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南十字星の下で (10) ホベン

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通常 南十字星の下で (10) ホベン

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/25 7:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 南十字星の下で その19 97/04/23 08:03

 正 月

 正月は蚊帳《かや》の中でタビオカの餅《もち》での雑煮を食べた、もちろん酒ぬきで、そして正月用の特配でこの年最初で最後の米の配給があった、一人当たり ”盃《さかずき》”一杯ほどのものだた。米粒が数えられるほどのビンロウジュ入りの雑炊のようにして食べた。釜《かま》を洗った時のゆすぎ水みたいだった。そして階級制度には否定的だったからつい忘れていたが、暁部隊で入隊一年目頃人並みに一等兵への昇進はあったが、何の感慨もなかった。

 正月そうそうから敵の上陸に備えて、海岸線に戦車壕(ごう)を掘るような話が出たがその後立ち消えになった、今のような土木機械も無い時代に、体がかなり衰弱している兵隊には無理の話だったのだ、スコップとモッコ担ぎで若し強行していたならかなりの数の犠牲者が出ていたに違いなかった。土木機械と言えば”水戸丸”でパラオに来る時船倉にアリューシャンでの捕獲品のスクレーパーと言う飛行場などで使う巨大な地ならし機が積んであった、なんとタイヤが我々の背丈以上あった口には出せなかったが、モッコ対スクレーパーでは”蟷螂《とうろう=かまきり》の斧《おの》”でこの戦争は勝ち目はないものと思った、精神面だけでは戦争は出来ないのである。万一あちらさんが上陸してきた時は敵の戦車のキャタビラーに爆薬を仕掛ける特攻隊の様な話も出たが、どのようにして爆薬を調達するか、いかようにして戦車に接近するかなどの結論は出なかったらしい、やがて立ち消えとなった。

 道に外れた藷《いも》の受領

 食糧の藷の受領の使役が回ってきた、中隊から一人ずつと引率の仮名R上等兵の3名で出かけた。召集兵のR上等兵は東京でお巡りさんだったとか、往路に事もなげに今日は腹一杯食べさせてやるからな、と理解に苦しむことを口走っていた、藷を受領しから背負板(しょいこ)につけてジャングルに差し掛かると彼は物慣れたしぐさで我々を道から外れた水の或る場所に連れて行った、そして薪を集めて来いと言った、つまり藷を茹《ゆ》でるのである、一瞬ためらったがそれに従った、ジャングルにはよく枯れた古木が有りこれは全く煙がでないで燃やす事が出来る、携帯食用の二個の飯盒に藷を入れて茹でるのであるが、茹で上がるまで誰かに見られるのではないかと気が気ではなかったが、三人で分けて食べた三個か四個くらいのものだったと思う、腹は一杯になったが後味の悪いものだった。

 いつものルートに戻り数分したところで、なんと乗馬姿の部隊長にパッタリと出会った、後ろめたさの覚めやらぬ直後だったので心臓は高鳴った、R上等兵の号令で敬礼すると、 ”ご苦労、ご苦労”と言って同行の当番兵に命じて図のうからタバコを一本ずつ取り出してくれた。班に帰って罪滅ぼしの気持ちで一本のタバコを吸ってもらった、この使役もはじめで最後だった。

 逆 上 陸 (一)

 本島からペリリュウへの逆上陸は再三行われたらしいが、最初の時は250名くらいが闇夜《やみよ》にダイハツ《=エンジン(の舟)》で出撃してこの時は成功して本隊と合流できたものの次回はペ島司令官の味方の劣勢の中に本島からの逆上陸は非常に危険であるからやめてほしいとの申込みをしたらしいがパラオの参謀長は1,300名の派遣を決定し敢行したが、この時は敵の警戒態勢が強化されて集中攻撃を受けて、1,000名以上が水際で葬られたとか、悲しい極みである。そしてペ島の11月末の玉砕後は逆上陸の話は一時途絶えたのだが、

 6月の中頃か、”月明を利用してペリリュウ島に逆上陸せよ”との寝耳に水の命令が出たとかで、我が隊はかなりの緊張の度合いが増してきたようだった。船は例のダイハツを積んだ上陸用舟艇だ、当時の自動車のエンジンは実にうるさかった、音波探知器ならずとも、人間の耳でかなり遠くからでも充分探知出来るほどのものだった。武器と言えば各班に機関砲が一台づつは有った、一度古年兵が分解して見せてくれたが、訓練もなにもした事はなかった。古い兵隊の話に依ればこれは役立たずの砲で、ノモンハン《中国東北部の戦地》では何の役にも立た無かったものを、南方に押し付けたものだとの事だった、なんせ故障が多くて使い物にはならなかったらしかった。


