

 パラオに上陸したのは 日にちはよく覚えていないが昭和19年の2月の初旬だった。我々は分遣隊《ぶんけんたい=本隊から分けられた小隊》で2班七十数名だった、そしてこの2班は生死の分岐点で全く異なった運命をたどるようになろうとは、この時点では知るよしも無かった。

 今ではパラオと言っても、知らない方も多いと思うので、あらましの説明しておきます。
 それはオセアニア (大洋洲)とも言う、 カロリン諸島中西部 北緯7度36東経134度30にある群島で、
      バベルチェアブ(本島) コロール、ペリリュウ、
      アンガウル、等の200程の島から成っている。

 1543年スペイン人 ビリヤ.ロボス発見し、以来スペインの勢力下に1897年ドイツが買収し第一次世界大戦後日本の委任統治領《第一次世界大戦(1914~1918年)後、赤道以北は日本が統治した》となった。
 この時代にはパラオは内南洋の中心としてコロール島に南洋庁、同パラオ支庁、南洋興発会社、南洋拓殖会社、日本水産会社、等がおかれて最盛時の日本人は2万人を越えたという。アンガウルは良質のリン鉱石で知られている。原住民はカナカ族、46,000人 チャモロ族 3,500人 (1935)年調べ、住居は切妻屋根《きりづまやね=本を開いて伏せた形の屋根》方形《=四角形》杭上《=高床》住居、日本の神社に似たもの (床上式)である屋根はトヤカルで葺《ふ》き、外壁はトヤカルや椰子《やし》の葉で造って、床は割竹やビンロウで敷いた物である。もとっも我々が行った頃はトタン屋根の掘っ建て式のものが多かったと思う。

 戦前《=第2次世界大戦前》は日本人の指導により、農産物としてはコブラ、タビオカ、パインアップル、等、水産物としては真珠貝、タカセ貝、かつお節 などが揚げられる、さらに遠洋漁業の基地として商店も多かった。 気候は年中日本の真夏のような暑さなので季節感が全然無いのは驚きだった。

 ソロモン群島での山本元帥《やまもとげんすい=山本五十六、海軍大将・元帥(統率者)1943年戦死》が戦死されて以来、大本営発表とは裏腹に、戦況は余り芳しいものではなかった。当時パラオは南方へ送る物資の中継基地で船舶の出入りが激しかった。 我々もここで船を乗り換えてさらに南に行くことになっていたのだが、そのころいたるところで日本の船団は敵の潜水艦や飛行機の餌食《えじき》となり、なかなか船団を組むほどの船が集まらなかったらしく、本部からの連絡待ちということらしかった。宿舎はコロールの埠頭《ふとう=船着場》から程近い掘っ建て小屋のようなお粗末のところに落ち着くことになった、宿舎には広島で編成された軍属《=軍に所属する軍人でない文官や技術者など》の一団が先着として場所を取っていた。周りにみえる樹木は内地のものとは全く違い椰子の木の様なものが多く遥《はる》けくも来しものとの感が強かった。


 南十字星の下で その2 97/03/11 23:11

 先着の軍属は船舶関係の技術者で30名ほどの集団だった、年齢は中高年の人が多かった。我々兵隊とは一線をかくしていたが、規律は軍ほどではないからおおらかなものだった。
 中に異色だったのは、エセ文士風の人がいて今のポルノ風の小文など書いて回覧していた、彼は器用な男でアブナ絵《=きわどい絵》までこなしていた。ラジオや他の娯楽もない所で彼なりの青春を発散させていたのだろう。
 またそこでは台湾の高砂《たかさご》族と半島《=朝鮮半島》からの荷役作業のための軍属が各2千名ほどいた。桟橋《さんばし》は浅く大きな船が接岸できないので荷物は殆ど《ほとんど》がハシケ《=陸と船の間を行き来する小船》からの揚げ下ろしだった。ジャワ米は白い麻袋入りで(40)キロで彼らはそれを2袋かつぎ揺れる踏み板を調子を取りながら上がり降りして運んでいた。
 中には3袋を担ぐものなどいて、クレーンやフォークも無い頃のその貢献《こうけん=寄与》度は大きかったものと思う。
 戦友の岩井は編成前からの仲間だった、G県出身で自分と同じ第2乙《=徴兵検査の結果 甲種、第一乙種、第2乙種、丙種に分類された》で体は細かったが力は甲種合格者より強かった、関東のべらんめい調でポンポン喋り《しゃべり》まくるから関西人の多いわが班では、言葉が悪いとか生意気だとかよく言われていたが、上州《=群馬県》の国定忠治《江戸時代の侠客=ばくちうち》もかくやと思はせるほどの男気のあるいい男だった。頼りにしていたその岩井が突如野戦病院に入りあっけなく死んでしまった、原因はパラチブスだったとか、東本願寺パラオ支部での葬儀には戦友代表で参列した。 ところがこのお寺が数週間後のパラオ大空襲で跡形も無く破壊されたのである、短い間に2度死んだ彼のご冥福《めいふく》を祈る。

 世は飽食の時代だ、抱き合わせで買わされたジャワ米をゴミの集積場に出した人がいたとかの話を聞くと怒りが込み上げてくる、そのころから兵隊はあの細長いジャワ米以外は口にできなかった、それもまだ有るうちはよかったが、やがてそれすらも無くなっていくのである。
 ただパラオは日本水産の基地だったのでカツオだけは毎日口に入った暑ところなのにそのころは冷蔵庫などは当然無く、カツオが上がれば取っておけないから朝から晩までカツオずくめである、カツオの味噌汁、カツオの刺し身、煮付けに照焼きとはてはカツオの塩辛まで、そんな時また波止場で日本水産の船などからタバコと交換でカツオ一本をぶら下げて帰る班の兵隊などいて、これにはうんざりである。しまいにはカツオのいない国に行きたくなるのである、そして皮肉にもカツオが食べたくても食べられない方向へと進んで行くのである。


 南十字星のもとで その3 97/03/11 07:03

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