 南十字星の下で その20 97/04/25 07:13)

 逆 上 陸 (二)

 自分が工兵隊に配属になったのは出身が砲兵だったのかもしれない、幸か不幸か月夜の晩がなかなか無く、また召集の中隊長の中尉殿が腹痛で寝込んでしまい、だめで、一,二回そんな事が繰り返されているうちに、終戦になってしまったのである。もしこれが強行されていたなら、我々も恐らくペリリュー島の水際で全滅していたであろう。今となってはどうして中隊長の中尉殿が腹痛になったのか、知る由も無いが、考えられるのは極度の緊張から来る神経性胃炎などだったのかもしれないし、あるいは音波探知器などを駆使され、たとえ強行しても全滅するのは眼にみえていたので、数百人の命を救うために一芝居うってくれたのかも知れないし、もしくはもっと上層部から中止の指令があったのか、我々将棋《しょうぎ》のこまの下部の兵隊には何も知らされない永久の謎だがとにかく我々は助かったのである。

 ペリリュウから泳ぎ帰った兵隊

 話は少しさかのぼるが、本島からの逆上陸を試み敵の猛攻撃に合い水際で壊滅的な被害を受けた時だったと思うが、一人の兵隊が島伝いに30キロをコロール島まで泳ぎ返ってきたのだ。彼は隣の中隊の召集兵で関東の某県出身で漁師あがりで泳ぎは得意だったらしい、一度だけ何かで会った覚えはあった、自分より一回りは年上の様だった。これが中隊で問題に為《な》ってきていたらしい、つまり敵前逃亡罪とか抗命罪とか、官物遺棄罪とかに当たるらしい、解釈は泳いで帰れるだけの気力があったらなぜ敵陣に向かって行かなかったかと言う事らしかった。

 彼は隔離された処での生活を余儀なくされていたらしかった、たまたまN班長と其の友人の隣の中隊の下士官とのひそひそ話の場に居合わせた、それは彼を何とかして処刑しなければいけないのだが、いつ何処でいかようにしての話だった、当時の軍の掟《おきて》とすればやむを得ない事だったのかもしれないのだが、なんともやりきれない話だった、その後どうなったか過去形での話はついに聞く機会はなかった、終戦までそれが延び延びになって生き長らえていて呉れたら、助かったかも知れないのにと思うのは私一人ではないだろうが、帰還できなかった確立の方が高かったと思う。

 終戦前後

 体は極度に衰弱してきていたが何とかして生きて帰りたかった。精神力だけが、それを可能にしてくれたと思う、現役で軍に入り自分よりは体がしっかりしていた者が、早く亡くなったりしているのだ、もうだめだと思えば、人間は駄目になるのである、絶対生きてかえるのだという執念が生きて帰らせてくれたのだと思う、中隊長が全員を集めて重大発表をした、忘れもしない8月15日戦争は終わったのだ、発表は多分翌日だったと思う、武装解除が始まった武器らしいものは全部50キロ爆弾で出来た爆撃の穴に埋めた、防毒面も秘密が洩《も》れないようにとの気配りから同様にして穴に埋めた、今更秘密でもあるまいに。

 真っ暗闇《まっくらやみ》のトンネルに入りあっちに曲がりこっちに曲がりで手探りで出口を見出そうとしてあえいでいた日々だったが何も見えなかった、それがやっとのこと彼方《かなた》に曙光《しょこう=夜明けの光》が見えてきたのである、張り詰めていた気持ちが一気に緩んできた、それがいけなかったのか、体調が一度に崩れてきたのである。診療所通いが始まり、ついに病に倒れてのである。戦争が終わったからといって食糧事情が急に好転するものでも無い、米軍給与のビスケケットが一日に2,3枚ばかり出ただけである、野戦病院ではなくて診療所の一室に横たわる身となったのである。

 これは帰還後知ったのであるが、胃腸病で苦しんでいる人たちが良く参加するらしい、断食会なるものが有るが、断食を数週間やると胃の中は空になり、最後に胃壁を削り落とした宿便と言うタール状の便が出るそうだが、我々は巧まずしてその様な経験ができたのである。先客は5,6人いたまだ若い兵隊ばかりなのだが女性に関する話は全く出ず故郷に帰ってから食べたい食い物の話ばかりだった、一人コック上がりの兵隊がいていろいろの料理法など聞きノートに取ったりした、一月程ここに居たものと思う。

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